鎌倉街道を見下ろす丘陵に築かれた杉山城南二の郭と南三の郭は屏風折れの切岸と堀を持つ

埼玉県比企郡嵐山(さいたまけん・ひきぐん・らんざん)町にある杉山城は、(旧)鎌倉街道を見下ろす丘陵の山頂に築かれた本郭を中心に、北・南・東の三方の尾根上に複数の郭(くるわ)を配した連郭式平山城である。総面積は約80,000㎡にも及び、丘陵の高低差を利用して巧みに築かれた縄張は、市野川を外堀としたまさに自然の要害と呼ぶに相応しい県内でも屈指の名城として評価されているが、この城の築城年代や築城主については現在[a]城攻め当時なので平成27(2015)年5月現在である。でも不明である。傾斜の急な切岸、大規模な横堀と屏風のように連続する折れ、横矢掛かりを仕掛けるための複合的な虎口、馬出として利用していた郭など、現存する遺構の保存状態は良好で、その技巧的な城構えからは戦国時代後期の小田原北条氏によるものとされていたが、近年は発掘された土器や陶磁器といった遺物の製造年や近隣の武州松山城の存在の他に、同時代とする山中城などに見られた北条流築城術の特徴が無いことから、戦国時代初期の関東管領山内上杉氏とする説が有力となった[b]本訪問記執筆現在でも埼玉県嵐山町の杉山城のホームページでは山内上杉氏が扇ヶ谷上杉氏に対抗して築城したものと説明されていた。。しかし、依然として出土遺物だけで年代を確定するのは説得力が乏しいとされ、縄張や虎口の類似性、築城技術の差などから後北条氏によるものとする主張も多く、今もなお『杉山城築城の謎』として物議を醸している。

一昨年は、平成27(2015)年のGWは「城攻め三昧」なウィークであったが、前日までの夏のような暑さがひいてくれた三日目は埼玉県にある城址を二つ攻めてきた。午後は、午前中に攻めた武蔵松山城跡の最寄り駅である東松山駅から東武東上線快速・小川町行にのって武蔵嵐山駅で下車。ここから杉山城跡までは徒歩50分ほど :O。かなり歩く。当時は利用できる公共機関はなかった。行きは駅から北上して県道R69に入り、関越道を横目にさらに北上して「玉ノ岡中学校中学校(北)入口」の交差点を左折して、そのまま中学校方面へ坂を下っていった。これはかなり遠回りだった。帰りは旧鎌倉街道である県道R296沿いに駅を目指した。こちらの方が距離も短いし、何より水分補給できる自販機が多かった。いずれにしろ推奨ルートはどこにも案内されていなかったけど:(。ちなみに、この城跡は他に菅谷館跡と(午前に攻た)武蔵松山城、そして小倉城跡と合わせて「比企城館跡群」として平成20(2008)年に国指定史跡に指定されていた。こちらはGoogle Map 3Dによる城址南側からの鳥瞰図:

(旧)鎌倉街道お見下ろし、市野川を天然の堀とした丘陵の尾根上に築かれていた

杉山城跡の鳥瞰図(Google Map 3Dより)

(旧)鎌倉街道は市野川の更に西側(左手)にあり、それぞれの郭(くるわ)は高所から階段上に、直線ではなく入り乱れた状態で設けられていた:

西の市野川を背後の備えとし、山頂の本郭を中心に三方の尾根沿いに郭が並べられていた

杉山城跡の鳥瞰図(コメント付き)

これは城跡の大手口前で配布されていたパンフレット「比企城館跡群・国指定史跡・杉山城跡」(埼玉県比企郡嵐山町文化スポーツ課作成)に記載されていた案内図(縄張図):

高度な築上技術が詰まった「築城の教科書」という評価を持つ杉山城跡

杉山城跡案内図(拡大図)

そして嵐山町立玉ノ岡中学校へ向かう県道R296の側道より眺めた杉山城跡の遠景。台形型をした比企丘陵との比高差は最大40m程で、おおよそ要害には見えないが、実は技巧的な縄張り持つ中世城郭であった:

