鎌倉時代に源頼朝の平氏追討にあたって終始勲功を挙げた土肥実平(どひ・さねひら)は相模国を中心に勢力を持っていた有力豪族の相模土肥家の先祖にあたり、はじめ吉備三ヶ国(備前、備中、備後)の守護の地位を与えられ、のちに安芸国沼田荘がある沼田川(ぬたがわ)流域一帯の地頭職を得ると、一族あげて相模国から西遷してきた。彼の嫡子・遠平(とおひら)は相模国土肥郷の小早川村に居館を築いていたことから、ここ沼田荘でも小早川氏を名乗り、のちに沼田小早川家と竹原小早川家に分かれることになる。その遠平の孫にあたる茂平(しげひら)は沼田小早川氏を相続し、居城を沼田川東岸にある古高山城[a]正式名は安芸高山城。この新高山城と区別するために古高山城または妻高山城とも呼ばれている。とした。天文10(1541)年、竹原小早川家の当主は継嗣なく早世したため、この時期に安芸国の新興勢力として台頭していた毛利元就の三男・徳寿丸[b]のちの小早川隆景。を養子に迎えた。奇しくも、この時期に沼田小早川家の当主が病気にて隠居となったため、これも継いで両家が一つになった。そのため隆景は両家と領民の人心一新[c]環境を変えるなどして、人々の心を全く新しくすること。のため、天文21(1552)年に古高山城の副塁であった新高山城の大改修を行い、後に伊予湯築城や筑前名島城といった居城をいくつか築くことになるが、慶長元(1596)年に三原城に移るまでの45年間、小早川家の本拠地とした。
一昨年は平成27(2015)年の3月に一ヶ月ほど広島出張があったので、週末は広島県・鳥取県・島根県あたりの城を攻めてきた。出張二週目となった、この日は広島県三原市にある新高山城と古高山城を一気に攻めてきた。これらの城は共に沼田川を境にして向き合うように築かれた山城であったので、午前の部と午後の部でそれぞれ攻めたのだけれど、古高山城攻めでは案内板に騙されて山道に迷った挙句に、本丸に辿り着くことができないまま日が暮れてタイムアップしてしまった。この城については登城口についての情報を集めて、この出張中に改めてチャレンジすることにした。ちなみに、午前中に攻めた新高山城には思い出があって、今から三年前に初めての城攻めで、福山城跡へ行く途中のJR山陽本線の中から偶然にも冒頭にある「新高山城跡」の看板を見て、いつかは攻めてみたいと思っていた城だった 。そう云うこともあって、今回の出張で城攻め候補の筆頭に入っていたのが、この新高山城である。そして、これが登城口の案内板に描かれていた「新高山城跡の整備イメージ」。急峻な崖と毛利家の城によく見られる段曲輪が特徴である:
こちらは Google Map 3D による新高山城と古高山城、そして沼田川を上空から眺めたような模擬鳥瞰図。沼田川沿いにはJR西日本の山陽本線が走り、新高山城と古高山城の麓にはJR山陽新幹線が貫通していると云うちょっと奇妙な光景であった:
今回の宿泊先が広島市内ということもあって、この日は8:00am過ぎの広島発糸崎行のJR山陽本線に乗って、河内駅を過ぎたその車窓から三年前のことを思い出しながら本郷駅まで行き、下車した。そして駅の南口から県道R33へ向って沼田川を渡ったらすぐを川沿いの側道に入った。しばらく歩くと新高山城へ向かう城址道の石標が立っていた:
丁度、この辺りからだと沼田川を挟んで新高山城跡と古高山城跡の両方を眺めることができた:
こちらが側道から見上げた新高山城の東側は、その中腹以上の斜面に岩石が露出し、いたるところに岩壁がそそり立っているのが見えた:
対して、こちらは新高山城に移るまで沼田小早川氏の居城であった古高山城跡。こちらも岩石が露出した峻厳な山容を誇る。現在は古高山城跡と新高山城跡の麓にはJR山陽新幹線のトンネルが貫通していた:
さきほどの石標が立っていた場所から、さらに800mほど北上していくと左手に「新高山城跡大手道入口」なる案内板が見えてきた:
ここから入って道なりに民家と神社(荒神社拝殿)の脇を進み、畑を横目に登って行くと「新高山城登山道」の看板が見えてくるので、さらに進むと「史跡・小早川氏城跡(新高山城跡)」の説明板が建っていた:
この当時、ここ新高山城跡の主要な登山道や案内板の類はちゃんと整備されていて「道に迷う」[d]ここで、当時この後に攻めた古高山城跡とは大違いだったということを強調してみた。心配は無かった 。
こちらが、ここ登城口からの新高山城攻略ルート。なお⑫北の丸跡から南側にある紫竹の丸やシンゾウス丸へ下りる登山道を見つけることができなかったので、今回は攻めていない:
