山梨県韮崎市中田町に残る新府城は、天正9(1581)年2月に甲斐国主で武田家第20代当主の勝頼により築かれた連郭式平山城で、甲斐武田家滅亡時に打ち捨てられた未完の城郭として現在に伝えられている。往時の新府城は急峻な七里岩《シチリイワ》上に北は佐久往還[a]「往還」とは、とおり道や街道のこと。と信州往還、南は甲府盆地を一望できる交通の要衝に位置していたとされ、普請奉行を任されたのは眞田安房守であった[b]眞田安房守昌幸が信州先方衆の出浦《イデウラ》氏に宛てた書状から天正9年2月15日に築城が始められたと記されているとか。。そして築城の最中の同年3月には遠江の高天神城が徳川家康により落城し、その二ヶ月後に勝頼は同じく普請奉行だった原隼人佑に作業を急がせるよう催促するとともに、岩尾衆へ人足の増員を指示した。急ピッチで進められた作業は開始から七ヶ月後の同年9月には「一応の」完成をみたと古文書には記載されており、勝頼が古府中の躑躅ヶ崎館から新府城へ館を移すのは暮れの12月24日であった。そして入城まもなく天正10(1582)年、戦況は悪化の一途をたどり、織田方に寝返った木曾義昌に対し勝頼は同年2月に上原城に陣を進めるが、松尾城・飯田城・大島城などが次々と陥落し、翌3月には弟の仁科盛信が守備する高遠城が落城するにいたり、新府城へ後退した翌日には在城68日の城に火をかけて退去、甲斐武田家は田野で最後の時を迎えた。
昨年は平成28(2016)年の暮れ間近な時期に、その2年前に初めて新府城を攻めた時に見忘れていた城の北側にある出構《デガマエ》を目的に再訪してきた。この日の前半は武田勝頼・信勝父子が田野で自刃した際の介錯人であった土屋惣蔵昌恒公の墓所を参拝するために山梨県南アルプス市を訪れて、その日の宿泊先の長野県松本市へ向かう途中とあって絶好の機会になった[c]ちなみに、その翌日には長野県伊那市にある高遠城を攻めてきた。。また前回は午前中に攻めたため霊峰・富士を逆光で眺めることとなったが、今回は雪を冠した見事な冬景色を堪能できた。
まず、こちらは韮崎市が整備した現在の城址の俯瞰図:
新府城が建つ七里岩は八ヶ岳の山体崩壊に伴う岩屑流《ガンセツリュウ》が西と東側を流れる釜無川と塩川の侵食によって形成された台地であり、城の西側にある断崖絶壁は韮崎から長野県の蔦木《ツタキ》まで30㎞ほど続き、奇観を呈している。
こちらが現在の新府城址上空から鳥瞰した眺めで、七里岩台地の形状がよくわかる景観となっている:
城は土を穿って造成され、山頂の本丸を中心に、西にニノ丸、南に西三ノ丸と東三ノ丸という大きな曲輪が配され、北から東にかけての山裾には堀と土塁で防御された帯曲輪がめぐり、南端には大手桝形と丸馬出・三日月堀が、そして北西端には搦手が設けられていた:
前回はJR新府駅から県道R17(七里岩ライン)へ向かい、道路を渡って新府藤武神社の参道からそのまま本丸を目指したが、今回は城の北側の出構を見ながら北西へ移動して搦手口から登城することにした(赤線のルート):
こちらが今回再訪した時のルートで、前回に攻めてきた本丸以下の曲輪はざっと見るにとどめている:
(JR新府駅) → 東出構 → 西出構 → 乾門桝形虎口跡 → 搦手曲輪 → 井戸跡 → 帯曲輪跡 → (搦手登城道) → 井戸跡 → 二ノ丸跡 → 二ノ丸馬出跡 → (大手道) → 本丸跡 → 三ノ丸跡 → 南大手門桝形虎口跡 → 南大手門丸馬出跡 → 南大手門前三日月堀跡 → 帯曲輪跡 → (新府藤武神社参道入口) → 首洗池跡 → (JR新府駅)
新府城は、北から東の山裾に帯曲輪の他、土塁や堀をめぐらし、特に北側の堀中に出構と呼ばれる土手状の張り出しを構築しているが、西堀(水堀)以外の堀跡は周辺の湧水を水源とした水田が開かれるなど廃城後の土地利用による改変が残っているそうで、韮崎市では状態を確認するために発掘調査を実施したとのこと:
JR新府駅出入口2から県道R17を目指して進み、新府藤武神社の社頭をくぐらずにそのまま道なりに首洗池跡を横目に歩いて行くと、「武田の里にらさき・新府公園駐車場」前にたどり着く。
