鳥取県米子市久米町は湊山(みなとやま)公園にある標高90mほどの湊山山頂には米子城本丸の石垣が残されているが、今からおよそ550年前の応仁〜文明年間(1467〜1487年)に伯耆(ほうき)国の守護職であった山名教之(やまな・のりゆき)の家臣・山名宗之によって飯山(いいのやま)築かれたのが米子城の始まりとされる。そして現在のような梯郭式平山城になったのは、西伯耆・東出雲・隠岐の領主であった毛利一族の吉川広家が、天正19(1591)年にそれまでの居城であった月山富田城に代わって、ここ湊山に築いた頃である。しかしながら広家は、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦では主家に従って西軍につき、戦後は岩国[a]吉川広家はのちに岩国城を築いている。に転封されたため築城が中断となった。代わって伯耆18万石で入封した中村一忠(なかむら・かずただ)が築城を再開し、慶長7(1602)年に近代城郭としての米子城が完成した。このような経緯であったため、広家の築いた四重櫓の隣に一忠が四層五階の天守を築いたことで、本丸には天守と副天守の二つが並ぶ威容を誇っていたと云われ、後年には鳥取藩主の居城であった鳥取城を凌ぐほどであった。そして元和元(1615)年に幕府が発布した一国一城令[b]立案は初代将軍・家康、発令は二代将軍・秀忠。一国に大名が居住あるいは政令とする一つの城郭を残し、その他の城は全て廃城にすべしと云う法令。においても、米子城は例外扱いとされて幕末までその姿を残した。
一昨年は平成27(2015)年の3月に一ヶ月ほど広島出張があったので、週末は広島県・鳥取県・島根県あたりの城を攻めてきた。まずは鳥取県の米子城。この前の年にも同じように出張していたが、その時は広島からの交通の便がイマイチ悪く、攻める機会を逸してしまっていた城。今回は、広電(広島電鉄)系列の高速バスが広島⇔米子を運行する記念か何かで、運良く往復運賃がかなりお得な期間[c]この当時は往復で6,000円(税込み)。平成29(2017)年現在の運賃と比較すると1,000円お得だった。であったということもあり、ここは迷わず利用した。広島バスターミナルから米子駅前まで約203kmの行程が3.5時間ちょっと(8:35am発の11:53am着)。とは言ってもJRを使うよりは断然早いし、乗り換えが無いので楽だった。走行ルートとしては、広島市内から広島高速4号線で大塚で一旦停留し、それから広島自動車道を北上し中国自動車道で東へ移動し、途中から松江自動車道に乗り換え、山陰自動車道を経由して山陰道(米子西・東出雲線)で米子市内に入った。米子駅前からは徒歩15分程で湊山公園の二の丸虎口へ行けると云う立地にある。
こちらは公園前にあった湊山公園案内図(一部加筆あり)。下が米子駅方面で、上が米子港(中海[d]「なかうみ」または「なかのうみ」とも。「海」と綴るが、島根県安来市から鳥取県米子にまたがる湖である。)方面である:
別名「久米城」と呼ばれていた米子城は、山陰地方では他の地域に先駆けて築かれた本格的な近世城郭であり、中堀と外堀の二重の堀を持っていた。これらの堀に間には武家屋敷が建ち、堀の外側には町人町が造られ、伯耆各地の町人が移り住み、城下町として賑わいを見せていたと云う。なかでも外堀として利用されていた旧加茂川[e]現在の加茂川ではなく、そこからさらに北側にあった方の川。沿いには、往時は米問屋や廻船問屋などの屋敷や土蔵が建ち並び、米子港とを結ぶ水上交通路として大いに賑わったと云う。現在でも、その一角には白壁造りの蔵が残されているのだとか。
