永久2(1114)年に坂東平氏である下総国の豪族は千葉一族の臼井六郎常康(うすい・ろくろう・つねやす)が居を構えた千葉県佐倉市臼井田には、のちに臼井氏の中興の祖と云われる臼井興胤(うすい・おきたね)の代の14世紀中頃に、臼井城の基礎がおかれたと伝えられている。今から500年以上も前の文明10(1478)年に関東管領の重臣の一人だった長尾左衛門尉景春[a]伊藤潤作の『叛鬼(はんき)』(講談社文庫)の主人公である。が起こした反乱に乗じて古河公方と共に関東管領山内上杉氏と対立した千葉孝胤を討つべく、江戸城を発った扇谷上杉氏家宰の太田道灌資長と千葉自胤(ちば・よりたね)[b]自胤(よりたね)に反攻して、下総国千葉氏当主を自称した孝胤(たかたね)は分家筋にあたり、のちに自胤は室町幕府から千葉氏の当主として認められた。らは国府台城に布陣、境根原古戦場(さかいねはら・こせんじょう)で激戦となり、そこで敗北した孝胤はここ臼井城に籠城しなおも抵抗する。さすがの名将道灌も攻めあぐねたが、なんとか周囲にある砦や支城を攻め落とし最後の決戦で臼井城を陥落させて孝胤を父・千葉輔胤(ちば・すけたね)の居城である本佐倉城へ敗走させたが、その決戦で道灌は弟の太田図書資忠と太田家譜代の勇士らを失ってしまった。そして翌年の和議ののち文明18(1486)年に道灌が謀殺されると、孝胤は再び臼井城を奪取し、家臣の臼井景胤(うすい・かげたね)が城主となった。
昨年は平成27(2015)年の肌寒い春に自身初の千葉県の城攻めとして、佐倉市は京成臼井駅周辺にある城址を幾つか攻めてきた。ちなみに佐倉市内には城跡が現在58ヶ所(当時)も確認されており、今回攻めてきた臼井城、臼井田宿内砦(うすいだ・しゅくうち・とりで)、謙信一夜城、そして佐倉城といった城跡はそれらのうちの一部であり、多くが城址公園として整備されていて比較的散策しやすい環境であった。
こちらは「佐倉・城下町400年記念・お城のあるまち・佐倉」と云うパンフレットに描かれていた臼井城縄張図。なお、現在見ることができる遺構は、天正18(1590)年に徳川家康が関東八州に入封した後に酒井家次が城主となって整備した時代のものとされ、本丸や二の丸といった主要な曲輪の外側に三の丸を設け、さらに城のある台地縁辺部に支城をいくつか造り外敵に備えていた。例えば臼井城本丸から南東にたった450mほど離れた場所にある臼井田宿内砦跡はその支城の一つだと考えられている:
こちらは臼井城跡の説明板に添付されていた城址公園周辺の縄張図。現在、三の丸の大部分が宅地化されてしまっているので実際に見学できる範囲は公園の中と周辺の一部ではあるが空堀や土塁が比較的良好な状態で残っていた:
京成臼井駅から徒歩15分ほど、国道R296をちょっと過ぎた道沿いに案内版があったので、それに従って住宅街を抜けていくと臼井城の累壁が見えてきた:
ここが臼井城址公園の駐車場であり(写真右手にある)、二の丸と本丸の間に設けられていた空堀跡でもある。そして、このまま道なりに進むと公園入口がある:
これが、堀底の一部駐車場となっているが見事な本丸空堀跡。左手が二の丸跡で、右手が本丸跡。正面にはそれらの曲輪をつなぐ土橋と本丸虎口の土塁がある:
二の丸跡に上がって本丸空堀跡を見下したところ。堀の向こう側が本丸跡。現在の深さから往時はかなり深かったと推測できる:
一旦、空堀あとを出て、二の丸土塁の脇に沿って城址公園出入口に向かって移動した:
そして二の丸土塁と空堀との間にある二の丸虎口が、現在は城址公園出入口となって城址の碑と説明板が建っていた:
二の丸虎口に建つ「臼井城址」の碑。ここ臼井城は、名勝・臼井八景[c]隠士・臼井信斎(うすい・しんさい)と円応寺の住職・宗的(そうてき)が中国の北宋の瀟湘八景色(しょうしょう・はちけい)に倣って選定した8つの景勝地のこと。の一つとして元禄11(1698)年に選定された景勝の地でもある:
永久2(1114)年に千葉常兼の三男常康が初めて臼井の地を治めて以来、16代臼井久胤までの約450年間、臼井氏は長くこの地の領主であった。その後、千葉氏の重臣・原氏や徳川家康の家臣・酒井家次の居城となったが、文禄3(1593)年の火災で城郭は焼失した。それからおよそ100年後の元禄期に、臼井八景の作者であり臼井久胤の玄孫にあたる臼井信斎(うすい・しんさい)はこの城跡の嶺に立って自分の先祖が城主であった頃の遠い昔を偲びながら感慨深く詠んだ句が城嶺夕照(じょうれいせきしょう)と云うらしい。
二の丸虎口の目の前には物見台だったような土塁跡が残っていた:
この土塁跡の上には 現在は「お富士さん」こと富士浅間大神を祀った小峯神社が建っている:
こちらは、この物見台風の土塁の上から二の丸跡を眺めたところ:
二の丸跡を攻める前に二の丸を外郭(三の丸)側からみてみた。これが二の丸と三の丸を結ぶ土橋跡。現在はアスファルト製の道路になっているけど、両脇が急崖だったり空堀だったりして、車一台しか通れない幅はいかにも土橋っぽい:
三の丸側(手前)から土橋の両脇を覗き込んでみた:
こちらが二の丸を取り囲む空堀。藪化してわかりづらいが、二の丸側の塁壁を見てもわかるとおり、その深さはかなりのものと推測できる:
この後は二の丸虎口であった城址公園入口から二の丸跡へ入った。こちらは二の丸から虎口を覗いたところで、左手が二の丸跡、右手が二の丸の空堀である:
永禄4(1561)年、臼井家16代当主の久胤の時代に臼井城は里見家の正木大膳信茂に攻められて落城したが、のちに里見氏が小田原北条氏との第二次国府台合戦で敗れ下総国における支配力が弱まった隙に千葉氏の家老・原胤貞が奪還した。
こちらは二の丸跡。その敷地は非常に広く、現在は憩いの場として市民に開放されていた:
これは先ほど見た空堀を二の丸の中から見たところ:
二の丸を一回りして本丸へ向かった。これは、駐車場近くで見た空堀とは土橋を挟んで反対側にある本丸空堀である。そちらと比較すると若干浅くなっているように見えるが、これは公園化に伴った遺構保護と公園内の事故予防によるものらしい:
こちらは本丸側から眺めた空堀。二の丸と本丸との間の比高差から随分と深い堀に見える:
これが空堀によって区切られた本丸の坂虎口と二の丸を結ぶ土橋で、両脇が本丸空堀である。現在は遺構保存として盛土して、その上に遊歩道が造られている:
土橋の幅を狭くすることで一度に多勢の敵が渡れなくし、曲がった坂をつけて敵の進む速度を低下させるような工夫がされていた:
土橋を渡った先には坂虎口があり、その両側にある高い土塁から敵に横矢をかけられるようになっていた:
時代は戦国の世に入り永禄9(1566)年には、相模の北条氏綱・氏康父子と甲斐の武田信玄らの共闘に圧迫されていた上野は箕輪城の長野業盛[d]武田信玄の西上野侵攻を何度となくを撃退してきた勇将・長野業政(ながのなりまさ)の次男で若干17歳。長野家最後の当主。や怨敵北条を掲げて反攻した太田三楽斎、そして安房の里見義弘らの度重なる要請を受けて上杉輝虎(のちの謙信)が越軍を率いて関東へ出陣した。そして里見義堯・義弘父子と共に、原胤貞が籠もるここ臼井城を包囲し、本丸堀一重を残すばかりの落城寸前まで追い込んだものの、たまたま諸国行脚の修行で立ち寄った臼井城で城主・原胤貞より軍配を任された白井胤治(しらい・たねはる)[e]出家して白井入道浄三とも。圧倒的有利の上杉輝虎(謙信)ら越軍を2千の兵で迎え撃ち、撃退した「無双軍配名人」(名軍師で、諸葛亮孔明に因んで「今孔明」)として知られる。鉄仮面を被って軍配を執ったと云う。と相模北条家からの援軍である「赤鬼」こと松田康郷(まつだ・やすさと)[f]小田原北条氏綱の家臣。たった百騎で臼井城の援軍に駆けつけ、朱色の甲冑・具足の赤備で越軍本陣まで斬り込んで暴れ回り、越軍に撤退を余儀なくさせた。後に謙信も「鬼孫太郎」と感嘆したという猛将。の活躍により、輝虎ら越軍は撤退を余儀なくされたと云う。
