信長公と共に炎上焼失した本䏻寺跡には、現在は石碑が建つのみである

天正10(1582)年6月2日の早暁、水色桔梗の旗にとり囲まれた信長公の宿所である本䏻寺[a]本能寺は幾度か火災に遭遇したため「匕」(火)を重ねるを忌み、「能」の字を特に「䏻」と記述するのが慣わしとなった。また、ここで発掘された瓦にも「䏻」という字がはっきりと刻まれていたらしい。本記事でも特に断りがない限り「本䏻寺」と記す。。明智日向守光秀の軍勢およそ1万3千が押し寄せた当初、信長もお小姓衆も下々の者らが喧嘩をしているものと思ったそうだが然に非ず、明智勢が鬨の声を上げて本䏻寺の御殿に鉄砲を撃ち込んできた。寝所に居た信長は小姓の森蘭丸に「さては謀叛だな。誰の仕業か。」と問いただすと、蘭丸が「明智日向守の軍勢と見受けします。」と応えた。信長は「是非に及ばず」(We have no other way…)と一言。明智勢は間断なく御殿へ討ち入ってくる。表の御堂に詰めていた御番衆も御殿へ合流し一団となって防戦した。信長は初めは弓をとり、二、三回取り替えて弓矢で応戦したが、どの弓も時が経つと弦(つる)が切れてしまったので、その後は槍で戦ったが、肘に槍傷を受け殿舎に退いた。既に殿舎は火をかけられて近くまで燃え広がっていたため、敵に最後の姿を見せてはならぬと思ったのか、殿舎の奥深くへ入り、内側から納戸を閉めて無念にも自刃した。同じ頃、嫡子信忠は妙覚寺に投宿しており、変を知って討って出ようとするが京都所司代・村井貞勝父子に止められ、隣接する二条新御所[b]これは織田信長が室町幕府第15代将軍・足利義昭のために築いた旧二条城ではなく、天正4(1576)年に二条衣棚にあった妙覚寺に隣接する関白二条晴良の屋敷跡を信長自らの宿所とするために築いた邸宅で、小さいながらも堀を持つ砦であった。のちに皇室に献上した。に立て籠もるが、明智勢は京都御所付近から矢や鉄砲を打ち掛け、信忠も抗戦叶わず自刃した。

これは信長の旧臣・太田和泉守牛一が綴った織田信長一代記の「信長公記(しんちょうこうき[c]音読みである。江戸時代には敬意を表す意味で人名を音読みする習慣があった。)」最終巻に記されている一節である。

一昨年は平成27(2015)年2月、大阪へ出張した週末に京都まで足をのばして織田信長公の墓所を中心に、「本䏻寺の変」ゆかりの場所をいくつか巡ってきた。信長公の墓所は京都市内だけでもいくつかあるので、その中から阿弥陀寺(京都市上京区)と大徳寺総見院(京都市北区)を選択した。そして現在は住宅街の一角にひっそりと残る旧本䏻寺跡の他、京都御所近くにあった旧二条城跡(共に京都市上京区)、さらには妙覚寺(京都市上京区)も訪問してきた。妙覚寺は本䏻寺の変のあと秀吉の時代に現在地に移転したものであるが、その昔は二条衣棚(にじょう・ころもだな)に建っていた頃は上洛した信長公が宿所としてよく利用していたところである。

こちらが、この日に巡ってきた京都市上京区から北区にある主な史跡や墓所(赤枠の場所):

京都市上京区から北区周辺の史跡や墓所を巡ってきた

本䏻寺の変ゆかり地巡り(Google Mapより)

京都御所を境に午前中は北側、午後は南側を巡ってきた

本䏻寺の変ゆかり地巡り(Google Mapより)

