肥後細川藩初代藩主の細川忠興(号して三斎)は、源氏足利系の支流である細川氏を祖とする細川兵部大輔藤孝(号して幽斎)を父とした戦国武将であり、江戸時代初期の大名であり、父譲りの知識人であり、そして利休七哲(りきゅう・しちてつ)の一人に数えられる茶人で茶道三斎流を開祖した名手であった。父の藤孝は明智光秀とともに、美濃の織田上総守(かずさのかみ)信長を頼って室町幕府第15代将軍義秋[a]「義昭」とも。父は室町幕府第12代将軍・足利義晴、兄は同第13代将軍・足利義輝である。奈良興福寺で仏門に仕えていたが、兄が三好長慶と松永久秀に暗殺されると還俗(げんぞく)し、細川藤孝らの助けで諸国流浪となった。を擁立するも、のちに義秋と信長が対立すると信長に臣従した。この時に細川姓から長岡[b]由来は山城国長岡と云う地名からきている。長岡は現在の京都府長岡京市長岡あたりで、当時は新しく領主となった支配者がその地域の地名を名乗ることが慣例だった。この改名は足利将軍による室町幕府支配から離脱し、織田信長による支配への帰属を意味している。姓に改名し、藤孝は丹後11万石を拝領した。忠興の初陣は天正5(1577)年の紀伊雑賀攻めの大和片岡城で弟の興元ともに一番槍の武功を挙げ、信長から直々に感状を拝領した。「忠興」の名は、元服後に信長の嫡男・信忠の偏諱を享けたものである。のちに信長の命により、明智日向守光秀の三女で当時美人の誉高い玉(洗礼してガラシャ)を妻として迎えた。そういうこともあり、忠興はかなりの「信長信望者」の一人であったため、天正10(1582)年の本䏻寺の変後は岳父の光秀より味方に誘われたものの父子で拒否し、妻の玉とは離縁して幽閉し、自身は光秀の娘婿でありながら明智勢に与すること無く、剃髪して織田家や羽柴秀吉に臣従を誓った。
一昨年は平成27(2015)年2月、大阪へ出張した週末に京都まで足をのばして織田信長公の廟所があると云われる大徳寺へ。京都でも有数の規模を誇るこの臨済宗大徳寺派大本山には有名な山門や仏堂といった中心伽藍の他に、22の塔頭(たっちゅう)を有しており、その中の総見院に信長公の廟所があるらしいのだが、実際に行ってみると拝観謝絶で立ち入ることができなかった。どうやら、ここにある殆どの塔頭は「通常」は拝観できないものらしい。そんな事情を知っていたら他の史跡を見て回れたのになぁとは思ったのだが、そんな中で高桐院(こうとういん)と龍源院(りゅうげんいん)という常時一般公開している数少ない塔頭があった[c]当然ながら、それぞれで拝観料が必要である。ので行ってみると、これがなかなかに良かった。前者の高桐院は細川三斎が父・幽斎の弟で伯父に当たる玉甫紹琮(ぎょくほ・しょうそう)を開祖として、関ヶ原の戦が終わった慶長6(1601)年に建立した京都における肥後細川家の菩提寺であり、後者の龍源院は日本最小の石庭を含む趣の異なった素晴らしい日本庭園がある塔頭であった。
大徳寺・高桐院と肥後細川家墓所
京都紫野・高桐院の見所の一つである表門へ向かう参道は大判の切石が敷かれ、その両脇には瓦葺きの築地塀が建ち、赤松の植込みが続いていた。そして参道を鍵の手(直角)に折れた先に表門が建っていた:
この表門をくぐると再び参道が鍵の手に折れていた:
そして、この先には両脇に竹林が植えられ、先ほどの大判の石切とはまた異なる自然石の敷石道が伸びていた:
参道に沿って苔生す地面に羅漢槇(ラカンマキ)の生垣が真っ直ぐと続いていた。こちらは参道を振り返ったところ:
この参道を進んで行くと唐門と客殿や書院、そして茶室のある本堂の屋根が見えてくるが、一般公開されている玄関はこれより右手にある:
ここを右折すると玄関が見えてくる:
こちらは拝観料(当時400円)を払って玄関を上がり、庫裡を抜けたところから眺めた書院の軒先。意北軒(いほくけん)と呼ばれる書院は、かって聚楽第にあった千利休の邸宅書院を移築したものと云われている:
そして書院の脇を進んでいくと、左手に本堂前の庭園「楓の庭」が見えてくる:
本堂軒先と客殿、そして軒先。軒先右手に見えるのが楓の庭:
苔生した庭には数本の楓のみが植えられ、庭の中央には鎌倉時代からの石灯籠(春日型燈籠)が置かれていた。この灯籠は千利休秘蔵のものらしく、これと同じ灯籠が細川三斎公の墓石として使用されている:
そして高桐院の見所の一つで、最も有名な眺めが客殿から見た「楓の庭」である。ちなみに、この庭は江戸時代初期の造園だが、現在見れるものはそれほど古いものではなく、昭和46(1971)年に当時の住職によって作り替えられたものらしい:
そして庭園の奥へ進むと三斎井戸がある。この先に細川家の墓所があるため設けられたものらしい:
これが細川忠興公とガラシャ夫人の墓石。生前より愛好した石灯籠をもって墓石とし、公の遺歯と夫人の遺骨の一部がこの下に葬られているだとかで、三斎公80歳の時に肥後熊本から手水鉢と共に高桐院に持参して墓標にすべしと指示したと云う:
この石灯籠は、初め千利休居士が天下一と名付けて愛用していた鎌倉時代のもので、あるとき太閤秀吉がその名声を聞き所望するのを、利休は「センスの悪い」秀吉には渡したくないとしてわざと灯籠の裏面三分の一を砕いて、「殿下には疵物を御譲りすることはできない」として断ったと云う。のちに利休が切腹を申し渡された際に、形見分けとして忠興に贈った。そして忠興自身もまた灯籠の蕨手・灯口・横を砕いて「無双(欠灯籠)」と銘を付けて、参勤交代の時にも片時も離さずに携えたと云う。なお利休が秀吉から謹慎を言い渡されて聚楽第から堺へ下る際に見送ったのは利休七哲の古田織部と、この忠興だけであった:
忠興は織田信長公を強く信望しており、その気性の激しい面も似ていたため、父の幽斎は嫡男の忠興よりも次男の興元を贔屓にしていたとされる。父の遺言として彼の愛刀「このてがしわ[d]藤孝が長く愛用した名刀・手掻包永(てがいかねなが)の異名で、児手柏と書く。」の太刀は忠興ではなく次男の興元の手に渡ったが、この後に興元は忠興と不仲になり、忠興と仲の悪い黒田長政の助けで細川家を出奔したが、兄忠興が放った刺客に何度も襲われることになった。そのような性格ながら彼の才能は非凡であり、茶や和歌、はては兜や甲冑にも独自の美意識を持っていたとされる。例えば自らがデザインした越中具足[e]忠興の官位が越中守(えっちゅうのかみ)であることから。で細川家全軍を統一したり、自らの兜の前立には山鳥の尾羽を高々と差して当主以外の装着を許さなかったと云う。そして関ヶ原の戦の折、細川越中守忠興の雄姿を見た徳川内府曰く「流石は越中殿。山鳥の飾りは舞鶴の如し。」と賞賛したと云う。
さらに忠興に関して興味深い話がもう一つ。彼の顔には目立つ疵が二つあり、一つは初陣の大和片岡城で弟と先陣を争った際に城方から受けた投石による疵で、右の額に残った。この時の勇猛さが信長の目に止まって感状を拝領した。もう一つは鼻柱に横一文字の刃物疵で、父・藤孝と共に丹後平定に従事していた際に丹後の旧守護職・一色満信(いっしき・みつのぶ)を城に招き謀殺したが、その満信に嫁していた妹・伊也を連れ戻した際に、夫の仇と斬りつけられた疵であると云う。それが理由なのか、「三斎殿の額疵については話をしても、鼻の疵については決して触れてはならない。」と周囲の者らは噂したと云う。
そして三斎公とガラシャ夫人の墓所の隣には、父で初代細川家当主の幽斎公をはじめとする肥後細川家歴代の墓があった:
父であり当代随一の教養人であった幽斎公は策士としても一流で、足利幕府重臣の一族に生まれて12代義晴と13代義輝に仕え、さらに15代義秋を将軍職に戻すのに尽力した。歌道伝承者の三条西実枝(さんじょうにし・さねき)[f]某大河ドラマでは石橋蓮司氏が演じていた。からは古今伝授を享け、信長麾下で畿内を転戦し丹後一国11万石を拝領した。本䏻寺の変では主君を滅ぼした叛臣に味方せず秀吉につき、秀吉亡き後は嫡男を徳川内府に近づかせ幕府開府の際の朝廷工作を一手に引き受けて、家康に借りを作った。これが肥後細川家の礎に繋がっていくのであるから大したものである:
ちなみに、今から三年前の平成26(2014)年の夏に熊本県にある八代城を攻めたが、ここでも三斎公と信長公の供養塔と幽斎公の菩提寺跡を参拝してきた。
そして、ここ高桐院には他に、歌舞伎の始祖として有名な出雲阿国(いずものおくに)と、彼女の夫で蒲生氏郷の家臣であった名古屋山三郎、さらには森鴎外の著作で有名な興津弥五右衛門などの墓があるらしいが、それらは非公開であり実際に観ることはできなかった。
また本堂前庭には豪壮な袈裟形のおりつくばい(手水鉢)が置かれていた。これは肥後熊本城の加藤清正公が朝鮮出兵した際に王城の羅生門にあった礎石を持ち帰り忠興に贈ったものらしい。地面低くおさめられているので「おり蹲」(おりつくばい)と呼ばれている。忠興は、先の灯籠と共に愛用し江戸までの参勤交代でも携えていったとか:
このあとは本堂に戻り書院や茶室を観覧してきた。
こちらが書院・意北軒(いほくけん)。千利休の邸宅書院を移築したといわれる。周囲の壁に描かれた水墨画の雲が印象的であり、秀吉のような下品なきらびやかさは無い:
その書院に続いて二帖台目の名茶席の松向軒(しょうこうけん)がある。この茶席は寛永5(1628)年に三斎公の手で建立されたもので、三帖の水屋がつき、壁や天井にも趣向が凝らされている他、茶室には珍しい黒壁は瞑想の場の感を持ち、簡素な中にも幽玄の雅味をたたえた名席といえる。また、写真にあるように炉の脇に中柱を建てて、それに袖壁を付けるという構成は千利休の発案らしい:
さらに高桐院には、宝物として国宝の絹本墨画山水図や重要文化財の絹本着色牡丹図の他、利休が愛用した青井戸茶碗なども秘蔵されていると云う。
大徳寺塔頭・高桐院
京都市北区紫野大徳寺73-1
大徳寺・龍源院と名勝庭園
こちらも数少ない拝観可能な塔頭で、開山は文亀2(1502)年、大徳寺南派の法源地本院として由緒の殊に深く、朱色の大徳寺山門の前に厳然と位置している大徳寺中で最も古い寺らしい。名称は大徳寺の山号「龍賓山」の一字と、臨済禅で唯ひとつ存続している松源一脈の一字からなっている:
ここ龍源院の表門は四脚門切妻造の檜皮葺で、方丈や玄関と共に全て重要文化財となっており、いずれも創建当初のものである。特に方丈は大徳寺内最古の建築物とされる。室町時代の作とされる須弥山式枯山水(かれさんすい)の名庭がある。
表門をくぐり拝観入口となっている庫裡で拝観料(当時400円)を払って進んだ左手に書院があり、その軒先には白砂の石庭である滹沱底(こだてい)[g]「滹沱」とは中国にある河の名前である。がある。別名は阿吽の石庭(あ・うんのせきてい)。吸う息と吐く息で、天と地、陰と陽、男と女といったどの一つをも切り離すことはできない宇宙の真理をそのまま表現しているのだとか。右の写真が「阿」の石で、その先に少しだけ見えているのが創建当初からある担雪井という井戸。左の写真が「吽」の石で、共に豊臣秀吉が建てた聚楽第の礎石の一部である:
こちらは方丈の一室に展示されていた美術品で、上段手前が日本最古の火縄銃、下段は秀吉と家康が対局した際に使用したと云われる碁盤と碁笥(ごけ):
日本最古と云われる火縄銃の銃床尾には「天正十一年九月九日 喜蔵とりつき」と年紀が彫られ、現存する火縄樹の中では在銘最古のものらしい。墨書銘にある「喜蔵」は金森長近の養子となり、信長と秀吉に仕え、のちに飛騨国高山藩2代藩主となった長屋可重(ながや・ありしげ)の幼名とされる。
下段にある四季草木蒔絵碁盤と碁笥は、徳川家康が豊臣秀吉と伏見城内で対局した時の碁盤と伝え、初代本因坊の奥書がある。これは金森長近が秀吉から拝領した。榧(かや)材黒漆塗の碁盤には側面四方に梅・柳、燕子花(かきつばた)・蝶、菊、松、竹・水仙花の金蒔絵が描かれている。二個の碁笥には、それぞれ桐と葵の紋が付いている:
そして龍源院の最大の見所が、方丈の南と東と北にある、それぞれ趣の異なる三つの庭園である。南庭にあたる方丈前庭は「一枝坦(いっしだん)」と呼ばれ、白砂の大海に苔と石組で鶴亀を配した蓬莱式の庭園である:
この一枝坦と云う名は、開祖・東渓(とうけい)禅師が師・実伝和尚より賜った室号「霊山一枝之軒(れいぜんいっしのけん)」より銘されたものであると云う。庭の中央右よりの石組が蓬莱山を表し、右隅の石組が鶴島であり、正面の円い形の苔山が亀島で、白い砂が大海原をを表していると云う:
こちらは方丈の隣に建っていた開祖堂は一重入母屋造で檜皮葺。これは龍源院を開祖した東渓禅師の塔所で、南北朝、鎌倉、そして室町時代初期の様式の枠を取り入れた昭和の唐様木造建築の代表作である:
軒先を進んで方丈の北側へ移動する。右手は手前から旦那間、奥が衣鉢の間:
こちらが方丈の北側に広がる龍吟庭(りゅうぎんてい)。室町時代に造られた苔の上に三尊石組が建つ須弥山(しゅみせん)式枯山水の名庭で、青々とした杉苔は洋々と果てしない大海原を表し、石組が陸地を表している:
そして方丈の東側、庫裡との間にあるのが東滴壺(とうてきこ)と呼ばれる有名な壺庭で、日本最小の格調高い石庭である。一滴の波紋から大海原の広がりをイメージさせている:
大徳寺塔頭・龍源院
京都市北区紫野大徳寺町82
大徳寺とその他の塔頭
高桐院と龍源院以外の殆どの塔頭は拝観謝絶か幼稚園とかになっていて、特別公開の期間以外は観覧することはできなかったが、ひととおり大徳寺境内を見て回ってきた。この大徳寺は鎌倉時代末期の正和4(1315)年に宗峰妙超(しょうほう・みょうちょう)禅師が開基した臨済宗大徳寺派大本山で、京都市内でも有数の規模を誇る。室町時代は「一休さん」の呼び名で親しまれた一休宗純をはじめとする名僧を輩出した。
こちらは大徳寺の山門(三門)。応仁の乱後に一休禅師の参徒連歌師宗長らが一階部分を寄進、その後に千利休により二階部分が設けられ「金毛閣」と名づけられた:
この二階に雪駄を履いた千利休の木像を置いたことが秀吉の怒りを買い、二年後の利休の切腹の要因となった:
山門から引き摺り下ろされた等身大の木像は、一条戻(いちじょうもどり)橋[h]この橋では、その後に薩摩の島津歳久もまた秀吉の怒りに触れて自害を申し渡され、その首級が晒された。秀吉の九州征伐以降、島津兄弟の中で秀吉を嫌うこと甚だしく、降伏したのちも最後の最後まで抗し兄の義久の切腹命令をも拒んだと云うまさに「薩摩隼人」たる武人。享年57。のたもとで磔にされ、聚楽屋敷内で切腹した利休の首は木像の下に晒されたと云う。
こちらは勅使門(重要文化財)。山門前に置かれた前後唐破風、左右切妻造、屋根は檜皮葺の四脚門:
この仏殿(重要文化財)は、当山第一世大現国師により創建されたが応仁の乱にて焼失し、のちに一休(宗純)和尚らが復興した。現在の建物は、寛文5(1665)年に京の豪商・那波常有(なわ・じょうゆう)によって改めて建造されたものである。そして仏殿前のイブキの古木は、その仏殿再建時に植えられたもので市指定天然記念物になっている:
本尊は釈迦如来。安土桃山時代に入ると豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営み、それを契機にここ大徳寺は戦国武将の塔頭建立が相次いで隆盛を極めた:
ここからは、拝観できなかったが表門周辺を見てきた塔頭。
まずは黄梅院(おうばいいん)の表門で、筑前宰相・小早川隆景が改築したものである。この塔頭は織田信長が父・信秀の追善菩提のため永禄5(1562)年に羽柴秀吉に命じて建立した小庵「黄梅庵」に始まる。その後は天正14(1586)年に秀吉によって本堂と唐門が、天正17(1589)年には小早川隆景により庫裡・表門がそれぞれ改築され、その年に「黄梅院」と改められた。庫裡は日本の禅宗寺院において現存する最古の建築物とされる:
墓所として織田信秀、毛利元就(洞春寺殿)とその妻と子息らの毛利隆元、吉川元春、小早川隆景ほか毛利一族、そして信長の次女の相応院とその夫である蒲生氏郷が祀られている他、千利休が作庭した枯山水(かれさんすい)の直中庭など美しい庭園がある:
これは玉林院の表門。現在は大徳寺保育園になっていた。天皇や皇族の医師であった曲直瀬正琳が建立したのが始まりで、山中鹿介の位牌堂などがある:
これは大光院の表門。大和豊臣家の菩提寺。豊臣秀吉と豊臣秀保が豊臣秀長の冥福を弔う為に建立した:
最後は三玄院(さんげんいん)の表門。天正17(1579)年に浅野幸長・石田三成・森忠政が建立した。江戸時代に造られた古田織部好みの三畳台目・八窓の茶室「篁庵」(こうあん)がある。墓所としては、石田治部少輔三成の墓所の他に、開祖の春屋宗園(しゅんおく・そうえん)、津山城主で津山藩初代藩主・森忠政、茶人の藪内剣仲と古田織部らの墓がある:
他に織田信長とその一族の菩提寺である総見院も表門だけ見てきた。これらの塔頭は是非とも機会を見つけ特別公開日にあわせて再訪したい。
大徳寺
京都府京都市北区紫野大徳寺町53
大徳寺散策と細川家墓所 (フォト集)
参照
↑a | 「義昭」とも。父は室町幕府第12代将軍・足利義晴、兄は同第13代将軍・足利義輝である。奈良興福寺で仏門に仕えていたが、兄が三好長慶と松永久秀に暗殺されると還俗(げんぞく)し、細川藤孝らの助けで諸国流浪となった。 |
---|---|
↑b | 由来は山城国長岡と云う地名からきている。長岡は現在の京都府長岡京市長岡あたりで、当時は新しく領主となった支配者がその地域の地名を名乗ることが慣例だった。この改名は足利将軍による室町幕府支配から離脱し、織田信長による支配への帰属を意味している。 |
↑c | 当然ながら、それぞれで拝観料が必要である。 |
↑d | 藤孝が長く愛用した名刀・手掻包永(てがいかねなが)の異名で、児手柏と書く。 |
↑e | 忠興の官位が越中守(えっちゅうのかみ)であることから。 |
↑f | 某大河ドラマでは石橋蓮司氏が演じていた。 |
↑g | 「滹沱」とは中国にある河の名前である。 |
↑h | この橋では、その後に薩摩の島津歳久もまた秀吉の怒りに触れて自害を申し渡され、その首級が晒された。秀吉の九州征伐以降、島津兄弟の中で秀吉を嫌うこと甚だしく、降伏したのちも最後の最後まで抗し兄の義久の切腹命令をも拒んだと云うまさに「薩摩隼人」たる武人。享年57。 |
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