半島状台地上に築かれた本佐倉城は三方が湿地帯に囲まれた要害だった

千葉県の印旛郡酒々井(いんばぐん・しすい)町にある本佐倉城[a]別名は将門山城。「将門」は俵籐太(たわらとうた)こと藤原秀郷が討伐した平将門の怨念伝説からきているとも。は室町時代後期の文明年間(1469〜1486年)に千葉輔胤(ちば・すけたね)が印旛沼を望む標高約36mほどの将門山上に築いた連郭式平山城で、南西面を除く三方は湿地帯に囲まれた要害の地にあった。この輔胤は、享徳3(1455)年に始まった『応仁の乱の関東版』とも云うべき享徳の乱の最中に起こった下総守護千葉家の内乱を制して宗家を継ぎ、のちには古河公方足利氏や長尾景春[b]伊藤潤作の『叛鬼(はんき)』(講談社文庫)の主人公である。と連携して、関東管領山内上杉氏や太田道灌、武蔵千葉氏らにたびたび抗してきた。下総千葉氏二十一代当主となった輔胤は内乱で荒廃した宗家の居城・亥鼻城を廃城とし、ここに築いた本佐倉城を、天正18(1590)年に太閤秀吉の小田原仕置によって後北条氏と共に滅亡するまでの九代、百有余年にわたり宗家の居城とした。千葉家が断絶した後は徳川家康の譜代家臣の内藤家長が入封し、本佐倉城は一旦は破却されたが、慶長15(1610)年に土井利勝が佐倉藩を起藩すると城跡に藩庁が置れた。そして元和元(1615)年には、滅亡前の千葉氏が築城に着手し未完成のままだった鹿島城を整備拡張した佐倉城へ藩庁を移転すると、本佐倉城は一国一城令に従って完全に廃城となった。

一昨年は平成27(2015)年のGWは「城攻め三昧」なウィークであったが、まるで初夏と思わせるほど暑かったその初日、印旛沼近くの京成線大佐倉(おおさくら)駅から徒歩10分程のところにある本佐倉城跡を攻めてきた。この日は9:00am過ぎにJR横須賀・総武線の船橋で一旦下車して、近くの京成船橋から京成本線特急・成田空港行に乗って10:00am頃には大佐倉に到着したが、この時点で既に『大』晴天だった。京成本線沿いに北上して城址を目指したが、まずは戦国大名千葉氏の祈祷寺と云われている宝珠院へ。駅を下りて一度横切った京成本線を再び横切る必要があるが見ておいて損はない。下総千葉氏二十三代(佐倉千葉家三代)当主で本佐倉城主の千葉勝胤(ちば・かつたね)公が戦勝祈願のために建立した阿弥陀堂が現存している。それから、また寄り道をして佐倉千葉家の菩提寺であり、同じく千葉勝胤が創建した勝胤寺(しょういんじ)へ。ここには下総千葉家二十七代(佐倉千葉家七代)当主である千葉胤富(ちば・たねとみ)公の墓所の他、本佐倉城の歴代城主の五輪塔があった。それから田園風景を眺めつつ城址の北側から攻めることにした。

まずは国史跡・本佐倉城跡とその付近のイメージ図(右斜め上が北方面)。これは城址南側にある「根古谷の館」なる建物の敷地に建っていた:

戦国時代の下総千葉氏全盛期の縄張りと思われる

国史跡・本佐倉城跡の縄張図(拡大版)

そして、現在の城跡で観ることができる内郭群の全体図(上が北方面)。このような地図がいわゆる「散策ルート」上の数カ所に建っていてくれたおかげで、複雑で沢山ある郭(くるわ)を迷うことなく攻めることができた 8)

城攻めするならば、図中の赤線(通路)に従って行くと便利である

国指定史跡・本佐倉城跡全体図(拡大版)

こちらは Google Map 3D による城址の鳥瞰図と、勝胤寺からの城攻めルート(右斜め上が北方面):

印旛沼を望み、周囲が湿地帯であった標高36mほどの半島状台地に築かれていた

本佐倉城の鳥瞰図(Google Map より)

今回は勝胤寺から城址北側から主要な郭を回って、最後は水の手跡までを攻めてきた

本佐倉城の城攻めルート(コメント付き)

