Mikeforce::Castles

城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

駿府城 − Sumpu Castle

徳川家康が大御所政治の拠点として修築・拡張した駿府城の二ノ丸南西隅に建つ坤櫓

徳川家康が慶長10(1605)年に征夷大将軍の職を三男・秀忠に譲り、その翌年には「大御所政治」の拠点とすべく駿河国へ戻り、後に天下普請として拡張・修築した駿府城は静岡県静岡市にある。ここ駿河国は家康にとって所縁多き場所であり、かって今川氏全盛期で第11代駿河国守護であった今川義元の時代、天文18(1549)年に家康が松平竹千代と呼ばれていた頃、およそ12年間人質として駿府にある今川氏館で幼少期を過ごした。義元死後、甲斐の武田信玄が我が物とした駿府を天正10(1582)年、信玄の跡を継いだ四郎勝頼から奪いとり、領国の一つとした家康は度重なる戦火で衰えた町を再築し、天正13(1585)年から4年をかけて今川氏館跡に城を築いた。ただそれも束の間、天正18(1590)年には豊臣秀吉による小田原仕置の後に関八州へ国替えさせられ、先祖代々の土地の他、せっかく手に入れた駿河をも手放すことになる。しかし、ここは「鳴くまで待とうホトトギス[a]江戸時代後期の肥前国平戸藩主・松浦静山が記した「甲子夜話(かっしやわ)」という随筆集に載せられた川柳の一部。」として辛抱強く待った結果、秀吉死後の慶長5(1600)年の関ヶ原の戦で勝利し、その3年後に征夷大将軍に任じられた家康は江戸幕府を開府、その後は秀忠が継いだ将軍家を影から主導するために隠居と称して再び駿府へ戻ってきた。

昨年は平成27(2015)年初春、江戸城に続く徳川家康つながりで静岡県静岡市にある駿府城を攻めてきた。この城址は現在は公園になっており、平成24(2012)年にその名称が改められて駿府城公園という市民の憩いの場として親しまれている。また、この年はちょうど徳川家康公薨去(こうきょ)四百年と云う年であったようで、JR静岡駅を降りたところから公園に向かうまでの間に幟や垂れ幕を多く見かけた。この駿府城公園は駅から徒歩10分ほどの場所にあり、三ノ丸は宅地化されているものの、本丸と二ノ丸が整備されおり、さらに平成26(2014)年には二ノ丸南西隅に坤(ひつじさる)櫓が復元されたこともあり、堀と石垣とともにさらに見応えのある城址であった:

現在は本丸、二ノ丸が整備され、東御門や坤櫓の他、中堀(二ノ丸堀)や石垣が見所になっている

「駿府城公園案内」図

さらに、公園南隣の静岡県庁別館は最上階の21Fに富士山展望ロビーがあり、今回の城攻めでは、そこから見下ろす城址の眺望も見所にしていた :)

まず、こちらは駿府城の縄張模型(写真奥が北)。園内の二ノ丸南東に復元された東御門・巽櫓の中で展示されていたもの。中心が本丸で、水堀を境にして二ノ丸と三ノ丸が配置された輪郭式平城であるのがよくわかる。また、本丸の北西隅にはかって天守が建っていた天守台が再現されていた:

復元された東御門と巽櫓内に展示されていたもので、三重の堀を持つ輪郭式平城であるのがよくわかる

駿府城縄張模型

そして、こちらは駿府城構造図。この城は外堀・中堀・内堀の三重の堀を持ち、本丸を中心に回字形に本丸・二ノ丸・三ノ丸と順に配置され、中央の本丸北西隅には六層七階(外観六層内部七階)の天守閣が建っていたが、寛永12(1635)年に焼失したと云う:

復元された東御門と巽櫓内に展示されていたもので、三重の堀と複数の御門を持つ輪郭式平城である

駿府城構造図

駿府城が城郭としてその姿を見せるのは、天正13(1585)年に駿河国を武田家から奪いとって領国の支配下に置き、浜松城より居城を移して築城を開始したことに始まる。この天正期の駿府城は現在の城跡に比べると一回り小さいのだとか。そして一度は駿河国を手放すことになるが、江戸幕府を開府した後の慶長12(1607)年に家康は将軍職を退き、天正期の駿府城を天下普請の名のもとに各地の大名らを助役に命じて拡張・修築させた。城の普請の他に、安倍川の堤の改修や城下町の整備も併せて実施され、駿府は将軍家の江戸と並ぶ政治の中心地として重要な役割を果たすことになったと云う。

今回の城攻めルートは次の通り。多少ルートがかぶっているが、巽櫓(たつみ・やぐら)と坤櫓(ひつじさる・やぐら)の中も見学してきたし、三ノ丸跡の遺構まで足を伸ばした。そして個人的に期待大だったのが県庁別館の展望台から城址を見下ろすことだった[b]だったけど・・・:(。ちなみに所要時間はかなりゆっくり目で3時間ほど:

①駅前ロータリー(徳川家康公之像、竹千代君之像)→②三ノ丸堀→③大手御門→④静岡県庁別館展望ロビー→⑤巽櫓→⑥東御門→⑦二ノ丸跡→⑧本丸堀→⑨御玄関前御門跡→⑩本丸跡→⑪天守台跡→⑫二ノ丸跡→⑬北御門跡→⑭二ノ丸土塁→⑮二ノ丸水路→⑯御米蔵跡(双葉葵の小径)→⑰東御門の史料館→⑱東喰違御門跡→⑲二ノ丸御門跡→⑳二ノ丸堀→㉑四脚御門跡→㉒坤櫓→㉓坤櫓内→㉔西ノ丸跡→㉕清水御門→㉖二ノ丸土塁→㉗草深御門跡→㉘横内御門跡

ということでJR静岡駅を下車して①駅前のロータリーを経由して、まずは県庁方面へ移動した。これは三重の堀の一つで外堀こと②三ノ丸堀。これも一部は埋められてしまっているが、三ノ丸石垣は現存である:

この先に見える城代橋は後世の造物(江戸時代にはなかったもの)

三ノ丸堀と三ノ丸石垣

上の写真奥に見えるのは城代橋という後世の造物。明治時代に駿府城を陸軍に献上し部隊を誘致していた頃に造られた物らしく、江戸時代はもちろん家康在城時にも、その場所には橋は存在していない。さらに、この時に城内の本丸堀や三ノ丸の一部が埋められたようだ。

このまま三ノ丸堀沿いに歩いて行くと、ちょうど静岡市役所の対面あたりに③大手御門跡の台座石垣がある:

駿府城内へ入る正面出入り口である

駿府城大手御門跡

高麗門をくぐって桝形に入り、右折して渡櫓門をくぐって城内に入っていた

駿府城大手御門跡の桝形虎口

ここが城内へ入る正面出入口で、往時は手前にある三ノ丸堀を土橋で渡り、一ノ門の高麗門をくぐって直進し、さらに桝形を右折して二ノ門である渡櫓門をくぐつってから三ノ丸へ入っていた。また渡櫓門跡の台座石垣がある歩道脇には渡櫓門の柱礎石の位置が記されていた:

歩道の上にある灰色の部分が渡櫓門の柱礎石があった場所らしい

大手御門渡櫓門の台座石垣

大手御門跡を通過して三ノ丸跡に入ると、その大部分は静岡県庁といった自治体の施設、病院や学校が建っていたものの、そのまま進むと中堀に相当する二ノ丸堀と二ノ丸の石垣が目に入ってきた。

ここで、今回の城攻めの目玉の一つにしていた静岡県庁別館の最上階21Fの④富士山展望ロビーへ上がろうと行ってみると、なんと休館。どうやら第三日曜日に行われる県庁ビルの清掃日に当たったらしい ;(。せっかくの冬晴れで気持よく駿府城の縄張具合を眺めることができるものと期待していたのだが。残念[c]しかし、その半年後には同じ静岡県静岡市にある丸子(まりこ)城を攻めたついでに念願の眺めを堪能してきた。それについては、本訪問記の後半で紹介している。

