太田道灌が築き、徳川家が拡張した江戸城で現在唯一残る多聞櫓の富士見多聞

現在、天皇の平時における宮殿であり居住地である皇居は、江戸時代末期まで徳川将軍家[a]江戸幕府を主導する征夷大将軍を世襲した徳川宗家のこと。初代・徳川家康から始まり、平成29(2017)年現在は第18代・徳川恒孝《トクガワ・ツネナリ》氏が継承している。が居城としていた江戸城跡にあり、その後は明治元(1868)年に東京城《トウケイジョウ》に改名され、翌2(1869)年の東京奠都《トウキョウテント》[b]明治維新の際にそれまでの江戸が「東京」に改名し都として定められた。これにより、京都と東京で二つの都を持つ東西両京とした上で天皇が東京に入京した。後は皇城《コウジョウ》と称された。そして明治21(1888)年に明治宮殿が完成したことにより宮城《キュウジョウ》に改名され、太平洋戦争後の昭和23(1948)年には現在の「皇居」に改名された。この皇居が江戸城と呼ばれていた時代、その城の最盛期は寛永15(1638)年の天下普請で最後の天守閣が完成した頃であり、外郭にあたる総構えは周囲が約4里[c]日本の一里は約3.924kmである。(15.7㎞)、東西約50町[d]日本の一町は約109.09mである。(5.45㎞)、南北約35町(3.82㎞)、面積は2082haに及んでいたと云う。その一方で、現在の皇居にあたる内郭[e]内濠内、本丸、二の丸、三の丸、西の丸、中郭の吹上、北の丸、西の丸下などのエリアを指す。の周囲は約2里(7.85㎞)、東西約21町(2.29㎞)、南北約17町(1.85㎞)、そして面積は424.8haであったとされる[f]東京都江戸東京博物館所蔵の各種資料より引用した。ちなみに現在の皇居の面積は約115ha。。外濠より内側の城域、いわゆる外郭はちょうど現在の千代田区全域と、それに隣り合う港区と新宿区との境界の一部、そして神田駿河台を掘削して造った神田川が含まれている。そして内郭に建てられていた建造物は合わせて149棟[g]天守閣1、櫓21、多聞櫓28、城門99の合計である。この他にも御殿や蔵がある。にのぼり、その外観はまさに「日の本一《ヒノモトイチ》の城塞」と言えよう。

今年は平成29(2017)年の新春、昨年に続いて新年一般参賀に行って再び皇居内にある遺構をいくつか見てきたが、その際は二年前に初めて江戸城攻めした時に見てこれなかった竹橋門跡など、内濠外周の一部を併せて見てきた。
また昨年新春の二度目の江戸城攻めでは外郭の一部として赤坂見附や弁慶濠、真田濠を見て回ってきたのに四谷見附を見忘れていたと云うこともあって、同じ年の秋晴れの日に徳川家譜代の家臣の一人である服部半蔵正成公の墓所を訪問したのに併せて、四ツ谷から神田駿河台の御茶ノ水までの外濠跡に今なお残る遺構を見て回ってきた。

江戸城内郭の一部と内濠外周

前述のとおり、昨年に続いて平成29(2017)年の新春は皇居で催された一般参賀に行き、天皇・皇后両陛下と皇室ファミリーから年頭の御挨拶を賜ったあと、昨年とは別の退出ルートで江戸城内郭にある遺構を観てきた。前回は富士見櫓を眺めつつ桔梗門(内桜田御門)から退出したが、今回は蓮池濠沿いを北上して乾門から退出し、北桔橋門前を通って東御苑の東側へ回り、一ツ橋門跡や雉子橋門《キジバシモン》跡を見て回ってきた。

こちらが江戸城攻略ルート第三弾。一般参賀を終えたら宮内庁前を通って指定されたいずれかの門から退出するために移動することになるが、今回は乾門から退出することにしたので、まずは蓮池濠方面へ向かった:

今回は蓮池濠→富士見多聞→乾門→竹橋門跡→一ツ橋門跡→雉子橋門跡などを攻めてきた

上空から見た江戸城跡と内濠外周(Google Mapより)

ここから北上して退出する途中には屏風折れの本丸高石垣とか、数ある多聞櫓の中でも唯一焼失を免れた富士見多聞など見所がいくつかあるが、退出時の逆行は禁止されており、見忘れると後悔しそうなので、門へ向かう列では邪魔にならない程度でゆっくり移動した。そして乾門から退出した後は北桔橋門前を通って内濠沿いを歩いて皇居の東側へまわった:

今回は、このような番号順に内濠外周を攻めてきた(途中、年頭恒例で平将門公の首塚を参拝し初詣してきた)

江戸城攻略ルート第三弾(Google Mapより)

