室町時代後期の長禄元(1457)年に、扇ヶ谷上杉氏の家宰職にあった太田資清(道真)・資長(道灌)の親子が築城した河越城[a]現在は、築城時から中世頃までを「河越城」、江戸初期を含む近世以降は「川越城」と表記するのが一般的である。は関東でも要の城として上杉氏六代、小田原北条氏四代の持城となり、河越夜戦など幾多の戦いの舞台ともなった。天正18(1590)年の太閤秀吉による小田原仕置後に関東に入封した徳川家康は、譜代筆頭の酒井重忠(さかい・しげただ)を封じ、ここに「川越藩」が立藩した。そして江戸時代中期には「知恵伊豆」こと松平信綱(まつだいら・のぶつな)が近世城郭に改修し、8つの曲輪と3つの櫓、そして12の門を持つ徳川家の親藩と譜代大名の居城となった。また天守は建てられなかったが、本丸西南隅の富士見櫓が城内第一の高所にあったためその代用となっていたらしい。嘉永元(1848)年には、藩として最大の石高を有した越前松平家の松平斉典(まつだいら・なりつね)が、その二年前に焼失した二ノ丸御殿を再建する代わりに本丸御殿を造営した。これが現在、埼玉県川越市郭町で県指定有形文化財となっている本丸御殿遺構である。明治元(1868)年、明治維新政府に恭順するために堀は埋められ、老朽化した建築物が解体されて、現在では富士見櫓跡と本丸御殿、そして中ノ門堀跡の一部が残るのみとなった。
参照
↑a | 現在は、築城時から中世頃までを「河越城」、江戸初期を含む近世以降は「川越城」と表記するのが一般的である。 |
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