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城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

臼井城と臼井田宿内砦 − Usui Castle and Usuida Shukuuchi Fort

臼井城の本丸からは臼井田宿内砦や師戸城などの支城を眺めることができる

永久2(1114)年に坂東平氏である下総国の豪族は千葉一族の臼井六郎常康(うすい・ろくろう・つねやす)が居を構えた千葉県佐倉市臼井田には、のちに臼井氏の中興の祖と云われる臼井興胤(うすい・おきたね)の代の14世紀中頃に、臼井城の基礎がおかれたと伝えられている。今から500年以上も前の文明10(1478)年に関東管領の重臣の一人だった長尾左衛門尉景春[a]伊藤潤作の『叛鬼(はんき)』(講談社文庫)の主人公である。が起こした反乱に乗じて古河公方と共に関東管領山内上杉氏と対立した千葉孝胤を討つべく、江戸城を発った扇谷上杉氏家宰の太田道灌資長と千葉自胤(ちば・よりたね)[b]自胤(よりたね)に反攻して、下総国千葉氏当主を自称した孝胤(たかたね)は分家筋にあたり、のちに自胤は室町幕府から千葉氏の当主として認められた。らは国府台城に布陣、境根原古戦場(さかいねはら・こせんじょう)で激戦となり、そこで敗北した孝胤はここ臼井城に籠城しなおも抵抗する。さすがの名将道灌も攻めあぐねたが、なんとか周囲にある砦や支城を攻め落とし最後の決戦で臼井城を陥落させて孝胤を父・千葉輔胤(ちば・すけたね)の居城である本佐倉城へ敗走させたが、その決戦で道灌は弟の太田図書資忠と太田家譜代の勇士らを失ってしまった。そして翌年の和議ののち文明18(1486)年に道灌が謀殺されると、孝胤は再び臼井城を奪取し、家臣の臼井景胤(うすい・かげたね)が城主となった。

昨年は平成27(2015)年の肌寒い春に自身初の千葉県の城攻めとして、佐倉市は京成臼井駅周辺にある城址を幾つか攻めてきた。ちなみに佐倉市内には城跡が現在58ヶ所(当時)も確認されており、今回攻めてきた臼井城、臼井田宿内砦(うすいだ・しゅくうち・とりで)、謙信一夜城、そして佐倉城といった城跡はそれらのうちの一部であり、多くが城址公園として整備されていて比較的散策しやすい環境であった。

こちらは「佐倉・城下町400年記念・お城のあるまち・佐倉」と云うパンフレットに描かれていた臼井城縄張図。なお、現在見ることができる遺構は、天正18(1590)年に徳川家康が関東八州に入封した後に酒井家次が城主となって整備した時代のものとされ、本丸や二の丸といった主要な曲輪の外側に三の丸を設け、さらに城のある台地縁辺部に支城をいくつか造り外敵に備えていた。例えば臼井城本丸から南東にたった450mほど離れた場所にある臼井田宿内砦跡はその支城の一つだと考えられている:

徳川家康の家臣・酒井家次の時代の縄張と云われている

臼井城縄張図

徳川家康の家臣・酒井家次の時代の縄張と云われている

臼井城縄張図(コメント付き)

こちらは臼井城跡の説明板に添付されていた城址公園周辺の縄張図。現在、三の丸の大部分が宅地化されてしまっているので実際に見学できる範囲は公園の中と周辺の一部ではあるが空堀や土塁が比較的良好な状態で残っていた:

臼井城址公園出入口の説明板に記載されていたもの

臼井城跡の案内図

京成臼井駅から徒歩15分ほど、国道R296をちょっと過ぎた道沿いに案内版があったので、それに従って住宅街を抜けていくと臼井城の累壁が見えてきた:

この道路の先に見えている丘陵が臼井城址である

「臼井城址公園」の案内板

案内板に従えば特に問題なく到着できるはず(駐車場もあり)

住宅地を抜けると臼井城の塁壁が見えてくる

ここが臼井城址公園の駐車場であり(写真右手にある)、二の丸と本丸の間に設けられていた空堀跡でもある。そして、このまま道なりに進むと公園入口がある:

右手に駐車場(空堀跡)、正面に見えるのが二の丸跡

「臼井城址公園駐車場」の案内板

これが、堀底の一部駐車場となっているが見事な本丸空堀跡。左手が二の丸跡で、右手が本丸跡。正面にはそれらの曲輪をつなぐ土橋と本丸虎口の土塁がある:

左手が二の丸、正面が土橋と本丸虎口の土塁、右手が本丸

本丸空堀跡

一部が駐車場になっているが良好な状態で残っていた

本丸空堀跡(コメント付き)

二の丸跡に上がって本丸空堀跡を見下したところ。堀の向こう側が本丸跡。現在の深さから往時はかなり深かったと推測できる:

現在は堀底駐車場ができているが、良好な状態で残っていた

本丸空堀跡

一旦、空堀あとを出て、二の丸土塁の脇に沿って城址公園出入口に向かって移動した:

右手が二の丸跡で、この先に城址公園出入口がある

二の丸土塁

そして二の丸土塁と空堀との間にある二の丸虎口が、現在は城址公園出入口となって城址の碑と説明板が建っていた:

手前は二の丸土塁、出入口の向こうが二の丸空堀

二の丸虎口跡

城址の碑と説明板が建っている二の丸虎口

臼井城址公園の出入口

二の丸虎口に建つ「臼井城址」の碑。ここ臼井城は、名勝・臼井八景[c]隠士・臼井信斎(うすい・しんさい)と円応寺の住職・宗的(そうてき)が中国の北宋の瀟湘八景色(しょうしょう・はちけい)に倣って選定した8つの景勝地のこと。の一つとして元禄11(1698)年に選定された景勝の地でもある:

城址公園の出入口が二の丸虎口に相当する

「臼井城址」の碑

永久2(1114)年に千葉常兼の三男常康が初めて臼井の地を治めて以来、16代臼井久胤までの約450年間、臼井氏は長くこの地の領主であった。その後、千葉氏の重臣・原氏や徳川家康の家臣・酒井家次の居城となったが、文禄3(1593)年の火災で城郭は焼失した。それからおよそ100年後の元禄期に、臼井八景の作者であり臼井久胤の玄孫にあたる臼井信斎(うすい・しんさい)はこの城跡の嶺に立って自分の先祖が城主であった頃の遠い昔を偲びながら感慨深く詠んだ句が城嶺夕照(じょうれいせきしょう)と云うらしい。

二の丸虎口の目の前には物見台だったような土塁跡が残っていた:

土塁の右手は急崖なので、物見台相当のものが建っていたと思われる

土塁の上に建つ「お富士さん」こと小峯神社

この土塁跡の上には 現在は「お富士さん」こと富士浅間大神を祀った小峯神社が建っている:

昭和5(1930)年7月吉日に建てられたものらしい

「富士山浅間大神」の碑

左手のフェンス下は急崖であり、いかにも物見櫓風の立地であった

小峯神社

こちらは、この物見台風の土塁の上から二の丸跡を眺めたところ:

手前に見える祠は道祖神さんのもの

二の丸跡

二の丸跡を攻める前に二の丸を外郭(三の丸)側からみてみた。これが二の丸と三の丸を結ぶ土橋跡。現在はアスファルト製の道路になっているけど、両脇が急崖だったり空堀だったりして、車一台しか通れない幅はいかにも土橋っぽい:

手前が二の丸跡、道路の向こうが三の丸跡である

二の丸と三の丸を結ぶ土橋跡1

三の丸側(手前)から土橋の両脇を覗き込んでみた:

二の丸側は深い空堀になっていた

三の丸と二の丸を結ぶ土橋跡2

その反対側はかなりの急崖になっていた

三の丸と二の丸を結ぶ土橋跡3

こちらが二の丸を取り囲む空堀。藪化してわかりづらいが、二の丸側の塁壁を見てもわかるとおり、その深さはかなりのものと推測できる:

深い空堀の向こうが二の丸である

二の丸空堀1

空堀の向こうにみえるが二の丸の塁壁

二の丸空堀2

この後は二の丸虎口であった城址公園入口から二の丸跡へ入った。こちらは二の丸から虎口を覗いたところで、左手が二の丸跡、右手が二の丸の空堀である:

現在は臼井城址公園の出入口となっていた

二の丸虎口跡

永禄4(1561)年、臼井家16代当主の久胤の時代に臼井城は里見家の正木大膳信茂に攻められて落城したが、のちに里見氏が小田原北条氏との第二次国府台合戦で敗れ下総国における支配力が弱まった隙に千葉氏の家老・原胤貞が奪還した。

こちらは二の丸跡。その敷地は非常に広く、現在は憩いの場として市民に開放されていた:

広大な敷地は、現在は公園として市民に開放されている

二の丸跡1

広大な敷地は、現在は公園として市民に開放されている

二の丸跡2

これは先ほど見た空堀を二の丸の中から見たところ:

二の丸側の塁壁が垂直に近い角度で落ち込んでいた

二の丸空堀3

二の丸を一回りして本丸へ向かった。これは、駐車場近くで見た空堀とは土橋を挟んで反対側にある本丸空堀である。そちらと比較すると若干浅くなっているように見えるが、これは公園化に伴った遺構保護と公園内の事故予防によるものらしい:

二の丸から本丸へ続く空堀で、向こうに見えるが土橋

本丸空堀1

僅かに浅くなっているが、公園化に伴った遺構保護と事故防止によるものらしい

本丸空堀2

こちらは本丸側から眺めた空堀。二の丸と本丸との間の比高差から随分と深い堀に見える:

本丸から眺めると比高差分だけ深く見えた

本丸空堀4

本丸から眺めると比高差分だけ深く見えた

本丸空堀5

これが空堀によって区切られた本丸の坂虎口と二の丸を結ぶ土橋で、両脇が本丸空堀である。現在は遺構保存として盛土して、その上に遊歩道が造られている:

本丸の虎口は角度が付いた坂の上にあり、敵の進度を低下させる工夫があった

本丸と二の丸を結ぶ土橋跡

土橋の幅を狭くすることで一度に多勢の敵が渡れなくし、曲がった坂をつけて敵の進む速度を低下させるような工夫がされていた:

正面の虎口の土塁から側面攻撃を受けやすくする工夫があった

本丸空堀に架かる土橋跡

土橋を渡った先には坂虎口があり、その両側にある高い土塁から敵に横矢をかけられるようになっていた:

左右に土塁が設けられて土橋を渡る敵に横矢をかけたという

本丸坂虎口と土塁1

時代は戦国の世に入り永禄9(1566)年には、相模の北条氏綱・氏康父子と甲斐の武田信玄らの共闘に圧迫されていた上野は箕輪城の長野業盛[d]武田信玄の西上野侵攻を何度となくを撃退してきた勇将・長野業政(ながのなりまさ)の次男で若干17歳。長野家最後の当主。や怨敵北条を掲げて反攻した太田三楽斎、そして安房の里見義弘らの度重なる要請を受けて上杉輝虎(のちの謙信)が越軍を率いて関東へ出陣した。そして里見義堯・義弘父子と共に、原胤貞が籠もるここ臼井城を包囲し、本丸堀一重を残すばかりの落城寸前まで追い込んだものの、たまたま諸国行脚の修行で立ち寄った臼井城で城主・原胤貞より軍配を任された白井胤治(しらい・たねはる)[e]出家して白井入道浄三とも。圧倒的有利の上杉輝虎(謙信)ら越軍を2千の兵で迎え撃ち、撃退した「無双軍配名人」(名軍師で、諸葛亮孔明に因んで「今孔明」)として知られる。鉄仮面を被って軍配を執ったと云う。と相模北条家からの援軍である「赤鬼」こと松田康郷(まつだ・やすさと)[f]小田原北条氏綱の家臣。たった百騎で臼井城の援軍に駆けつけ、朱色の甲冑・具足の赤備で越軍本陣まで斬り込んで暴れ回り、越軍に撤退を余儀なくさせた。後に謙信も「鬼孫太郎」と感嘆したという猛将。の活躍により、輝虎ら越軍は撤退を余儀なくされたと云う。
そして、この本丸坂虎口辺りが、輝虎率いる越軍の「実城(本丸)堀一重」まで追い込んだ激戦の舞台であろうと思われる。

土橋の敵に対して横矢をかけることができる土塁であった

本丸坂虎口の土塁(北側)

土橋の敵に対して横矢をかけることができる土塁であった

本丸坂虎口の土塁(南側)

次の写真左は本丸虎口前から二の丸方面を振り返って見たところで、写真右は空堀を挟んで北にある本丸。本丸の北側は出丸のように土橋と平行に張り出しているので、そこから土橋にいる敵に対して横矢を仕掛けるのに都合のよい曲輪だった:

この土橋を進む敵に対して →

土橋と本丸空堀

←堀を挟んだ本丸から横矢を仕掛けた

出丸のような本丸北側

こちらは本丸の中から眺めた虎口。二の丸に向かって急坂となっているのがわかる:

本丸の中から眺めたところで、この下に土橋がある

本丸坂虎口と土塁2

こちらが軍神でさえも陥とせなかった本丸跡。二の丸以上に広い面積を持つ:

周囲には武者走のような土塁が設けられていた

本丸跡1

周囲は武者走のような低い土塁が設けられていた:

右手には本丸空堀がある

本丸を囲む低い土塁1

往時、右手下まで印旛沼が迫っていた

本丸を囲む低い土塁2

本丸から眺めた切岸と印旛沼。往時は、この城の下まで印旛沼だった:

この先に見えるのが印旛沼であるが、往時はこの土塁下まで印旛沼だった

本丸からの眺望1

さらに、ここ本丸から南東へたった450mほどのところに築かれていた臼井田宿内砦も眺めることができた:

この先に見える丘陵地帯が臼井城の支城の一つであった臼井田宿内砦跡

本丸からの眺望2

往時は印旛沼に突き出していたであろう本丸跡:

広大な本丸の下には搦手曲輪や腰曲輪が設けられていた

本丸跡2

こちらは同じく本丸からの眺望。少しだけしか見えないが、臼井城の支城の一つで印旛沼対岸に位置する師戸城跡が写真左手にある:

印旛沼を挟んで左手には師戸城跡の印旛沼公園がある

本丸からの眺望3(拡大版)

本丸の北東下には搦手曲輪が設けられていた:

台地下へ繋る搦手を守る曲輪であった

搦手曲輪1

右手奥が搦手にあたる

搦手曲輪2

往時は周囲を取り巻く住宅街もまた印旛沼だった

搦手曲輪3

これが本丸北端にある搦手側虎口跡。この虎口は天正18(1590)年に酒井家次が城主となった時代に造られたものらしい:

本丸と搦手曲輪をつなぐ虎口である

本丸搦手側虎口1

これは酒井家次が城主だった頃に造られたと云う

本丸搦手側虎口2

この虎口にある石垣遺構もまた酒井氏の時代のものらしい:

搦手曲輪から本丸へ続く虎口に設けられた石垣

本丸搦手側虎口の石垣1

徳川家家臣の酒井氏が入封した以降に造られた石垣である

本丸搦手側虎口の石垣2

こちらは搦手曲輪から本丸を見上げたところ:

本丸の北側下に位置する曲輪である

搦手曲輪

搦手曲輪のさらに北側には本丸空堀まで腰曲輪がいくつか設けられていた:

本丸北側下に設けられた曲輪である

腰曲輪1

本丸北側下に設けられた曲輪である

腰曲輪2

以上で臼井城攻めは終了。この後は二の丸虎口跡から城址公園を出て三の丸あたりを散策した。

こちらは三の丸の土橋を渡った先に建っていた太田図書資忠の墓:

三の丸の土橋を渡った先にある

太田図書の墓

室町時代中期、下総国を治めていた千葉氏一族は古河公方方と関東管領上杉氏との抗争に巻き込まれ、家中を二分する争いが起こった。自らが千葉家当主を名乗り古河公方と共に一族に反旗を翻した千葉輔胤(ちば・すけたね)とその嫡男・孝胤(のりたね)は、文明10(1478)年12月に太田道灌と境根原の戦で敗れ、一族の臼井持胤・俊胤が守る臼井城に籠城した。翌年正月に太田道灌は弟の太田図書助資忠と千葉自胤(ちば・よりたね)らとで臼井城を包囲したが防備が堅固なため撤収にはいったその時に臼井城からどっと討って出て激戦となった。ついには落城したが図書助の他53名の勇士が討死にしたという。

太田道灌資正の弟(または甥とも)で、兄と共に長尾景春の乱の鎮圧にあたった

太田図書之墓

そこから更に西へ移動すると千葉氏ゆかりの臼井妙見社(星神社)がある。これは臼井城築城時に城内の鬼門の地に創建された社の一つである。「妙見」とは北斗七星を神格化したもので、千葉氏一族にとってはその祖・平良文以来の守護神である。千葉氏の家紋である「月星」「日月」「九曜」は、この妙見を由来としている:

臼井城築城の際に鬼門の地に創建された社の一つである

星神社の鳥居

千葉氏の家紋は月星であり、妙見を由来とする

星神社

See Also臼井城攻め (フォト集)

 

