城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

月別: 2017年6月

杉山城 − Sugiyama Castle

鎌倉街道を見下ろす丘陵に築かれた杉山城南二の郭と南三の郭は屏風折れの切岸と堀を持つ

埼玉県比企郡嵐山(さいたまけん・ひきぐん・らんざん)町にある杉山城は、(旧)鎌倉街道を見下ろす丘陵の山頂に築かれた本郭を中心に、北・南・東の三方の尾根上に複数の郭(くるわ)を配した連郭式平山城である。総面積は約80,000㎡にも及び、丘陵の高低差を利用して巧みに築かれた縄張は、市野川を外堀としたまさに自然の要害と呼ぶに相応しい県内でも屈指の名城として評価されているが、この城の築城年代や築城主については現在[a]城攻め当時なので平成27(2015)年5月現在である。でも不明である。傾斜の急な切岸、大規模な横堀と屏風のように連続する折れ、横矢掛かりを仕掛けるための複合的な虎口、馬出として利用していた郭など、現存する遺構の保存状態は良好で、その技巧的な城構えからは戦国時代後期の小田原北条氏によるものとされていたが、近年は発掘された土器や陶磁器といった遺物の製造年や近隣の武州松山城の存在の他に、同時代とする山中城などに見られた北条流築城術の特徴が無いことから、戦国時代初期の関東管領山内上杉氏とする説が有力となった[b]本訪問記執筆現在でも埼玉県嵐山町の杉山城のホームページでは山内上杉氏が扇ヶ谷上杉氏に対抗して築城したものと説明されていた。。しかし、依然として出土遺物だけで年代を確定するのは説得力が乏しいとされ、縄張や虎口の類似性、築城技術の差などから後北条氏によるものとする主張も多く、今もなお『杉山城築城の謎』として物議を醸している。

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a 城攻め当時なので平成27(2015)年5月現在である。
b 本訪問記執筆現在でも埼玉県嵐山町の杉山城のホームページでは山内上杉氏が扇ヶ谷上杉氏に対抗して築城したものと説明されていた。

武蔵松山城 − Musashi Matsuyama Castle

比企丘陵の先端に築かれた松山城は市野川の急流で削り取られた急峻な崖地を利用した平山城である

今から620年以上前の応永年間初期に扇ヶ谷上杉氏家臣の上田友直が、それまでの砦から本格的な城に仕上げたのが始まり[a]この城の築城に関しては鎌倉時代の新田義貞陣営説や、応永23(1416)年ごろの上田上野介築城説など数多くの伝説が残されている。とされる埼玉県比企郡吉見町にある武州松山城は、市野川が形成した広大な湿地帯に突き出す比企丘陵東端に築かれていた連郭式平山城である。15世紀後半に京都で起こった応仁の乱が全国に飛び火し、ここ関東でも長年の間、関東管領と古河公方、そして地侍らを巻き込んだ戦乱期が続いていたが、室町時代後期に相模国から伊勢新九郎率いる新興勢力(のちの小田原北条氏)の台頭が著しくなると、旧体勢力側に「回されてしまった」扇ヶ谷と山内両上杉氏、そして古河公方らは「敵の敵は味方」の理のごとく合力して対抗するようになった。それまで武蔵国中原の要衝として幾多の争奪戦が展開されたここ武州松山城もまた伊勢氏に抗する拠点となった。天文6(1537)年に扇ヶ谷上杉家当主の朝興(ともおき)が河越城で病死すると、関東制覇を強力に推し進める北条氏綱氏康父子は河越城を奪取、総崩れとなった上杉勢は武州松山城に退却した。氏綱は手綱を緩めることなく追撃するが、城代・難波田憲重(なんばだ・のりしげ)らの奮戦で撃退[b]この籠城戦の際に、憲重と氏綱の家臣である山中主膳との間で和歌問答が行われたとされ、のちに「松山城風流合戦」として語り継がれることになった。されると、武州松山城は扇ヶ谷上杉氏の居城となった。

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a この城の築城に関しては鎌倉時代の新田義貞陣営説や、応永23(1416)年ごろの上田上野介築城説など数多くの伝説が残されている。
b この籠城戦の際に、憲重と氏綱の家臣である山中主膳との間で和歌問答が行われたとされ、のちに「松山城風流合戦」として語り継がれることになった。

本佐倉城 − Moto Sakura Castle

半島状台地上に築かれた本佐倉城は三方が湿地帯に囲まれた要害だった

千葉県の印旛郡酒々井(いんばぐん・しすい)町にある本佐倉城[a]別名は将門山城。「将門」は俵籐太(たわらとうた)こと藤原秀郷が討伐した平将門の怨念伝説からきているとも。は室町時代後期の文明年間(1469〜1486年)に千葉輔胤(ちば・すけたね)が印旛沼を望む標高約36mほどの将門山上に築いた連郭式平山城で、南西面を除く三方は湿地帯に囲まれた要害の地にあった。この輔胤は、享徳3(1455)年に始まった『応仁の乱の関東版』とも云うべき享徳の乱の最中に起こった下総守護千葉家の内乱を制して宗家を継ぎ、のちには古河公方足利氏や長尾景春[b]伊藤潤作の『叛鬼(はんき)』(講談社文庫)の主人公である。と連携して、関東管領山内上杉氏や太田道灌、武蔵千葉氏らにたびたび抗してきた。下総千葉氏二十一代当主となった輔胤は内乱で荒廃した宗家の居城・亥鼻城を廃城とし、ここに築いた本佐倉城を、天正18(1590)年に太閤秀吉の小田原仕置によって後北条氏と共に滅亡するまでの九代、百有余年にわたり宗家の居城とした。千葉家が断絶した後は徳川家康の譜代家臣の内藤家長が入封し、本佐倉城は一旦は破却されたが、慶長15(1610)年に土井利勝が佐倉藩を起藩すると城跡に藩庁が置れた。そして元和元(1615)年には、滅亡前の千葉氏が築城に着手し未完成のままだった鹿島城を整備拡張した佐倉城へ藩庁を移転すると、本佐倉城は一国一城令に従って完全に廃城となった。

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a 別名は将門山城。「将門」は俵籐太(たわらとうた)こと藤原秀郷が討伐した平将門の怨念伝説からきているとも。
b 伊藤潤作の『叛鬼(はんき)』(講談社文庫)の主人公である。

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