こちらは江戸時代中頃の米子城の規模と縄張を現在の地形に重ねたもの(上が北方面)。薄くなっている部分は現在は埋め立てられた公園の一部。外堀は現在も若干ながら残っているものの、内堀は完全に埋め立てられて道路になっていた。現在は湊山にある本丸と内膳丸の一部が残り、二の丸や三の丸が公園化されていた。また米子城跡と国道を挟んだところにある飯山(いいのやま)は往時、石垣で築かれた出丸があったとされているが、現在は英霊碑などが建つ憩いの場になっていた:
これは、JR米子駅前から国道R9(山陰道)に向かって10数分ほど歩いた所にある「久米町」交差点から米子城跡を眺めたところ。写真の左から右に走る道路が内堀跡で、左手に見えるのが出丸があった飯山。ちなみに奥から手前に走っている道路が山陰道である:
正面に見える比高60mほどの湊山の山頂には、遺構として残された本丸石垣を見ることができるが、往時そこには吉川広家による四重櫓と、中村一忠による四層五階の天守が並んで建っていたと云う:
ここから湊山公園の入口へ向かった。ちなみに城址の本丸へ登る登城道は幾つか存在しているようだが、今回は正攻法で、公園入口から登ることにした。
こちらが公園入口にもなっている二の丸枡形虎口跡:
枡形虎口は入口を二重にして城門や城内を見透かせないようにするために設けられた空間で、往時は城主の行列や供揃いの他、兵士らの集合場所に使われたと云う:
枡形は東西25.44m、南北22.72mの規模を持ち、中に入って鈎の手に折れたすぐ先には石段があり、その石垣の上に二の丸跡が続く:
この石段の両脇にあるのが二ノ門にあたる櫓門台座石垣である。この門は二重櫓を有していたと云う:
この虎口は立派な高石垣に囲まれており、さらに上下二段で構成される二の丸への出入口でもあった:
こちらは二の丸(上段)跡から見下した枡形虎口。ほぼ正方形の枡形で、石垣で囲まれているのがわかる:
二の丸上段へ上がったところには市内西町の小原(おはら)家にあった長屋門が移築されていた:
小原氏は米子城代を継いでいた荒尾家の家臣にあたり、禄高120石であった。この長屋門は江戸時代中期の建築で、木造瓦葺入母屋造りの平屋建てで、床面積は84㎡余、大扉に向かって右側に一室、左側に二室あって、その上は一部低い中二階になっている。昭和59(1984)年まで市立山陰歴史館として利用されていたらしい:
この移築門をくぐった先の二の丸跡は市営湊山庭球場になっていた。ここには城主が居住していた御殿や、その台所などの建物と、藩の行政事務を取り扱う政庁が建っていたと云う:
一方、三の丸跡は現在は市営湊山球場になっていた。往時ここには作事場や厩、そして米蔵などが置かれ、その先には内堀があった:
二の丸の搦手にあたる場所がちょうど庭球場脇の駐車場近くで、いわゆる裏御門(うらごもん)跡だった。往時ここには時を知らせたり、非常招集を告げるための大太鼓を置いた二階建ての櫓が建っていた:
ここから登山口へ向かう途中には車井戸跡があった。きれいな清水が湧き出ているらしく、往時は二の丸御殿での用水として使われていたと云う:
そして、この井戸跡近くに湊山への登山口がある:
この石段でできた登城道ならぬ登山道を登っていくと、本丸方面と内膳丸方面、さらには米子湾を望める中海展望所方面の分岐点に到着する:
まずは内膳丸跡へ。こちらは内膳丸下段虎口にある台座石垣。往時、この石垣の上には渡櫓門が建っていたと云う:
この曲輪は本丸の北側の守りを強化するために設けられた二段構えの区画で、中村一忠の家老・横田内膳村詮(よこた・ないぜん・むらあき)によって築かれたことから「内膳丸」と呼ばれ、この下段には隅櫓や蔵が置かれていた:
こちらは内膳丸上段虎口。この石垣の上に武器庫として利用した二重櫓と渡櫓門が建っていたと云う:
そして、こちらが内膳丸上段跡。現在は四阿(あずまや)が建つ展望台になっているが、往時は標高52mの丸山とも呼ばれていたこの区画には二重櫓が数棟と武器庫が建っていたと云う:
そのような立地のため多少、木が邪魔であったが、中海の眺望は良かった:
そして、こちらは内膳丸跡から南側にある本丸跡を見上げたところ。なお、往時はこの曲輪から本丸へ向けて石垣が設けられていたそうで、まさに西の防衛線が築かれていたことになるが、現在その石垣は崩落埋没し、一部のみ残存しているのだとか:
この後は分岐点へ戻って本丸跡を目指した:
再び石段を登って行くと、本丸跡の石垣が見えてくる:
このまま上がっていくと本丸を囲む腰曲輪の東側に到着するが、往時は櫓門が建っていたとされ、その門を潜った先には番所が建っていたらしい。現在も番所跡が残っていた:
番所跡の背後にある本丸の天守一帯を警備する役人の詰所(7.27m☓7.27m)が建っており、昼夜見張番が置かれていた:
その見張り番跡の背後には見事に復元された本丸石垣と天守台石垣:
二段に積まれた本丸石垣の上に天守台石垣が築かれているのに加え、その左手には副天守台とも云うべき石垣が築かれていた。それが吉川広家の築いた四重櫓の台座石垣である:
ちなみに、こちらが天守と副天守の想像図(鳥取県米子市教育委員会作成のパンフレットから):

副天守(左)と天守(右)のイメージ図
ここ番所跡から本丸石垣、天守台と副天守台石垣、そして大山の眺めをパノラマで:
さらに中国地方の最高峰で、伯耆富士とも呼ばれている大山(だいせん)の眺め:
ここからは本丸石垣沿いを搦手側へ進んで本丸跡に入ったが、他に大手側の鉄御門(くろがね・ごもん)をくぐって本丸跡に入るルートもある:
搦手側に向かう途中には遠見櫓(とおみやぐら)跡があった。ここには平屋櫓(7.27m☓9.09m)と二重櫓(3.63m☓3.63m)が建てられており、着見櫓とも呼ばれていた:
遠見櫓脇の石積みは野面積で、吉川広家の時代のものであるが、本丸石垣との積み方の違いがよくわかる:
そして、こちらが中村一忠の時代の石垣で、打込み接ぎの本丸石垣である:
この石垣の最下部は野面積みの石垣の一部だろうか、隅石に周囲とは異なる巨石が積まれていた:
このような本丸を囲む腰曲輪の犬走りのような小径を通って搦手側へ移動した:
本丸跡に入る前に、まずは搦手側を見ることにした。こちらは水手御門(みずてごもん)跡。古絵図によれば、これら台座石垣の上には櫓門が建っていたと云う。また、往時にはこの先を下りていくと深浦湾(中海)にのぞむ水軍用の曲輪に通じていたらしい:
そして水手御門跡を出ると、かっては出山付近に設けられていた水軍用曲輪の船小屋へ向かう道があった:
この後は本丸跡へ向かった。こちらが本丸西側にある搦手虎口である。往時は櫓門が建っていた:
本丸石垣と連結している搦手口の台座石垣:
本丸側から見た搦手虎口跡と本丸西側。この先の腰曲輪の向こうに水手御門跡がある:
往時、この本丸搦手虎口にある二つの台座石垣上には櫓門が建っていたとされ、現在でもその礎石が復元されていた:
搦手口から本丸跡に入ってみると意外に面積が広く、東端に天守台が置かれた末広がりな形をしているのがわかる。こちらは天守台手前から振り返って搦手口を眺めたところ:
この本丸北側(遠見櫓跡上)あたりから、先ほど攻めた内山に築かれた内膳丸跡を見下ろしてみた:
こちらは逆に本丸の南側。こちらは野面積みの本丸石垣が築かれていた:
本丸跡の東側へ進むと天守台跡とその礎石が残されていた:
天守台跡の礎石は昭和57(1982)年から59(1984)年にかけて修復・復原されたもの:
関ヶ原の戦後に入封し米子城を完成させた中村一忠[f]「忠」の字は将軍秀忠からの偏諱であり、家康からは松平姓を許され「松平伯耆守忠一」と称していた。は、豊臣政権で三中老[g]豊臣秀吉の時代に制定された役職の一つで、他の五大老と五奉行の役職の間の仲裁役であった。他に讃岐国高松城の生駒親正と遠江国浜松城の堀尾吉晴がいる。の一人であった中村一氏の嫡男で、父の一氏は関ヶ原の戦の直前は慶長5(1600)年に中村家の存続を願いつつ他界した。この時、一忠は若干10歳であった。関ヶ原の戦では、家老の横田内膳村詮が東軍に加担する工作に成功し、戦後は伯耆米子藩17万石を拝領した。その横田内膳を普請奉行として慶長7(1602)年に米子城の修復・拡張と天守造営が完了するが、慶長14(1609)年に一忠が20歳で急死し、中村家は断絶のため改易となった。
そのため翌15(1610)年に美濃国黒野城の加藤貞泰(かとう・さだやす)が伯耆国会見・汗入(あいみ・あせり)郡6万石の藩主となった。元和元(1615)年には幕府が一国一城令を発したが、米子城は保存が決定された。その後、加藤貞泰が伊予国大洲城に転封となると、代わって鳥取藩池田光政(いけだ・みつまさ)が因幡・伯耆を併せた二国の領主となり、以後は一族の家老職であった荒尾家が代々で城代を務めた。それから幕末を経て明治5(1872)年に廃城となり、民間に払い下げられたがこれを維持できずに、天守と副天守は解体されて風呂屋の薪になったと云う。
この後は天守台跡からの眺望がすこぶる良かったので、しばらく休んで眺めることにした。こちらは天守から西側の眺め:
そして再び中山と米子市街、そして美保湾の眺望:
こちらも再び大山。この時期の景色は秀逸である:
おまけで、この素晴らしい湊山頂上からの眺望をパノラマで:
こちらは天守台跡から見下した本丸石垣や番所跡:
天守台の南側に隣接したところには副天守(または小天守)台石垣があった。天正19(1591)年に、ここ伯耆国がまだ毛利家の所領だった頃に吉川元春の三男・広家が築城を開始した。翌年の文禄元(1592)年には朝鮮侵攻があったため広家は従軍し、慶長3(1598)に帰国すると、すぐに米子港・深浦港整備を始めた。ここに、その際に築いた独立望楼型三層四階の大型櫓(四層櫓)が建っていた。この櫓は元禄10(1697)年には台風で1尺5寸ほど傾いたのだとか:
副天守台は天守台よりも一段低くいところあり、礎石が残っている他に、幕末の嘉永5(1852)年に四重櫓とその石垣が富豪鹿島家の負担により大修理が行われたため、隅石は切石による算木積で、内側は打込み接ぎで積み直されている:
こちらが副天守台から眺めた天守台で、一段高くなっているのがわかる:
この天守台と副天守台跡から米子市街の眺めをパノラマで:
この後は本丸の大手側へ向かった:
石段を下りていくと鉄御門枡形となる。ここが本丸の大手口である:
この枡形内には、なぜか矢穴跡が残る巨石が幾つか置かれていた:
こちらが鉄御門跡。本丸の大手口にあたる入口を防御するために鉄張りの堅固な二階建ての櫓門が置かれていた:
鉄御門を出て下りていくと隅櫓の台座石垣があった。ちなみに、その脇を下っていく石段はまた別の登城道である:
そして、この別の登城道は利用せずに、そのまま副天守台脇を通って、最初に登ってきた時の腰曲輪方面へ向かった。こちらが、その副天守台の石垣である:
この副天守台石垣は、もとは吉川広家時代の古い野面積みのものであるが幕末に積み直しされて打込み接ぎと算木積になっていた:
この後は来た時に使った登山道を下って二の丸の枡形虎口まで戻り、それから山陰道を渡って飯山(いいのやま)出丸跡へ移動した。
飯山出丸(釆女丸)跡
この飯山は別名が釆女丸(うめまる)と云う米子城の湊山本城とは独立した曲輪であった:
この出丸跡は、戦国時代には山名氏、尼子氏、そして毛利氏らが国境の重要な砦の一つとして使用した飯山城であったと云う。山頂には南北約85m、東西約35mの曲輪が古い二段の石垣で築きあげられ、湊山とは山続きであったので、江戸時代には湊山本城の東の砦となった。
こちらが飯山出丸の登り口:
この登り口を進むと長い階段があり、このまま頂上へ向かった:
往時の飯山出丸は高石垣で三段に築かれた曲輪で、二段目は帯曲輪であり、最上段の南側には櫓台が建っていた。現在は最上段のみで、そこには戦没者慰霊の英霊塔の他に四阿とトイレがあった:
幼い当主の中村一忠を補佐し、中村家の存続に心血を注いでいた家老の横田内膳村詮(よこた・ないぜん・むらあき)は、一忠の父である中村一氏の妹を娶り家中でも一門衆並の処遇を受けていたが、米子城の拡張を終えた慶長8(1603)年11月に、彼の才覚を日頃妬んでいた一忠の側近らが若干14歳の一忠をそそのかして、村詮を誅殺させてしまった。享年52。
これに怒った村詮の嫡子・主馬助と、当時村詮に乞われて客将の身だった柳生五郎右衛門[h]柳生宗章(やぎゅう・むねあき)。柳生宗厳の四男で、柳生宗矩の実兄。弟と共に家康に召されたが仕官せずに諸国修業に出て、米子藩に客将として仕えていた。ら横田一党らは、ここ飯山に立て籠って中村家に反旗を翻した。これが世に云う「米子城騒動」または「横田騒動」である。この時、剣豪の柳生五郎右衛門が中村方の武将矢野助之進らと渡り合い、十文槍をしごいて中村方を多数討ち取ったと云う。しかしながら中村一忠は隣国の堀尾吉晴に援軍を頼んで鎮圧に乗り出し、五郎右衛門は吹雪の中で数本の刀を差し、敵兵を切り倒すなど奮戦するが、最後は刀が折れて壮絶な討ち死にを遂げた。
そのような激戦が行われた飯山出丸跡は、現在は憩いの場となって開放され、往時の石垣は草木に埋没して一部が確認されるだけの状態だった:
そして、ここからの大山の眺めも素晴らしかった:
以上で米子城攻めは終了。帰りは再び3.5時間かけて出張先へ移動した。
米子城攻め (フォト集)
参照
↑a | 吉川広家はのちに岩国城を築いている。 |
---|---|
↑b | 立案は初代将軍・家康、発令は二代将軍・秀忠。一国に大名が居住あるいは政令とする一つの城郭を残し、その他の城は全て廃城にすべしと云う法令。 |
↑c | この当時は往復で6,000円(税込み)。平成29(2017)年現在の運賃と比較すると1,000円お得だった。 |
↑d | 「なかうみ」または「なかのうみ」とも。「海」と綴るが、島根県安来市から鳥取県米子にまたがる湖である。 |
↑e | 現在の加茂川ではなく、そこからさらに北側にあった方の川。 |
↑f | 「忠」の字は将軍秀忠からの偏諱であり、家康からは松平姓を許され「松平伯耆守忠一」と称していた。 |
↑g | 豊臣秀吉の時代に制定された役職の一つで、他の五大老と五奉行の役職の間の仲裁役であった。他に讃岐国高松城の生駒親正と遠江国浜松城の堀尾吉晴がいる。 |
↑h | 柳生宗章(やぎゅう・むねあき)。柳生宗厳の四男で、柳生宗矩の実兄。弟と共に家康に召されたが仕官せずに諸国修業に出て、米子藩に客将として仕えていた。 |
人生初めての米子。短い時間だったけど楽しめた。
不思議なことに、こんな素晴らしい石垣の城は百名城に入っていない。二の丸や三の丸が公園化しているものの、他の百名城とは全然引けを取らない素晴らしい城だと思うのだが 。