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城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

津和野城 − Tsuwano Castle

江戸時代に総石垣で改築された津和野城の南側は人質曲輪が三の丸に張り出していた

明治の世になるまでは津和野藩亀井氏の城下町であり、その古い町並みや佇まいをもって現在でも「山陰の小京都」と称される島根県鹿足郡(かのあしぐん)津和野町にある標高362mほどの霊亀山(れいきさん)の尾根を削平し曲輪を設け、堀切や竪堀・横堀で堅固とした津和野城は中世時代にあっては典型的な山城であった。鎌倉時代には、北九州への二度にわたる元(蒙古)軍の来襲を受けて、幕府は西石見の海岸防備を能登国の吉見頼行に命じ、ここ木曽野[a]現在の津和野町付近の旧名。へ地頭として下向させた。その頼行は永仁3(1295)年から約30年の歳月をかけて城[b]吉見氏が築いた時は一本松城と呼んでいたが、いつの間にか三本松城と呼ばれるようになったらしい。を築いた。以後吉見氏は十四代300年にわたって増築補強を繰り返した。戦国時代になると吉見氏は、天文23(1554)年に大内氏・陶氏・益田氏らの大軍に包囲されながらも100日余の籠城戦にたえた「三本松城の役」を経てのちに西国の雄・毛利家の支配下に入り、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦では主家に従って西軍につき、戦後は萩へ退転した。その翌年、坂崎出羽守直盛[c]浮田忠家の長男で初名は浮田詮家(うきた・あきいえ)で、宇喜多直家の甥であり宇喜多秀家の従兄にあたる。秀家とは折り合いが悪く、御家騒動後の関ヶ原の戦では主家と袂を分かち東軍に与し、浮田の名を棄てて坂崎と改めた。が初代津和野藩主として3万石で入封し、本城を総石垣にして出丸を築き、現在みることができる近世城郭に大改修した。のちに坂崎氏が断絶すると、亀井政矩(かめい・まさのり)が入封し十一代に渡って津和野藩主を務めた。

一昨年は平成27(2015)年の3月に一ヶ月ほど広島出張があったので、週末は広島県・鳥取県・島根県あたりの城を攻めてきた。出張三週目となった、この日は島根県鹿足郡津和野町にある津和野城を攻めてきた。津和野城攻めは、実は今回で二度目である。というのも、この前の年の夏、山陰地方の城を攻めてきた際に津和野まで来たのだけれど台風で大雨になって城攻めできずに、観光だけして帰ってきた。その時は、城址の遠景を眺めて残念な思いをしたので、この出張で無事に思いが叶って良かったと思っている:)

まずは Google Map 3D で大体の城域を確認してみる。山城なので登山道を使うか、町が管理・運営している城跡観光リフト(当時は大人450円)に乗るかして山頂に登ることになる:

標高362mほどの霊亀山上の城址と天然の外堀であろう津和野川、そして城下町の面影を残す町並み

津和野城跡と津和野町の鳥瞰図(Google Mapより)

津和野城は町の南端にそびえる霊亀山と云う山の上に築かれ、津和野川が天然の内堀としているかのように周囲を囲んでいた。城址と比高差200m程の麓には、現在は御殿跡や櫓(現存)が残されており、他にも郷土館や民俗史料館などの展示物も見所が多かった:

津和野駅からリフト乗り場までは徒歩でおよそ30分程の道のりで、途中「山陰の小京都」を散策することができる

津和野城跡と津和野町の鳥瞰図(Google Mapより)

こちらが今回の城攻めルートで、上の鳥瞰図の一部を拡大したもの。駅前の観光案内所で情報を仕入れ、腹ごなしを終えたら、まずは郷土館に立ち寄って、それから津和野高校を目指す感じで津和野川を渡り、現存櫓と津和野藩邸が建っていた嘉楽園(からくえん)を経由して、(登山道ではなく)観光リフトの乗り場へ移動した:

現在の津和野城跡は本城(本丸・二の丸・三の丸)と出丸(織部丸)に史跡が残されている

国指定史跡・津和野城跡(拡大版)