この日は、新大阪から9:00amすぎのJR東海道本線新快速に乗り京都駅に到着したのが9:30amちょっと前。そこから、まずは京都市営地下鉄の烏丸(からすま)線で鞍馬口へ移動して阿弥陀寺にて信長公と左近衛中将信忠公らの墓所を参拝し、次に大徳寺(総見院)まで徒歩30分ほどかけて移動し、その途中で(秀吉時代の)妙覚寺にも立ち寄った。このあとは大徳寺へ行ったのだが、残念ながら総見院にある信長公や正室(帰蝶姫)・側室(お鍋の方)らの墓所は拝観謝絶のため観ることができなかった。仕方がないので拝観が可能な他の塔頭(たっちゅう)のうち高桐院で肥後細川氏歴代の墓所(細川幽斎公・細川三斎公・細川ガラシャら)を、龍源院では自身初ではあるが素晴らしい日本庭園を観覧してきた。その後はふたたび徒歩30分ほどかけて烏丸線北大路駅まで移動し、そこから地下鉄で丸太町まで移動して信長公が室町将軍のために造営した旧二条城跡と京都御所内にある旧二条城の石垣を見てきた。ここで午前の部は終了。午後からは烏丸線烏丸駅まで移動し、そこから旧本䏻寺跡や南蛮寺跡を見てきた。

そういうことで時間があれば徳川時代の二条城[d]関ヶ原の戦に勝利した徳川家康が上洛時の宿舎として慶長6(1602)年から5年をかけて西国諸大名らに築城させた城。慶長16(1611)年に二の丸御殿において家康と豊臣秀頼の会見が行われた。や秀吉が再建した本能寺[e]本䏻寺の変で焼失後、天正17(1589)年に豊臣秀吉より鴨川村(現在の寺町御池)の地に移されて再建されたもの。にも行ってみようと思ったが、残念ながら全くそんな時間的余裕はなかった。まぁとうてい一日程度で京都市内の他の史跡や由緒ある建築物を見切れるとは思ってはいなかったので、これらの史跡は次回にまわすことにした:

(御霊神社・応仁の乱勃発の地) → 阿弥陀寺 →  妙覚寺 → (紫式部・小野篁の墓所) → 大徳寺(総見院・高桐院・龍源院) → 旧二条城跡 → 旧二条城復元石垣(京都御苑) → 旧本䏻寺跡 → 信長の首洗い井(京都逓信病院) → 南蛮寺跡

阿弥陀寺

阿弥陀寺は京都市営烏丸線鞍馬口駅から徒歩10分ほどの場所にある浄土真宗の寺院で、本尊は丈六の阿弥陀如来である:

天文年間(1532-1554)清玉上人の開創で、織田家と深い親交があった

阿弥陀寺の山門

天文年間(1532〜1554年)に清玉上人(せいぎょく・じょうにん)を開祖として、元々は今出川大宮東あたりの八丁四方の境内に11の塔頭を構えていた。清玉上人は織田家とも深い親交があり、本䏻寺の変の折、ここから旧本䏻寺などに駆けつけ、織田信長・信忠父子と家臣百余名の遺骸をこの寺に埋葬したと云われている:

上人は右大臣信長公の遺灰を集めて、この寺に葬ったと云う

「織田信長公本廟」の碑

この寺の本堂には信長・信忠父子の影像や位牌、森蘭丸・坊丸の位牌、そして旧本䏻寺での殉死者の位牌が安置されている他、織田軍が使用したという軍旗が保存されているとのこと[f]先代の頃までは織田家ゆかりの品々が沢山保存されていたらしいが、困窮した時代にやむを得ずに処分されたものも多かったらしい。

織田信長・信忠父子の木像や位牌が納められている

本堂

本堂裏手の墓地には織田信長・信忠父子の他、旧本䏻寺にて討ち死にした小姓・近習らの墓がある:

信長・信忠父子の墓所を囲むように本䏻寺で討死にした近習らの墓所が並ぶ

本堂裏手にある墓所の一角

この阿弥陀寺に収蔵されている「信長公阿弥陀寺由緒之記録」によると、

清玉上人は明智日向守が謀叛して信長公の宿舎である本䏻寺に押寄せていることを聞き、塔頭の僧徒二十人程を連れて本䏻寺に駆けつけ、裏道より辛うじて境内に入るが、既に信長公は自刃していることを聞き、御殿脇にて近習らが「割腹の時必ず死骸を敵に渡すことなかれ」との遺言に従ってやむなく火葬して隠しておき、主君のため追腹(殉死)しようとしているのを押しとどめ、遺灰を法衣に包んで本䏻寺の僧徒らが逃げるのに紛れ込み、阿弥陀寺に帰寺し白骨を深く土中に隠した。