こちらは、一般参賀が催された宮殿東庭へ向かう途中の正門鉄橋から眺めた伏見二重櫓。二重櫓の両袖には多聞櫓がそれぞれ設けられており、写真に見える(鉄橋)側が十四間多聞櫓で、その向こう(吹上御所)側にあるのが十六間多聞櫓となる。参賀に来る度に思うが、ホント立ち止まってゆっくり眺めていたいほど壮麗である:

二重櫓の向こう側に設けられているのは十六間多聞櫓である

正門鉄橋から眺めた伏見二重櫓と十四間多聞櫓

こちらは前回の一般参賀でゆっくりと眺めてきた富士見櫓。退出門が違う今回は遠景のみ:

本丸に現存する唯一の三重櫓で、江戸城遺構の中で最古の建築物

本丸南端に建つ富士見櫓

そして宮殿東庭の長和殿での参賀を終えて大混雑の中を①蓮池濠へ向かった。濠の向こうには②本丸高石垣がそびえるように建っていた(約21m):

屏風折れの高石垣の上に、現在唯一残る富士見多聞

と富士見多聞

この高石垣は見る角度によっては屏風折れになっているのがわかる。これにより本丸からの死角をなくし、横矢掛かりで最終防衛ラインの防御力を高くしている。そして、その高石垣の上にある白い長屋の建物が富士見多聞である:

多聞とは城郭の石垣上に建てられた長屋型の防御施設である

富士見多聞(南面)1

この富士見多聞の正確な創建時期は不明ではあるが、慶長11(1606)年の慶長期天下普請の頃に作られたのち、明暦3(1657)年の振袖火事(明暦の大火)で天守、本丸と共に焼失すると、翌年の万治元(1658)年に本丸御殿と共に再建されたと云う説がもっぱらだとかで、そうなると江戸城本丸跡で唯一現存している櫓となる:

二代将軍秀忠の時代に作られた高石垣(約21m)の上に残る富士見多聞

富士見多聞(南面)2

往時は鉄砲や弓矢といった武具が納められ、戦時には格子窓を開けて寄せ手を狙い撃ちすることができたらしい。ちなみに、この櫓の内部が平成28(2016)年11月15日から一般公開されるようになった。おそらく東御苑(東面)側から入室すると思われるが、パネル説明の他に、敷居の裏側で使われていた部材の一部(江戸時代のもの)が展示されているのだとか:

かつては、ここから富士山を望むことができたという

富士見多聞

かっては本丸内に15棟の多聞櫓があったが、現存はこの一棟だけである

高石垣と富士見多聞

退出門である乾門に向って左手には中道灌濠が残っているらしいが、この先は立ち入り禁止であった。なお一般参賀の場合、退出門へ続く参道は大勢の参拝客が列をなしているので、あまり大胆に参道の左右を移動していると警察官に注意されるのでご注意 :$

この先には西の丸を囲んでいた道灌濠の一部がある

局門脇から中道灌濠へ向かう道

こちらは蓮池濠と本丸高石垣を振り返って見たところ:

本丸がある東御苑と皇居がある西の丸跡を隔てる濠である

蓮池濠と本丸高石垣

しばらく歩いていると左手に④下道灌濠が見えてくる。これは、先ほどは見ることができなかった中道灌濠と併せて、皇居・吹上御所が建つ西の丸を囲んでいた道灌濠の一部である。その名には江戸城を最初に築いた名将・太田道灌の名が冠され、彼の時代の遺構のように聞こえるが記録は残っていないらしい:

太田道灌の時代の面影を残す、西の丸の曲輪を囲んでいた濠の一部である

下道灌濠1

この濠を中心に左手が紅葉山、右手が吹上御所。紅葉山は昭和天皇・皇后両陛下のお住まいがあったところであり、初代徳川将軍家康を祀る東照宮があった場所である。さらに、桜や紅葉など季節に応じて、ここが皇居の中でも一番美しい場所とも云われている:

中央の濠を挟んで左手が紅葉山、右手が吹上御所である

下道灌濠2

そして、再び退出門に向かって行くと右手に西桔橋《ニシ・ハネバシ》と⑤西桔橋門跡が見えてくる。この西桔橋門跡のさらに右手あたりが二代将軍・秀忠時代の慶長度天守閣があった位置である。:

西桔橋の向こう側は乾濠、手前は蓮池濠である

蓮池濠と西桔橋門1

この橋は文字通り跳ね上げ式の造りになっていたとされ、ここを境に内濠が深くなっているのがわかる:

現在の西の丸と東御苑とを結んでいるが立ち入り禁止である

乾濠と西桔橋門

江戸時代は本丸大奥と吹上の通路として利用されていた

蓮池濠と西桔橋門2

西桔橋門跡を過ぎると⑥乾濠(三日月濠)となるが、この高石垣の先が三代将軍・家光が築いた寛永度天守閣があったとされる場所である。但し、高石垣は秀忠時代の天下普請によるもの:

右手森の奥にかっては天守閣が建っていた

乾濠と本丸高石垣

乾濠と先ほどの蓮池濠は、共に北の丸公園を囲む千鳥ヶ淵から続く自然の谷戸《ヤト》[h]丘陵地が侵食されて形成された谷状の地形のことで、谷津《ヤツ》とか谷地《ヤチ》、あるいは谷那《ヤナ》などとも呼ばれている。主に東日本(関東や東北地方)の丘陵で見られる地形。を利用し、水を堰き止めて濠にしたもので、家康が関八州に転封された時代には蛤濠《ハマグリボリ》・桔梗濠、和田倉濠、そして道三濠あたりを経て、現在のJR東京駅辺りまできていた海(日比谷入江)に通じていたらしく、現在のある東京国立近代美術館や乾門などはこの谷を埋め立てた場所に建っていることになる:

全体は黒っぽい伊豆石を使い、隅の算木積だけ白い花崗岩を使っている

乾濠と本丸高石垣1

往時は石垣沿いに袖木多聞や栗木多聞、そして乾二重櫓などが建っていた

乾濠と本丸高石垣2

そして、こちらが今回の退出口である⑦乾門。この門は、もともとは坂下門の内側にあった西の丸裏門であったが、明治21(1888)年の明治宮殿造営時に、ここに移築された上に黒の薬医門形式に改築されている:

新年一般参賀の退出門の一つであり、坂下門の一部を移築したもの

乾門(城内側)

門をくぐって代官町通り側に出たところで振り返って見た乾門。江戸城の時代には存在していなかった門であるが、現在は宮内庁職員向けの通用口として利用されている:

門の名前は桜田巽二重櫓とは対角線上に位置した乾の方角にあることが由来

乾門(城外)

ここからは内濠に沿って皇居東御苑側に移動した。すると、すぐに見えてくるのが⑧北桔橋門。先ほどの⑤西桔橋門と同様に、往時は門の前に滑車を使って跳ね上げる木橋があったとされ、現在も滑車留の金具が残っている。ちなみに一般参賀の日は東御苑が全日立ち入り禁止になるため、ここ北桔橋門も閉門していたが、門の向こうには寛永度天守台がある:

一般参賀の日は皇居東御苑は立ち入り禁止のため閉門していた

北桔橋門

こちらは、そんな北桔橋門を横目から見たところ。太田道灌の時代は、こちらが大手門だったらしい。秀忠の時代に桝形門となり、一の門(高麗門)と二の門(渡櫓門)があったが、現在は一の門だけが残っている:

代官町通りから眺めた北桔橋門は、往時は跳ね上げ式の門であった

本丸高石垣と北桔橋門(拡大版)

さらに進むと秀忠の天下普請で築かれ、見事な屏風折れをした本丸高石垣、さらには帯曲輪との間にある⑨平川濠が見えてくる。平川濠は本丸の北側を守る濠で、この先には平川御門がある:

高石垣は全体的に黒っぽい伊豆石を使用し、隅石だけは白っぽい花崗岩を用いて算木積になっている

平川濠と屏風折れの本丸高石垣(拡大版)

その先には、平川御門から平川濠を斜めに横切る形で細長い堤が竹橋門跡近くまで伸びているが、これが⑩帯曲輪である:

平川御門から竹橋御門まで斜めに伸びていた防御用の曲輪

竹橋御門跡と帯曲輪(拡大版)

こちらが⑪竹橋御門跡の碑。その先にのぞいているのが現在の竹橋:

江戸城内曲輪15門の一つで、その名のとおり竹で編んだ橋がかかっていたことが由来

竹橋御門の碑

この竹橋は、豊臣秀吉による小田原仕置があった天正18(1590)年に徳川家康が関八州を賜り、江戸城に入城した際、「竹を編みて渡されしよりの名なり」と名前の由来が伝えられているが、他にも諸説あるとのこと。御門を通る道は、安政7(1860)年の桜田門外の変により一時閉鎖されるが、明治3(1870)年に再開通し、現在の代官町通りとなった。

また碑が建つ場所が、往時は桝形になっていたとされ、その脇には帯曲輪と連結部にあった櫓台の台座石垣のようなものが残っていた:

櫓台と橋台部分と思われる石垣だが、この先は立入禁止であった

竹橋御門と帯曲輪との結合部分

こちらは現在の竹橋。アーチ型をしたこの橋は、大正15(1926)年に帝都復興事業で架設されたもので、平成5(1993)年に周辺景観との調和や補強を目的に改修され、白・黒・桜のみかげ石の橋になったと云う:

