小江戸川越に残る川越城本丸御殿は県庁、工場、学校を経て現在に至る

室町時代後期の長禄元(1457)年に、扇ヶ谷上杉氏の家宰職にあった太田資清(道真)・資長(道灌)の親子が築城した河越城[a]現在は、築城時から中世頃までを「河越城」、江戸初期を含む近世以降は「川越城」と表記するのが一般的である。は関東でも要の城として上杉氏六代、小田原北条氏四代の持城となり、河越夜戦など幾多の戦いの舞台ともなった。天正18(1590)年の太閤秀吉による小田原仕置後に関東に入封した徳川家康は、譜代筆頭の酒井重忠(さかい・しげただ)を封じ、ここに「川越藩」が立藩した。そして江戸時代中期には「知恵伊豆」こと松平信綱(まつだいら・のぶつな)が近世城郭に改修し、8つの曲輪と3つの櫓、そして12の門を持つ徳川家の親藩と譜代大名の居城となった。また天守は建てられなかったが、本丸西南隅の富士見櫓が城内第一の高所にあったためその代用となっていたらしい。嘉永元(1848)年には、藩として最大の石高を有した越前松平家の松平斉典(まつだいら・なりつね)が、その二年前に焼失した二ノ丸御殿を再建する代わりに本丸御殿を造営した。これが現在、埼玉県川越市郭町で県指定有形文化財となっている本丸御殿遺構である。明治元(1868)年、明治維新政府に恭順するために堀は埋められ、老朽化した建築物が解体されて、現在では富士見櫓跡と本丸御殿、そして中ノ門堀跡の一部が残るのみとなった。

一昨年は、平成27(2015)年の3月末は関東地方に春の暖かさが広がり、桜吹雪が舞うのどかな時期に自身初でもある埼玉県川越市にある川越城址を攻めてきた。この日は府中本町からJR武蔵野線に乗り換えて北朝霞で下車。そこからすぐ目の前にある東武東上線の朝霞台から森林公園行きの急行に乗り換えて20分後の 11:30am 近くに川越駅に到着した。川越駅を出てからは城址との往復はすべて徒歩。まずは20分かけて川越大師の喜多院へ。こちらは桜満開で、花見客で大賑わいだった。喜多院を出て、徒歩15分ほどの場所にある川越市役所前へ移動して、ここから城攻めを開始した。

まずは川越城の縄張図(上が北方面)。これは江戸時代末期の慶応3(1867)年頃に編纂された「日本城郭史料」の中の川越城図を現代の地図上に投影したもので、本丸御殿の中に展示されていたもの:

本丸御殿の中に展示していたもので、江戸時代の史料と現在の地図を重畳したもの

空から見た川越城跡(拡大版)

この縄張図にあるように、川越城の西大手門跡が市役所脇にあった:

現在の川越市役所脇に建っている

川越城大手門跡の碑

この辺りが追手曲輪跡である

川越市役所

残念ながら、この当時は本庁舎耐震改修工事中だったため防護柵の外から拝むしかなかったが :|。なお、この市役所が建っている場所が追手曲輪跡に相当する。
そして、その門跡の横には太田道灌資長公の銅像があった。公は関東足利氏である古河公方の南進を阻む拠点として江戸城岩付城、そしてここに河越城を築いて江戸の北方を守る要衝とした。のちの大永4(1524)年に江戸城が小田原の北条氏綱に奪われた後は、ここ河越城が扇ヶ谷上杉氏の本拠となった:

昭和47(1972)年の川越市50周年の際に市庁舎と共に建てられた

太田道灌像

大手門跡がある追手曲輪跡から本丸跡へ向かって、市役所前の通りを東へ向かって行く途中には中ノ門堀跡がある。この堀跡は明治時代の廃城令で埋め立てられることなく残された唯一の堀であり、この門跡を保存するために川越市が平成20〜21(2008〜2009)年にかけて整備したとのこと:

現在は冠木門だが、往時は櫓門が建っていた

中ノ門堀跡(中ノ門跡)

中ノ門堀は松平信綱による近世城郭への大改修のおりに追手曲輪と中曲輪の間に設けられたもので、現在は遺構の上に盛土して保存し、その上に堀と土塀の一部が復元されていた。信綱は湿地帯を利用して水堀や空堀で曲輪を区画した上で、その周囲を土塁を巡らせることによって曲線的な縄張りを多用した:

知恵伊豆こと松平信綱公が築いた当時の勾配と土塀を復元しているらしい

中ノ門堀跡

往時は三つの空堀と二重の櫓門とで喰違虎口を成していたと云う。櫓門は入母屋造、本瓦葺き、一階部分は梁行(はりゆき)十五尺二寸(約4.6m)、桁行(けたゆき)三十尺三寸一分(約9.18m)という規模であった:

堀の高さや勾配は往時のものに復元されている

高い切岸の上の土塀

土塁の上には白壁塗りの土塀も復元されていた。市の発掘調査によると、堀の深さは約7m、幅は約18mで、勾配は大手門側に30度、本丸側に60度を有していたらしい。これにより、本丸に向かって侵攻していくと中ノ門辺りでは土塁が壁のように切り立ち、行く手を阻む構造になっていたのがわかる。

こちらは本丸跡に建っていた縄張図のレリーフ(下が北方面)で、黄色の円内が中ノ門の喰違虎口:

中曲輪と追手曲輪の間が喰違になっているのがわかる

川越城図のレリーフ(拡大版)

それから中ノ門堀跡の過ぎた先にある「郭町」の交差点を右折して南進すると左手に川越高校が見えてくる。ここは中曲輪と本丸との間にある八幡曲輪跡で、往時は馬場があったと云う:

現在は埼玉県立川越高校が建っていた

八幡曲輪跡

ここで先ほどの「郭町」の交差点まで戻って、そこから東進して本丸を目指した。すると左手に川越市立博物館が見えてきた。往時、ここは二ノ丸だった:

現在は川越市立博物館が建っていた

二ノ丸跡

上の写真右端に小さく見える石積が霧吹きの井戸。往時、苔生していたこの大きな井戸は、普段は蓋をしておくが、万一敵が攻めてきた時に蓋をとると、中からもうもうと霧が立ち込めて、城は敵から見えなくなったと云う。これが河越城の別名・霧隠城の由来でもあるのだとか。

ここから本丸跡へ向かった。こちらは本丸の北門跡近くに建っていた本丸門跡の碑:

左手に水堀があり、北門が建っていたとされる場所である

本丸門跡の碑

初雁武徳殿(はつかりぶとくでん)の碑。初雁武徳殿は本丸御殿の別称。この碑の右手奥には「通りゃんせ、通りゃんせ」の童話の発祥の地である三芳野(みよしの)神社があり、その境内に大きな杉の老木があったと云う。いつの頃からか毎年雁の渡りの時期になると、時を違えず飛んできた雁は杉の真上まで来ると三声鳴きながら木の回りを三度回って、南を目指して飛び去ったと云う「初雁の杉」の伝説が残る:

初雁武徳殿と名を改め武道練磨の場となった

初雁武徳殿の碑

若干、見づらいが写真中央の碑の左にある石灯籠は宝暦11(1761)年の作らしい。ちなみに、この本丸御殿の一部は県庁と煙草工場を経て、昭和になって初雁武徳殿と名を改めて、武道練磨の場という「経歴」を持っている。

そして本丸跡にその一部が残る本丸御殿:

東日本唯一の本丸御殿遺構で、埼玉県指定有形文化財となっている

川越城本丸御殿

こちらは本丸御殿館内案内図:

本丸御殿の玄関脇にあった

本丸御殿館内案内図(拡大版)

武州河越御領分明細記(江戸中期の写し)によると、二ノ丸御殿は描かれていたが本丸御殿は描かれていない。従って、城主御殿は二ノ丸に置かれ、本丸御殿は解体されていた可能性が指摘されている。その二ノ丸御殿が弘化3(1846)年の松平斉典(まつだいら・なりつね)の時代に焼失したため、新たな御殿を空き地になっていた本丸に求めることになった。そして二年後の嘉永元(1848)年に本丸跡に新しい御殿が建てられた。本丸御殿は16棟の建物、1025坪にも及ぶ巨大な建築物であり、居住区以外に政務を執る間や家臣らが常駐する間も設けられ、文字通り城の中心となる建物になったと云う:

昭和42(1967)年に県指定有形文化財に指定された

本丸御殿の碑

現存しているのは往時のほんの一部である

川越城本丸御殿

明治の世に入ると新政府に恭順した城主・松平康英(まつだいら・やすひで)は堀を埋め、老朽化した建物を解体することにしたが、廃藩置県に伴い川越県に続いて入間県[b]明治4(1871)年に設置され、明治6(1873)年)には群馬県と統合されて熊谷県となり廃止された、現在の埼玉県西部あたり。が加わると、川越にその庁舎が置かれることになり、本丸御殿の玄関と広間部分がそれに充てられた。その後、大正7(1918)年に大蔵省専売局淀橋専売支局川越分工場[c]現在のJTの前身に相当する。の煙草工場となって、昭和8(1933)年には初雁武徳殿として武道場となり、大戦後は市立第二中学校の仮校舎、そして再び武道場となった。そして、昭和42(1967)年に有形文化財に指定されると大規模な修理工事が行われ、現在見られる姿になった:

本丸御殿の南側には大書院という巨大な建物があった

川越城本丸御殿

現在の本丸御殿の南側には大書院と呼ばれた巨大な建物があったが、明治初期に解体されてしまった。また玄関の両脇には櫛形土塀が復元されていた。

正面玄関は巨大な唐破風で霧除け(ひさし)の付いた銅板葺の屋根に間口三間の広い開口部を持ち八寸(約24cm)角の太い柱が用いられている:

屋根は豪壮な唐破風の入母屋造である

正面玄関の唐破風

また本丸御殿の北側は中ノ口と呼ばれ、正面玄関に比べて一回り小さな間口二間半の玄関になっている。往時は千鳥破風の屋根であったが、昭和42(1967)年の大改修で流れ屋根に付け替えられた。当初は北側に一間ほど長く突出し、正面玄関と同様に階段と式台があったと考えられている:

現存する本丸御殿の北側の玄関である

中ノ口玄関

こちらが正面玄関。階段と式台がある:

入館料はこの玄関を入って左手にある券売所で支払う

正面玄関

ということで館内へ入って見学することにした。この玄関を入り廊下を挟んだ正面には三十六畳の広間があり展示品が観ることができる[d]この時点では入場料を未だ支払っていないので、ここで見学をキャンセルして玄関に戻ることも可能である。が、まずは左手に進んだところに受付があるので、そこで入館料(当時は一般100円)を支払う:

正面に見えるのが36畳の御殿内で二番目に大きな広間である

正面玄関

こちらが御殿の間(座敷)を取り巻く廊下。幅は九尺(約3.0m)で、場所によっては床の材質が異なっており、御殿内での公的空間(政務を執る座敷や家臣の詰所など)と私的空間(城主の居住区)とを区別するためと考えられている:

御殿内の間(座敷)を囲むようにして設けられていた

板張りの廻り廊下

現在の御殿内にはいくつかの間(座敷)が再現されていた。例えば、こちらは物頭詰所(十二畳):

ここは12畳の座敷である

物頭詰所

他に番抜老体詰所(十二畳)、使番詰所(十三畳)、使者之間(十五畳)、鎗の間(十二畳)などがあった。

御殿の西側へ回ると現在は庭園になっているが、そこに大廊下跡(柱の礎石跡)があった。往時は、この先にあったとされる家老詰所と大きな廊下で連結されていたと云われている:

庭に埋め込まれた丸瓦(赤丸)が廊下の柱の礎石跡を表している

大廊下跡

今度は北側へ回りこんでみると、その向こうには家老詰所なる建物があった。これは本丸御殿に勤務していた川越藩の家老が詰めていた建物で、参勤交代があった江戸時代は実質は家老らが藩の政務を取り仕切っていたとされる。この建物は明治初期に解体され商家に再築されていたものを、昭和62(1987)年に川越市に寄贈され現在の場所に移築されたものだとか:

明治に一度解体された建物が昭和に再築された

家老詰所の廊下

この10畳の座敷で、黒船来航に関する相談シーンが再現されていた

家老詰所で「黒船来航」の相談

そして本殿へ戻って三十六畳ある広間。間口は六間(約10.9m)、奥行きは三間(約5.4m)、北西隅(左手)に床の間があり、御殿の中では二番目に広かった座敷で、来客が城主のお出ましまでの間待機するのに使用していた部屋だった。ちなみに城主との直接の対面は本殿南側にあった大書院で行われていたらしい:

ここ36畳の座敷で、御殿の中でも2番目に広かった

広間

そして広間の建具として入れられた杉戸は藩の御用絵師・船津蘭山(ふなづらんざん)が描いたもので「朝日に松」という題が付けられており、もともとは廊下の間仕切りに使われていたものらしい[e]一般的に座敷と座敷の間の仕切りは「襖」(ふすま)である。。おそらく、これも昭和の大改修で変更されたのではないかと思われる:

この杉戸絵には「朝日に松」という題が付けらている

広間の杉戸絵

そして大きな壁を持つ床の間にはレプリカの藩主所蔵・大鎧[f]平安から鎌倉時代に上級武士が着用していた甲冑のこと。二領と杵黒熊毛槍鞘(きねぐろくまげ・やりざや)が展示されていた。この槍鞘は天下三名槍(てんかさんめいそう)[g]この御手杵の他に、日本号と蜻蛉切の三本の鎗を指す。の一本で結城松平家所蔵の「御手杵」の鞘だそうで、熊の毛約30頭程の黒毛直植えのものだとか:

広間の床の間に展示されていた

大鎧二丁と黒熊毛鎗鞘

本丸御殿の見学を終えたあとは、本丸御殿と道路を挟んで反対側にある三芳野神社(みよしの・じんじゃ)へ向かった。本丸跡に立つこの神社は寛永元(1624)年に城主・酒井忠勝が造営し、城の鎮守として江戸時代は幕府直営の社としての庇護を受けていた。往時、この社は河越城内にあったため一般人は年に数回ある特別な日にのみ参拝することができたところから、童謡「通りゃんせ」の唄の発祥の地となった:

お城の天神さまで「通りゃんせ」の唄の発祥の地である

三芳野神社

三芳野神社の境内には、長さが8間(約14.5m)程の本丸土塁が一部残っていた:

三芳野神社境内に残る本丸の土塁跡である

本丸土塁

そして、この参道が「通りゃんせ」の唄に出てくる天神様の細道。この先が天神曲輪跡:

「通りゃんせ」の童謡に出てくる天神様の細道である

三芳野神社の参道

三芳野神社の参道から南進していくと田曲輪跡になり、少し西へ入った所には本丸南西隅から突き出ていた富士見櫓跡が高台として残っていた。更にその西には田曲輪門跡の碑が建っていた:

富士見櫓跡前に建っていた田曲輪門跡の碑

田曲輪門跡

本丸南西隅から突き出た土塁の上に三重櫓が建っていた

富士見櫓跡の碑

こちらが富士見櫓跡。現在は御嶽神社が祀られているこの高台は、かっては高さ51尺(約15.5m)の三階櫓である富士見櫓が建てられていた場所で、城中で一番高い場所にあった。松平伊豆守信綱が近世城郭として大改修を行った頃には、天守閣の代わりとして使われていた:

この高台が本丸跡で、そこに隅櫓の三重櫓が建っていた

富士見櫓跡

約14m四方の富士見櫓跡。その名のとおり、往時は富士山の他に筑波山も眺めることができたらしいが、この当時は靄がかかって見ることはできなかった:

本丸南西隅に建っていた櫓からは富士山や筑波山が見えたという

富士見櫓跡

往時、川越城の外堀であった新河岸川(しんがしがわ)が流れる辺りは、一部の道路が鈎型となっていて、城下町の名残を残していた:

川越城域に当たる市内の一部には鉤型の道路が残っていた

城下町の名残

以上で川越城攻めは終了。個人的には中世の「河越城」の方が興味があるのでちょっと消化不良だったけど :X

See Also河越城攻め (フォト集)

【参考情報】

 