とある。ただし、この記録はのちに阿弥陀寺と共に焼失しており、江戸時代に入った享保16(1732)年に記憶を頼りに書き直されたものであるため史料的価値は低いと云われている。

そして、こちらが織田信長・信忠討死衆墓所:

清玉上人が本䏻寺裏で亡骸を荼毘にふして遺骨を持ち帰って埋葬供養したと云う

織田信長・信忠討死衆墓所

右手が織田信長公(総見院殿贈一品大相圀泰岩大居士)、左手が嫡男で左近衛中将信忠公(大雲院殿三品羽高岩大前条定門)の墓石。この阿弥陀寺は天正15(1587)年に蓮台野からこの地へ移されたが、信長父子の墓石は当時のままのものらしい:

阿弥陀寺が廃寺になって、この地に移された時のままの墓石らしい

右手が信長公、左手が信忠公の墓石

本䏻寺の変があった頃、西国の雄・毛利家と対峙していた羽柴秀吉が備中高松城包囲から俗に云う「中国大返し」をして山崎の合戦で仇討ちを行い、清洲会議で主導権を握ったあと、自分を喪主として信長公の一周忌を執り行ないたいとして清玉上人に懇願したところ、それは信長公亡き後の織田家の乗っ取りに近い振る舞いであり、人の道に非ずと非難して断ったと云う。そのため、やむを得ず秀吉は大徳寺に総見院を建立して一周忌を執り行ったらしい。のちに天下人となった秀吉は、この時の所業を許さず、清玉上人が亡くなった後に阿弥陀寺の寺域を大きく削ったと云う。

さらに信長・信忠父子の墓所を囲むように、旧本䏻寺にて討死にした小姓衆や近習らの墓石が建っていた:

森蘭丸・坊丸・力丸兄弟の墓石があった

旧本䏻寺や二条城で討死にした小姓や近習らの墓石

主君を守るため討死した者達で、素性を確認できていない者も含まれているとか

旧本䏻寺や二条城で討死にした小姓や近習らの墓石

こちらは、その中で信長の近習を務めた森兄弟の墓石。左から森長氏(力丸)、森長隆(坊丸)、一つおいて森成利(蘭丸):

左から森力丸、森坊丸、一つおいて森蘭丸

信長公の小姓衆・森兄弟の墓石

こちらは猪子兵助(いのこ・ひょうすけ)の墓石。美濃国主・斎藤道三の近習の一人で、道三死後は信長に仕えた。本䏻寺の変では信忠と共に二条新御所に籠もって討死にした:

信忠と共に二条新御所に籠もり討死にしたと云う

猪子兵助の墓石

そして信長信忠討死衆らの墓所の隣には玉誉清玉上人の墓所があった。上人は本䏻寺の変の三年後に亡くなったと云う:

本䏻寺の変から三年後に上人は亡くなったと云う

玉誉清玉上人の墓所

阿弥陀寺は天正15(1587)年に今出川大宮東あたりから現在地に移転した。そして延宝3(1675)年に大火によって信長公の木像や武具などが焼失した。そのため、一時は阿弥陀寺は廃寺寸前となるが、その阿弥陀寺を支援したのが森蘭丸の家系で、津山城にて津山藩を起こした森家であった。見事なものである。

蓮台山・阿弥陀寺
京都府京都市上京区寺町通今出川上る二丁目鶴山町14

 

ちょうど阿弥陀寺と大徳寺の中間あたりに建つ妙覚寺は、京都日蓮宗名刹三具山および京都十六本山の一つで、開山は竜華院日実上人である。信長は都には本格的な居館を持つことはなく、上洛するともっぱらこの妙覚寺や旧本䏻寺を宿舎としていた。

この妙覚寺は初めは四条大宮、ついで二条衣棚(現在の中京区大恩寺町あたり)に移り、最後は豊臣秀吉の京都都市整理に伴い現在の場所に移転してきた。従って信長や信忠が投宿していたのは二条衣棚にあった妙覚寺である。
そして天正10(1582)年の本䏻寺の変では、ここに投宿していた嫡男の信忠が京都所司代の村井貞勝父子らと手勢500を率いて二条新御所へ向かい立て籠もって抗戦したという。この時、明智勢は旧本䏻寺と二条新御所には放火はしたが、近くにあった妙覚寺が焼失したという記録は無いため全くの無傷であったと思われる。