大正15(1926)年に架設され、平成3(1993)年に補強とともに装いが改められた

現在の竹橋

コンクリート橋アーチ橋の上を代官町通りがとおっている

現在の竹橋2

そして、現在の竹橋の橋台近くの憩いの場から眺めた平川濠と帯曲輪。右手奥に平川御門があり、手前まで帯曲輪が伸びている。この帯曲輪は、竹橋御門より侵入した敵方を撃退するために平川濠と平行に伸びた細長い郭となっている:

この先に見える橋は平川門前橋、右手は帯曲輪である

平川濠(竹橋から)

竹橋御門から侵入した敵勢を迎撃するための細長い郭である

帯曲輪石垣(竹橋から)

この後は濠沿いを東へ向かって移動していくと、平川御門手前あたりに江戸城築城に関する説明板と築城主である⑫太田道灌公追慕の碑が建っていた:

今から560年も前に江戸城を築いた扇谷上杉氏家宰・太田道灌公の顕彰碑

太田道灌公追慕之碑

今から560年も前の長禄元(1457)年に、扇谷上杉氏の家宰を務めていた太田道灌が築いたのが江戸城の始まりとされる。それから小田原北條氏の属城となり、のちに徳川氏15代の居城となって、明治初年から皇居となった。この追慕の碑は江戸城築城550年にあたる平成19(2007)年に、現在の都市東京と千代田区の繁栄の基礎を築いたことに対する遺徳を偲び、顕彰の標しとして建てられたと云う:

太田道灌(1433〜86)は、室町中期の武将で歌人。名は資長《スケナガ》、道灌は法名。扇谷上杉氏の重臣。長禄元(1457)年、この千代田の地に江戸城を築く。文武両道に優れ、30余戦して負け知らずの名将であったが、山内上杉家の策謀により主君に謀殺された、江戸時代から語り継がれた山吹伝説の歌が悲劇の名将の横顔を今に伝えている。

「七重八重  花は咲けども山吹の  実のひとつだに  なきぞかなしき」

そして、こちらは平川御門橋前から眺めた⑬大手濠。この先の大手門から内濠通りの沿って平川御門まで続く濠である:

正面の工事柵(大手濠緑地)には忠臣・和気清麻呂の像が建っている

大手濠

平川御門橋前から内濠通りを渡ると旧丸紅東京本社ビル[i]平成28(2016)年8月末より日本橋付近に移転した。の一角には「新御三家」の⑭一橋徳川家屋敷跡がある。しかしながら、この当時はビルの解体工事のため見ることができなかった:

丸紅本社ビルの解体工事のため平成29(2017)年1月末迄は観ることができない

一橋徳川家屋敷跡1

跡地に建つ実際の碑はこんな感じらしい。敷地は広大で、この一角の他に現在の気象庁本庁、東京消防庁、大手町合同庁舎付近まで及んでいたらしい:

敷地はこの一角の他に気象庁・消防庁・将門塚あたりまで及んでいた

一橋徳川家屋敷跡2

一橋徳川家は、寛保元(1741)年徳川八代将軍・吉宗の第四子・宗尹《ムネタダ》が江戸城一橋門に屋敷を与えられたことが始まりとされる。この一橋家の他に田安家と清水家は御三卿と呼ばれ、将軍家に世継ぎがなく、御三家(尾張・紀伊・水戸)にも将軍となりうる該当者が居ない場合に将軍を送り込める家柄である。御三卿家は直属の家臣団を持たず、将軍家の身内として待遇された。
一橋家ゆかりの将軍としては、二世・世済《ハルサダ》の嫡子・家斉《イエナリ》が第十一代将軍となり、水戸家より入った一橋九世が徳川家最後の第十五代将軍・慶喜である。

一橋徳川家屋敷跡から首都高あたりまで進むと日本橋川(内濠川)に架かる一ツ橋が見えてくる。見附橋の一つである一ツ橋は、徳川家康が入封した頃は大きな丸木が一本架けられていたことが名前の由来とされ、さらにその昔は橋の近くに松平伊豆守の屋敷があったため伊豆橋とも呼ばれた:

現在の橋は大正14(1873)年に架設されたコンクリート造りである

一ツ橋

この辺りが⑮一ツ橋門跡であり、橋の脇に門の石垣が残っていたが、道路整備のためか一部が削り取られていた:

この石垣の背面を道路にしたために半分削り取られていた

一ツ橋門の石垣1

左手が日本橋川(内濠川)、右手が一橋徳川家屋敷跡

一ツ橋門の石垣2

ここから日本橋川沿いを神田川がある北へ移動していくと雉子橋が見えてくる:

この上あたりは首都高竹橋JCTである

日本橋川と雉子橋

その昔、唐国(現在の中国)からの勅使をもてなすために、当時は高級品で美味とされた雉子を諸国より集め、ここに雉子屋を建てたことがいつの日か橋の名前になったという。現在ある橋は関東大震災後に架け直されたもので、慶長期から存在していた旧雉子橋は100mほど西側にあったと云う:

これは後に架け直されたもので、旧雉子橋は100mほど向こう側にあった

雉子橋

水源は神田川、河口・合流先は隅田川で、日本国道路元標の日本橋が架かる

日本橋川

このまま橋を渡って再び竹橋方面へ移動していく途中に⑯雉子橋門跡がある。文字通り、この辺りが旧雉子橋が架かっていた場所である:

現在の住友商事竹橋ビルの駐車場前にある

雉子橋門の台座石垣1

往時は神田雉子町と称し、江戸城本丸に近いことから三代将軍家光の時代の寛永6(1629)年に松平直良[j]徳川家康の次男・結城秀康の六男で、越前国主・松平忠直の実弟である。松平忠直は大坂夏の陣で眞田左衛門佐幸村を討ち取ったが、後の論功行賞に不満を抱き、また乱行が目立ったため秀忠に強制隠居させられた御仁。の普請で築かれたのが雉子橋門である:

江戸城本丸に近いことから厳重な警備が施されていた

雉子橋門の台座石垣2

家康の次男・結城秀康の六男で越前・松平忠直の弟・松平直良が普請した

台座石垣に残る刻印石

ここ雉子橋門は江戸城本丸に近いため警備も厳しかったと云われ、次のような川柳として当時の警衛番士の厳しさが伝えられている:

「雉子橋でけんもほろほろに叱られる」

そして、この後は再び内濠通り沿いを⑬大手濠を眺めながら南下した:

大手濠越しに眺めた平川門附近

大手濠(拡大版)

その途中、新年恒例の平将門公首塚(神田明神)で初詣を行い、そのまま大手町にある和田倉濠へ移動した:

木橋の向こうに建つのはパレスホテル東京である

和田倉濠に架かる木橋

そして、皇居外苑からJR東京駅へ向かう二重橋を境に和田倉濠と反対(南)側にあるのが馬場先濠。この辺りにも桝形門である馬場先門が建っていたが明治初期に撤去されてしまった:

皇居前広場を囲む濠で、向こうに二重橋の先が日比谷濠である

馬場先濠

以上で内濠外周攻めは終了。

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江戸城外郭の一部と外濠外周(四ツ谷から御茶ノ水)

昨年は平成28(2016)年の秋、都内にある立花宗茂公他大名家の墓所巡りをしたのに併せて、前回二度目の江戸城攻めの際に不覚ながら見忘れてしまった四谷見附跡から始めて、かっては外濠だった神田川沿いにある遺構などを見て回ってきた。

こちらが今回の城攻めルート。ちょうど墓所巡りの最後が服部半蔵正成公の墓所がある四ツ谷界隈だったので、そのままJR四ツ谷駅近くから城攻めを開始し、JR中央線でお隣の市ヶ谷駅へ。この辺りはもっとも外濠らしい雰囲気を見ることができた:

今回は四ツ谷見附跡→外堀→市ヶ谷御門跡→牛込見附跡→外堀などを攻めたほか、徳川家ゆかりの人達の墓所を巡ってきた

上空から見た江戸城外郭(Google Mapより)

JR市ヶ谷駅で下車して徒歩で、これもまたお隣のJR飯田橋駅方面へ移動し、駅前にある牛込見附の巨大な石垣を見てきた。その後は再びJR中央線で、これもまたお隣のJR御茶ノ水駅まで移動して聖橋辺りと、淡路坂を下って秋葉原へ行く途中にある昌平橋あたりで神田川が流れる仙台濠跡を眺めてきた。さらに後楽園のある文京区の傳通院にて徳川家にゆかりのある女性らの墓所も参拝してきた:

今回は、このような番号順に外堀沿いの外郭を中心に、徳川家ゆかりの人達の墓所も巡ってきた

江戸城攻略ルート第四弾(Google Mapより)

まずJR四ツ谷駅麹町口を出たすぐの所に四谷見附跡があり、その①四谷見附の台座石垣が残っている:

現在は、この石垣の上から外濠公園総合グランドまで遊歩道が伸びていた

四谷見附の台座石垣1

四谷見附は江戸城の半蔵門に通じる甲州街道(現在は新宿通り)上に設けられた枡形門であり、現在のように直線ではなかった:

これが枡形門台座石垣の一部だった

四谷見附跡の台座石垣2

またJR四ツ谷駅自体も②外濠である四谷濠を埋めた濠底に建てられたもので、その南にあった真田濠に継っていた(こちらも埋められて現在は上智大学のグラウンドになっている):

