明治の世になるまでは津和野藩亀井氏の城下町であり、その古い町並みや佇まいをもって現在でも「山陰の小京都」と称される島根県鹿足郡(かのあしぐん)津和野町にある標高362mほどの霊亀山(れいきさん)の尾根を削平し曲輪を設け、堀切や竪堀・横堀で堅固とした津和野城は中世時代にあっては典型的な山城であった。鎌倉時代には、北九州への二度にわたる元(蒙古)軍の来襲を受けて、幕府は西石見の海岸防備を能登国の吉見頼行に命じ、ここ木曽野[a]現在の津和野町付近の旧名。へ地頭として下向させた。その頼行は永仁3(1295)年から約30年の歳月をかけて城[b]吉見氏が築いた時は一本松城と呼んでいたが、いつの間にか三本松城と呼ばれるようになったらしい。を築いた。以後吉見氏は十四代300年にわたって増築補強を繰り返した。戦国時代になると吉見氏は、天文23(1554)年に大内氏・陶氏・益田氏らの大軍に包囲されながらも100日余の籠城戦にたえた「三本松城の役」を経てのちに西国の雄・毛利家の支配下に入り、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦では主家に従って西軍につき、戦後は萩へ退転した。その翌年、坂崎出羽守直盛[c]浮田忠家の長男で初名は浮田詮家(うきた・あきいえ)で、宇喜多直家の甥であり宇喜多秀家の従兄にあたる。秀家とは折り合いが悪く、御家騒動後の関ヶ原の戦では主家と袂を分かち東軍に与し、浮田の名を棄てて坂崎と改めた。が初代津和野藩主として3万石で入封し、本城を総石垣にして出丸を築き、現在みることができる近世城郭に大改修した。のちに坂崎氏が断絶すると、亀井政矩(かめい・まさのり)が入封し十一代に渡って津和野藩主を務めた。
一昨年は平成27(2015)年の3月に一ヶ月ほど広島出張があったので、週末は広島県・鳥取県・島根県あたりの城を攻めてきた。出張三週目となった、この日は島根県鹿足郡津和野町にある津和野城を攻めてきた。津和野城攻めは、実は今回で二度目である。というのも、この前の年の夏、山陰地方の城を攻めてきた際に津和野まで来たのだけれど台風で大雨になって城攻めできずに、観光だけして帰ってきた。その時は、城址の遠景を眺めて残念な思いをしたので、この出張で無事に思いが叶って良かったと思っている。
まずは Google Map 3D で大体の城域を確認してみる。山城なので登山道を使うか、町が管理・運営している城跡観光リフト(当時は大人450円)に乗るかして山頂に登ることになる:
津和野城は町の南端にそびえる霊亀山と云う山の上に築かれ、津和野川が天然の内堀としているかのように周囲を囲んでいた。城址と比高差200m程の麓には、現在は御殿跡や櫓(現存)が残されており、他にも郷土館や民俗史料館などの展示物も見所が多かった:
こちらが今回の城攻めルートで、上の鳥瞰図の一部を拡大したもの。駅前の観光案内所で情報を仕入れ、腹ごなしを終えたら、まずは郷土館に立ち寄って、それから津和野高校を目指す感じで津和野川を渡り、現存櫓と津和野藩邸が建っていた嘉楽園(からくえん)を経由して、(登山道ではなく)観光リフトの乗り場へ移動した:
リフトで山頂まで上がったら出丸(織部丸)跡・本城跡(三の丸・二の丸・天守台・三十間台)を攻めてきた。麓からの攻略ルートは次のとおり:
大岡家老門 → 津和野町民俗史料館 → (多胡家老門) → 津和野町郷土館 → ①馬場先櫓 → ②嘉楽園 → ③物見櫓 → 津和野町城跡観光リフト → 中世時代の堀切 → ④出丸(織部丸)跡→ 津和野城の碑 → ⑤東門跡 → 三の丸跡(馬立・台所・海老櫓) → ⑥二の丸跡 → ⑦天守台 → ⑧西門跡 → ⑨三の丸跡 → 南門跡 → 天守台 → ⑩三十間台跡 → ⑪人質曲輪跡 → ⑫太鼓丸跡
まずは県道R13沿いに御幸橋を渡って行き、津和野高校脇に建っている①馬場先櫓から。旧津和野藩邸表門の左方の角地に配置されていた隅櫓であるが、建築年代は不明であるが、藩邸が嘉永6(1854)年に焼失し、安政3(1856)年には再建されていることから、この櫓も安政年間の建築と云われている:
この櫓の南西側には馬場があったことから、その名がついた。重層入母屋の本瓦葺き、外部漆喰仕上げの櫓構建築である:
馬場先櫓の脇にある津和野高校の目の前には②嘉楽園がある。こちらも国指定史跡で、旧津和野藩主・亀井家の藩邸があった場所である。当時の藩邸は南北300m、東西140mにわたり、北側(写真右側)に建物、南側(写真左側)に庭園があった。現在は建物跡が津和野高校のグランドになってしまい、庭園跡がわずかに残っており、藩校養老館初代学頭が「嘉楽園(からくえん)」と名づけた:
そして、この嘉楽園の一角には多聞櫓である③物見櫓(現存)が建っていた。もとは津和野高校の正門付近にあったものが、大正時代に道路の新設により嘉楽園側に移築された:
往時、藩邸の大手口には東門を中心として大小4つの土蔵と、これを含む4基の櫓があったと云う。古絵図には「御物見」と記され、防衛上最も重要な施設であったとされる。木造瓦葺一部二階建てで、南北13間(25.6m)、東西2間半(4.95m)の入母屋造。なお、往時は本瓦葺であったが昭和の時代の修理で桟瓦葺になった:
物見櫓をあとにして県道R13を南へ進んでいくと「津和野町城跡観光リフトのりば」の案内板が見えてくるので、ここを右折して暫く坂を登って行く:
リフト乗り場まで10分ほど坂を登ることになるが、その途中には御食事処、駐車場、そして津和野城までの登山道で、島根県を横断する中国自然歩道(長距離自然歩道)の一部となる津和野コースの登城口があった。
また今回は訪問しなかったが、リフト乗り場の先には日本五大稲荷の一つである太鼓谷稲成(たいこだにいなり)神社がある。江戸時代、城主の亀井氏が城の鎮護と藩民の安穏を祈願して創建したもの:
そして、こちらが観光リフト乗り場:
今回は上りと下りともにリフトを利用した。料金は大人往復450円(当時)だった:
リフトの乗降場から本丸・二の丸・三の丸がある本城跡までは、途中、織部丸と云う出丸跡を経由して15分ほどの道程である。こちらは津和野町郷土館に展示してあった津和野城復原模型で、これにあるように出丸を経由して本城へ向かうルートとなる:
リフト乗降場を出るとすぐに堀切があった。これは中世の吉見氏が城主だった時代のものらしい:
堀切(ほりきり)は中世の山城ではよく見られる建造物で、尾根の方向に尾根続きを直交に遮断して、敵方の侵入を防いだり遅延させることを目的に堀削した溝で、堀切には二重や三重に設ける場合や、その両端を竪堀にするなどのバリエーションがある:
そして暫くは尾根脇の大手道を本城方面へ歩いて行くと、左手上に石垣が見えてきた:
さらに進むと④出丸(織部丸)跡の案内板が見えてきたので、まずは矢印に従って出丸跡へ向かった:
出丸の虎口へ登って行く:
この出丸は、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦後に、西軍に与した吉見氏に代わり、ここ津和野へ入城した坂崎出羽守直盛が城を改築する際に追加で築いたものである。この時の普請奉行が直盛の弟で、家老の浮田織部であったことから別名が「織部丸」と云われた:
この織部丸は、この先にある本城を守備する上で防塁の役割を果たすのに必要不可欠な施設であり、戦国時代後期に鉄砲が主流となる戦術に対して、このような出丸の存在が重要だったと云う:
往時、この虎口には櫓門が建ち、門をくぐって織部丸の中に入ると右手には番所が建っていたと云う:
そして、こちらが織部丸の内部。東西約18m、南北約44.5mの広さをもち、周囲の石垣に沿って塀が巡らされていたとか:
織部丸の外周に沿って築かれた石垣が累々と残っていた:
織部丸の東端には二層二階の隅櫓が建っていたとされ、礎石や支柱を支える控石(ひかえいし)の一部が残っていた:
この後は本丸・二の丸・三の丸がある本城方面へ移動した。織部丸の門跡から二の丸の東門跡までは直線距離で約244mあるのだとか。その途中にある堀切跡には城址の碑と説明板が置かれていた:
この場所は二の丸の下あたりに位置し、谷の落ち具合から堀切か竪堀があったと思われる。そして堀切沿いに下りていくと未使用石垣石材や万代の池(よろずよのいけ)と呼ばれる井戸跡があった:
この堀切跡から石段を登って行くと二の丸の東門跡へ至る:
石段の中には余分の雨水を排出する暗渠なども残っていた
見えてきた二の丸跡。正面に見えるのは腰曲輪の石垣で、左手上が天守台、右手へ進むと東門跡がある:
こちらは説明板に記載されていた本城の縄張図。図中、三十間台が津和野城の最高峰であり、本丸に相当する曲輪で、赤線で記された中国自然歩道が津和野城の大手道に相当する。一点、奇妙なことに天守が三十間台より低い場所に建ち、城下町(東)側を向いていないと云うことである:
大手道から見た腰曲輪跡。二の丸の一段下にあたる曲輪で、三の丸とほぼ同じ高さにある。そして二の曲輪跡の先には太鼓丸跡と三十間台跡が見えた:
大手道を進んでいくと三の丸に入る ⑤東門跡がある。この門は坂崎氏以後、亀井氏の代は大手門として使用されていた:
この門跡を入ってすぐ正面上に三段の石垣が見えてくるが、これが三段櫓跡である:
東門跡を過ぎると三の丸跡に入り、西門跡の台座石垣が見えてくるが、その手前に馬立・台所・海老櫓跡へ上がる虎口がある:
まずは本丸の西側に張り出した三の丸跡へ向かった。虎口から順に馬立跡・台所跡・海老櫓跡と続き、その周囲は塀で囲まれ、その支柱を支えるための控石が約一間(1.8m)おきに置かれていた:
馬立は乗馬を繋ぎ止めておく場所であった:
その先には台所があり、排水機構がついた石列がのこっていた:
台所跡の奥、三の丸最西端には海老櫓と云われる建物があり、搦手にあたる喜時雨(きじう)に直面する望楼が建っていたとされる:
そして三の丸の馬立跡のすぐ隣りには⑧西門跡があった。往時、ここには西門櫓が建っていたと云う:
こちらも見事な石垣が残っていた:
なお西門跡の目の前には、こちらも見事な天守台石垣が残っていた。こちらは三の丸南西側を攻めたあとに紹介する。
そして、これは西門跡前から三の丸を眺めたところ。左手の石垣が天守台石垣である:
このまま進むと天守台・三十間台方面と三の丸南側との分岐点がある。ここは三の丸(中国自然歩道)方面へ:
そして三の丸跡の南側へ向かうと眼前に人質曲輪の高石垣が見えてきた。城内で最も高い野面積みの石垣で見事な反りを持っていた:
ちなみに「人質」とあるが、その昔は他家との同盟の証として受け入れた客人を住まわせた曲輪に櫓が建ってそう呼ばれるようにようになったと思われる:
この⑨三の丸(南側)跡は、津和野城の附城と扱いであった中荒城と南門から継っていたらしい:
こちらが南門跡・南門櫓跡。往時、ここには櫓門が建っていた:
この後は再び三の丸跡を戻って天守台・三十間台方面へ向かった。こちらは津和野町郷土館に展示してあった津和野城復原模型で、人質曲輪のちょっと先の分岐点から天守台跡へあがる:
こちらは南門跡から振り返って見た三の丸跡と人質曲輪の高石垣:
三の丸も他の曲輪同様に周囲は塀で囲まれていたため、石垣の上には現在でもその支柱を支えていた控石が約一間(1.8m)おきに置かれていた:
そんな時に、どこからともなく汽笛が聞こえたので見下ろしてみると、山口線を走るSLやまぐち号が見えた:
先ほどの「本丸方面と三の丸方面の分岐点」まで戻ると、⑦天守台へ登る唯一の登城道がある:
この天守台には往時、坂崎出羽守が建てた三層三階の天守が建っていたが貞亨3(1686)年に落雷のために焼失してからは、ついに再建されることなく廃城となった。この天守台石垣は壮麗な石英閃緑岩(せきえい・せんりょくがん)で築かれ、大きい石は2tを超えるものがあるらしい:
近世城郭として残されている津和野城の天守台は他と同様に野面積みで、その隅石は算木積だった:
こちらは天守台跡。特に礎石のようなものはみられなかった。また不思議なことに、この上に建っていたであろう天守は城下町側を向いていない。それに加えて三十間台(本丸)よりも一段低い場所に建てられている。関ヶ原の戦後に建てられたということならば、戦用ではなく「象徴的な天守」が一般的である。すなわち城下町を見下ろすように建てられるのが普通だと思うのだが、その存在を隠すかのように全く逆向きに築かれているのは幕府に配慮したからであろうか:
天守台の上段には城内で最高峰に位置し本丸に相当すると云われる⑩三十間台跡があった:
この曲輪にも礎石や排水用の石列、井戸跡のような窪みがあった(周囲に石積の跡があった):
関ヶ原の戦後に入封してきた初代津和野藩主・坂崎出羽守直盛は、津和野城の改築にあたり、紀州の根来坊・阿林坊・南湖坊という三人の築城家を召し抱えて普請させたが、竣工後に城の重要機密が漏れるのを恐れて三人を殺害、特に阿林坊は人柱として石垣に埋められたと云う伝承が残っているのだとか。実際に彼らの五輪塔が城の西方1.6km離れた場所にあるらしい。
三十間台の南側下段には、先ほど見た人質曲輪が三の丸に張り出すように設けられている。この後、三十間台跡から下りて南側の⑪人質曲輪跡へ移動した:
こちらは人質曲輪の上から三の丸と南門跡を眺めたところ:
そして、再び三十間台に上り、城址最高峰から津和野の町並みと青野山の眺めを堪能した:
かっての城下町のように、家の屋根が赤い艶のある石州瓦でできていて、まさに『山陰の小京都』を思わせる趣があった:
この後は、一段下にある二の丸にあたる太鼓丸へ移動した。こちらは三十間台と太鼓丸との間にある本丸北側虎口。往時、ここには櫓門が建っていたとされる:
本丸の三十間台と二の丸の太鼓丸との間にある虎口のうち、こちら側には櫓が建っていた:
本丸跡から見下した⑫太鼓丸跡:
こちらが太鼓丸跡。二の丸の最東端にも隅櫓が建っていたと云われている:
太鼓丸跡から本丸北側の櫓台石垣を振り返ったところ:
そして二の丸の下にある腰曲輪跡:
この津和野城の近代化を行った坂崎出羽守は、のちに「千姫事件」と呼ばれる騒動を引き起こし自刃したことで坂崎家は断絶した。ここで興味深いのが坂崎家の家紋は備前浮田一族の「二つ重ね笠」であるが、柳生家の替紋と同じと云うことである。「柳生笠」と呼ばれているその替紋は、柳生但馬守宗矩がこの事件の仲介をなした際に、坂崎直盛からその返礼として譲り受けたと伝えられている。そんな直盛は城下町の治世の一つに蚊対策として鯉の養殖を始めたとされ、殿町通りの側溝にいる大量の鯉として現在も息づいていた。
坂崎家が改易された後は、旧尼子家家臣だった亀井茲矩(かめい・これのり)の嫡男・政矩が因幡鹿野藩から移封し、明治の廃藩置県で廃城となるまでの約250年間、亀井氏の居城となった。
ここで津和野町郷土館で展示されていたものをいくつか紹介する。
これは「毛利元就座備図」。この中には、津和野城主で大内家と毛利家の家臣であった吉見正頼が描かれていた:
これは元尼子家臣で津和野城主にして津和野藩祖の亀井茲矩による文禄の役での虎退治を描いた図:
その亀井茲矩が朝鮮の役で戦利品として持ち帰ってきた仏狼機砲(ふらんきほう)と云う青銅製の大砲:
最後に、こちらは観光リフトの乗り場近くにあった注意書き。今回攻めた時期は冬眠中だったので大丈夫であったが、リフトで熊よけの鈴を貸してくれるらしい:

「ここは熊の生息地です」の注意書き
津和野城攻め (フォト集)
この津和野城、一昨年は台風のため攻めることができずに無念な思いをしたが、やっと攻め落とすことができた。なかなかの堅城だった
おまけに SLやまぐち号に乗車するという機会に恵まれ良かった。
坂崎出羽守が築いた天守は城下町を見下ろすこと無く本丸に隠れた状態だった。千姫奪還事件とか、偏執気質と何か関係があるのだろうか。もしかして幕府と一戦するつもりだったとか。