河越夜戦跡

現在の川越城は今から560年以上も前に築城された時は「河越城」と呼ばれ、数多くの城が築かれていた武蔵国にあって要衝の一つであり、幾度となく争奪戦が繰り広げられた城であった。特に戦国時代、関東制覇を強力に推し進める新興勢力の小田原北条氏と、長年その圧迫に苦しんできた名門の扇ヶ谷上杉家(おうぎがやつ・うえすぎけ)との間の5度目にして最後の戦いは、のちに日本三大奇襲戦[h]他に厳島の戦いと桶狭間の戦がある。日本三大夜戦とも。の一つに数えられる河越夜戦(かわごえ・よいくさ)として後世に語り継がれている。

天文6(1537)年の戦いで北条早雲の嫡男・氏綱に河越城を奪われた扇ヶ谷上杉家当主・朝定(うえすぎ・ともさだ)は、それまで犬猿の仲であった山内上杉憲政(うえすぎ・のりまさ)と古河公方・足利晴氏[i]晴氏は小田原北条氏綱の娘を娶っていたため、最後の最後まで出陣を躊躇っていたらしい。と連合し、共通の敵である小田原北条氏からこれを奪還すべく、総勢8万余騎の大軍をもって、天文14(1545)年10月に河越城を包囲した。一方、氏綱の嫡子・氏康の義弟で、「地黄八幡」の旗指物で有名な福島綱成が率いる籠城側は僅かに3千で守備し緒戦は善戦していたものの、翌15(1546)年春には兵糧も尽き苦戦に陥った。そこで氏康は8千騎を率いて援軍に駆けつけ、同年4月20日に夜討ちを仕掛けた。これに呼応して城方も門を開いて討って出たことにより、東明寺(とうみょうじ)口を中心に連合軍と激しい市街戦となった。しかしながら氏康からの偽和議の申し出に加えて、多勢をたのんで油断しきっていた両上杉・古河連合軍は大混乱に陥り、北条方の攻撃に耐えられずに散り散りとなって松山口へ向かって敗走した。この乱戦の中で上杉朝定は氏康の手勢によって討死、憲政も重臣・長野業政[j]彼の嫡男・吉業(よしなり)は、この夜戦で受けた傷がもとで後に亡くなっている。享年16。の助けで上野(こうずけ)平井城に落ち延びることになった。川越市の行伝寺に伝わる過去帳によると、この夜戦だけでも2,820余人が討死したと記されている。

この夜討が行われたのが現在の埼玉県川越市志多町にある東明寺付近で、ここは往時は河越台地の先端が水田地帯に接する北の端にあたるらしい:

時宗の寺で稲荷山称名院東明寺と称し、本尊は虚空蔵菩薩さま

東明寺の山門

東明寺境内に立つ河越夜戦跡の碑。別名が東明寺口の合戦と呼ばれる河越夜戦では、この地の要路である松山街道を含んだ東明寺境内が戦場になったと云う:

最も戦闘が激しかった河越城の東明寺口に建つ

河越夜戦跡の碑

河越夜戦の詳細が記載されていた

河越夜戦跡の碑(拡大版)

そして東明寺の本堂。ここは時宗(開祖一遍上人)の寺で稲荷山称名院東明寺と称し、本尊は虚空蔵菩薩さま:

求聞持法(ぐもんじほう)で記憶力を上げる修業の虚空蔵菩薩さまを祀る

東明寺の本堂

See Also河越夜戦跡 (フォト集)

【参考情報】

参照   [ + ]

a. 現在は、築城時から中世頃までを「河越城」、江戸初期を含む近世以降は「川越城」と表記するのが一般的である。
b. 明治4(1871)年に設置され、明治6(1873)年)には群馬県と統合されて熊谷県となり廃止された、現在の埼玉県西部あたり。
c. 現在のJTの前身に相当する。
d. この時点では入場料を未だ支払っていないので、ここで見学をキャンセルして玄関に戻ることも可能である。
e. 一般的に座敷と座敷の間の仕切りは「襖」(ふすま)である。
f. 平安から鎌倉時代に上級武士が着用していた甲冑のこと。
g. この御手杵の他に、日本号と蜻蛉切の三本の鎗を指す。
h. 他に厳島の戦いと桶狭間の戦がある。日本三大夜戦とも。
i. 晴氏は小田原北条氏綱の娘を娶っていたため、最後の最後まで出陣を躊躇っていたらしい。
j. 彼の嫡男・吉業(よしなり)は、この夜戦で受けた傷がもとで後に亡くなっている。享年16。