その翌年の天正11(1583)年に秀吉の命で現在の場所に移転し、天明8(1788)年には天明の大火により焼失するが、その後に再建されて現在に至る:

現在の妙覚寺は豊臣秀吉によって移転させられたものである

「本山妙覚寺」の札

現在の妙覚寺の大門は秀吉が天正18(1590)年に建てた聚楽第の裏門を寛文3(1663)年に移築したものらしい:

この門は聚楽第の裏門を移したと伝えられている

妙覚寺大門

そのため大門の潜戸(くぐりど)は、城の門によく見られる両潜(りょうくぐり)扉が付けられていた:

城門によく見られる両潜扉が付けられていた

大門の潜戸

さらに城門の梁の上には伏兵を配置できるような空虚が設けられていた:

伏兵を配置できるような空虚が設けられていた

大門の梁

大門をくぐると正面には日蓮、日朗、日像の坐像を安置する祖師堂があるのだが、この当時は工事中のためカバーに覆われて全く観ることができなかった。なお大門、本堂、祖師堂、華芳塔堂(掛堂と華芳堂)はいずれも京都府指定有形文化財になっている。
こちらは庫裡と玄関。秀吉の時代には千利休による茶会も催されていたと云う:

右手に少し見えているのが本堂である

庫裡と玄関

この唐門もまた聚楽第の数少ない遺構の一つで、この奥に本堂があり、脇には室町時代の絵師で狩野派の祖・狩野正信の子である狩野元信の墓碑が建っていた:

これも数少ない聚楽第の遺構の一つである

本堂の前に建つ唐門

室町時代の絵師で狩野派の祖・狩野正信の子

「狩野元信之墓」の石標

妙覚寺
京都府京都市上京区上御霊前通小川東入下清蔵口町135

 

大徳寺・総見院

総見院は大徳寺に二十二ある塔頭(たっちゅう)寺院の一つで、羽柴秀吉が本䏻寺の変で倒れた織田信長公の追善菩提のために公の一周忌にあたる天正11(1583)年に建立したもの。創建以来、現在でも6月2日の年忌には一山総出で盛大な法要が営まれることで有名である:

土塀および鐘楼は創建当寺のものである

大徳寺・総見院

この総見院には信長公の墓所の他に、織田一族の墓所として信好(信長十男)、信高(信長七男)、秀勝(信長四男)、信忠(信長嫡男)、信雄(信長次男)、秀雄(信雄嫡男)があり、さらに徳姫の五輪塔もあるのだとか。また信長公の正室で斎藤道三の娘である帰蝶姫と、側室であるお鍋の方の墓所もあるらしい:

総見院には信長公と織田一族の墓所がある

信長公廟所の碑

しかしながら、この時は「拝観謝絶」で立ち入ることができなかった:

春と秋の特別公開時期にのみ入ることができる

総見院は通常は非公開である

ここ総見院については、機会があるときに特別公開日にあわせて再訪してみる予定。

また大徳寺の他の塔頭には、この信長公の菩提寺建立にならって、その後に多くの戦国武将の菩提寺が建立された。例えば信長の娘婿であった蒲生氏郷公や筑前宰相・小早川隆景公、そして石田治部少輔の墓もあった。

大徳寺・総見院
京都府京都市北区大徳寺町59

 

本䏻寺跡

旧本䏻寺は応永22(1415)年に日隆聖人が開山した「本応寺」が始まりとされる。その後、一度は破却されたが再建され、永享5(1433)年には六角大宮に広大な寺地を得て移築され本門八品能弘の大霊場として栄えると「本䏻寺」と改称された。そして天文5(1536)年には延暦寺の僧兵らの乱により堂宇はことごとく焼失したが、天文14(1545)年には四条西洞院(よじょう・にしのとういん)の此の地に移築されて、壮大なる堂宇の再建を見た。

そして天正10(1582)年6月2日、「本䏻寺の変」によって信長公とともに炎上した。この時の本䏻寺は、現在は京都市上京区元本能寺南町の住宅街の一角に石碑が建っているのみである。但し、実はこの石碑も老人ホーム建設のために東へ移動させられたものらしい:

この石碑も老人ホームの建設により東側へ移動させられている

旧本䏻寺附近を示す古い石碑

本来の本䏻寺跡はこちらの新しい石碑の方である:

本来の本䏻寺はこのあたりだと思われる

新しい本䏻寺跡の碑

信長とその主従らが倒れた本䏻寺跡

新しい本䏻寺跡の碑

信長公記では同寺で信長が自刃したとあるが遺体は発見されておらず、その真相は400年以上も経過した現代でも謎に包まれたままである。なお現在の「(大本山)本能寺」(京都市中京区下本能寺前町)は秀吉が天正17(1589)年に再建したものである。

そして、本䏻寺の変を聞きつけた秀吉が「中国大返し」をして急ぎ畿内へ戻り、山崎の合戦で明智日向守の軍勢を破ったのち、敗れた光秀が落武者狩りで致命傷を受け自刃すると、信長の遺児・織田信孝はこの旧本䏻寺の焼け跡に光秀の首級と胴体を晒して供養したと云う。また平成19(2007)年の発掘調査では本䏻寺の変で焼けたとみられる瓦や堀跡が発見された。

次回は機会あれば、現在の「大本山本能寺」にある信長公廟を参拝したい。

本䏻寺跡
京都府京都市上京区元本能寺南町 小川通

 

信長の首洗い井と南蛮寺跡

本䏻寺跡から徒歩5分ほどのところにある京都逓信病院は、その縁起によると旧三井財閥の総本家である三井発祥の地に建てられた病院で、さらに古文書には:

三井邸西南隅に極めて清涼にして自らあった名水肉桂水なる井戸があったが、応仁の乱以後その所在がわからなくなった。

とあり、邸内には「信長の首洗い井」と称する池があると記載されているのだとか。

先に紹介したように、本䏻寺の変を聞いて駆けつけた阿弥陀寺の清玉上人は信長公を火葬し「白骨を法衣に包んで」帰寺したとされるが、寺内の一隅で火葬を行って白骨にしたと云う説は疑問[g]最新式の重油焼却炉で千度以上の火力でさえ完全に骨にするには一時間二十分かかり、蒔などを用いる昔式の野辺の送りだと、骨にするのに一晩はかかるらしい。が多く、おそらくは「白骨を法衣に包んで」ではなく「首級だけを法衣に包んで」本䏻寺の北東にある阿弥陀寺に向かっていた途中、満々と清水を湛えた池があったので、ひとまず公の首級を洗って綺麗にしたと云う方が話の筋がとおるのだとか。

ただ、この池は本䏻寺跡からかなり近いため、ちょっとあり得ない話に聞こえるのだが、実際はどうであるかは別として、この病院の裏手には「いかにも」と云う感じの池跡が残っていた:

京都逓信病院裏手にあり、石垣も当時のものだとか

信長の首洗い井跡

そして、この京都逓信病院から徒歩3分ほどの通りの一角(蛸薬師通室町西入る 四条姥柳町)には、「此附近南蛮寺(なんばんじ)跡」と彫られた石碑が建っていた:

建物の陰にひっそりと建っていた石碑

「此附近南蛮寺跡」の碑

南蛮寺は織田信長の庇護を受け、耶穌会(イエズス会/ヤソ会)によって建てられ、京都におけるキリスト教と南蛮文化の中心となった。ちょうど、この碑が建つ北側の姥柳(うばやなぎ)町辺りにあったとされる。永禄4(1561)年には、この附近に三階建ての礼拝堂が設けられ、数々の迫害に遭いながらも宣教師は布教に努め、信者は増加した。天正4(1576)年には、京都所司代・村井貞勝の援助により古くなった礼拝堂が再建されミサが執り行われた。これが南蛮寺であると云う。

しかし本䏻寺の変のあとの天正15(1587)年、九州征伐を終えた豊臣秀吉は宣教師追放令を発し、キリスト教弾圧に転じた。南蛮寺もその時に破却され、この地に復興されることはなかったと云う。南蛮寺にあったといわれる鐘は、現在は妙心寺塔頭春光院に保存されているらしい。

信長の首洗い井
京都市中京区六角通新町西入西六角町109 京都逓信病院裏手

 

旧二条城跡

京都御所から烏丸通りを渡った西側の東立売町あたりに旧二条城跡があった:

平安女子学院附近に残る将軍座所で信長が築城した

旧二条城跡

旧二条城は、永禄12(1569)年に織田信長が室町幕府第15代将軍・足利義昭のそれまでの将軍座所(居城)であった六条本圀寺から新たに築いた城で、この石碑を中心に約390m四方の敷地に二重の堀や三重の「天主」を備えた堅固な城であったと云う。

また、この周辺の跡地からは金箔瓦が発見されているとのことで、ポルトガル宣教師のルイス・フロイスの「日本史(Historia de Japan)」によれば、内装は金銀をちりばめ、庭園には泉水・築山が構えられた豪華な城郭であったと云う。

こちらが旧二条城の推定敷地:

現在の京都御苑の一部を含んでおり、復元石垣が御苑内に残っていた

旧二条城推定敷地

その後、信長は旧二条城から義昭を追放し、時の皇太子誠仁親王に献上し「二条御所[h]織田信長が烏丸-室町の御池上る付近に設けた城館の「二条新御所」とは別物である。」として使われていたが、室町幕府の滅亡に伴い廃城となった。天正4(1576)年に旧二条城は解体され、安土城築城に際し建築資材として再利用されたと云う。尚、現在の二条城(京都市中京区二条城町竹屋町通)は関ヶ原の戦に勝利した徳川家康が上洛時の宿舎として利用するために慶長7(1602)年に築いたものである。

そして地下鉄烏丸線の工事に伴う発掘調査で丸太町上るに埋れていた石垣が発見された。これにより、京都御苑椹木口を入った北側、旧二条城の敷地の一部が京都御苑内の南西側に広がっていたことが判明した。

こちらが京都御苑内に復元された「推定旧二条城の復元石垣」:

旧二条城の敷地が京都御苑の南西部にかかっていたことが分かった

推定旧二条城の復元石垣(その1)

もともとは南側を向いていた石垣を90度回転させて、東西方向に並べて復元されていた:

元々の位置から90度回転させて東西にならべて復元されている

推定旧二条城の復元石垣(その2)

次回は機会あれば、豊臣秀頼と徳川内府が対面した方の二条城を訪問したい。

旧二条城跡
京都府京都市上京区五町目町

 

最後に、信長公が桶狭間の戦に出陣する際に舞った「敦盛」の一節を。信長公記には、このとき法螺貝を吹かせ、具足を付けて、立ったまま湯漬をすすり、兜を被って出陣したと記されている:

人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。ひとたび生を得て、滅せぬ者のあるべきか。

 

See Also織田信長公墓所と本能寺の変 (フォト集)

参照

参照
a 本能寺は幾度か火災に遭遇したため「匕」(火)を重ねるを忌み、「能」の字を特に「䏻」と記述するのが慣わしとなった。また、ここで発掘された瓦にも「䏻」という字がはっきりと刻まれていたらしい。本記事でも特に断りがない限り「本䏻寺」と記す。
b これは織田信長が室町幕府第15代将軍・足利義昭のために築いた旧二条城ではなく、天正4(1576)年に二条衣棚にあった妙覚寺に隣接する関白二条晴良の屋敷跡を信長自らの宿所とするために築いた邸宅で、小さいながらも堀を持つ砦であった。のちに皇室に献上した。
c 音読みである。江戸時代には敬意を表す意味で人名を音読みする習慣があった。
d 関ヶ原の戦に勝利した徳川家康が上洛時の宿舎として慶長6(1602)年から5年をかけて西国諸大名らに築城させた城。慶長16(1611)年に二の丸御殿において家康と豊臣秀頼の会見が行われた。
e 本䏻寺の変で焼失後、天正17(1589)年に豊臣秀吉より鴨川村(現在の寺町御池)の地に移されて再建されたもの。
f 先代の頃までは織田家ゆかりの品々が沢山保存されていたらしいが、困窮した時代にやむを得ずに処分されたものも多かったらしい。
g 最新式の重油焼却炉で千度以上の火力でさえ完全に骨にするには一時間二十分かかり、蒔などを用いる昔式の野辺の送りだと、骨にするのに一晩はかかるらしい。
h 織田信長が烏丸-室町の御池上る付近に設けた城館の「二条新御所」とは別物である。