標高197.6mの山頂の尾根を削平して造られた新高山城の縄張りは東西約400m、南北約500mの規模を持ち、内郭は自然にできた頂上尾根や鞍部(あんぶ)[e]山の尾根の一部で、低く窪んで馬の鞍状(くらじょう)になっている部分を指す。を巧妙に利用して本丸・東の丸・ライゲンガ丸・釣井の丸(井戸曲輪)・西の丸・北の丸などが設けられている。そして外郭は斜面の中腹から張り出した二つの尾根を利用し、大手側を固める意図をもって曲輪が配置されている。この代表的なものとして匡真寺(きょうしんじ)跡・鐘の段・番所跡・紫竹の丸・シンゾウス丸・大手道がある。これらを含む大小60余の曲輪は全て地山(じやま)[f]盛土・表土・堆積物に対し、それらに隠されている自然の地盤のこと。を削平し、または切り削り、あるいは堀切り、必要な箇所は石積みで補強し、随所に帯曲輪や腰曲輪を配置して相互に連結したり、個別に石垣や空堀、竪堀を設けている。山城ながら城主や家臣の居館を山上にあげると云う中世城郭の特徴を残しつつ近世城郭が持つ枡形門形式を城門に採用していることから、時代の過渡期を示す城郭としても貴重な遺構である。
この登城口から大手道に相当する登山道を登って行く:
しばらく大手道跡を登っていくと三段の段曲輪からなる①番所跡が見えてきた:
①番所跡は三段(上から軽石の段、中の段、下の段)あり、こちらは下の段の番所跡。そばに石垣の一部が散乱していた:
ここは中の段の①番所跡:
そして軽石の段の①番所跡:
番所が建っていた曲輪は土塁で囲まれていた:
このあとは大手道跡に戻って匡真寺(きょうしんじ)跡へ向かった。ちょうどその真下あたりに来ると、匡真寺が建つ曲輪の東側から伸びた竪堀が残っており、その周囲には石垣の一部が散乱していた:
ここが城の南側中腹の曲輪に残る②匡真寺跡。天正5(1577)年に、小早川隆景はこの曲輪に雲門山匡真寺(現在は三原市にある宗光寺)を建立し、父である毛利元就の七回忌と母の妙玖尼(みょうきゅう・あま)の三十三回忌の法要をとり行なったと云う:
この寺跡は東西約41m、南北約72mに及ぶ広大なもので、現在は全面に瓦片が散乱していた:
また築庭を思わせる築地塀・湧水池の跡などが残っていた:
こちらは②匡真寺跡から③中の丸跡や④本丸跡へ続く大手道で、写真の左上から右下に向かって、先ほど①番所跡を過ぎたところで見た竪堀跡が走っていた:
この竪堀は③中の丸跡から①番所跡前まで走っていた:
③中の丸跡へ向かう大手道跡にあたる登山道は良好に整備されていた:
そして、こちらが③中の丸虎口。往時、この石段付近には門が建っていたとされる:
虎口跡を抜けると③中の丸跡になる。中の丸は二の丸の一部で、その他に本丸の北側にある東の丸、釣井の段までが二の丸の縄張りである。また、複数の段から構成されていた中の丸の随所に土塁を築き、いくつかの曲輪を設けて防備を固めていたとされる。:
こちらは中の丸の東側で、この先の土塁の上が④本丸跡になる:
逆に、こちらは中の丸西端に残っていた櫓台跡と思われる土塁:
その櫓台跡の石段から眺めた③中の丸跡とその下段にある腰曲輪。腰曲輪は⑩石弓の段跡とつながっている:
櫓台跡と思われる土塁の上から③中の丸の東側をみたところ:
③中の丸跡の東側には重臣らの居館の礎石が残っていた:
さらに東へ向かうと本丸土塁があり、その付近には巨石が散乱していた。往時、本丸土塁の斜面は巨石による石垣で補強していたと思われる:
本丸土塁に向かって左手から回りこむ登城道を進むと大手門にいたる。また、小早川隆景は永禄10(1567)年に沼田川河口に三原城を築き、それから29年後の慶長元(1596)年には新高山城を廃城にし、この城で使用していた石垣石を三原城の修築のために残らず持ちだしたと云われているが、まだ各所に一部の巨石が残っていた:
今回は大手門ではなく、この本丸土塁をそのまま登って④本丸跡へショートカットした:
その中の丸跡からの登り口にあたる本丸西南隅には内枡形跡が残っていた:
ここ本丸は、山頂尾根を削平した四段の曲輪からなり、東西約125mに及ぶ城内でも広大な曲輪の一つで、その曲輪の中には城主・小早川隆景の居館が建っていたと云われる:
本丸跡の東端にあるのが⑤詰の丸跡で、標高197.6mに位置しており、その先は急崖になっている:
詰の丸の東端へ向かうと巨石が露出しており、往時はこの上に櫓が建っていたと思われ、一説に近世城郭の天守台にあたる曲輪だったと云われている:
なぜか、ここ⑤詰の丸跡には磨崖仏(まがいぶつ)などが刻まれた石造物が多数あった:
さすがに城址東端と云うことで眺望は素晴らしく、眼下には沼田川流域に広がる本郷の街や、遠く瀬戸内海を望むことができた:
こちらは同じ方面をパノラマで:
そして沼田川対岸には、新高山城跡より若干低い標高190mほどの古高山城を眺めることができる。土肥実平から四代目の茂平の時代、谷を挟んで東西に延びる二つの尾根上に築かれた山城で、小早川隆景がここ新高山城へ城替えするまでの約350年間、沼田小早川家の居城であった。その城域は約41万㎡にも及び、全国でも五指に数えられるほどの規模を誇る山城である:
これが「二つの山城を貫通している」JR山陽新幹線を見下したところ。ちなみに、このようなアングルが欲しいならば、ここ新高山城より古高山城の方をおススメする:
ここ新高山は古来から巨石を多く産出していたらしく、ここ⑤詰の丸は石垣石の石切場だったことを示す矢穴跡がついた巨石が多数あった:
このあとは再び④本丸跡へ移動した。こちらは本丸跡に残る枡形の土塁と居館跡。永禄4(1561)年には毛利元就・隆元親子が10日間滞在し、末弟の隆景は会所・表座敷・裏座敷・高間・常の茶の湯の間などの建物で、連日、能楽や連歌、太平記読みなどを催して饗応接待したと云う記録が残っている:
こちらは④本丸跡の北西側にのこる大手門跡:
大手道を登りつめた本丸北西の場所には外枡形の大手門が建っていたと推定されている。ちなみに匡真寺跡に建っていた小早川氏の菩提寺は現在は三原市の宗光寺であるが、その山門はこの大手門を移築したものと伝えられている:
次に大手門跡を下り本丸の腰曲輪を経て、その下に設けられたいくつかの小さな曲輪からなる二の丸へ移動した:
そして腰曲輪には今だに石垣が残っていた:
まずは⑥釣井の段(井戸曲輪)。上下二段からなるこの井戸曲輪は、東西南北ともに50m余りと云う二の丸最大の曲輪である:
上下の段にはそれぞれ複数の円形石積井戸が残っていた。一部は経年堆積で埋まっていたが、今なお清水を湛えたものもあった。上段には直径2mほどの井戸が四カ所に残っていた。こちらはその一部:
こちらは⑥釣井の段(上段)跡から大手門のある④本丸跡を眺めたところ。井戸曲輪がある位置から、本丸や中の丸がある切岸の高低差がよくわかる:
こちらは井戸曲輪を挟んで東側にある⑦ライゲンガ丸跡と、西側にある⑨中の丸跡:
さらに井戸曲輪下段に下りていくと、直径約4.2mと同2.2mの上段より大きめの円形石積井戸が残っていた。これにより、この曲輪には重臣ら家臣団が生活していた場所と考えることができる:
⑧ライゲンガ丸跡と、さらにその東側にある⑨東の丸跡:
このあとは⑥釣井の段の西側にある⑨中の丸跡へ移動して段続きで、城址西側へ移動した:
③中の丸跡の下段にある腰曲輪から⑩石弓の段跡へ移動した。この段は⑪西の丸の東端に位置する曲輪で、それ自体が二の丸を守る箱薬研の堀切に相当するものらしい:
⑩石弓の段と⑪西の丸の間には堀切があり、その先に西の丸跡があった:
西の丸跡の北西には⑫北の丸跡が連なる。これら⑪西の丸と⑫北の丸が三の丸の縄張りとなる:
ここからは城址北西にあった船木の郷を見渡せた:
このあとは③中の丸下の腰曲輪から②匡真寺跡を経由して①番所跡から分岐して⑬鐘の段跡へむかった:
⑬鐘の段は、城址の南斜面中腹に設けられた半独立的な小丘をなしている郭で、北側と東側に二つの曲輪をそれぞれ設け、南側に三段の曲輪を配した縄張りになっている。
こちらは⑬鐘の段を正面にみた北側の曲輪:
腰曲輪を経て⑬鐘の段となる。この曲輪を中心として、本丸・二の丸・三の丸といった実城とは独立した出丸的な形態になっており、中世初期(築上年代は相当に古いらしい)の縄張りであったと云う:
ここからもまた本郷の町並みを眺めることができた:
最後に、こちらは大手道を歩いているときに見かけた注意書き。これ自体が既に滑り落ちてしまった状態だったけど:

滑り落ちていた「足元注意!」
こちらは新高山城麓の看板が建つ城址東側(JR山陽新幹線の少し越えたあたり)にあった「沼田本郷の天然水」の配水所。20リットルで100円を払ってタンクに入れるような仕組みになっていた:
新高山城攻め (フォト集)
午後に沼田川対岸にある古高山城を攻めたのだけれど、「本丸跡」の案内板に従って道なき道を進んで行ったら、結局迷ってしまい元の地点に戻るのに苦労した挙句、もう暗くなってきたので諦めた。ネットでいろいろ調べてみると、自分と同じように諦めた人が居たのにはびっくりしたが、もう一つ別の登城口があることを知ったら、改めて攻める気満々になった 😀