臼井田宿内砦

臼井城址公園から南東へ約450mほど離れた場所に臼井田宿内砦(うすいだ・しゅくうちとりで)跡がある。臼井城は城のある台地の縁辺部に多くの支城を造り外敵に備えていた。この砦もその支城の一つとされており、戦国初期の原胤貞が城主の時に整備されたものではないかと云われている。

他にもいくつか砦が築かれているが、其の中でも良好な状態で遺構が残っているこの砦は、現在は私有地ながらも土地所有者の協力により佐倉市が借地し宿内公園(しゅくうち・こうえん)として開放されている。

公園の出入口は西側、南側、東側にあるが、今回は京成臼井駅から15分程歩いた国道R296沿いの臼井郵便局の対面にある民家脇から入る東側を利用した:

写真を写している敷地がいわゆる宿内公園の出入口につながる脇道

国道R296沿いにある臼井郵便局

この先に見える森が宿内公園である

その対面にある民家の脇道に入る

そして、こちらは「佐倉・城下町400年記念・お城のあるまち・佐倉」と云うパンフレットに描かれていた臼井田宿内砦の縄張図:

国道R295から比高30mほどの台地に築かれてた砦である

臼井田宿内砦縄張図

「砦」でありながら主郭から三郭までの本格的な縄張を持つ

臼井田宿内砦縄張図(コメント付き)

民家の脇道を進んで行くと公園の案内板が建っている:

民家の脇道を進んでいくと案内板が建っている

宿内公園東側出入口

臼井城砦跡で、土地所有者の協力で利用できるとのこと

宿内公園の案内板

このまま登城道を上って行く。この右手は帯郭である:

公園の東側出入口から続く登城道の先は腰郭に至る

登城道

登城道を上った先が主郭の北東部にあたり、そこには腰郭が設けられていた。砦レベルできちんと主郭を守備する曲輪が設けられているのは珍しい:

主郭の北東端に設けられた曲輪で、正面の土塁の上が主郭である

腰郭1

腰郭の先には1m程の高さを持つ土居があり、その上が主郭になっている:

「砦」ながら主郭を守る腰郭があるのは珍しい

腰郭2

腰郭から1mほど高い場所にあるのが主郭である

腰郭3

1m程高い主郭から見下した腰郭:

腰郭とはいえ意外と広い曲輪であるのがよくわかる

腰郭4

主郭は広く、東西約100m、南北60mほどの長方形の曲輪であった。砦の規模を超えた造りであった:

東西約100m、南北約60mほどの矩形の曲輪である

主郭1

ここも主郭である

主郭2

この一段上も主郭である

主郭3

東西約100m、南北約60mほどの矩形の曲輪である

主郭4

主郭の西端から眺めたところ

主郭5

主郭の西端から東側を眺めたところで、この先には先ほどの腰郭がある

主郭6

主郭の西端から東側を眺めたところで、この先には虎口跡がある

主郭7

こちらは主郭の西端からの眺めで、左手には臼井城があり、正面の印旛沼の先には師戸城跡(現在は印旛沼公園)が見えた:

左手には臼井城があり、正面は印旛沼を挟んで師戸城がある

主郭からの眺め

そして二郭は、この主郭の西側下に置かれているようだが藪化がひどくて確認することができなかった。

次に主郭から南西側へ移動すると一段下がったところも主郭で、主郭を囲むように土塁が残っていた。この土塁は櫓台跡と思われる:

左手に見えるのが虎口で、正面の土塁は櫓台跡と思われる

主郭南西側に設けられた土塁

そして土塁の切れ目が虎口にあたると思われる:

その左手の一段高い土塁は櫓台跡と思われる

主郭虎口跡1

主郭脇に残る櫓台跡:

ここまでくると砦というよりは本格的な城の規模にも思える

主郭櫓台跡

かなり本格的な造りとなっていた

櫓台跡の上

櫓台跡の土塁の上から見下した主郭虎口跡:

主郭櫓台跡の土塁の上から見下ろしたところ

主郭虎口跡2

同じく櫓台跡から主郭の南側にある三郭側を見下ろしたところ。左手に若干の堀切跡が見える:

若干だが両脇には堀切、その中心に土橋が残り、その先が三郭にあたる

主郭櫓台から見た三郭側1

三郭側には幅の広い堀切の痕跡が残っていた

主郭櫓台から見た三郭側2

三郭側には幅の広い堀切の痕跡が残っていた

主郭櫓台から見た三郭側2(コメント付き)