現在のJR四ツ谷駅は濠を埋めた堀底に建っている

四谷濠跡

この後はJR中央線でお隣の市ヶ谷駅まで移動した。そして、そのホームから眺めた風景はまさに③外濠(市ヶ谷濠)そのものであった:

JR市ヶ谷駅ホームからの眺めが一番良好である

市ヶ谷濠1

現在は濠の一部が釣り濠になり、靖国通りがある市ヶ谷橋から四ツ谷にかけては段々と濠が埋め立てられて外濠公園総合グラウンドになっている:

市ヶ谷橋のたもとは釣り堀になり、その先は徐々に埋められていた

市ヶ谷濠2

この先のJR飯田橋駅方面には牛込見附跡がある

市ヶ谷濠3

往時、この駅前あたりには枡形門の市ヶ谷見附が設けられていたが、現在は枡形は残っていないものの、御門台座に使われていた石垣の一部が残っていた。実際の石垣は外濠通りの下に保存されているらしい:

この横にはトイレがあり、浮浪者の溜場ともなって大量のゴミが散乱していた

④市ヶ谷御門橋台の石垣石

この辺りからかってのお濠端の土塁の上に作られた外濠公園の遊歩道がお隣のJR飯田橋駅あたりまで続いており市民の憩いの場になっていたが、社会問題でもある浮浪者の溜まり場ともなって大量のゴミが棄てられ放置されていたのには呆れてしまった:O

ここからは、この外濠公園の遊歩道をお隣の駅まで歩くことにした:

現在、ここは桜の名所でもあり憩いの場ともなっている

⑤外濠土塁

法政大学キャンパスや東京逓信病院を横目に遊歩道を歩いて行くとJR飯田橋駅にたどり着くが、その手前には⑥牛込見附の枡形門台座石垣が残っていた。この見附は外濠が完成した寛永13(1636)に阿波徳島藩主・蜂須賀忠英(松平阿波守)によって建てられ、現在でも「松平阿波守」と刻まれた刻印石が向かいの交番脇に保存されている:

ちょうど早稲田通りのある牛込橋脇に残る石垣である

牛込見附跡の台座石垣1

この石垣の上に二ノ門の櫓門が建っていた

牛込見附跡の台座石垣2

この石垣の上に牛込御門の二ノ門である櫓門が建っていた

牛込見附跡の台座石垣3

こちらが寛永13(1636)年頃に建てられた牛込見附で、明治35(1902)年の破却前に撮られた写真(東京国立博物館所蔵)を模写したもの。現在駅があるセントラルプラザ方面からの眺め(左手が飯田橋サクラテラス方面、右手が神楽坂方面):

外濠に架かる牛込橋の先に一ノ門(高麗門)と二ノ門(櫓門)が建ち、枡形虎口になっていた

往時の牛込見附(拡大版)

牛込見附門に架けられていた牛込橋は江戸城の田安門を起点とする上州道への入口(牛込口)であった。現在、千代田区方面から橋を渡った先は有名な神楽坂に至る早稲田通りとなっている:

江戸城の牛込口を監視するためのた牛込見附(牛込御門)が建ち、この橋がある両側には沢山の武家屋敷が立ち並んでいたと云う

現在の牛込橋(拡大版)

こちらは現在の牛込橋から眺めた外濠の眺め。この橋は災害や老朽化で何度も架け替えられたもので、現在の橋は平成8(1996)年に架け替えられた長さ46m、幅15mの鋼橋である:

左手が江戸城のある千代田区、右手が新宿区、その間をかっては上州道だった早稲田通りがとおる

牛込橋と外濠跡(拡大版)

牛込見附跡を見た後はJR中央線でお隣の水道橋へ移動し、一旦そこから都営三田線で後楽園まで移動して、そこから徒歩で傳通院《デンヅウイン》を参詣してきた。それから再びJR水道橋駅へ戻り、そこからまたJR中央線で御茶ノ水へ移動した。

JR御茶ノ水駅の脇には聖橋が架かる有名な神田川が流れ、谷を形成しているが、往時ここは両岸が陸続きの駿河台の台地であり、それを開削して造った⑦外濠(仙台濠)に相当する。こちらは御茶ノ水橋から聖橋の間の仙台濠跡を眺めたところ。:

この当時は駅舎建て直し等の工事で聖橋はすっぽりと隠れていた

JR御茶ノ水駅と神田川(仙台濠跡)