①勝胤寺 → ②空堀 → ③東光寺ビョウ(Ⅵ郭)跡 → ④東山虎口 → ⑤東山 → ⑥東山馬場(Ⅴ郭)跡 → ⑦Ⅳ郭跡 → ⑧大堀切 → ⑨城山(Ⅰ郭)跡 → ⑧大堀切 → ⑩奥ノ山(Ⅱ郭)跡 → ⑪倉跡 → ⑫諏訪神社 → ⑪倉(Ⅲ郭)跡 → ⑬妙見神社 → ⑭根古谷 → ⑮中池跡 → ②空堀 → ⑯セッテイ(Ⅶ郭)跡 → ⑰空堀 → ⑱南奥虎口 → ③東光寺ビョウ(Ⅵ郭)跡 → ②空堀 → ⑲水の手跡

ちなみに城攻めの後は、城址南側(⑮中池跡の南側)にある根古屋の館(町内の公民館)へ立ち寄って、来た時とは逆周りの南側(将門町)経由で大佐倉駅へ向かった(徒歩40分ほど)。

まず宝珠院と①勝胤寺を訪問したあとは大佐倉駅からの分岐点まで戻り、その案内に従って城址の北側へ向かった:

左手の京成本線をくぐった先に勝胤寺が、右手へ進むと城址北側に至る

勝胤寺と城址の分岐点

左手が上り(船橋方面)、右手が下り(成田方面)

京成本線

田園風景を横目に眺めた本佐倉城址北側の遠景。右手に見える森が物見台跡:

下総守護千葉氏の菩提寺である勝胤寺方面から眺めたところ

本佐倉城址の遠景

こちらは物見台跡を過ぎたところからの眺め(破線矢印は、写真には写っていないがその方向にあることを示す):

周囲は水田に囲まれ、その先には東山虎口と二つ目の物見台跡が見える

城址北側の眺望(拡大版)

東光寺ビョウは北側に突出した二つの物見台の間に設けられた郭だった

城址北側の眺望(コメント付き)

ここが二番目の分岐点である③東光寺ビョウ跡。このまま直進するとⅥ郭にあたる東光寺ビョウ跡を見ながら東山虎口へ至り、右手に進むと②空堀がある。この空堀は城址の西側を北から南に縦断するもので、現在はその堀底道がそのまま散策道になり、⑯セッテイ跡や⑲水の手跡を横目に城址の南側にある⑭根古谷へ移動することができる:

直進すると東山虎口、右折すると空堀がある

最初の分岐点

城址を南北に縦断する空堀で、この先が南方面になる

空堀

この②空堀はのちほど攻めることにして、まずは③東光寺ビョウ跡を経由して東山方面へ向かう:

二つの北側に突出した物見台によって守られた広大な郭である

東光寺ビョウ跡

こちらは、再び Google Map 3D により城址の北側から眺めた鳥瞰図:

下が北方面で、往時は京成本線あたりまで印旛沼があったらしい

北側から見た本佐倉城の鳥瞰図(Google Map より)

この城は東西約700m、南北約800m、総面積は約35万㎡、内郭群7郭と外郭群3郭、そして城下町(佐倉、酒々井、鹿島、浜宿)に大きく分かれた造りで、内郭群は城主の居館があった城山と倉跡、明建神社を祀っていた奥ノ山を中心に沢山の倉や東山馬場から構成され、外郭群[c]なお、平成10(1998)年に国指定史跡の対象となったのは内郭群だけで、外郭群は指定の対象外である。は荒上、向根古谷、佐倉根古谷といった広大な敷地を有して家臣団の屋敷や軍団の駐屯地があった。また、往時は現在の京成本線あたりまでが印旛沼だったという:

将門山を中心に約35万㎡もの広大な敷地に本佐倉城と城下町が形成されていた

北側から見た本佐倉城の鳥瞰図(コメント付き)

また後日談[d]当時、城攻め中に史跡の中をMTBで走り回っている『阿呆』を目撃したので写真を撮って報告した時に担当者さんから沢山の資料や貴重な情報を頂いた :)であるが、佐倉市教育委員会文化課文化財班の方に教えてもらった情報として、現在の本佐倉城址は千葉県佐倉市と千葉県印旛沼郡酒々井町の両方にまたがった史跡(面積比で言うと佐倉市は約2割、酒々井町は約8割)であるため、場所に応じて手続きの管轄が異なっているとのこと。

次に③東光寺ビョウ跡から④東山虎口へ向かった:

Ⅵ郭の名が付いているが、実際に何の目的で造られた郭かは不明とのこと

東光寺ビョウ跡(拡大版)

北側に突き出た二つの物見台に守られるようにして設けられている広大な東光寺ビョウ(Ⅵ郭)は、現在でも何をする郭(くるわ)なのかは不明らしい:

現在でも発掘調査に基づいた調査が続いているのだとか

東光寺ビョウ跡

東光寺ビョウ跡から北側は印旛沼に向かって水田が広がっていた[e]東光寺ビョウ跡を含む水田側が佐倉市に属し、それ以外は酒々井町に属すのだとか。

正面の水田側に突出している丘陵が物見台跡である

東光寺ビョウ跡

城址の北側は印旛沼に向かって水田が広がっていた

東光寺ビョウ跡

この先には印旛沼があった(現在は大分先にいってしまっている)

東光寺ビョウ跡

こちらが④東山虎口。この虎口は二つの門と、蛇行した狭い通路、そして内枡形から構成され、非常に厳重に守備されていたと云われ、虎口を抜けた先には東山虎口とⅣ郭に至る:

この虎口には二つの門と狭い通路、内枡形の空間から構成されていた

東山虎口

往時、階段のすぐ先に一ノ門が建っていた

東山虎口

一ノ門跡を過ぎると東山帯郭と東山西塁に挟まれ、蛇行した狭い通路になっていた:

左手が東山帯郭、右手は東山西塁になる

東山虎口

この辺りに東山虎口二ノ門が建ち、その先が内枡形になっていたらしい。この先は⑥東山馬場跡、⑦Ⅳ郭跡となる:

二ノ門を抜けると枡形あり、その先には馬場跡やⅣ郭跡があった

東山虎口

内枡形内部から虎口北側を振り返ってみたところ:

内枡形から東山西塁(左手)と二ノ門跡と東山帯郭(右手)を見たところ

内枡形内部

東山馬場の中から見た東山虎口の内枡形と東山土塁

東山虎口

④東山虎口を抜けたら⑤東山へ移動した:

この土塁の先には東西に細長い郭があった

東山

⑤東山は東西に細長い郭で、その郭自体が本郭である城山を守備するための巨大な土塁になっていた:

郭自体が巨大な土塁となり、北端には物見台が設けられていた

東山

東山の土塁の上は絶好のビューポイントになっていた。まずは③東光寺ビョウ跡と物見台方面の眺め。手前に見える崖のような辺りが④東山虎口:

手前から東山虎口、東光寺ビョウ跡、物見台跡を眺めることができた

東山からの眺望(拡大版)

城址北側に広がる水田地帯と京成本線。往時は京成本線あたりまで印旛沼がきていたらしい。ちなみに、こちら側が佐倉市の管轄となる:

城址北側に広ろがる水田地帯の先には現代の開発で後退した印旛沼がある

東山からの眺望(拡大版)

こちらは城址オススメのビューポイントで、空気が澄んだ日には遠く筑波山を眺めることができるのだとか。また、開発によって現在は遠くなってしまった印旛沼も、往時は京成本線のすぐ北側まで迫っていたとか。印旛沼の汀線(ていせん)と本佐倉城までの間は湿地帯で、天然の防御施設であったと考えられている:

空気が澄んだ冬ならば城北側が一望できるだけでなく、遥か遠くには筑波山まで望めるのだとか

東山のビューポイント(拡大版)

残念ながら、この日は霞んで筑波山を拝むことができなかった

東山のビューポイント(コメント付き)

こちらは同じくビューポイントから眺めた京成本線。左手が上りの船橋方面、右手が下りの成田方面:

往時は京成本線の少し北側まで印旛沼の汀線がきていたのだとか

京成本線

この後は東山虎口の内枡形まで戻って⑥東山馬場跡へ:

東山虎口の内枡形からの眺め

東山馬場跡とⅣ郭跡

こちらがⅤ郭にあたる⑥東山馬場跡。広い面積を有する郭ではあるが、確認調査では建物跡などは見つかっていないのだとか:

谷津から台地上に上がる傾斜地である

東山馬場跡

東山馬場跡から取って返して東山虎口前を通り⑦Ⅳ郭跡へ:

左手の切岸上がⅣ郭跡、右手奥が東山虎口である

Ⅳ郭跡と東山虎口

ここには千葉家の家紋である月星紋の盾が並べられていた

Ⅳ郭の切岸

このⅣ郭の脇を通る散策道は堀底道[f]正直、このアスファルトの散策路が空堀だったとは云われないと気づかない。でありⅣ郭虎口跡があった。発掘調査の結果、坂を登り切った所には塀跡と、その先に門跡が見つかったとのこと:

ここは現在は散策道になっているが、往時は堀底道であった

Ⅳ郭虎口(拡張版)

青線が発掘当時に推測された門跡と塀跡を表している

Ⅳ郭虎口(コメント付き)

この虎口を抜けた右手には⑦Ⅳ郭跡が広がっており、他の郭(くるわ)と異なり名前は無いようだが、別名は城ノ内とも。但し、現在もなお利用目的は不明な郭であるらしい。現在は倉跡の虎口施設にあたる重要な郭と位置づけられていたと推定されている。なお、写真中央の森の中には⑫諏訪神社が建っていた:

名前が付いていないが、倉跡の虎口施設にあたる重要な郭と思われる

Ⅳ郭跡

この日はGW初日ともあって恒例の鯉のぼりが揚がっていた:

GWということもあり、IV郭には毎年恒例の鯉のぼりが揚がっていた

鯉のぼり

ちなみに、中央の最も大きな鯉には足柄山の『金太郎』が描かれていた(この城とは何の関係も無いが・・・:X):

中央にひときわ大きな鯉が揚がっていたので、よく見ると・・・

鯉のぼり

金太郎がいた

鯉のぼり

こちらはⅣ郭跡から眺めた⑨城山跡(左手)と⑩奥ノ山跡(右手)。それらの中央(杉の木の先)には⑧大堀切がある:

杉の先には、城山と奥ノ山の間に設けられた大堀切がある

Ⅳ郭から眺めた大堀切

このあとはⅣ郭脇の堀底道にある⑨城山跡方面と⑪倉跡方面との分岐点へ戻り、それぞれ本丸と二ノ丸に相当する城山跡と奥ノ山跡へ向かった。この二つの郭の間には高低差が6m程の⑧大堀切が残っており、発掘調査の結果、木戸跡が見つかっている:

スローブを登り切った所に柱穴が二つ残っており、木戸が建っていたと考えられている

大堀切(拡大版)

左手の城山(I郭跡)と右手に奥ノ山(II郭跡)の間にある堀切である

大堀切(コメント付き)

こちらが大堀切の堀底で、Ⅰ郭にあたる城山とⅡ郭にあたる奥ノ山方面の分岐点になっていた:

大堀切の木戸跡を過ぎた所にⅠ郭とⅡ郭の分岐点がある

城山と奥ノ山の分岐点

まずは城山へ。城山通路と呼ばれているこの道幅180cmの坂道は、城山へ登るための唯一の通路で、何度も蛇行して城山虎口へと向かっていた。この場所から城山虎口までの比高差は約7mで、その急な勾配もまた城山を守備するために利用されていたとされる:

この通路の先には城山虎口があり、それ通過するとⅠ郭である城山跡

城山通路

ここが城山虎口。現在は「城山」の標柱が立っているだけだが、往時は登り坂の城山通路が入る左折れの坂虎口であった。左折する手前には門跡が見つかっており、その左右には塀が連結され、門をくぐると眼前に土塀が現れてその視界を遮り、見上げたその上もまた塀で囲まれていたと云う:

左折れの坂虎口で、門と土塀によって守備していたと云う

城山虎口

虎口には門が建ち、その左右には塀を連結させることで見通し遮っていた

城山虎口(コメント付き)

左折れの城山虎口を抜けると、そこには奥ノ山へ通じる木橋へ向かう側と御主殿などが建つ側とに分岐していた:

門手前の通路が分岐して、一方は御殿方向へ、もう一方は奥ノ山へ通じる木橋方向へ向かっていた

城山門跡(拡大版)

この城山門跡は平成18(2006)年度の発掘調査で見つかった遺構である:

右手の門をくぐると、その先は御主殿や櫓などがあった本丸に相当する郭に至る

城山門跡(コメント付き)

そして城山門跡をくぐった先が⑨城山跡である:

城山門跡から御主殿の間は直進させずにクランクが付いていた

城山跡

こちらは城山跡のパノラマ。ここは城主が客を迎えたり宴会などに使われた郭(くるわ)で、往時は御主殿の他に、遠侍や会所、庭園、その他の建物(台所・倉庫・便所と思われる)、平櫓と井楼櫓などがあったとされ、郭の周囲は塀や門などで囲われていたと云う:

往時は、城山門をくぐると御主殿や会所、そして庭園や櫓など沢山の建物があったと云う(右下は虎口)

城山跡(パノラマ)

ここが遠侍[g]「とおさぶらい」と読む。御主殿から遠く離れた中門の脇などに設けられた警護の武士の詰所のこと。跡と主殿跡。城山門跡から御主殿までの間は直進させないようにクランクが設けられ、それらの背後には土塁で他の郭から遮蔽していた:

御主殿の脇にはそれを警護する者らの詰所が併設されていたらしい

遠侍跡と主殿跡

御主殿跡の横が会所跡、その手前が庭園(園池・築山)跡。他にも台所・倉庫・便所と思われる建物が4棟発掘された。一連の遺構は平成15〜19(2003〜2007)年度にかけてほぼ全域を発掘調査した成果とのこと:

会所は南面に建ち、園池や築山などが建っていたとされる

会所跡と庭園跡

この土塁の上から比高差およそ30mはある④東山虎口と⑥東山馬場跡を見下ろしたところ:

城山の土塁の上から比高差30m下にある虎口と馬場を見下ろしたところ

東山虎口跡と東山馬場跡

城山跡の南東隅には平櫓が建っていたと云う:

城山には平櫓と楼櫓の2棟あったと云う

平櫓跡

城址の南側にある根古谷方面へ下りる登城道らしい

帯郭へ降りる登城道

そして御主殿跡から眺めた城山門跡と、その先の城山木橋方面。この先の⑧大堀切を越えたところに⑩奥ノ山跡がある:

御主殿が建っていた跡からⅡ郭に相当する奥ノ山方面の眺め

城山跡

これは先ほどの城山門前の分岐点を西へ移動した時の城山通路跡。この先には⑧大堀切で城山と奥ノ山が分断されていたが、往時は木橋を使って行き来していたとされる:

この先は大堀切であるが、木橋を架けて奥ノ山と行き来できていた

城山門前の分岐点から西へ延びる通路

⑧大堀切ごしに奥ノ山跡やⅣ郭跡を眺めたところ。往時は、この比高差15,6m程の場所に城山木橋が架かっており城山と行き来が出来ていたと推測され、いざ籠城戦となると、その木橋を破壊して城山に籠もることができたと思われる:

手間の城山跡から大堀切ごしに眺めたところ

奥ノ山跡

城山と向こうの奥ノ山とは木橋で継っていたと推測されている

大堀切

城山跡から見下ろしたⅣ郭跡

Ⅳ郭跡

このあとは再び⑧大堀切の分岐点へ戻って⑩奥ノ山跡へ移動した:

手前が奥ノ山方面、堀切を挟んだ向こうが城山跡

大堀切

この長い階段を登るとⅡ郭に相当する奥ノ山がある:

大堀切から一気に30mほど登った先にⅡ郭跡がある

奥ノ山へ続く階段

こちらが⑩奥ノ山跡。90m四方ほどの広さを持つこの郭は、城山とは対照的に、厳格な儀式や儀礼が執り行われていたと云う:

妙見宮が建っていたことから、妙見郭とも云われている

奥ノ山跡

また、この郭の西側からは約14〜15m四方の基壇が発見されており、そこには下総千葉氏の守護神である『北辰妙見(妙見菩薩)』が祀られていたと思われる御宮跡が残っていたのだとか。その宮は、いつの頃か奥ノ山跡の南側麓に⑬妙見神社として移設されたのだとか:

千葉家の精神的な拠り所である北辰妙見を祀っていたいたところ

妙見宮跡

郭の東端には⑧大堀切があり、その先には先ほど攻めたⅠ郭にあたる⑨城山跡が見えた:

往時は大堀切に木橋が架かり、この奥ノ山と城山を行き来できたらしい

奥ノ山跡から見た城山跡

奥ノ山跡の北側には城内で最も広く、三段の郭が連続する⑪倉跡があった。事実上のⅢ郭に相当する場所で、その名の通り倉庫群が立ち並んでいたとされる:

掘立柱建物跡が数多く発見され、食料などを保存する倉庫群があったらしい

Ⅳ郭に向かって三段になっている倉跡

倉庫以外にも家臣らが生活する空間もあったと推測される

倉跡

手前が倉跡、鯉のぼりを境に向こうがⅣ郭、右手奥が城山跡、右手が奥ノ山跡である

Ⅳ郭に向かって三段になっている倉跡(拡大版)

ここで、先ほど⑦Ⅳ郭跡で目撃した鯉のぼりを横目に、⑪倉跡の北東隅の東山西塁上に建つ⑫諏訪神社に立ち寄った:

倉跡の東端、Ⅳ郭の北端にある東山西塁上にあった

諏訪神社の鳥居

社の背後は東山虎口で、右手はⅣ郭跡、手前は倉跡になる

諏訪神社

このあとは⑪倉跡と⑩奥ノ山跡の間にある散策路から城址南側の⑭根古谷へ向かった:

奥ノ山跡と倉跡の間にある散策路である

根小谷へ下りる散策路

この下には妙見神社がある

散策路

⑭根古谷へ向かう途中に⑬妙見神社があった。これは⑩奥ノ山跡に建っていた御宮が、いつの頃からか奥ノ山南側斜面の中腹に移されたもの:

もともとは奥ノ山に建っていた御宮が移設されたものらしい

妙見神社

千葉氏の守護神として崇められている妙見菩薩は臼井城の三の丸に建っていた星神社(臼井妙見社)でも見かけた:

下総千葉氏の守護神である北辰妙見を祀っている

妙見神社

Ⅱ郭である妙見郭(奥ノ山)に建っていたものらしい

妙見神社

そして、これが⑭根古谷(根古屋)。現在は民家が建っているが、往時は家臣らの居住区になっていたと思われる:

Ⅱ郭の奥ノ山南側の麓は家臣らの居住区である根古谷が広がっていたとされる

根古谷と奥ノ山(拡大版)

それから根古谷沿いを西へ移動して、城址を南北に縦断している②空堀の堀底へ。この広く深い切り通しは圧巻だった:

この切通を南から北へ進むと、左手に水の手跡、右手にセッテイ跡などがある

空堀(拡大版)

城址南側の⑭根古谷から③東光寺ビョウ跡へと繋る②空堀の堀底道:

20150501-本佐倉城攻め-102.resized

空堀

このまま堀底道を北上していくと右手にセッテイ空堀が見えてきた。これは城内で最大規模の空堀で、その先にある⑯セッテイ跡との高低差は16mほどに及び、堀底幅は最大で約7mに達するのだとか:

薮化が激しいが、大規模なこの空堀は見所の一つで、左手奥のセッテイ跡とは比高差16mほど

セッテイ空堀(拡大版)

こちらは堀底からセッテイ跡を「見上げた」ところ。長い年月を経て堆積物で上がってきているとはいえ、かなりの深さである:

正面上がセッテイ跡である

セッテイ空堀

さらに北上すると分岐点があるので右手へ登って行くとセッテイ虎口がある。これは土塁と土塁に挟まれた右折れの土塁虎口である:

この先にあるセッテイ郭へ侵入するための右折れの坂虎口である

セッテイ虎口

おそらく木戸やそれに伴う塀・柵の類が置かれていたと思われる

虎口跡

こちらは、セッテイ虎口から③東光寺ビョウ跡を見下したところ:

セッティ虎口を過ぎたところから見下ろしたところ

東光寺ビョウ跡

さらにセッテイ山を登って行くと、Ⅶ郭に相当する⑯セッテイ跡が見えてきた。ここは『接待郭』、またはその郭の形状(厳重な虎口の形態、土塁、規模の大きな空堀など)から他家からの人質が住んでいた『人質郭』であったと考えられている:

この辺り一帯は金明竹の生息地にもなっていた

金明竹の小径

他家の人質を住まわせたと考えられている場所である

セッテイ山の碑

発掘調査の結果、建物跡の他に供膳具や調理具、貯蔵具、他の郭では見つからなかった碁石、茶壺、火箸などが見つかっているのだとか:

他家からの人質や客人を接待していた特別な郭だったと思われる

セッテイ郭跡

また、このセッテイ郭跡周辺は金明竹[h]真竹の一種で、節と節の間に緑と薄い黄色が縞模様に表れている竹である。の生息地でもあり、見事な竹林が群生していた:

セッテイ跡に群生していた金名竹の竹林で、緑と薄い黄色の縞模様が綺麗だった

金明竹(拡大版)

城内でもこのセッテイ郭周辺に群生していた金明竹は天然記念物扱いになっている都道府県もあるのだとか:

節と節の間に緑と薄い黄色が縞模様に表れている竹である

金明竹

節と節の間に緑と薄い黄色が縞模様に表れている竹である

金明竹

⑯セッテイ跡の東側には⑪倉跡があるが、その間にある⑰空堀はセッテイ郭からの脱走を阻むかのような巨大な空堀であった。郭との比高差は約10m、堀底幅は最大で9mにも及ぶという:

堀底道を進むにもまっすぐ見通せないように曲がりくねっていた

セッテイ跡と倉跡の間の空堀

実際に堀底に下りてみると、堀底道を進むにもまっすぐ見通せないように、この先の南奥虎口まで曲がりくねっていた。そして、堀底道に従って③東光寺ビョウ跡方面へ向かうと⑱南奥虎口に出た:

東山虎口と同様に城の北側の玄関口にあたる

南奥虎口

ここもまた木戸跡や柵列跡、通路跡が見つかったと云う

南奥虎口(コメント付き)

この虎口も④東山虎口と同様に城の北側に設けられた『玄関口』にあたり、発掘調査では木戸跡や柵列跡、そして通路跡が見つかっている。往時、木戸には柵が連結し、③東光寺ビョウ側からは虎口内部をのぞき見ることはできないようになっていたと云う。

こちらが南奥虎口の木戸跡から眺めた東光寺ビョウ跡:

正面左手が物見台跡、右手へ進むと東山虎口があり、左手前には次に進む空堀がある

東光寺ビョウ跡(拡大版)

このあとは東光寺ビョウ跡を横切って、城址を縦断する②空堀へ向かった:

東光寺ビョウ跡と物見台跡の間から南の根古谷方面に延びる空堀である

空堀

城の北と南を縦断する長大な空堀を南下していくと、先ほど攻めた⑯セッテイ跡への分岐点が見えてくる:

セッタイ山の北側から東光寺ビョウと根古谷方面に繋る堀底道である

空堀

先ほど通ってきた⑭根古谷方面へさらに南下していくと⑲水の手跡があった。根古谷にある中池と同様に、貴重な城の水源であったと推測される:

パンフレットには私有地とのことであった

水の手跡

そして、ふたたび⑭根古谷まで出てきた:

手前左は中池跡、その先が根古谷、正面上は奥ノ山跡で、その下に妙見神社がある

根古谷と奥ノ山(拡大版)

こちらは⑮中池跡。往時、ここにあった池には中島があり、そこで弁天様が祀られていた。現在の弁天社は根古谷の館脇に移動した:

現在は水田になっていたが、城内の貴重な水源の一つだったらしい

中池跡

こちらが根古谷の館。この辺りの住民の寄合所・公民館的な建物だった。この館の玄関口あたりには、前述の通り、中池にあった弁天様が置かれ、敷地内には本佐倉城跡の鳥瞰図が建っていた:

酒々井町が建てた公民館で、館の前には本佐倉城跡の鳥瞰図がある

根古谷の館

以上で本佐倉城攻めは終了。帰りは、このままぐるりと南側を周って将門町を経由して八幡神社、将門神社を経て京成線の大佐倉駅へ向かった。

最後に城址にあった注意書き。まずは②空堀の堀底道に倒れていた「マムシ注意!」の立て札。GW初日ではあったが遭遇することは無かった:

マムシ注意!

こちらは⑥東山馬場跡に置かれていた「車両進入禁止」の警告板。散策路を塞ぐかのように置かれていたが、自動車は当然として、最近は自転車で乗り回す『阿呆』が多いらしい :(。実は、この城攻め当時にMTBで遺構を乗り回していた野郎を見かけたので写真を撮って佐倉市教育委員会の担当者に報告・送付しておいた:

車両進入禁止

See Also本佐倉城攻め (フォト集)

【参考情報】

 

勝胤寺と宝珠院

京成線大佐倉駅から徒歩10分程度の距離にある曹洞宗勝胤禅寺(しょういんぜんじ)は本佐倉城主・千葉氏の菩提寺で、釈迦如来様を御本尊とする禅寺ある。享禄5(1532)年に、本佐倉城主・千葉勝胤が華翁祖芳和尚を開山として招いて創建されたと云う。九代続いた[i]ちなみに、下総千葉氏としては二十九代。佐倉千葉氏が、天正18(1890)年の小田原征伐で滅亡した後は、関東に入封した徳川家康により寺領20石を与えられ現在に至るのだとか。

こちらは、大佐倉駅・宝珠院側から京成本線をくぐった直ぐ左手に建っていた「曹洞宗・勝胤寺入口」の碑:

京成本線をくぐって直ぐ左に建っているので、直ぐわかる

「曹洞宗・勝胤寺入口」の碑

この碑を過ぎたところに勝胤寺が建っていた:

千葉氏の菩提寺であり釈迦如来を本尊とする曹洞宗の寺院である

勝胤寺

本堂裏右手には佐倉城主で七代当主の千葉胤富(ちば・たねとむ)らの菩提を弔った五輪塔が建っている:

本堂裏右手にある石塔は昭和50(1975)年に史跡に登録された

勝胤寺千葉家供養塔

境内には勝胤が愛飲した千葉銘水『勝胤公愛賞水』も残されているのだとか。ちなみに千葉氏の家紋である「月星」は、延長8(930)年の平安時代中頃に平忠頼[j]忠頼の妻は平将門の娘・春姫である。が誕生した時に、空から落ちてきた月と星が描かれた石を、勝胤がこの寺に奉納した(現存しているらしい)。この石は醍醐天皇が「千葉石」と命名し、それ以来、千葉氏の家紋は月星となった伝説が残る。

石塔の中央にあるのが下総千葉氏第二十七代にして佐倉千葉氏七代目の胤富公の墓所。銘文から天正7(1579)年5月4日に死去したとのこと:

公は小田原北条に与して武田信玄や上杉謙信、里見義堯と戦った

佐倉千葉氏七代・胤富公の墓所

初代の輔胤が下総の支配者となった時代は戦乱の真っ最中であり、輔胤と嫡男の孝胤(のりたね)は古河公方足利氏と連携して、関東管領扇ヶ谷上杉氏や太田道灌、武蔵千葉氏と戦いを繰り返していた。孝胤の嫡男で三代の勝胤の時代になると佐倉は城下町として栄え発展期に入る。本佐倉城の大部分は、この時代に形作られたと思われる。その後、武士の伝統的象徴であった古河公方や管領上杉氏が小田原北条氏によって排斥されると、千葉氏は次第に小田原北条氏の勢力に取り込まれていった。そして、弘治3(1557)年に六代城主の親胤(ちかたね)が暗殺されると、一層小田原北条氏の影響を受けることになった。そして七代城主の胤富は領国支配を積極的に進め、小田原北条氏ともに越後上杉氏や下総里見氏と対抗するなど千葉氏全盛期の勢力の保持に務めた。天正13(1585)年には、八代城主の邦胤(くにたね)が『オナラ事件』で暗殺されると、嫡男がいたにも関わらず、小田原北条氏の強力な介入により氏政の子が九代城主・千葉直重として家督を継ぎ、豊臣秀吉による小田原征伐までの5年間、千葉家をとりまとめた。


勝胤寺から徒歩5分ほどの距離には歴代城主が戦勝を祈願していた真言宗・宝珠院がある。開基は不明であるが、今から630年以上も前に佐倉五ヶ寺の一つとなり、物流の拠点ともなったらしい:

現在は真言宗の寺であるが、往時は下総千葉家の祈祷寺だった

大櫻山・宝珠院の由緒(拡大版)

境内には、佐倉千葉家三代当主の勝胤公が祈願のため建立した阿弥陀堂が現存していた:

下総千葉家二十三代(佐倉千葉家三代)当主の千葉勝胤公が建立した

阿弥陀堂

See Also下総千葉家ゆかりの祈祷寺と菩提寺 (フォト集)

【参考情報】

 

八幡社と将門神社

こちらはオマケ。本佐倉城跡の西脇、城の外郭にあたる荒上の舌状台地の土塁上に建つ八幡神社で、戦の神・誉田別命(応神天皇)を祀っている。このずーっと先に社が建っているようだ:

本佐倉城の外郭に建立された戦の神である

八幡神社(拡大版)

八幡神社から駅方面にさらに歩いて行くと、将門山大明神を祀る将門口ノ宮神社があった:

平将門を討ち取った藤原秀郷の息子二人が将門の怨念に殺されたとして、この地に神社を建立した

将門神社(拡大版)

本佐倉城があった将門山の麓に建つこの神社の創立年代は不明で、本佐倉城を築いた下総守護の千葉氏によるものとされているが、その他にも『平将門』公にまつわる伝説も残っている。それは、天慶3(940)年に平将門の乱を平定した俵籐太(たわらとうた)こと藤原秀郷が、自分の息子二人が将門の怨念により亡くなったとして、この地に神社を建立したのが始まりとするもので、この神社跡は平将門の父の居館があったとされる。平将門公と同じ桓武平家を家系に持つ千葉氏に受け継がれるのは自然の理と言えよう。

また、ここの鳥居の形式は明神式と云われ、貫(かん)の左右の先端が柱の外側で欠けているのが特徴らしい:

貫の左右の出っ張りが欠けているのが特徴だとか

明神式の鳥居

【参考情報】

 

参照

参照
a 別名は将門山城。「将門」は俵籐太(たわらとうた)こと藤原秀郷が討伐した平将門の怨念伝説からきているとも。
b 伊藤潤作の『叛鬼(はんき)』(講談社文庫)の主人公である。
c なお、平成10(1998)年に国指定史跡の対象となったのは内郭群だけで、外郭群は指定の対象外である。
d 当時、城攻め中に史跡の中をMTBで走り回っている『阿呆』を目撃したので写真を撮って報告した時に担当者さんから沢山の資料や貴重な情報を頂いた :)
e 東光寺ビョウ跡を含む水田側が佐倉市に属し、それ以外は酒々井町に属すのだとか。
f 正直、このアスファルトの散策路が空堀だったとは云われないと気づかない。
g 「とおさぶらい」と読む。御主殿から遠く離れた中門の脇などに設けられた警護の武士の詰所のこと。
h 真竹の一種で、節と節の間に緑と薄い黄色が縞模様に表れている竹である。
i ちなみに、下総千葉氏としては二十九代。
j 忠頼の妻は平将門の娘・春姫である。