城跡南側の積善寺方面からの眺め

杉山城跡遠景

城址へは積善寺(しゃくぜんじ)を目指すことになるが、実際には玉ノ岡中学校へ向かう側道沿いに入口があった:

旧鎌倉街道から玉ノ岡中学校へ向かって登って行く途中にある

杉山城跡・大手入口

この大手入口から住宅街を抜けた先にある積善寺脇を登った裏手に城跡が広がっていた:

ここを右折すると登城道がある

天台宗・積善寺

今回は城攻めルートはこちら:

戦国時代の築城と推定される城郭の規模としては典型的な平山城である

杉山城跡の鳥瞰図(Google 3Dより)

今回は、複雑に入り組んだ土塁や横堀によって構成された郭を大手口側から搦手口側へ向かって攻めた

杉山城跡の城攻めルート(コメント付き)

想像していた以上に複雑な縄張りであったので、実際には結構、行ったり来たりしてしまった:

登城口 → ①出郭跡 → ②大手口跡 → ③馬出郭跡 → ④南三の郭跡 → ⑤帯郭跡 → ⑥井戸跡 → ⑦本郭跡 → ⑧帯郭跡 → ⑨南二の郭跡 → ⑩井戸郭跡 → 南二の郭跡 → 帯郭跡 → ⑪外郭跡 → 帯郭跡 → ⑫東二の郭跡 → ⑬東三の郭跡 → 本郭跡 → ⑭北二の郭跡 → ⑮北三の郭跡 → ⑯搦手口跡 → ・・・ →登城口

右手に中学校の敷地をみつつ登城口を登って行くと、まずは①出郭(でくるわ)跡がある:

積善寺の墓地裏に広がる削平地で、この先には大手口跡がある (さらに、ここで城跡のパンフレットを入手できる)

出郭跡(拡大版)

この先に見える大手口の前に配置された郭(くるわ)で、北側には低い土塁があり、一見無防備な広い削平地に見えるが、手前の案内板がある場所には竪堀があったとされ、寄せ手は大手口へ向かって直進できないように工夫されていたのだとか。さらに、有り難いことに、嵐山町が作成した「比企城館跡群・国指定史跡・杉山城跡」なるパンフレットが置いてあった。

そして先を進むと②大手口が見えてきた。往時、大手門は一ノ門と二ノ門があったそうで、大手口を攻める寄せ手は一ノ門越えて二ノ門へ向かう際にに左折する必要があり、そこで正面にあった外郭から横矢掛かり[c]虎口や土塁に近づく敵を横から弓矢で射るために設けられた死角を無くすために工夫された屈曲のこと。の攻撃に晒されることになったと云う:

杉山城の玄関口にあたり、出郭を越えた先にある

大手口跡

大手門は一ノ門と二ノ門の二つからなり、横矢掛かりで防御されていた

大手口跡(コメント付き)

こちらが大手口周辺:

横矢掛かりを仕掛けるために張り出した土塁と二ノ門跡

大手口(左)

二ノ門へ向かうために左方向へ直角に曲がる必要があった

大手口(中)

大手道に寄せる敵に向けて横矢掛かりを仕掛けることができた

大手口(右)

一ノ門跡を抜けて、大手道を進むと寄せ手は正面の二ノ門と右側の外郭から多面攻撃を受けることになるのだとか:

往時、この正面に大手二ノ門があったとされ、その先は外郭に至る

大手門(二ノ門)跡

大手門から振り返ったところで、寄せ手は左手と正面の二面攻撃を受けた

大手門(二ノ門)跡

大手門をくぐると⑪外郭(そとぐるわ)跡となるが、こちらの郭はのちほど攻めるとして、大手口から外郭を経由して本郭へ向かうルートの一つで、横堀と竪堀を挟んで西側にある③馬出郭(うまだしくるわ)跡へ。現在は土橋風の散策路が設けられていたが、往時は木橋が架かっていたとされる:

外郭跡と馬出郭跡の間にある竪堀で、この下は急崖になっていた

竪堀

左手は竪堀に繋る横堀で、手前が外郭跡、この先が馬出郭跡

木橋跡と横堀

こちらは散策路を渡った先の馬出郭跡から振り返って眺めた木橋跡。大手口から本郭へ向かうルートであるため、非常時は木橋をすぐに外せるように引き橋だったと考えられている。ちなみに、この城跡では木橋を復元していたようだが、この当時は老朽化のため撤去されていた:

馬出郭跡から横堀ごしに外郭跡を眺めたところで、それぞれの郭(くるわ)が空堀で区切られていたのがわかる

馬出郭と外郭(拡大版)

木橋は、非常時はすぐにでも取り外せるよう引き橋だったと考えられている

馬出郭と外郭(コメント付き)

これが馬出郭跡。この郭は南三の郭と大手口との間に位置する堀で囲まれた小さな空間で、迎撃の際に一気に攻め出すために兵を招集したり兵の出入りを援護する目的で設けられていた。手前は南三の郭の虎口で、馬出郭とは土橋で結ばれており、南側へ張り出した角馬出(かく・うまだし)を兼ねた土塁からは虎口に寄せる敵に横矢掛かりを仕掛けることができるようになっていた:

南三の郭の虎口から眺めたところ

馬出郭跡

右手の土橋の先には虎口があり横矢掛かりを仕掛ける土塁が張り出していた

南三の郭を囲む横堀

そして④南三の郭(くるわ)跡。馬出郭とは南側の虎口から土橋で結ばれ、西側の虎口は⑤帯郭(おびぐるわ)と、北側の喰違虎口は⑨南二の郭とそれぞれ結ばれ、南東側は屏風折れした切岸が残っていた:

左手は南虎口、正面は西虎口、右手には喰違虎口があった

南三の郭跡

こちらは南三の郭を囲む横堀ごしに南側の外郭跡、大手口跡、そして馬出郭跡をパノラマで眺めたところ:

左から外郭跡、木橋跡、馬出郭跡

南三の郭跡から眺めた南側の郭群(パノラマ)

手前の南三の郭と奥の南二の郭の間に設けられた虎口は、左右の土塁が並行にズレている(杉山城で唯一の)喰違虎口になっていた:

この城唯一の喰違虎口である

喰違い虎口

南三の郭・南東側から眺めると、切岸が連続する折れを形成していた:

馬出郭跡から眺めると南三の郭の切岸と連続する屏風折れの土塁を見ることができる

南三の郭の屏風折れ(拡大版)

こちらは南三の郭の西虎口。このまま西へ下ると細長い帯郭跡が残っていた:

このまま西へ下ると、本郭まで続く細長い帯郭がある

南三の郭の西虎口

この帯郭跡は、馬出郭から南三の郭を囲むようにして⑦本郭(ほんぐるわ)跡まで続いていた:

左手は南三の郭跡で、それを囲むように延びていた

馬出郭から続く帯郭

帯郭と南三の郭の西虎口とは土橋でつながっていた

帯郭と南三の郭・西虎口

城址西側にある帯郭跡から本郭へ向かって北上する途中には、急崖から市野川へ向かって設けられた竪堀を見ることができた:

城西側は市野川へ向かって急崖に竪堀が設けられていた

竪堀

さらに、こちらは空堀で区切られた⑩井戸郭跡と南二の郭跡:

左手の井戸郭跡と右手の南二の郭跡、そしてこれらの郭を区切る空堀

井戸郭と南二の郭

このまま北上していくと城内で唯一の⑥井戸跡があった。杉山城が建つ地山(じやま)が岩盤でできているので、現在でも一年中水が滲み出しているのだとか。現在は巨石が覆い被さって『蓋』となっているが、おそらくは廃城の際に敵方に使われないよう(水の手を断つため)に巨石で蓋をされたと考えられている:

現在でもほぼ一年中、水が滲み出ているのだとか

井戸跡

井戸跡を更に進んでいくと本郭(ほんぐるわ)の北虎口に到達した。この虎口もまた強力な横矢掛かりによって防御されていた上に、本郭の南西側(井戸跡あたり)から帯郭を進んできた寄せ手は、本郭に対して大きく回りこむ必要があり、城側の受け手は横矢掛かりなどで反撃することが可能な造りになっており、さらに虎口の前には虎口受けと呼ばれる[d]平場が出入口の外側に設けられたことから外枡形虎口とも。小さな平場が設けられていた:

この虎口もまた強力な横矢掛かりによって防御されていた

本郭の北虎口(外側)

井戸跡方面から帯郭を進んできた寄せ手は大きく回りこむ必要があった

本郭北虎口の虎口受け

こちらが城址の中心部にあたる⑦本郭跡で、ここは標高98.6mほどの比企丘陵頂部にあたる:

説明板や城址の碑の背後には一段高い土塁があった

本郭跡

埼玉県が平成14〜16(2002〜2004)年度に実施した発掘調査により、ここ本郭は火災に遭って火事場片付けをした上で廃棄されていたことが判明したとのこと。発掘された遺物(輸入品の陶磁器や在地土器、石器、銭など)の年代から廃棄となったのは15世紀末〜16世紀初頭らしい。
その時代となると天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置があった頃で、立地的に鎌倉街道を制するのに好都合な杉山城は鉢形城と武州松山城との中間にあたることから、豊臣方の北国口勢[e]加賀前田利家、越後上杉景勝の他、真田昌幸・信繁父子、徳川家康らそうそうたる顔ぶれ。が城郭を補強した陣城(兵站基地)として利用していたと云う異説もある。近隣にある武州松山城が小田原仕置後に廃城となった経緯と、ここ杉山城が自然地形から人工的で技巧的な城郭に変貌している点から最もそうな説ではある。

そして、この郭には北・東・南の三方向に虎口が設けられている他に土塁で囲まれ、厳重な防御が施されており、容易には侵入できない造りであった:

この郭は15世紀末頃に火災で焼失しその後は破棄されたらしい

本郭跡

この郭からは土製品や金属加工品などの他に焼けた壁土などが発掘された

本郭跡

本郭は土塁で囲まれており、おそらくは土塁の上に櫓が建っていたであろうと想像できる:

この土塁の上には櫓が建っていたと考えられている

本郭土塁

こちらは本郭から東側へ延びる尾根上に設けられた⑫東二の郭跡と⑬東三の郭跡:

東側の尾根沿いには東二の郭と東三の郭が設けられていた

本郭東側の郭群

東側は尾根沿いに自然の地形のまま緩やかに傾斜していた

本郭東側の郭群

その東側の遥か先には日光があり、ここ杉山城でも空気が澄んでいれば男大山を拝めるのだとか。この当時はまったく何も見えなかったが :|:

運がよければ青線で示した場所に男大山を拝めるのだとか

本郭跡から東側の眺望

こちらは、本郭南側に深い空堀を挟んで設けられていた⑨南二の郭跡と⑩井戸郭跡。往時、井戸郭とは南虎口から木橋でつながっていた:

深い空堀を挟んで本郭を守備していた馬出のような郭

南二の郭跡

説明板のある辺りとは本郭と木橋でつながっていたとされる南虎口である

井戸郭跡

こちらが本郭2つ目の南虎口。中央部から南に突き出す狭い通路をを進み、さらに西側へ直角に曲がった地点に設けられていた。空堀を挟んで正面には⑩井戸郭があり、木橋の石列が両側に配置されていた。また、周囲には寄せ手に浴びせる巨石(礫)の保管所が四カ所も発掘されているらしい:

ここには寄せ手への投擲に使用した石などが保管されていた

本郭の南虎口

空堀を挟んで正面にある井戸郭とは木橋で連絡していた

本郭の南虎口

そして、これが本郭3つ目の東虎口。発掘調査では、両側にハの字に開く石積の他、石列を周囲に巡らした虎口が発見された。ここにあった石積みは廃城時に埋められてしまったものと考えられている:

本郭に三つある虎口の一つで、石列が周囲に巡らされていた

本郭の東虎口

このあとは、東虎口から本郭を下りて、⑧帯郭沿いに⑨南二の郭跡と⑩井戸郭跡へ向かった。東側にある帯郭と本郭との間には大規模な横堀が設けられていた:

左手は急崖、右手は本郭跡、正面は南二の郭跡、外郭跡へと続く

帯郭跡

帯郭と本郭との間には大規模な横堀が設けられていた

帯郭跡

往時、帯郭から⑨南二の郭へは木橋と虎口受けと呼ばれる馬出状の小さな削平地を経由して入るようになっていた:

南二の郭の東虎口の一段下がった所には帯郭と繋る平坦面があった

虎口受け

こちらが南二の郭跡。空堀を挟んだ先にある高い土塁が本郭跡で、それに向かって左手には西虎口、右手に東虎口がある:

左手が西虎口、正面が本郭跡、右手が東虎口となる

南二の郭跡

これが、その南二の郭・西虎口。この郭からは直接は本郭へ侵入することはできないので、この先の井戸郭を経由して、本郭の北虎口から入ることになり、寄せ手は何度も何度も方向転換を強いられることになる:

小さいながらも左手に張り出た土塁から横矢掛かりを仕掛けられる仕組み

南二の郭の西虎口

西虎口の先が⑩井戸郭跡。この郭の存在理由は不明だが、実質的に⑦本郭付けの馬出とも受け取れる:

この郭は実質的には本郭付けの馬出とも云われている

井戸郭跡

この郭の東虎口と本郭の南虎口とは木橋(引き戸)で連絡し、本郭側から横矢掛かりを仕掛けれるように一段高くなっていた:

本郭の南虎口から横矢掛かりを仕掛ける為に一段高くなっている

井戸郭の東虎口

本郭とは木橋(引き戸)で連絡していた

井戸郭の東虎口

この後は、再び⑧帯郭跡まで戻り、大手口で見かけた⑪外郭(そとぐるわ)跡へ移動した。
この帯郭の東側は深くて急な二段の斜面の上に築かれ、寄せ手の侵入を防いでいたとされる:

東側は深くて急な2段の斜面が設けられていた

帯郭跡

正面へ進むと外郭跡、右手は南二の郭跡と南三の郭跡による屏風折れ

帯郭跡

外郭へ向かう途中、南二の郭と南三の郭の切岸とその横堀から形成された『屏風折れ』を見ることができた:

左手の南三の郭と右手の南ニの郭の外側斜面(切岸)が幾度も折れていた

屏風折れの切岸と堀(拡大版)

手前の南二の郭、奥の南三の郭との間で幾度も折れていた横堀

屏風折れの横堀

こちらは外郭跡から見た南三の郭の切岸と横堀の連続する折れ:

横矢の掛った堀と切岸が、屏風のように幾重にも折れているのが分かる

屏風折れの切岸(拡大版)

同様に外郭跡から見た南三の郭を囲む屏風折れの横堀:

横矢の掛った堀が幾重にも繋がっているのが分かる

屏風折れの横堀

そして、こちらが⑪外郭跡。この先が最初に攻めた②大手口跡になる:

大手口を守るこの郭もまた横堀で区分され独立した馬出だった

外郭跡

このあとは三度、⑧帯郭跡を通って本郭の東側へ移動した:

正面が帯郭跡、左手が本郭跡、右手奥が東二の郭跡、右手が急崖である

本郭東側の帯郭から東の郭群へ(拡大版)

これが⑫東二の郭跡と、その東虎口。ここは本郭の北東側の尾根上に造られた郭になる。また、この虎口は城内では珍しく直線的な坂虎口になっていた:

本郭の北東側の尾根上に造られた郭である

東二の郭跡

手前の東二の郭と奥にある東三の郭との間にある直線的な坂虎口

東虎口

東虎口を降りていくと城址東端となる⑬東三の郭跡がある。一見すると、堀や土塁の規模が貧弱のように見え、強力な防御施設は無いようにみえるが、実は東端はW字のように屈曲しており、虎口に辿り着く前に幾度も横矢掛かりを仕掛けられるようになっていた:

北東側一番端にある郭で、一見は突破しやすいように見えるが…

東三の郭跡

そして東三の郭跡から本郭方面を振り返ったところ。見て分かるように、東三の郭と東二の郭の比高差もかなりあり、高所から上下二段構えで寄せ手に攻撃することができたと思われる:

手前の東三の郭とその上にある東二郭の比高差もかなりある

東三の郭跡から本郭方面の眺め(拡大版)

西虎口は一番上にある本郭からの高くて強い横矢掛かりに守られ、右手先にある北二の郭への通路にもなっている

コメント付き

こうしてみると、東側が尾根が落ち込んだ城址として最も低いところにあるのが分かる。横矢掛かりに加えて高低差による段構えの攻撃を可能にしていたと思われる:

ここから攻め上がる寄せ手はかなり不利な城攻めを強いられることは想像に難くない

東側の郭から見上げた本郭(拡大版)

この後は本郭北側の堀切を通って⑭北二の郭跡へ向かった:

右手にある本郭切岸と堀切の先に北二の郭があった

本郭北側の切岸と堀切

こちらが⑭北二の郭跡:

搦手口方面に伸びた郭である

北二の郭跡

この郭は屈曲した横堀に囲まれていることから、その虎口もまた例にもれず横矢掛かりを仕掛けるには好都合な施設だったと思われる:

北二の郭と北三の郭との間にある枡形虎口である

北二の郭の北虎口

この虎口もまた執拗に横矢掛かりを仕掛けることができた

北二の郭の北虎口

⑮北三の郭跡から⑯搦手口跡へ向かって北上する途中には竪堀や高低差のある虎口を越えることになる:

北側は他とは異なり寄せ手を正面から迎撃できるようになっていた

北三の郭跡

深い竪堀が城址の西側へ向かって走っていた

竪堀

北二の郭から北三の郭にかけては寄せ手に対して正面から迎撃できるようになっているかと思うと、虎口は例にもれず横矢掛かりを仕掛けることができるようになっていた。そして、その先には搦手口跡があった:

他の虎口と同様に、横矢掛かりを仕掛けることが可能だった

北三の郭の北虎口

そして尾根の北端は落ち込むような傾斜が残っていた

搦手口跡

この搦手口跡からは直線距離で5km程離れた「高見城跡」(木々の奥に見える山)を見ることができた。火急の際には狼煙などを使って情報伝達していたであろうと考えられている:

搦手から見ることができ、狼煙台があったとされる

高見城跡

最後に、東三の郭跡あたりに立っていた『ここは私有地』の注意書き。広大な土地でありながら、遺構として保存し公開してくれている地権者の方々の見識の高さにあらためて感謝したい=)

杉山城址は全て私有地である

See Also杉山城攻め (フォト集)

【参考情報】

参照   [ + ]

a. 城攻め当時なので平成27(2015)年5月現在である。
b. 本訪問記執筆現在でも埼玉県嵐山町の杉山城のホームページでは山内上杉氏が扇ヶ谷上杉氏に対抗して築城したものと説明されていた。
c. 虎口や土塁に近づく敵を横から弓矢で射るために設けられた死角を無くすために工夫された屈曲のこと。
d. 平場が出入口の外側に設けられたことから外枡形虎口とも。
e. 加賀前田利家、越後上杉景勝の他、真田昌幸・信繁父子、徳川家康らそうそうたる顔ぶれ。