残念ながら、この当時は外濠の土手の上に造られた駅舎建て直しと耐震補強工事が行われていたため、聖橋はすっぽりと隠れてしまっていたが、この橋は関東大震災の復興橋梁として2年ちょっとの歳月を架けて昭和2(1927)年に完成したアーチ橋である。
その聖橋が架かる神田川は、先ほどの飯田橋にあった牛込見附から河口までが外濠であり、そのまま東にある隅田川に継っていた。一方の西側は水道橋近くで日本橋川に分岐し、竹橋御門や雉子橋御門、そして一橋御門へ向かう内濠になっていた。

こちらは、JR御茶ノ水駅から神田川沿いの淡路坂を下って秋葉原方面に渡る昌平橋から眺めた神田川(仙台濠跡)。江戸城があった当時は平川と呼ばれ、二代将軍の秀忠の命を受けた仙台藩の伊達政宗が現在の秋葉原辺りの整備を担当したことから仙台濠と呼ばれた:

江戸城があった当時は平川と呼ばれていた

仙台濠跡(神田川)

以上で今回の外濠外周攻めは終了。とは言っても、更に西は赤坂見附、東には浅草橋門、南は虎ノ門や日比谷見附、果ては隅田川に架かる両国橋や永代橋も江戸城域に及んでいたと言うから、また機会があれば攻めてみる予定。

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服部半蔵正成公の墓所と岡崎三郎信康公の供養塔

徳川家康の三河時代からの旧臣で家康十六将の一人の数えられ、天正10(1582)年に起きた本䏻寺の変時の伊賀越えを成功させた立役者である服部半蔵正成公の墓所がJR四ツ谷駅近くの西念寺にある。ちなみに「半蔵」の名は世襲名であり、通称として代々受け継がれていった:

半蔵が号して西念とした菩提寺は、彼の死後に完成した

西念寺

この「半蔵」正成は、天正18(1590)年に豊臣秀吉から関八州を賜った家康に従って江戸に入国し、江戸城西門(現在の半蔵門)近くに組屋敷を拝領し、城の警護などにあたった。そして晩年は麹町清水町あたりに庵居《アンキョ》を与えられ、仏門に帰依して西念と号した。文禄二(1593)年には家康より寺院建立の内命を受けたが果たせず、慶長元(1596)年11月14日に享年55で死去した。彼の死後に完成した西念寺は、寛永11(1634)年に二代将軍・秀忠による天下普請の外濠拡張により麹町付近から現在の場所に移転してきたと云う:

本名は正成、通称が半蔵で槍の半蔵とも鬼の半蔵とも呼ばれた

服部半蔵の墓

正成は伊賀衆の取りまとめ役の他、戦場では槍の名手として「槍の半蔵」または「鬼の半蔵」の異名を持つ。なお元亀6(1572)年に甲斐の武田信玄が遠江・三河に侵攻してきた三方ヶ原の戦いで徳川家は大敗したが、武功をたてた正成は浜松城で家康から槍を拝領し、その槍がここ西念寺に保存されているのだとか。

また、ここ西念寺には徳川家康の嫡子・岡崎三郎信康公の供養塔もある:

半蔵は信康の切腹の折に介錯を頼まれたがついに果たせなかった

岡崎三郎信康供養塔

信康は織田家との同盟の証として信長の五女・徳姫を娶ったが、母の築山殿が甲斐武田家に内通したことに加え、信康の粗暴な性格、そして何よりも築山殿が夫婦仲に水を差したことへの批判が妻の徳姫を通じて義父に伝わり、激怒した信長がそれとなく家康に伝え、家康は信康に切腹を申し渡すことになった。そして、この時に処分を任されたのが天方山城守通綱《アマガタ・ヤマシロノカミ・ミチツナ》と、信康の傅役を務めた服部半蔵正成の二人であった。二俣城に蟄居していた信康がそれを聞くと「儂が甲州方に味方することなど覚えの無いことだ。あとでよくよく父上に申し上げてくれ。」と言って見事に腹を切り、「半蔵、そちは馴染のある者だ。介錯を頼む。」と言ったが、半蔵は立ち上がろうとしたものの斬るに忍びない。ただむせび泣くばかりであったので、脇にいた天方が立ち上がり「手間取ってはお苦しみのほど恐れ入りますれば、てまえ御免被ります。」と云って介錯した。享年21。天正7(1579)年9月5日のことであった。のちに家康は「鬼の半蔵と異名をとったほどのそちでも、主の首は討てなかったのであろうのう。」と述べたという[k]逆に、それを聞いた天方山城守は恐れて逐電し高野山にて仏門に入ったが、それから随分たった後に還俗し越前松平家に仕えたという。。これを期に正成は信康の菩提を弔うために出家している。
ちなみに、この時の天方の刀が千子村正《センゴ・ムラマサ》であったが、家康の祖父・清康と父・広忠の両名を死に至らしめたのも千子村正である。のちに「村正はわしの家に祟るのう。」と家康が懐述したと云う。