そこから県道R17を渡って城域に入ると、いきなり見えてくるのが復元された東出構で、これは城の防禦上最も弱い北側の堀中に設けられた土手状の張り出しで、その周囲は湿地帯だったらしい:
この城は実戦で使用されていないので不明だが、この出構は主に鉄砲陣地として使われる予定だったと云われている:
東西の出構の間には、往時は幅30mほどの湿地帯に囲まれた東堀があった。東堀の一部には水路が流れており、左手の東出構と右手にある西出構との間は120mほどあったと云う:
東出構と西出構との間には幅6〜7m、深さ2.5mほどの逆台形の深い堀(水路)の痕跡が見つかった:
さらに西へ移動していくと、こちらも復元された西出構が見えてきた。こちらは帯曲輪から突出しているのがよくわかる:
そして東出構同様に、こちらも湿地帯に囲まれた中堀が設けられていた:
東堀と中堀は、発掘調査によって判明した城の北側を防御する堀と湿地帯の形状を復元して、新府城が完成した当時の状況を伝えているが、この西堀(水堀)は発掘調査を実施せずに、現状のままを樹木の間伐と植栽などで修景を行ったらしい:
西堀沿いを更に西側へ移動していくと、城の北西に位置する搦手口につながった土橋が見えてきた。なお土橋の先に馬出と喰違虎口がある:
ここで土橋脇から城の西側を見てみると断崖絶壁になっていた。城の東側にある駅から歩いてきて、これほどの高低差があるとは思えなかったのでちょっと予想外だった:
これが搦手虎口に続く土橋で、右手は七里岩台地の断崖で、優に60mはありそうな物凄い急崖だった:
こちらは搦手口から土橋を見返したところで、左手は急崖、右手は西堀(水堀)になっていた:
この土橋を渡って左へ折れると乾門《イヌイモン》と呼ばれる桝形虎口跡がある。手前の入口側には低い土塁が設けられ、奥へ進むにしたがって高くなっていく土塁に囲まれた不正方形の、いわゆる喰違の桝形虎口になっていた:
なお、この乾門は城の南端に設けられた大手門に対する形で北西隅にあることから、従来は搦手と呼ばれていたが、新府城の整備事業で門の機能を限定するような呼称を避けて、本丸からの方位を冠して乾(北西)門と名付けたらしい。
桝形内部の空間は東西13m、南北12mの広さを持ち、入口側の低い土塁に挟まれるように建っていた一之門は北西隅に、そして奥の高い土塁に挟まれたニ之門を南東隅寄りに設けることで喰違となっている:
一之門跡で幅1.55mの間隔で直径45cm前後の円柱穴が二個見つかり、この二之門跡には左右の土塁際に三個ずつ、合計六個の礎石が確認された:
左右対称に並べられた礎石から間口は2.5m、奥行きは2.8mはあったとされ、礎石は一辺が40〜60cmと大きさの異なる自然石が用いられ、桝形内部から大・小・中の大きさで順に並べられ、それらの間を地覆石《ジブクイシ》が配されている:
こちらは二之門建物復元案の模型。この門跡から焼土や炭化材、角釘《カククギ》等が出土したことから、門が燃えて倒壊したことが明らかとなった。また、この門の虎口は間口に対して奥行きの長い礎石配置になっているので典型的な戦国時代の城門であることも判明した。韮崎市では、これら発掘調査の結果を基に二之門建物の復元を検討しているらしい:
乾門ニ之門をくぐって城内に入ると搦手馬出跡がある。この馬出は、左手に西堀(水堀)があり、奥と右手は西堀から分岐した湟堀《コウボリ》によって囲まれており、搦手口を含めて帯曲輪とは異なる独立した郭になっていた:
この後は馬出の脇にある登城道を使って、二ノ丸に向かて移動することにした:
さらに登城道を上がって行くと城の北側にある帯曲輪や出構方面に向かう道と、二ノ丸へ向かう道の分岐点が見えてきた:
ここで少しだけ寄り道して帯曲輪方面へ下りてみると、すり鉢状の窪地があった。これは、七里岩台地の堅い地盤を掘ってくぼめ、そこに滲み出た雨水や地下水を集める構造だったのではないかと推測されている:
このまま進んでいくと本丸北側に設けられた帯曲輪につながっていた:
この後は先ほどの分岐点へ戻って二ノ丸跡を目指した。すると、こちら側にもすり鉢状の、さきほどよりも大きな窪地があった。発掘調査前は上端の直径が32mほどあったそうだ。植栽で綺麗に整備されており、井戸の中に見学路が設けられていた:
登城道をさらに登って行くと横矢掛かりの防塁とされる土居があった:
ここを過ぎると二ノ丸跡までもう少しというところ:
そして、こちらが二ノ丸跡。左手が本丸方面で、右手は七里岩の断崖になっている:
こちらは、写真左が今回の城攻めで見下した城の西側にあたる七里岩の断崖。ちなみに隣の写真は、二年前に初めて攻めた時の眺めで、驚いたことに偶然にもほぼ同じ位置から同じ角度での撮影だった :
二ノ丸を囲む土塁の上を歩きながら南側へ向かうと、二ノ丸から馬出へ続く虎口があった:
こちらが、その二ノ丸馬出跡。左奥に見えるように、馬出の中に登城道が通っていた:
そして二ノ丸の内部。比較的広い曲輪の中央に土塁が設けられ、上段と下段のような構えになっていた:
この後は虎口から本丸方面に向かった。これが二ノ丸虎口:
二ノ丸虎口から登城道に合流して本丸跡へ移動した。この辺りには本丸馬出があったとされるが、馬出そのものが登城道となって改変されていた:
これらは、本丸虎口あたりまで来て二ノ丸方面を振り返ってみたところ:
これが本丸跡。この時は、大河ドラマのロケ地ともなって幟がはためいていたり、むしろ観光客が前回攻めた時より多かったのにはちょっと驚いた:
そして本丸を囲む土塁跡:
こちらは本丸下段の稲荷曲輪に建つ新府藤武神社の参道になっている石段(神輿石段登壇)を見下したところ。合計249段の石段の下には鳥居が建っている:
本丸北側に建っていた石祠《セキシ》で、武田勝頼公霊社と長篠陣没者慰霊の碑、そして将士らの分骨之碑があった:
こちらは本丸跡から眺めた八ヶ岳連峰、そして茅ヶ岳《カヤガタケ》と曲岳《マガリダケ》の眺め。八ヶ岳に似ている茅ヶ岳は古くから混同されたり比較されたりして、江戸時代には「にせ八つ」とも呼ばれていたのだとか:
この後は本丸跡から、先ほどの二ノ丸跡の前を通過して三ノ丸方面へ移動した。こちらは、先ほどの二ノ丸跡にあった馬出を見たところ:
こちらは三ノ丸へ向かう途中に大手道に相当する登城道を振り返ったところで、正面先が二ノ丸馬出跡、右手の土塁の先が本丸と三ノ丸の間に設けられた腰曲輪である:
登城道を大手門跡へ向かって下りていくと三ノ丸跡がある。三ノ丸は中央に土塁を設けて東西に分割されていたが、こちらは、いわゆる西三ノ丸跡になる:
こちらは西三ノ丸跡の前から見下した七里岩の急崖。この辺りにも虎口があったらしい。ここは南側の大手門と馬出からは死角となる場所で、ここから崖下へ通じた山道から攻め込んでくる敵に備えたものだった:
それから東三ノ丸跡を過ぎたところに大手虎口跡がある。前回攻めた時は事務所が置かれ、大手門の土塁虎口もやや藪化していて分かりづらかったが、今回は綺麗な状態になっていた:
往時、この土塁虎口には南大手門喰違虎口の二ノ門が建っていたと云う:
こちらは南大手門虎口の枡形の中で、この中には望楼台が建てられ、甲府盆地の南側を監視することができたという。また奥にある虎口の先には丸馬出があり、さらにその下には三日月堀跡がある:
一ノ門の土塁の上から眺めた桝形内部と城外の眺め:
こちらが南大手門の一ノ門が建っていた虎口:
こちらが甲州流築城術では代表的な丸馬出で、馬出部分と(その下にある)三日月堀の部分から構成される:
丸馬出の東側には、城の北にある出構からぐるりと取り巻く帯曲輪が伸びていた。この南大手口側は緩斜面になっている:
帯曲輪をつたって城の北側へ移動していくと登城道と交差する。この先の土居の上が帯曲輪で、この辺りから急斜面になっているのがわかる:
このあとは、そのまま登城道を下りて七里岩ライン(県道R17)へ向かった。R17沿いには、前回城攻めを始めた登城口兼新府藤武神社の参道がある:
そしてR17を渡った先には通称、首洗池跡がある。往時は、ここも北の出構から続く水堀だったと云われている:
天正10(1582)年3月に武田家が滅亡したあとに甲斐国に進駐してきた織田家の家臣・河尻秀隆は新府城を本拠することはなかった。そして同年6月の本䏻寺の変後に甲斐・信濃国を巻き込んだ天正壬午の乱では、一時的に徳川軍が新府城跡を本陣として使用したものの、その後は完全に廃城となった。
新府城攻め(2) (フォト集)
新府城 (攻城記)
新府城攻め (フォト集)
土屋惣蔵昌恒公の墓所
天正10(1582)年3月、織田信長が主導する甲州征伐軍の侵攻を許した甲斐武田家第二十代当主の勝頼は親類縁者や家臣らの裏切りにあい、嫡男の信勝と夫人北條氏、そして婦女子を含む近習・側近らとともに先祖が眠る天目山を目指して逃亡するも、目前で織田軍に包囲され、大熊朝秀《オオクマ・トモヒデ》ら歴戦の勇士や忠臣らが最後まで反抗するが衆寡敵せず、田野の地まで後退して、ついに主従らは自刃した。
この時、一行が従容として自刃できるよう時間稼ぎをするために殿軍を引き受けて岩角に身を隠し、片手に藤曼《フジカズラ》を掴み、もう一方の手に刀を握って迫り来る敵兵を次々に斬っていき、のちに「片手千人斬り」の伝説を残した土屋惣蔵昌恒《ツチヤ・ソウゾウ・マサツネ》は主人・勝頼の介錯を務め、自身は自害して果てたと云う。
一昨年の平成27(2015)年の初冬に、山梨県甲州市の田野集落にて甲斐武田家終焉の面影を残す場所を見てまわってきたが、田野の地には土屋惣蔵公の墓所がなかったため、あとで調べてみると、どうやら生まれ故郷の地(現在の山梨県南アルプス市)にあるということがわかり、今回の新府城攻めの前に行ってきた。
墓所への最寄り駅は山梨県甲斐市にあるJR竜王駅で、駅前から甲斐市民バスに乗って、ひとまず釜無川に架かる信玄橋前まで移動し、そこから信玄堤を眺めつつ川を渡った。こちらが信玄橋:
橋には甲斐武田家をゆかりとする家臣らの家紋などが描かれていた。例えば、この年の大河ドラマの主役をはっていた眞田家の六連銭や、もちろん武田菱も。さらに、この橋からの富士山の眺めもまた素晴らしかった:
こちらは橋の上から眺めた信玄堤公園。甲斐国志によれば、信玄公は御勅使川《ミダイガワ》や釜無川の治水のために石積出や将棋頭、堀切、十六石、そして堤防を築いたと云う:
橋の上から眺めた釜無川。下流の静岡県へ行くと富士川と呼ばれる:
そして、この釜無川沿いにある新府城跡方面(赤枠内)を眺めたところ:
釜無川を渡ってから徒歩40分ほど南下した熊野神社手前で「八田村[d]現在は南アルプス市。指定文化財・土屋惣蔵の墓 左折200m」なる看板が見えてくるので、さらに路なりに進んでいくと道路左手脇に墓所の入口に建つ標柱と説明板が見えてくる:
土屋惣蔵公は、この辺りの土豪・金丸筑前守虎義の五男として生まれ、駿州土屋氏を嗣ぎ、年少時は勝頼公の近習として仕えた。天正3(1575)年の長篠・設楽原の合戦では兄・右衛門昌次と養父である土屋備前守貞綱が共に討ち死にしている。
墓所の入口に建つ「土屋惣蔵之遺蹟」の碑:
こちら中央に建つのが土屋惣蔵昌恒公の墓所。右手は惣蔵公の曽祖父である金丸伊賀守光信公の墓所:
土屋惣蔵昌恒之墓:
土屋惣蔵公の曽祖父である金丸伊賀守光信はおよそ450年前この地の金丸氏館の中に長盛院を建立した:
この金丸氏は甲斐武田氏14代武田信重の子・光重を祖とし、金丸若狭守虎嗣、そして惣蔵公の父・筑前守虎義と続き、土屋惣蔵公の嫡子はのちに徳川家に仕えて土屋忠直と称し、関ヶ原の戦後の慶長7(1602)年に上総国久留里藩の初代藩主となった。ちなみに自民党副総裁として有名な故・金丸信元幹事長は、この地の出身である。
土屋惣蔵公の墓所近くには金丸氏館跡があり、現在でも長盛院が残っている:
高台の上にある長盛院の山門と本堂:
こちらは本堂裏手に残る土塁跡:
いかにも砦規模の館跡ということで、この高台からの眺めは素晴らしかった。こちらは躑躅ヶ崎館方面の眺め:
さらに拡大して躑躅ヶ崎館の詰城であった要害山城方面(赤枠内)の眺め:
土屋惣蔵墓所と金丸氏館跡 (フォト集)
これを機会に Google Map に「土屋惣蔵の墓」のロケーションを申請しておいた。