そして、この本丸坂虎口辺りが、輝虎率いる越軍の「実城(本丸)堀一重」まで追い込んだ激戦の舞台であろうと思われる。
次の写真左は本丸虎口前から二の丸方面を振り返って見たところで、写真右は空堀を挟んで北にある本丸。本丸の北側は出丸のように土橋と平行に張り出しているので、そこから土橋にいる敵に対して横矢を仕掛けるのに都合のよい曲輪だった:
こちらは本丸の中から眺めた虎口。二の丸に向かって急坂となっているのがわかる:
こちらが軍神でさえも陥とせなかった本丸跡。二の丸以上に広い面積を持つ:
周囲は武者走のような低い土塁が設けられていた:
本丸から眺めた切岸と印旛沼。往時は、この城の下まで印旛沼だった:
さらに、ここ本丸から南東へたった450mほどのところに築かれていた臼井田宿内砦も眺めることができた:
往時は印旛沼に突き出していたであろう本丸跡:
こちらは同じく本丸からの眺望。少しだけしか見えないが、臼井城の支城の一つで印旛沼対岸に位置する師戸城跡が写真左手にある:
本丸の北東下には搦手曲輪が設けられていた:
これが本丸北端にある搦手側虎口跡。この虎口は天正18(1590)年に酒井家次が城主となった時代に造られたものらしい:
この虎口にある石垣遺構もまた酒井氏の時代のものらしい:
こちらは搦手曲輪から本丸を見上げたところ:
搦手曲輪のさらに北側には本丸空堀まで腰曲輪がいくつか設けられていた:
以上で臼井城攻めは終了。この後は二の丸虎口跡から城址公園を出て三の丸あたりを散策した。
こちらは三の丸の土橋を渡った先に建っていた太田図書資忠の墓:
室町時代中期、下総国を治めていた千葉氏一族は古河公方方と関東管領上杉氏との抗争に巻き込まれ、家中を二分する争いが起こった。自らが千葉家当主を名乗り古河公方と共に一族に反旗を翻した千葉輔胤(ちば・すけたね)とその嫡男・孝胤(のりたね)は、文明10(1478)年12月に太田道灌と境根原の戦で敗れ、一族の臼井持胤・俊胤が守る臼井城に籠城した。翌年正月に太田道灌は弟の太田図書助資忠と千葉自胤(ちば・よりたね)らとで臼井城を包囲したが防備が堅固なため撤収にはいったその時に臼井城からどっと討って出て激戦となった。ついには落城したが図書助の他53名の勇士が討死にしたという。
そこから更に西へ移動すると千葉氏ゆかりの臼井妙見社(星神社)がある。これは臼井城築城時に城内の鬼門の地に創建された社の一つである。「妙見」とは北斗七星を神格化したもので、千葉氏一族にとってはその祖・平良文以来の守護神である。千葉氏の家紋である「月星」「日月」「九曜」は、この妙見を由来としている:
臼井城攻め (フォト集)
臼井田宿内砦
臼井城址公園から南東へ約450mほど離れた場所に臼井田宿内砦(うすいだ・しゅくうちとりで)跡がある。臼井城は城のある台地の縁辺部に多くの支城を造り外敵に備えていた。この砦もその支城の一つとされており、戦国初期の原胤貞が城主の時に整備されたものではないかと云われている。
他にもいくつか砦が築かれているが、其の中でも良好な状態で遺構が残っているこの砦は、現在は私有地ながらも土地所有者の協力により佐倉市が借地し宿内公園(しゅくうち・こうえん)として開放されている。
公園の出入口は西側、南側、東側にあるが、今回は京成臼井駅から15分程歩いた国道R296沿いの臼井郵便局の対面にある民家脇から入る東側を利用した:
そして、こちらは「佐倉・城下町400年記念・お城のあるまち・佐倉」と云うパンフレットに描かれていた臼井田宿内砦の縄張図:
民家の脇道を進んで行くと公園の案内板が建っている:
このまま登城道を上って行く。この右手は帯郭である:
登城道を上った先が主郭の北東部にあたり、そこには腰郭が設けられていた。砦レベルできちんと主郭を守備する曲輪が設けられているのは珍しい:
腰郭の先には1m程の高さを持つ土居があり、その上が主郭になっている:
1m程高い主郭から見下した腰郭:
主郭は広く、東西約100m、南北60mほどの長方形の曲輪であった。砦の規模を超えた造りであった:
こちらは主郭の西端からの眺めで、左手には臼井城があり、正面の印旛沼の先には師戸城跡(現在は印旛沼公園)が見えた:
そして二郭は、この主郭の西側下に置かれているようだが藪化がひどくて確認することができなかった。
次に主郭から南西側へ移動すると一段下がったところも主郭で、主郭を囲むように土塁が残っていた。この土塁は櫓台跡と思われる:
そして土塁の切れ目が虎口にあたると思われる:
主郭脇に残る櫓台跡:
櫓台跡の土塁の上から見下した主郭虎口跡:
同じく櫓台跡から主郭の南側にある三郭側を見下ろしたところ。左手に若干の堀切跡が見える:
こちらは虎口を抜けて三郭側から主郭側を振り返って見たところ:
主郭の南側にある削平地は三郭であるが、二郭という説もあるらしい:
その台地続きの先は、現在は宅地化されていた。こちらが宿内公園の南側出入口とされる:
臼井田宿内砦攻め (フォト集)
謙信一夜城
戦国時代初期の永禄9(1566)年に、小田原北条氏と甲斐武田氏らの圧迫に窮していた関東の豪族らの要請を受けて越後の上杉輝虎[g]のちの上杉謙信。謙信は名前を度々変えているが、この輝虎の「輝」は室町幕府第13代征夷大将軍である足利義輝(あしかが・よしてる)の偏諱(一字)を拝領したもの。が関東へ出陣し、原胤貞が籠もる臼井城を攻略するために築いたと伝わる単郭の陣城跡が千葉県佐倉市王子台にある。臼井城址から直線距離で1.3kmほどしかない場所は、ちょうど京成臼井駅の南口から徒歩10程の閑静な住宅地の中にあり、現在は児童公園となっていた。その名も「一夜城公園」:
どこからどう見ても普通の児童公園であるが、その一角に「一夜城史跡」なる石碑が建っていた:
その背面には一夜城の所縁でも記されているのかと思ったら、単なる上杉謙信の人となりだった:
佐倉市は昭和40(1965)年の都市開発前に発掘調査を行い、中世城郭の遺構を確認したようだが、それらの説明は全く無い上に、臼井城との距離があまりにも近すぎて信憑性は低いと云わざるを得ないが、新潟からこんなに離れた千葉の土地にも軍神・上杉謙信の歴史が刻まれているのはある意味で面白い。但し、臼井城攻めは謙信にとって生涯の中で最も惨めな負け戦であり、記録にも残っていないのだとか:
謙信一夜城攻め (フォト集)
参照
↑a | 伊藤潤作の『叛鬼(はんき)』(講談社文庫)の主人公である。 |
---|---|
↑b | 自胤(よりたね)に反攻して、下総国千葉氏当主を自称した孝胤(たかたね)は分家筋にあたり、のちに自胤は室町幕府から千葉氏の当主として認められた。 |
↑c | 隠士・臼井信斎(うすい・しんさい)と円応寺の住職・宗的(そうてき)が中国の北宋の瀟湘八景色(しょうしょう・はちけい)に倣って選定した8つの景勝地のこと。 |
↑d | 武田信玄の西上野侵攻を何度となくを撃退してきた勇将・長野業政(ながのなりまさ)の次男で若干17歳。長野家最後の当主。 |
↑e | 出家して白井入道浄三とも。圧倒的有利の上杉輝虎(謙信)ら越軍を2千の兵で迎え撃ち、撃退した「無双軍配名人」(名軍師で、諸葛亮孔明に因んで「今孔明」)として知られる。鉄仮面を被って軍配を執ったと云う。 |
↑f | 小田原北条氏綱の家臣。たった百騎で臼井城の援軍に駆けつけ、朱色の甲冑・具足の赤備で越軍本陣まで斬り込んで暴れ回り、越軍に撤退を余儀なくさせた。後に謙信も「鬼孫太郎」と感嘆したという猛将。 |
↑g | のちの上杉謙信。謙信は名前を度々変えているが、この輝虎の「輝」は室町幕府第13代征夷大将軍である足利義輝(あしかが・よしてる)の偏諱(一字)を拝領したもの。 |
この日は謙信一夜城→臼井田宿内砦跡→臼井城→佐倉城の順で攻めてみた。前日が雨だったせいかそれぞれ少々ぬかるんでいたけれど、それなりに見どころはあった。臼井田宿内砦は是非、臼井城攻めとセットで。