こちらは虎口を抜けて三郭側から主郭側を振り返って見たところ:

虎口の向こう側が主郭で、手前が三郭である

三郭側から見た主郭虎口1

若干ながら土橋の両脇に堀切跡が残っていた

三郭側から見た主郭虎口2

若干ながら土橋の両脇に堀切跡が残っていた

三郭側から見た主郭虎口2(コメント付き)

主郭の南側にある削平地は三郭であるが、二郭という説もあるらしい:

こちらを二郭と見る説もあるらしい

三郭1

この下には緩崖になっていた

三郭2

その台地続きの先は、現在は宅地化されていた。こちらが宿内公園の南側出入口とされる:

こちら側は宅地化の波が押し寄せていた

三郭の南端

See Also臼井田宿内砦攻め (フォト集)

 

謙信一夜城

戦国時代初期の永禄9(1566)年に、小田原北条氏と甲斐武田氏らの圧迫に窮していた関東の豪族らの要請を受けて越後の上杉輝虎[g]のちの上杉謙信。謙信は名前を度々変えているが、この輝虎の「輝」は室町幕府第13代征夷大将軍である足利義輝(あしかが・よしてる)の偏諱(一字)を拝領したもの。が関東へ出陣し、原胤貞が籠もる臼井城を攻略するために築いたと伝わる単郭の陣城跡が千葉県佐倉市王子台にある。臼井城址から直線距離で1.3kmほどしかない場所は、ちょうど京成臼井駅の南口から徒歩10程の閑静な住宅地の中にあり、現在は児童公園となっていた。その名も「一夜城公園」:

上杉輝虎(謙信)が臼井城攻略のために築いた陣城らしいが・・・

「一夜城公園」の案内板

現在はどこからどう見ても児童公園となっていた

一夜城公園1

どこからどう見ても普通の児童公園であるが、その一角に「一夜城史跡」なる石碑が建っていた:

一夜城公園の一角に置かれた石碑

「一夜城史跡」の碑

その背面には一夜城の所縁でも記されているのかと思ったら、単なる上杉謙信の人となりだった:

謙信一夜城の由来なる説明だが・・・

「一夜城史跡」の碑(背面)

 

佐倉市は昭和40(1965)年の都市開発前に発掘調査を行い、中世城郭の遺構を確認したようだが、それらの説明は全く無い上に、臼井城との距離があまりにも近すぎて信憑性は低いと云わざるを得ないが、新潟からこんなに離れた千葉の土地にも軍神・上杉謙信の歴史が刻まれているのはある意味で面白い。但し、臼井城攻めは謙信にとって生涯の中で最も惨めな負け戦であり、記録にも残っていないのだとか:

ここから中世城郭の遺構が発見されたというが特に説明はなかった

一夜城公園2

See Also謙信一夜城攻め (フォト集)

参照   [ + ]

a. 伊藤潤作の『叛鬼(はんき)』(講談社文庫)の主人公である。
b. 自胤(よりたね)に反攻して、下総国千葉氏当主を自称した孝胤(たかたね)は分家筋にあたり、のちに自胤は室町幕府から千葉氏の当主として認められた。
c. 隠士・臼井信斎(うすい・しんさい)と円応寺の住職・宗的(そうてき)が中国の北宋の瀟湘八景色(しょうしょう・はちけい)に倣って選定した8つの景勝地のこと。
d. 武田信玄の西上野侵攻を何度となくを撃退してきた勇将・長野業政(ながのなりまさ)の次男で若干17歳。長野家最後の当主。
e. 出家して白井入道浄三とも。圧倒的有利の上杉輝虎(謙信)ら越軍を2千の兵で迎え撃ち、撃退した「無双軍配名人」(名軍師で、諸葛亮孔明に因んで「今孔明」)として知られる。鉄仮面を被って軍配を執ったと云う。
f. 小田原北条氏綱の家臣。たった百騎で臼井城の援軍に駆けつけ、朱色の甲冑・具足の赤備で越軍本陣まで斬り込んで暴れ回り、越軍に撤退を余儀なくさせた。後に謙信も「鬼孫太郎」と感嘆したという猛将。
g. のちの上杉謙信。謙信は名前を度々変えているが、この輝虎の「輝」は室町幕府第13代征夷大将軍である足利義輝(あしかが・よしてる)の偏諱(一字)を拝領したもの。

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