千葉県佐倉市城内町にある佐倉城は、印旛沼へ注ぐ鹿島川、高崎川を天然の外堀とし、周囲が湿地帯である台地の上に土塁を穿って築城した連郭式平山城で、戦国時代の中頃に本佐倉城を居城としていた下総国の戦国大名・千葉親胤(ちば・ちかたね)[a]その先祖は、千葉氏宗家・千葉自胤(ちば・よりたね)と関東管領山内上杉氏に反抗し、名将・太田道灌と幾度か合戦した千葉輔胤(ちば・すけたね)・孝胤(たかたね)父子である。が大叔父にあたる鹿島幹胤(かしま・みきたね)に命じて築城が始まり、鹿島城と呼ばれていたものの、親胤が暗殺(享年17)されたために一時中断となった。その後、親胤の直系にあたる千葉氏第29代当主・千葉邦胤(ちば・くにたね)は上総の雄・里見義弘の圧迫を受けることになったため築城を急ぎ再開したものの、邦胤もまた暗殺[b]天正13(1985)年の新年の祝賀の席にて近習の放屁を叱責したところ、恨みを持たれて就寝中に短刀で刺され死亡した。享年39。嫡男は幼少だったため、小田原北条氏政の実子が千葉家を継いだ。されて再び中断となり、城が完成せぬまま天正18(1590)の豊臣秀吉による小田原仕置を迎えた。この時の当主が、北条氏政の実子で氏直の弟である直重であったため、ここに下総千葉氏は滅亡した。その後、徳川家康が関東八州に入封した際に、その要害に着目し、慶長15(1610)年に土井利勝に命じて未完の鹿島城を整備拡張し七年の歳月を経て佐倉城として完成した。六世126年間11万石を領有した堀田氏による佐倉藩は、明治維新を迎えて廃城となったのち、帝国陸軍の佐倉連隊が駐屯して施設はことごとく破却されてしまった。
昨年は平成27(2015)年の早春に自身初の千葉県の城攻めとして、まずは佐倉市にある「下総の戦国大名であった」千葉氏ゆかりの城をいくつか攻めてきた。ただ佐倉城はほぼ徳川治世の時代の城のため戦国時代の遺構が残っていないのは勿論で、さらに補足すると明治6(1873)年には帝国陸軍第一軍管第二師営東京鎮台の佐倉営所が置かれていたため、江戸時代の施設や遺構は破却されたか改変されてしまっていると云う。
とはいえ全く城跡が無いわけでもなく、実際に攻めてみると城址公園として復原ながら椎木門(しい き・もん)の角馬出や本丸西と南側の出丸などが整備されていた。
こちらは「佐倉城址公園案内図」。京成佐倉駅南口入口の交差点近くあった佐倉市観光協会で入手した資料に記載されていたもので、本丸と二の丸の一部が公園として整備され、三の丸などは市役所があったり、学校が建っていたりして宅地化されていた。また城址公園の敷地には歴博こと国立歴史民族博物館が建っていた:
今回は京浜佐倉駅を出てまっすぐ成田街道へ向かって南下し、そこから大手門跡に向かって西へ移動した。佐倉市役所の体育館を過ぎると佐倉城大手門跡が見えてくる:
こちらは明治5(1872)年頃の破却される前の大手門の写真(佐倉市作成の「お城のあるまち佐倉」のパンフレットより):
大手門跡を城址公園へ向けてさらに西進していくと右手に佐倉中学校、左手に佐倉東高校が見えてくる。往時は、ここが三の丸で、武家屋敷が立ち並んでいたと云う。さらに三の丸御殿が建っていた場所は自由広場として、現在は佐倉城址管理センター兼案内所が置かれていたり駐車場になっていたりしていた:
自由広場を横目にさらに西進していくと車止めがあり、そこから佐倉城址公園の敷地となる。そして中へ入ると、先ほどの三の丸御殿跡と三の丸門跡の間に空堀が見えてくる。但し、残念ながら明治6(1873)年に帝国陸軍が駐屯して大きく改変されたため、往時の姿は残っていないのだとか:
そして姥ヶ池に向かって降りる遊歩道は堀底道で、さらにそれと交差する部分にも深い堀が残っていた:
改変されていると云われる空堀を三の丸から見下ろすとかなりの深さを持っていた。実際に堀底へ下りてみるとそれがよくわかる:
堀底から再び三の丸跡へ上がり、三の門跡へ向かった。こちらは、その手前にあった佐倉城公園の案内板:
ここが三の門跡:
そして、こちらは明治時代初期の三の門。北向き、木造で本瓦葺の二階造り。梁間三間(はりま・さんげん)・桁行六間(けたゆき・ろっけん)で、御作事(おさくじ)の諸道具を格納した倉庫として使われ、門内は三の丸で、家老屋敷が置かれていた:
三の丸跡に入ったら本丸・二の丸方面ではなく南側の出丸跡へ向かった。その手前にはちょっとした櫓台らしきものがあり、この上からは高崎川を挟んだ向こう側にある寺崎方面を眺めることができる:
さらに南側へ進んでいくと小さな池のようなものが見えてくるが、これは水堀の一部であったようで、往時はもっと長く、この先の南側出丸を囲む水堀に継っていたと思われる:
このまま進んでいくと南側出丸が見えてくる:
角馬出城の南側出丸と水堀は本丸の台地下を囲むようにして設けられていた:
南側出丸から三の丸御殿の台地下にかけて土居が一直線に伸びている。道路は、往時は水堀であったと思われる:
土居の中にある三の丸には家老らの屋敷や鷹匠町が並んでいたと云う:
南側出丸の中に入るために虎口へ向かった:
南側出丸の内側。それほど高くはないが、しっかりと土塁で囲まれていた:
南側出丸(右手)の土居あたりには清水門と云う門が建っていたらしい:
南側出丸から本丸方面の眺め。ちょうど水堀と本丸との間には帯曲輪が設けられており、現在は遊歩道になっていた:
南側出丸から本丸へは、本丸を囲むこの帯曲輪(の遊歩道)から回っていくルートの他に、二の丸跡を経由して回っていくルートがある。こちらが後者の二の丸跡へ向かうルートで、本丸を囲む深い空堀の堀底道が遊歩道になっていた:
そして、こちらが前者の帯曲輪跡に造られた遊歩道。今回はこちらのルートを選択した。その先には南側出丸から続く水堀があった:
この帯曲輪は南側出丸と、この先にある西側出丸跡をつなぐ形で設けられていた:
帯曲輪を西へ向かって進んでいくと、城址の西側にある出丸跡が見えてきた。ここが西側出丸の虎口となる:
西側出丸の虎口に建つ門は、昔城内にあったものであるが、市内の酒造家・土井家に下賜され長くその表門として使用されていた。昭和37(1962)年、城主堀田家の菩提寺である甚大寺がコレを譲り受け保管していたが、昭和58(1983)年に佐倉市に寄付して、ここに復元されたものだとか:
そして、西側出丸を囲む水堀は南側出丸から続いていたもの:
城址の西側に突出して築かれたこの出丸跡は藪化しているものの、内部は高い土居に囲まれていた:
こちらが高い土居で囲まれた西側出丸跡の内部:
そして周囲を取り巻く土居。現在は土居の上が遊歩道になっていた:
西側出丸跡から遊歩道をさらに北上して二の丸跡(国立歴史民俗博物館方面)へ移動した:
そして国立歴史民俗博物館の前には椎木門(しいき・もん)の角馬出が綺麗に復元されていた。これは人馬の出入りを敵に知られぬように門前に築いた土居の一種である:
角馬出は馬出と空堀からなり、ここで復元された空堀は明治初期より佐倉連隊造営のため埋め立てられていたものを昭和46(1971)年から二回にわたった発掘調査により、往時は長辺121m、短辺40mのコの字型で、深さ5.6mの規模であったことが確認された。現在は城址公園ということもあり、安全対策のため長辺と短辺はそのままで深さだけ浅くしているとのこと:
見事に復元された角馬出の空堀:
そして、こちらが馬出の内部。右手に見える国立歴史民俗博物館あたりが椎木曲輪で侍屋敷が建っていたとされるところ(佐倉連隊時代は兵舎が建っていた):
ここが椎木門跡。椎木門は北向き、木造で本瓦葺の二階造り。梁間三間で桁行七間の規模で、前面に角馬出が設けられていた:
こちらは明治5(1872)年頃の破却される前の椎木門の写真(佐倉市作成の「お城のあるまち佐倉」のパンフレットより):
こちらは椎木門から眺めた馬出の内部:
椎木門跡を過ぎて遊歩道を南へ移動していくと二の門跡がある。二の門は東向き、木造で本瓦葺の二階造り。梁間三間の桁行八間の櫓門で、本丸から大手門に至る第二の門で「二の御門」と呼ばれていた。両脇には土塁が残り、片側に大きな空堀があった:
こちらは明治初期に撮影された二の御門。一の門から東へ一直線上に設けられており、武器庫として使用されていた:
こちらは二の丸土塁。この裏側に巨大な空堀があった:
そして二の丸跡。ここには藩政を司る役所などが置かれていた:
二の丸を過ぎたところには本丸の空堀が見えてくる。本丸の北と東側に堀が設けられていた:
こちらが一の門跡。一の御門とも呼ばれ、二の御門とは一直線上にある。東向き、木造で本瓦葺の二階造り。梁間四間の桁行八間の櫓門であった:
こちらは明治初期に撮影された一の御門(佐倉市作成の「お城のあるまち佐倉」のパンフレットより):
この門の先が本丸で、その周囲は土塁で囲まれていた。この佐倉城は徳川時代の城でありながら、一切石垣を用いていない土造りの城である:
土塁の上から本丸堀を眺めてみたところ。藪化が激しくてちょっとわかりづらいけど、規模は相当なものであった:
このまま本丸をぐるりと一周してみた。
こちらは土塁の上にある角櫓(三階櫓)跡。この櫓は文化10(1813)年に佐倉城天守閣が焼失した後に、その代用として使用された櫓でもあるが、小さすぎるコンクリート跡を見ると、本当に三階櫓が建っていたかどうか疑問である:
本丸の搦手側で、角櫓(三階櫓)跡の目の前にあるのが台所(不明)門跡:
ここから本丸を囲む土塁の上を歩いてみた:
そして、本丸跡:
ここには、往時は天守閣・銅櫓・角櫓・御殿などが置かれていたと云う:
こちらは本丸縄張の模型。三の丸御殿跡の佐倉城址管理センター兼案内所に展示されていた:
本丸西端には二段の土塁で造られた天守台があった:
この上には天守に相当する三層の御三階櫓が建っていたが、文化10(1813)年に焼失し、以後は再建されることはなかった:
これが往時の天守閣模型(1/20)。これも三の丸跡の案内所に展示されていたもの:
これは「佐倉城の夫婦モッコク」と呼ばれ県指定天然記念物になっている常緑高木で、天守台跡の脇に立っていたもの。徳川家臣の土井利勝が七年をかけて完成させた佐倉城の本丸には、種々の庭樹を植え雄大な風格を示したと伝えられており、このモッコクはその一つであったとされている:
このモッコクを過ぎたところの土塁の上には銅櫓(どうやぐら)跡がある:
銅櫓は木造で銅瓦葺の六間四方で二階造り。土井利勝が将軍より拝領し、江戸城吹上庭園より移築したもので、もとは三層四階の建築物で、かって名将・太田道灌資長が江戸城内に建てた「静勝軒」だったとか。このような貴重なものも帝国陸軍によって破却されてしまった。
こちらは明治初期に撮影された銅櫓(佐倉市作成の「お城のあるまち佐倉」のパンフレットより):
銅櫓あたりの土塁:
本丸北西の土塁の上を歩いて、再び一の門跡へ移動した:
この後は一の門跡、二ノ門跡を抜けて三の丸方面へ移動した。茶室三逕亭(ちゃしつ・さんけいてい)や堀田正睦(ほった・まさよし)像、タウンゼット・ハリス像の脇を通り、梅林を抜けて姥ヶ池方面へ:
天保の時代に、この池の周りで家老の娘をおもりしていた姥が誤って娘を池に落してしまい、困り果てて身を投げたと伝えられる池。それ以来、姥ヶ池と呼ばれるようになったらしい:
姥ヶ池脇にある遊歩道(階段)は深い堀底道の上に造られており、三の丸と連結していた。これは両側からそれぞれ見た空堀跡:
最後に国立歴史民俗博物館側にある田町門跡へ移動した。その途中、現在は舗装されてしまっているが、これは愛宕坂。かって城内にあった愛宕神社の参道であった。また博物館に直接入る道に分岐されているが、それもまた佐倉連隊が駐屯していた際に大きく変更された箇所である:
その他に、城内には円勝寺という真言宗の寺院があったが明治時代に入って廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で消滅した。その寺院の奥に愛宕神社があり、田町の氏神であったが、佐倉連隊が駐屯すると立入禁止となったため移転してしまったのだとか:
ここが田町門跡。成田街道に沿った城下町の一部「田町」から城内へ入る際の門で、この裏手には番所が置かれていた:
田町門跡と成田街道(国道R296)との間には北東堀(水堀)があった:
以上で佐倉城の城攻めは終了。城址公園としては広めの敷地に本丸・二の丸・三の丸と云う縄張で城域が遺されていたものの、やはり明治時代の佐倉連隊駐屯による改変は大きく、貴重な遺構が台無しになっていた感は拭えないが、復元整備が行われていた箇所は「それなり」の見所はあると云ったところ。
最後に、こちらは南側出丸の水堀附近に置かれていた注意書き:

南側出丸の水堀で「釣り禁止」の注意書き
佐倉城攻め (フォト集)
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