麓の櫓を見てからリフトで山頂まで移動し、リフトを降りてから徒歩15分ほどで本城まで行けた

津和野城攻略ルート(拡大版)

リフトで山頂まで上がったら出丸(織部丸)跡・本城跡(三の丸・二の丸・天守台・三十間台)を攻めてきた。麓からの攻略ルートは次のとおり:

大岡家老門 → 津和野町民俗史料館 → (多胡家老門) → 津和野町郷土館 → ①馬場先櫓 → ②嘉楽園 → ③物見櫓 → 津和野町城跡観光リフト → 中世時代の堀切 → ④出丸(織部丸)跡→ 津和野城の碑 → ⑤東門跡 → 三の丸跡(馬立・台所・海老櫓) → ⑥二の丸跡 → ⑦天守台 → ⑧西門跡 → ⑨三の丸跡 → 南門跡 → 天守台 → ⑩三十間台跡 → ⑪人質曲輪跡 → ⑫太鼓丸跡


まずは県道R13沿いに御幸橋を渡って行き、津和野高校脇に建っている①馬場先櫓から。旧津和野藩邸表門の左方の角地に配置されていた隅櫓であるが、建築年代は不明であるが、藩邸が嘉永6(1854)年に焼失し、安政3(1856)年には再建されていることから、この櫓も安政年間の建築と云われている:

現存櫓の一つで、津和野藩邸表門の脇、馬場のそばに建っていた隅櫓である

馬場先櫓(現存)

この櫓の南西側には馬場があったことから、その名がついた。重層入母屋の本瓦葺き、外部漆喰仕上げの櫓構建築である:

もとの位置を変えずに旧状を留めている唯一の建築物である

馬場先櫓(現存)

最後の津和野藩主・亀井家の家紋「隅立四つ目結」が付いていた

馬場先櫓の鬼瓦

馬場先櫓の脇にある津和野高校の目の前には②嘉楽園がある。こちらも国指定史跡で、旧津和野藩主・亀井家の藩邸があった場所である。当時の藩邸は南北300m、東西140mにわたり、北側(写真右側)に建物、南側(写真左側)に庭園があった。現在は建物跡が津和野高校のグランドになってしまい、庭園跡がわずかに残っており、藩校養老館初代学頭が「嘉楽園(からくえん)」と名づけた:

旧津和野藩主の亀井家の藩邸があった場所

嘉楽園の碑

左手に庭園、右手に建物があったが明治の廃藩後に解体された

嘉楽園(庭園跡)

そして、この嘉楽園の一角には多聞櫓である③物見櫓(現存)が建っていた。もとは津和野高校の正門付近にあったものが、大正時代に道路の新設により嘉楽園側に移築された:

藩邸の大手口に建てられていた物見櫓を、この場所に移築した

物見櫓(現存)

往時、藩邸の大手口には東門を中心として大小4つの土蔵と、これを含む4基の櫓があったと云う。古絵図には「御物見」と記され、防衛上最も重要な施設であったとされる。木造瓦葺一部二階建てで、南北13間(25.6m)、東西2間半(4.95m)の入母屋造。なお、往時は本瓦葺であったが昭和の時代の修理で桟瓦葺になった:

木造瓦葺入母屋造り、一層二階(一部一階)の多聞櫓である

物見櫓(現存)

物見櫓をあとにして県道R13を南へ進んでいくと「津和野町城跡観光リフトのりば」の案内板が見えてくるので、ここを右折して暫く坂を登って行く:

この案内板から、さらに坂を10分ほど登ることになる

観光リフトのりばの案内板

リフト乗り場まで10分ほど坂を登ることになるが、その途中には御食事処、駐車場、そして津和野城までの登山道で、島根県を横断する中国自然歩道(長距離自然歩道)の一部となる津和野コースの登城口があった。

また今回は訪問しなかったが、リフト乗り場の先には日本五大稲荷の一つである太鼓谷稲成(たいこだにいなり)神社がある。江戸時代、城主の亀井氏が城の鎮護と藩民の安穏を祈願して創建したもの:

年に一回、流鏑馬が開催され奉納されるのだとか

太鼓谷稲成神社

そして、こちらが観光リフト乗り場:

ここから約5分程で山頂のリフトおり場に到着する

津和野町城跡観光リフト

角度、高さ、そして揺れは申し分のないリフトだった

津和野町城跡観光リフト(上り)

この角度と高さだと上りよりも下りの方が怖かった

津和野町城跡観光リフト(下り)

今回は上りと下りともにリフトを利用した。料金は大人往復450円(当時)だった:

山頂の乗降場から麓を見下したところ

津和野町城跡観光リフト

リフトの乗降場から本丸・二の丸・三の丸がある本城跡までは、途中、織部丸と云う出丸跡を経由して15分ほどの道程である。こちらは津和野町郷土館に展示してあった津和野城復原模型で、これにあるように出丸を経由して本城へ向かうルートとなる:

手前にあるのが出丸(織部丸)、奥に見える天守が建つ辺りが本城で、その中間には城址碑と井戸跡がある

津和野城復原模型(拡大版)

手前の出丸の虎口から本城の東門までの距離は約244mあるのだとか

津和野城復原模型(コメント付き拡大版)

リフト乗降場を出るとすぐに堀切があった。これは中世の吉見氏が城主だった時代のものらしい:

鎌倉時代後半から戦国時代前半の三本松城と呼ばれていた頃のもの

中世(吉見氏時代)の堀切

堀切(ほりきり)は中世の山城ではよく見られる建造物で、尾根の方向に尾根続きを直交に遮断して、敵方の侵入を防いだり遅延させることを目的に堀削した溝で、堀切には二重や三重に設ける場合や、その両端を竪堀にするなどのバリエーションがある:

鎌倉時代後半から戦国時代前半の三本松城と呼ばれていた頃のもの

中世(吉見氏時代)の堀切

そして暫くは尾根脇の大手道を本城方面へ歩いて行くと、左手上に石垣が見えてきた:

登城道が尾根づたいに本城へ向けて延び、右手は谷になっていた

大手道

大手道を進んでいると左手上に石垣が見えてきた

出丸の石垣

さらに進むと④出丸(織部丸)跡の案内板が見えてきたので、まずは矢印に従って出丸跡へ向かった:

ここから左上へ登ると出丸跡、右手へ進むと本城方面となる

出丸跡の分岐点

出丸の虎口へ登って行く:

この出丸は関ヶ原の戦後に入封してきた坂崎出羽守直盛が築いたもの

出丸(織部丸)の虎口跡

この出丸は、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦後に、西軍に与した吉見氏に代わり、ここ津和野へ入城した坂崎出羽守直盛が城を改築する際に追加で築いたものである。この時の普請奉行が直盛の弟で、家老の浮田織部であったことから別名が「織部丸」と云われた:

往時、虎口の右手にある石垣の上には番所が建っていた

織部丸の虎口跡

この織部丸は、この先にある本城を守備する上で防塁の役割を果たすのに必要不可欠な施設であり、戦国時代後期に鉄砲が主流となる戦術に対して、このような出丸の存在が重要だったと云う:

虎口跡にのこる門の礎石

織部丸の虎口跡

往時、この虎口には櫓門が建ち、門をくぐって織部丸の中に入ると右手には番所が建っていたと云う:

櫓門をくぐると右手には番所が建っていた

織部丸の番所跡

そして、こちらが織部丸の内部。東西約18m、南北約44.5mの広さをもち、周囲の石垣に沿って塀が巡らされていたとか:

東西約18m、南北約44.5mの敷地の周囲には石垣と塀が巡らされていた

織部丸の内部

織部丸の外周に沿って築かれた石垣が累々と残っていた:

累々と築かれた曲輪外周の壮大な石垣が残っていた

織部丸の外周に築かれた石垣

織部丸の東端には二層二階の隅櫓が建っていたとされ、礎石や支柱を支える控石(ひかえいし)の一部が残っていた:

織部丸の東端には二層二階の櫓が建っていたと云う

隅櫓跡

この後は本丸・二の丸・三の丸がある本城方面へ移動した。織部丸の門跡から二の丸の東門跡までは直線距離で約244mあるのだとか。その途中にある堀切跡には城址の碑と説明板が置かれていた:

出丸跡から二の丸跡までは約10分程のアップダウンとなる

本城へ向かう大手道と堀切跡

この背後の堀切跡には未使用石垣石材や井戸跡が残っていた

国指定史跡・津和野城跡の碑と説明板

この場所は二の丸の下あたりに位置し、谷の落ち具合から堀切か竪堀があったと思われる。そして堀切沿いに下りていくと未使用石垣石材や万代の池(よろずよのいけ)と呼ばれる井戸跡があった:

堀切手前にに落ちていた苔生した石材

未使用石垣石材

出丸と二の丸の間にある堀切の中腹あたりにある

万代の池(よろずよのいけ)

この堀切跡から石段を登って行くと二の丸の東門跡へ至る:

登城道であった石段も残っていた

本城へ向かう大手道

石段の中には余分の雨水を排出する暗渠なども残っていた

石垣を持つ山城には必須の雨水排出用の水路である

大手道に残る暗渠

石垣を持つ山城には必須の雨水排出用の水路である

大手道に残る暗渠

見えてきた二の丸跡。正面に見えるのは腰曲輪の石垣で、左手上が天守台、右手へ進むと東門跡がある:

大手道を登ると天守台や腰曲輪の石垣が出現した

二の丸跡

こちらは説明板に記載されていた本城の縄張図。図中、三十間台が津和野城の最高峰であり、本丸に相当する曲輪で、赤線で記された中国自然歩道が津和野城の大手道に相当する。一点、奇妙なことに天守が三十間台より低い場所に建ち、城下町(東)側を向いていないと云うことである:

津和野城は出丸と本城を持つ一城別郭の城であった

本城あたりの縄張図

大手道から見た腰曲輪跡。二の丸の一段下にあたる曲輪で、三の丸とほぼ同じ高さにある。そして二の曲輪跡の先には太鼓丸跡と三十間台跡が見えた:

この先には太鼓丸と三十間台の石垣が見える

腰曲輪と二の丸の石垣

大手道を進んでいくと三の丸に入る ⑤東門跡がある。この門は坂崎氏以後、亀井氏の代は大手門として使用されていた:

坂崎氏以後亀井氏の代には大手門となっていた場所である

東門跡

この門跡を入ってすぐ正面上に三段の石垣が見えてくるが、これが三段櫓跡である:

階段状の石垣の上にはそれぞれ平櫓が建っていた

三段櫓跡1

三段ある石垣の上にそれぞれ平櫓を建てていたので、横から見ると三重櫓のように見えたらしい。それらの櫓には番所が置かれ、上から東門を厳重に警備できるようになっていたのだとか:

東門跡から眺めた櫓台石垣

三段櫓跡2

三段目の石垣の上から東門跡を見下ろしたところ

三段櫓跡3

東門跡を過ぎると三の丸跡に入り、西門跡の台座石垣が見えてくるが、その手前に馬立・台所・海老櫓跡へ上がる虎口がある:

正面の石垣が西門跡、案内板に従って右手へ上がると三の丸跡

西門跡と三の丸(馬立・台所・海老櫓跡)の虎口

まずは本丸の西側に張り出した三の丸跡へ向かった。虎口から順に馬立跡・台所跡・海老櫓跡と続き、その周囲は塀で囲まれ、その支柱を支えるための控石が約一間(1.8m)おきに置かれていた:

二の丸の石垣上から眺めた馬立・台所・海老櫓跡

三の丸跡

二の丸の石垣上から眺めた馬立・台所・海老櫓跡

三の丸跡(コメント付き)

馬立は乗馬を繋ぎ止めておく場所であった:

乗馬をつなぎ留めておく場所であった

馬立跡

その先には台所があり、排水機構がついた石列がのこっていた:

馬立の奥には台所があり、その奥には海老櫓が建っていた

台所跡

馬立の奥には台所があり、石列による排水機能が見て取れる

台所跡

台所跡の奥、三の丸最西端には海老櫓と云われる建物があり、搦手にあたる喜時雨(きじう)に直面する望楼が建っていたとされる:

往時ここには搦手側を警備する櫓が建っていた

海老櫓跡

 

絡手側から三の丸・二の丸・本丸跡を眺めたところ

海老櫓跡

三の丸最西端にある海老櫓は搦手側を一望できる櫓が建っていた

海老櫓と台所の間にある石垣

そして三の丸の馬立跡のすぐ隣りには⑧西門跡があった。往時、ここには西門櫓が建っていたと云う:

二の丸の天守台からみて搦手側にあるのが西門・西門櫓である

西門跡・西門櫓跡

こちらも見事な石垣が残っていた:

この石垣の上に二層二階の櫓門が建っていた

西櫓門台座石垣1

この石垣の上に二層二階の櫓門が建っていた

西櫓門台座石垣2

この石垣の上に二層二階の櫓門が建っていた

西櫓門台座石垣3

なお西門跡の目の前には、こちらも見事な天守台石垣が残っていた。こちらは三の丸南西側を攻めたあとに紹介する。

そして、これは西門跡前から三の丸を眺めたところ。左手の石垣が天守台石垣である:

左手は天守台石垣、正面の高石垣は三十間台跡と人質曲輪跡である

西門跡から三の丸へ向かう

このまま進むと天守台・三十間台方面と三の丸南側との分岐点がある。ここは三の丸(中国自然歩道)方面へ:

左手が天守台虎口、正面の人質曲輪の高石垣を抜けると南門跡

本丸方面と三の丸方面の分岐点

曲輪は塀で囲まれ、その支柱を支える控石が残っていた

塀の控石

そして三の丸跡の南側へ向かうと眼前に人質曲輪の高石垣が見えてきた。城内で最も高い野面積みの石垣で見事な反りを持っていた:

三十間台南の一段下に設けられた城内一の高石垣である

人質曲輪の高石垣1

三十間台南の一段下に設けられた野面積みの高石垣

人質曲輪の高石垣2

ちなみに「人質」とあるが、その昔は他家との同盟の証として受け入れた客人を住まわせた曲輪に櫓が建ってそう呼ばれるようにようになったと思われる:

三の丸跡からみた人質曲輪の高石垣

人質曲輪の高石垣3

この⑨三の丸(南側)は、津和野城の附城と扱いであった中荒城と南門から継っていたらしい:

この先には南門跡・南門櫓跡がある

三の丸(南側)跡1

この先には南門跡・南門櫓跡がある

三の丸(南側)跡2

こちらが南門跡・南門櫓跡。往時、ここには櫓門が建っていた:

この先には津和野城の附城扱いであった中荒城跡がある

南門跡・南門櫓跡1

城外から見た南門跡

南門跡・南門櫓跡2

 

この後は再び三の丸跡を戻って天守台・三十間台方面へ向かった。こちらは津和野町郷土館に展示してあった津和野城復原模型で、人質曲輪のちょっと先の分岐点から天守台跡へあがる:

津和野城を搦手側から見たところで、左手前は喜時雨(きじう)、手前の丘陵は中荒城

津和野城復原模型(拡大版)

西門と水門は搦手の喜時雨(きじう)へ継っていた

津和野城復原模型(拡大版)

こちらは南門跡から振り返って見た三の丸跡と人質曲輪の高石垣:

この曲輪も、他と同様に周囲には塀が巡らされていた

三の丸跡

三十間台所の南側に突き出た櫓台高石垣である

人質曲輪の高石垣

三の丸も他の曲輪同様に周囲は塀で囲まれていたため、石垣の上には現在でもその支柱を支えていた控石が約一間(1.8m)おきに置かれていた:

曲輪は塀で囲まれ、その支柱を支える控石が残っていた

三の丸石垣

そんな時に、どこからともなく汽笛が聞こえたので見下ろしてみると、山口線を走るSLやまぐち号が見えた:

新山口駅から津和野駅へ向かっている下りの便だった

三の丸跡からSLやまぐち号(拡大版)

先ほどの「本丸方面と三の丸方面の分岐点」まで戻ると、⑦天守台へ登る唯一の登城道がある:

ここが唯一の本丸(天守・三十間台)跡へ登る登城道である

天守台と登城道1

この石垣の上に三層三階の天守が建っていた

天守台と登城道2

この天守台には往時、坂崎出羽守が建てた三層三階の天守が建っていたが貞亨3(1686)年に落雷のために焼失してからは、ついに再建されることなく廃城となった。この天守台石垣は壮麗な石英閃緑岩(せきえい・せんりょくがん)で築かれ、大きい石は2tを超えるものがあるらしい:

壮麗な石英閃緑岩で築かれた天守台

天守台石垣1

この上に三層の天守が建っていたが、後に落雷で焼失した

天守台石垣2

近世城郭として残されている津和野城の天守台は他と同様に野面積みで、その隅石は算木積だった:

野面積みと算木積が用いられていた

天守台石垣3

こちらは天守台跡。特に礎石のようなものはみられなかった。また不思議なことに、この上に建っていたであろう天守は城下町側を向いていない。それに加えて三十間台(本丸)よりも一段低い場所に建てられている。関ヶ原の戦後に建てられたということならば、戦用ではなく「象徴的な天守」が一般的である。すなわち城下町を見下ろすように建てられるのが普通だと思うのだが、その存在を隠すかのように全く逆向きに築かれているのは幕府に配慮したからであろうか:|

礎石などは残っておらず、向こう側には三の丸の馬立・台所・海老櫓跡が見える

天守台跡(拡大版)

天守台の上段には城内で最高峰に位置し本丸に相当すると云われる⑩三十間台跡があった:

城内で最高峰の位置にある曲輪で本丸に相当すると云う

三十間台跡1

この曲輪にも礎石や排水用の石列、井戸跡のような窪みがあった(周囲に石積の跡があった):

この曲輪にも礎石や排水用の石列が残っていた

三十間台跡2

周囲に石積があるので井戸跡? (説明がなかったので実体は不明)

三十間台3

関ヶ原の戦後に入封してきた初代津和野藩主・坂崎出羽守直盛は、津和野城の改築にあたり、紀州の根来坊・阿林坊・南湖坊という三人の築城家を召し抱えて普請させたが、竣工後に城の重要機密が漏れるのを恐れて三人を殺害、特に阿林坊は人柱として石垣に埋められたと云う伝承が残っているのだとか。実際に彼らの五輪塔が城の西方1.6km離れた場所にあるらしい。

三十間台の南側下段には、先ほど見た人質曲輪が三の丸に張り出すように設けられている。この後、三十間台跡から下りて南側の⑪人質曲輪跡へ移動した:

往時、ここには人質櫓が建っていた

人質曲輪跡

こちらは人質曲輪の上から三の丸と南門跡を眺めたところ:

三の丸跡の奥にあるのが南門跡・南門櫓跡

人質曲輪から見下した三の丸跡

そして、再び三十間台に上り、城址最高峰から津和野の町並みと青野山の眺めを堪能した:

その女性的な容姿から別名妹山とも呼ばれ、海抜907m、白山火山帯に属する典型的なトロイデ型火山

津和野の町並みと青野山(拡大版)

かっての城下町のように、家の屋根が赤い艶のある石州瓦でできていて、まさに『山陰の小京都』を思わせる趣があった:

津和野中学校向こうには太鼓谷神社大鳥居が見える

三十間台跡から津和野の町並み2(拡大版)

眼下には、往時は内堀であった津和野川が流れていた

三十間台跡から津和野の町並み3(拡大版)

この後は、一段下にある二の丸にあたる太鼓丸へ移動した。こちらは三十間台と太鼓丸との間にある本丸北側虎口。往時、ここには櫓門が建っていたとされる:

 

本丸から二の丸との間にある石段と櫓門台座石垣

本丸北側虎口1

本丸から二の丸との間にある石段と櫓門台座石垣

本丸北側虎口2

本丸の三十間台と二の丸の太鼓丸との間にある虎口のうち、こちら側には櫓が建っていた:

左手が本丸方面、右手が太鼓丸がある二の丸である

本丸北側の櫓門台座石垣

本丸跡から見下した⑫太鼓丸跡

本丸側から見下した二の丸である太鼓丸

見下した太鼓丸跡

こちらが太鼓丸跡。二の丸の最東端にも隅櫓が建っていたと云われている:

この先にも隅櫓が建っていたと云われている

太鼓丸跡

太鼓丸跡から本丸北側の櫓台石垣を振り返ったところ:

右手の石垣の上に櫓が建っていた

三十間台との間の虎口

そして二の丸の下にある腰曲輪跡:

二の丸の太鼓丸跡から見下した腰曲輪

腰曲輪跡

この津和野城の近代化を行った坂崎出羽守は、のちに「千姫事件」と呼ばれる騒動を引き起こし自刃したことで坂崎家は断絶した。ここで興味深いのが坂崎家の家紋は備前浮田一族の「二つ重ね笠」であるが、柳生家の替紋と同じと云うことである。「柳生笠」と呼ばれているその替紋は、柳生但馬守宗矩がこの事件の仲介をなした際に、坂崎直盛からその返礼として譲り受けたと伝えられている。そんな直盛は城下町の治世の一つに蚊対策として鯉の養殖を始めたとされ、殿町通りの側溝にいる大量の鯉として現在も息づいていた。

坂崎家が改易された後は、旧尼子家家臣だった亀井茲矩(かめい・これのり)の嫡男・政矩が因幡鹿野藩から移封し、明治の廃藩置県で廃城となるまでの約250年間、亀井氏の居城となった。


ここで津和野町郷土館で展示されていたものをいくつか紹介する。

これは「毛利元就座備図」。この中には、津和野城主で大内家と毛利家の家臣であった吉見正頼が描かれていた:

この中に吉見正頼公が描かれていた(左、上から三番目)

毛利元就座備図

これは元尼子家臣で津和野城主にして津和野藩祖の亀井茲矩による文禄の役での虎退治を描いた図:

豊臣秀吉の配下として文禄の役で朝鮮で戦った時のものらしい

亀井茲矩の虎退治

その亀井茲矩が朝鮮の役で戦利品として持ち帰ってきた仏狼機砲(ふらんきほう)と云う青銅製の大砲:

亀井茲矩が文禄の役で戦利品として持ち帰ってきたものらしい

朝鮮の役で持ち帰った仏狼機砲



最後に、こちらは観光リフトの乗り場近くにあった注意書き。今回攻めた時期は冬眠中だったので大丈夫であったが、リフトで熊よけの鈴を貸してくれるらしい:

「ここは熊の生息地です」の注意書き

See Also津和野城攻め (フォト集)

参照   [ + ]

a. 現在の津和野町付近の旧名。
b. 吉見氏が築いた時は一本松城と呼んでいたが、いつの間にか三本松城と呼ばれるようになったらしい。
c. 浮田忠家の長男で初名は浮田詮家(うきた・あきいえ)で、宇喜多直家の甥であり宇喜多秀家の従兄にあたる。秀家とは折り合いが悪く、御家騒動後の関ヶ原の戦では主家と袂を分かち東軍に与し、浮田の名を棄てて坂崎と改めた。

2 個のコメント

  1. この津和野城、一昨年は台風のため攻めることができずに無念な思いをしたが、やっと攻め落とすことができた。なかなかの堅城だった :) おまけに SLやまぐち号に乗車するという機会に恵まれ良かった。

  2. 坂崎出羽守が築いた天守は城下町を見下ろすこと無く本丸に隠れた状態だった。千姫奪還事件とか、偏執気質と何か関係があるのだろうか。もしかして幕府と一戦するつもりだったとか。

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