浄土宗・西念寺
東京都新宿区若葉2丁目9

 

徳川家ゆかりの女性の墓所

東京都文京区の高台にある傳通院《デンヅウイン》は創建が応永22(1415)年の浄土宗の寺院であり、そして徳川将軍家の菩提寺の一つである。慶長7(1602)年に家康の生母・於大の方《オダイノカタ》が京都伏見城で死去すると、家康は遺言に従って母の亡骸を江戸へ運び火葬に伏した。翌8(1603)年には遺骨を埋葬した墓地に堂宇を建てて、母の法名である傳通院殿にちなんで傳通院と院名を付けた。

こちらが本堂である:

昭和63(1988)年に建立された

本堂

本堂の裏手に墓地があるが、ここは徳川家ゆかりの寺院としての他に、近代から現代の著名な人物らの墓所が多数あることで知られているが、今回は徳川家にゆかりのある女性の墓所を中心に拝観してきた:

徳川家ゆかりの人達の他に、近代・現代の著名人が眠っている

境内・墓地案内図(拡大版)

まずは於大の方の墓所。享年74。法名は傳通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼。三河刈谷城主・水野忠政の娘で、岡崎城主・松平広忠に娶られ翌年に竹千代を産む。兄が謀って織田方に寝返ったため、後に夫・広忠は今川家に配慮して離縁を申し渡し、のちに阿古屋城主・久松俊勝と再婚するが、その間も竹千代とは音信を取り続けた:

松平広忠の正室で、徳川家康の生母で、晩年は傳通院と称した

於大の方の墓所

徳川家康の寵愛を受けた側室・於奈津の方の墓所。享年80。法名は清雲院殿心譽光質大禅定尼。父親は伊勢北畠氏の旧臣であった長谷川藤道:

兄が家康の近臣であった関係で出仕し徳川家康の寵愛を受け側室となった

於奈津の方の墓所

千姫の墓所。享年69。法名は天樹院殿栄譽源法松山禅定尼。二代将軍・秀忠とお江の方の娘で、慶長8(1603)年に幼少の身で豊臣秀頼に嫁ぎ大坂城に入る。秀頼と死別したのちに桑名城主・本多忠政の子の忠刻と再婚するもこちらも死別し、天樹院と号して江戸に戻ってきた:

豊臣秀頼と死別したのちに本多忠刻と再婚するが再び死別することになった悲劇の女性

千姫の墓所

鷹司《タカツカサ》孝子殿の墓所。法名は本理院殿照譽円光徹心大禅定尼。三代将軍家光の正室で、前関白鷹司信房の娘。江戸城の西の丸に入るが、公家出身のため、ついには武家の生活に馴染めないまま亡くなった。享年72:

三代将軍・家光の正室となったが、程なくして家光から離縁させられた

孝子殿の墓所

浄土宗・無量山・傳通院
東京都文京区小石川3丁目14番6号

See Also立花宗茂他大名家・宇喜多秀家・服部半蔵・千姫他の墓所巡り (フォト集)

参照

参照
a 江戸幕府を主導する征夷大将軍を世襲した徳川宗家のこと。初代・徳川家康から始まり、平成29(2017)年現在は第18代・徳川恒孝《トクガワ・ツネナリ》氏が継承している。
b 明治維新の際にそれまでの江戸が「東京」に改名し都として定められた。これにより、京都と東京で二つの都を持つ東西両京とした上で天皇が東京に入京した。
c 日本の一里は約3.924kmである。
d 日本の一町は約109.09mである。
e 内濠内、本丸、二の丸、三の丸、西の丸、中郭の吹上、北の丸、西の丸下などのエリアを指す。
f 東京都江戸東京博物館所蔵の各種資料より引用した。ちなみに現在の皇居の面積は約115ha。
g 天守閣1、櫓21、多聞櫓28、城門99の合計である。この他にも御殿や蔵がある。
h 丘陵地が侵食されて形成された谷状の地形のことで、谷津《ヤツ》とか谷地《ヤチ》、あるいは谷那《ヤナ》などとも呼ばれている。主に東日本(関東や東北地方)の丘陵で見られる地形。
i 平成28(2016)年8月末より日本橋付近に移転した。
j 徳川家康の次男・結城秀康の六男で、越前国主・松平忠直の実弟である。松平忠直は大坂夏の陣で眞田左衛門佐幸村を討ち取ったが、後の論功行賞に不満を抱き、また乱行が目立ったため秀忠に強制隠居させられた御仁。
k 逆に、それを聞いた天方山城守は恐れて逐電し高野山にて仏門に入ったが、それから随分たった後に還俗し越前松平家に仕えたという。