静岡県警が入っている他、最上階は展望台ロビーになっていた

静岡県庁別館

ここで気を取り直して二ノ丸堀に沿って東側へ進んでいくと平成元(1989)年に復元された巽櫓(たつみ・やぐら)が見えてきた:

二ノ丸石垣は現存で、巽櫓と東御門は平成8(1996)年に復元された

二ノ丸堀と巽櫓

二ノ丸堀は現存で、部分的に異なる石積みになっていた

二ノ丸堀と巽櫓

駿府城の巽櫓は外壁白漆喰仕上げで、その右手には東御門(復元)が見える:

平成元(1989)年に伝統工法で復元され、現在は史料館になっている

巽櫓

⑤巽櫓は二ノ丸の南東に位置する木造三層二階入母屋造で本瓦葺きの隅櫓であるが、全国の櫓建築でも例の少ない矩折(かなおり)造りで、上から見下ろすとL字型の平面を持つ:

全国の城の櫓建築でも例の少ないL字型の平面を持つ

巽櫓1

二ノ丸南東に立てられた木造矩折三層三階の隅櫓

巽櫓2

全国の城の櫓建築でも例の少ないL字型の平面を持つ

巽櫓3

この櫓は寛永12(1635)年城下から出火した火によって延焼焼失し、寛永15(1638)年に再建されたと云われている。この櫓の復元には「駿府御城内外覚書」や「駿府御城惣指図」の史料を元に三ヶ年の歳月をかけて完成した:

巽櫓は城内で最も高い櫓で、勝れた櫓だった云われている

巽櫓と東御門

巽櫓を過ぎると二ノ丸の東側の出入り口となる⑥東御門が見えてくる。この門は中堀に相当する二ノ丸堀に架かる東御門橋と高麗門(一ノ門)、渡櫓門(二ノ門)、そして南と西の多聞櫓で構成された桝形門である。そして堀に面する土塀には鉄砲狭間・矢狭間が設けられていた:

二ノ丸東に位置する主要な出入口であった

東御門と東御門橋

この東御門は平成8(1996)年に復元された:

右手の三ノ丸から中堀に架かる東御門橋を渡って二ノ丸へ入る

東御門1

左手の三ノ丸から中堀に架かる東御門橋を渡って二ノ丸へ入る

東御門2

同じく復元された東御門橋から眺めた二ノ丸堀(北側)。往時、右手の三ノ丸には重臣らの屋敷が建っていたとされ、特に東御門前には安藤帯刀[d]安藤直次とも。戦国時代から江戸時代初期の武将で、幕府老中を務めた。の屋敷だったことから「帯刀(たてわき)前御門」だとか、台所奉行の松下浄慶(じょうけい)にちなんで「浄慶御門」とも呼ばれていた:

東御門橋から北側の眺めで、右手の三ノ丸には重臣らの屋敷が建っていた

二ノ丸堀

こちらが東御門の一ノ門にあたる高麗門:

この先は桝形虎口になっている

復元された東御門の高麗門(一ノ門)

一ノ門から東御門橋を振り返って見たところ。道路を挟んで正面は、往時は重臣らの屋敷が建っていたとされる三ノ丸跡:

平成8(1996)年に東御門と一緒に復元された

東御門橋

東御門橋を渡り一ノ門の高麗門をくぐった先は桝形虎口になっており、右手にあるのが二ノ門にあたる渡櫓門、そして正面と左手にあるのが多聞櫓。これらと一ノ門にあたる高麗門とを合わせて桝形を構成している:

左手と正面が多聞櫓、右手が二ノ門の渡櫓門

東御門の桝形虎口

桝形内から周囲を見たところ。東御門は寛永12(1635)年に天守閣、御殿、巽櫓などと共に焼失し、同15(1638)年に再建されるも、明治3(1870)年の廃藩置県で多くの門と同様に破却された:

一ノ門をくぐり右手に折れて二ノ門をくぐって二ノ丸へ入る

東御門の桝形内部1

右手の一ノ門と左手の二ノ門の間が矩形になっている

東御門の桝形内部2

桝形の西と南は多聞櫓で囲まれている

東御門の桝形内部3

 

背後の控柱に小さい屋根が付く高麗門型式である

桝形内部から見た一ノ門

西と南と東で囲まれた桝形を北へ折れると渡櫓門が建っている。これは一階(一部は二階)建の木造入母屋造、本瓦葺、外壁は白漆喰仕上になっていた:

復元された多聞櫓内部からみたところ

復元された東御門の渡櫓門(二ノ門)

渡櫓門の鏡柱(かがみばしら)と冠木(かぶき)。この冠木の上には石落としが設けらている:

桝形から眺めた二ノ門の太い鏡柱と渡櫓を構成する冠木

渡櫓門の門扉

冠木の上に石落としが見える

復元された渡櫓門の冠木

二ノ丸から振り返って眺めた東御門の二ノ門である渡櫓門:

日本の伝統的な木造工法によって復元された

渡櫓門北面

二ノ丸から眺めた東御門。白漆喰仕上げが美しい:

二ノ丸から眺めた

二ノ丸から眺めた東御門1

櫓内は現在は史料館になっている

二ノ丸から眺めた東御門2

こちらが東御門をくぐった先に広がる⑦二ノ丸跡。この先の木陰あたりが東喰違御門跡、右手には本丸堀がある:

この先の木陰辺りには東喰違御門跡、右手には本丸堀跡がある

二ノ丸跡

まず、そこから三重堀の一番内側の堀(内堀)に相当する⑧本丸堀(一部)へ向かった。この堀は明治29(1896)年に駐屯した陸軍によって全て埋められてしまったが、静岡市が駿府城跡の払い下げを受けて発掘調査を行い、現在は南東部分と水路部分が復元展示されていた:

明治時代に陸軍が埋めてしまった堀の一部を発掘し展示している

本丸堀(一部)1

往時の本丸堀は幅約23〜30mで深さは江戸時代には約5mあったと云う:

この先は発掘調査後に埋められたが、この部分だけ展示のため残された

本丸堀(一部)2

発掘調査後に一部だけ展示目的で残されていた

本丸堀(一部)3

本丸石垣は荒割りした石を積み上げ、隙間に小さな石を詰めていく打込接、隅の部分は横長の石を互い違いに積んで崩れにくくする算木積であった:

発掘調査後に打込接で復元されていた

本丸石垣1

発掘調査後に隅石は算木積で復元されていた

本丸石垣2

次に本丸堀から北へ移動した。こちらは本丸の正面玄関にあたる⑨御玄関前御門(おんげんかんまえ・ごもん)跡。城の中枢である本丸への出入口は三ヶ所あり、それぞれに門が建っていた。この御玄関前御門は南側の出入口で、他に北側は御天守台下御門、東側は御台所御門がある:

本丸への出入口の一つで、本丸の南側に設けられた桝形門

御玄関前御門跡

この門は、二ノ丸側から木橋を渡って一ノ門(高麗門)をくぐり、石垣に囲まれた桝形内を東に折れて本丸へ入る構造になっていた。また、二ノ丸側は橋を挟んで東と西が石垣造りの土手により仕切られ、敵が容易には侵入dけいない仕組みになっていたと云う。

この門跡から北側が⑩本丸跡である。現在、本丸御殿が建っていたであろう場所は沈床園という庭園の他に、碑と徳川家康公の像が建っていた:

本丸跡は、この碑と銅像の他に家康手植えのミカンがあった

駿府城本丸跡の碑と徳川家康公の像

こちらは家康公お手植えのミカン(県指定天然記念物)。家康公が駿府城で隠居中、紀州より献上された鉢植えのコミカン(ホンミカン)を本丸に移植したものらしい:

紀州から献上された鉢植えのミカンを本丸に移植したものらしい

家康公お手植えのミカン(県指定天然記念物)

そして本丸跡の北西隅には⑪天守閣跡がある。が、江戸時代に焼失した後は再建されず、僅かに残っていた天守台も明治時代の陸軍誘致の際に破却されてしまって現在は見事に何もなかった:

天守台も明治29(1896)年に陸軍を誘致するにあたり解体され埋められた

天守閣跡

往時の天守閣は大御所の居城にふさわしく、六層七階の壮麗なものだったらしい。その天守台は、周囲には石垣の土手を設け、天守閣建造物をほぼ中央に載せる天守丸構造(天守台と曲輪にした構造)だった。天守台の大きさは南北約56m、東西約47m、石垣の高さは4.5mで、本丸堀の水際からの高さが約19m、本丸の地表からだと約13mとされている。この天守閣は、城下町からは富士山が並び立つように見えたと云う。この天守閣は、家康在城時に一度火災に遭って、その後再建されているが、家康没後の寛永12(1635)年に再び火災で焼失し、以後再建はされなかった[e]再建されなかった理由は城主が不在だったからと云われている。最後の城主は二代将軍の秀忠の三男・忠長であったがのちに乱心し、三代将軍家光に改易を命じられた。その後、駿府城は天領(幕府直轄地)となり城代が置かれていた。

そして天守閣跡の北側には、往時は本丸堀を境にして⑫二ノ丸があったが、現在はヘリポートが設けられており、この城攻め当時は妙な盛土があった:

往時は、写真手前(天守閣側)あたりに本丸堀があり、その先が二ノ丸だった

二ノ丸跡のヘリポートにあった盛土1

もしかして天守台の建設に着手したのか!?と思ったが違った

二ノ丸跡のヘリポートにあった盛土2

もしかして天守台の再建に着手したのかと思ったが違ったようで、平成26(2014)年に復元された坤櫓(ひつじさる・やぐら)建造時に出た余分な土を一時的に保管していたものだった :$

それから二ノ丸跡を北上し、二ノ丸土塁の上を通って北御門へ移動した:

左手が二ノ丸堀、右手が二ノ丸跡

二ノ丸土塁

こちらが二ノ丸の北側に設けられた⑬北御門跡とその台座石垣:

この石垣の向こう側に中堀があり、三ノ丸へと続く

北御門台座石垣

二ノ丸へ入る北側の出入口で、この石垣の先に高麗門が建っていた

北御門跡

そして、こちらが三ノ丸側から見た北御門跡。この場所にあった木橋で二ノ丸堀を渡り、この石垣の前に建っていた高麗門を通った先は石垣で囲まれた桝形風の広場になっていた。そこを通過して二ノ丸に入ると、すぐ西側(右手)に石垣造で喰違(くいちがい)土手構造を持つ馬場先御門があった:

ここに高麗門が建ち、その先は桝形虎口になっていた

北御門跡

往時は木橋で、これは後世の造物

北御門橋

三ノ丸側から見た北御門跡と二ノ丸堀、そして二ノ丸土塁:

三ノ丸側からの眺め

二ノ丸土塁(東側)

往時は三ノ丸から木橋を渡り、正面の高麗門をくぐって二ノ丸に入った

北御門跡

三ノ丸側からの眺め

二ノ丸堀(西側)

この後は再び二ノ丸に入り、堀沿いに⑭二ノ丸土塁の上を通って城の東側へ移動し、そのまま東御門方面へ南下した:

左手は紅葉山庭園(有料エリア)、右手が二ノ丸堀

二ノ丸土塁(東側)

堀の向こう側の三ノ丸跡に横内御門や在番組頭屋敷跡がある

二ノ丸堀(東側)

その土塁の上から富士山を眺めることができた:

二ノ丸土塁から紅葉山庭園越しに眺めたところ

二ノ丸跡から眺めた富士山

このまま二ノ丸土塁を南下していくと⑮二ノ丸水路が見えてきた:

二ノ丸堀と本丸堀をつなぐ水路

二ノ丸水路1

二ノ丸水路は本丸堀と二ノ丸堀をつなぐ水路で、本丸堀から外側へ水を流すことを目的として築かれたものである。幅約4.5m、江戸時代の深さは約4m、長さは約95mあり、本丸堀から二ノ丸堀まで4回折れ曲がっている:

二ノ丸堀と本丸堀との間で4回折れ曲がっている

二ノ丸水路2

二ノ丸堀と本丸堀との間で4回折れ曲がっている

二ノ丸水路3

本丸堀との接続部分は約2mの段差を設け、本丸堀の水位を保つ仕組みになっている。また、水路の両側は石垣で底の部分にも本丸側約50mにわたり石が敷かれており、底が洗い流されないよう非常に珍しい構造になっている。石垣の下方は家康築城当初の石垣と考えられている:

水路の底には石が敷いてある珍しい構造

二ノ丸水路4

水路との間には段差が付けられて、本丸堀の水位を維持している

二ノ丸水路5

ちょうど二ノ丸水路と接続している、この本丸堀の先に本丸の出入り口の一つである御台所御門が建っていた:

本丸堀の水位を維持するために水路との間は約2mの段差がある

本丸堀と二ノ丸水路

再び二ノ丸跡に入り、往時は⑯御米蔵があったとされる双葉葵の小径[f]家康公が大御所として駿府城に入城されて四百年となる平成19(2007)年に整備された場所で、フタバアオイは徳川家の家紋である三つ葉葵のモチーフとなった植物である。を通って東御門にある史料館へ向かった。ちなみに、この季節、フタバアオイは全く芽が出ていなかった :$。で、こちらは同年7月に駿府城公園を再訪した際に撮ったフタバアオイ:

三つ葉葵のモチーフとなった植物

フタバアオイ

そして東御門前で入場料(当時200円)を支払って⑰東御門の渡櫓門二階にある史料館へ。入口正面で家康公の蝋人形が出迎えてくれた:

その背景には駿府城と城下町の絵が置かれていた

徳川家康公の蝋人形

人形の脇に置かれている旗は「厭離穢土欣求浄土(おんりえど・ごんぐじょうど)」の馬印。二つの仏教用語をつなぎあわせたもので、誰しもが己の欲で戦をしているため国土が汚れきっている。それを忌み嫌い極楽浄土を願い求めると云った意味。桶狭間の戦いで主君・今川義元が討たれた際に、前途を悲観した家康が切腹しようとするところを寺の住職に説得された際の言葉らしい。

続いて、家康没後で寛永年間の頃の駿府城縄張図。三重の堀を同心状にめぐらせ、堀に囲まれた区域を内側から本丸、二ノ丸、三ノ丸と呼ばれる輪郭式の縄張構造としているのがわかる。そして本丸には御殿と天守閣を、また二ノ丸には近親者の御殿などを置き、三ノ丸には重臣らの屋敷を配置した構造になっていた:

駿府城は典型的な輪郭式平城であることがわかる

寛永年間の頃の駿府城縄張図

こちらは天下普請として駿府城の拡張・修築を担当した助役大名とその刻印。特に西国は豊臣恩顧の外様大名らが動員されていたことがわかる:

天下普請に駆り出された大名たちの刻印石が城内に残っていると云う

駿府築城の助役大名とその刻印

続いて、焼失する前の駿府城天守閣の模型。石垣の土手を設けた天守台の中央に天守閣を建てて、さらにその周囲に隅櫓と多聞櫓を置いていた天守丸構造だったらしい:

六層七階、屋根には銅瓦が使われていた壮麗な天守閣だったと云う

駿府城天守閣の模型

この鯱は駿府城二ノ丸東御門の大棟に載っていたとされる雄鯱。高さ約1.4m、重さ約500kg。瓦製の鯱が多い中で、当時としては貴重な青銅製だった。昭和44(1969)年、二ノ丸堀整備工事の際に東御門前の堀底から発見されたものらしい:

当時としてはかなり貴重な青銅製だった

発見された東御門の鯱

冒頭で紹介した駿府城縄張模型の他に、駿府城と城下町全体を含んだジオラマもあった(写真右手が北):

駿府城の他に、城下町全体を含んだ情景であった

天守閣が建っていた時代のジオラマ(城の東側からの俯瞰)

そして巽櫓の内部へ移動してみると、こちらは往時の内部を再現した造りになっていた:

このコーナーには竹千代君が過ごした臨済寺の部屋も再現されていた

巽櫓内部の再現

この後は東御門内の史料館を出て、二ノ丸跡から西ノ丸方面へ移動した。

こちらは⑱東喰違御門跡。御玄関前御門(おんげんかんまえごもん)に南面する二ノ丸の区域は、敵が容易には侵入できないように橋を挟んで東側と西側が石垣造りの土手を互い違いに設けていた。現在は片方の土手のみ残っていた:

この石垣の土手の一部は東側を区画するもの

東喰違御門跡

そして、その西側の中仕切御門跡に建っていた駿府城跡の碑:

二ノ丸南側の中仕切御門跡に建っていた

駿府城跡の碑

さらにその西側には⑲二ノ丸御門跡があった。二ノ丸御門は三ノ丸から二ノ丸へ入る正面出入り口で、二ノ丸大手門とも呼ばれていた。ちなみに駿府城公園の出入口に使用されている二ノ丸橋は後世の造物で、しかも往時その場所には橋はなかった。これが二ノ丸御門跡の概略図:

昭和32(1957)年に埋められた後は、少し東側に現在の橋が架けられた

二ノ丸御門跡概略図

門全体は、最初に一ノ門の高麗門をくぐって石垣で囲まれた桝形を東へ折れ、次に二ノ門となる渡櫓門をくぐって、最後に北へ折れて西ノ丸に入る構造になっていた。二ノ門の先には石垣の仕切り(中仕切り)が設けられ、本丸の正面入口となる御玄関前御門へは直接侵入できない仕組みになっていた。

こちらが二ノ丸御門桝形内部。正面の土手の先が二ノ丸堀で、その辺りに高麗門と木橋があったと思われる:

二ノ丸と三ノ丸との間の出入り口

二ノ丸御門跡

この二ノ丸御門は昭和32(1952)年に埋められて、その約70m東側に公園向けの新たな出入口が設けられ、その橋を二ノ丸橋と呼んでいる:

二ノ丸御門跡から東へ約70mずらした場所に設けられた

公園の出入り口ある二ノ丸橋(後世の造物)

こちらが二ノ丸堀を挟んで眺めた二ノ丸御門跡:

往時は、ここに木橋が架けられ、その先の一ノ門をくぐって桝形へ入った

二ノ丸御門跡1

二ノ丸堀を挟んで眺めた二ノ丸御門の台座石垣

二ノ丸御門跡2

⑳二ノ丸堀と二ノ丸石垣は共に現存である。その中で石垣は場所によって部分的に積み方が異なっていた。天下普請で多くの大名らが修築したことによるものとされる:

これらの石垣は現存で、積み方が異なっていた箇所があった

二ノ丸堀と二ノ丸石垣

天下普請により多くの大名らが修築した結果である

積み方や石材の異なる箇所

天下普請により多くの大名らが修築した結果である

積み方や石材が異なる石垣の境界

そして坤櫓・西ノ丸方面へ向かう前に、三ノ丸南側にある㉑四足御門(よつあしごもん)跡へ。この門は駿府城南辺の西寄りの場所に設けられた出入口に建ち、その東側の大手御門と並んで東海道筋から城へ入る重要な門の一つであった。この門は、三ノ丸堀を土橋で渡って、西側に折れ渡櫓門をくぐって二ノ丸へ入る構造になっていた:

大手御門と並んで東海道筋から城へ入る出入口

四足御門跡1

大手御門と並んで東海道筋から城へ入る出入口

四足御門跡2

そして再び二ノ丸堀前へ戻って三ノ丸側から、平成26(2014)年に復原された㉒坤櫓(ひつじさる・やぐら)を眺めた:

二ノ丸南西隅に、平成26(2014)年に復元された隅櫓

坤櫓1

二ノ丸の南西に位置する隅に設けられた坤櫓は二層三階で七間四方の大きな木造入母屋造。屋根は二層だが内部は三階構造で、二階の堀側には石落としが設けられ、武器庫として使用されていた:

屋根は二層だが内部は三階構造となっている

坤櫓2

屋根は土居葺き、伝統的木造建築工法で再現された櫓

坤櫓3

本丸から見て南西の方角は未(ひつじ)と申(さる)の間にあるのでこの名が付いた坤櫓を西ノ丸側から眺めたところ。一階と二階は7間×7間[g]1間=約1.97m。、三階は5間×5間の広さを持つ:

西ノ丸から眺めた二ノ丸南西隅に建つ隅櫓

坤櫓4

内部は史料館になっているが、1Fのみの公開

坤櫓5

坤櫓の鬼瓦には葵御紋が付けられていた

坤櫓6

㉓坤櫓の内部は史料館(1Fのみ公開)になっている(入場料は当時100円)。1Fの中央に部屋(間)が複数があり、それを囲むように回廊が設けられていた。さらに各階の床板と天井板をすべて取り外しているので吹き抜けになっていた:

部屋を囲む回廊

坤櫓の内部1

内部はスケルトンになって構造がよく分かる

坤櫓の内部2

坤櫓のあとは㉔西ノ丸跡を眺めつつ、二ノ丸土塁の上を歩いて北上した:

左手が二ノ丸堀、右手が西ノ丸

二ノ丸土塁

その先には二ノ丸に入る西側の出入口であった㉕清水御門跡がある。二ノ丸堀を木橋で渡って高麗門(一ノ門)をくぐり、石垣で囲まれた枡形虎口を北向きに折れ、渡櫓門をくぐって二ノ丸へ入る構造になっていた。現在残っている台座石垣の上にあった多聞櫓は二階建てで西側の守りを固めていた:

三ノ丸側から眺めたところで、往時は正面に高麗門が建っていた

清水御門跡1

二ノ丸側から眺めたところで、ここが石垣で囲まれた枡形虎口になっていた

清水御門跡2

そして、このまま㉖二ノ丸土塁の上を歩いて再び北御門まで移動した:

左手は二ノ丸堀、右手は二ノ丸跡

二ノ丸土塁

それから二ノ丸堀を渡り、宅地化された三ノ丸跡を更に北上して㉗草深御門(くさぶかごもん)跡へ。この門は駿府城の搦手口にあたり、古絵図には「不明」(あかず)と記されていたことから、普段は使用されない不浄門扱い(死人を運び出すなど)だったとされる:

これは一ノ門である高麗門の台座石垣

草深御門跡に残る台座石垣

ここから北御門まで戻って二ノ丸堀沿いに駿府城の東側へ移動した。城の東側の三ノ丸跡には在番組頭屋敷跡や二ノ丸堀と三ノ丸堀をつなぐ水路、そして横内御門跡がある:

この先に在番組頭屋敷跡や横内御門跡が残っている

駿府城東側

まずは在番組頭屋敷跡。駿府城は大御所・徳川家康公が没した後、元和5(1619)年以降は幕府直轄城となり城代が置かれ、城内は幾つかの組に分けられた番衆が警護を行っていた。ここには、その組頭の屋敷があった:

城代が置かれた駿府城で城内の警備を執り行っていた役人の屋敷があった

在番組頭屋敷跡

さらに東へ移動した所には㉘横内御門(よこうちごもん)跡がある。この門は、駿府城内へ入る北東側の出入口にあたる。他の門と同様に桝形になっており、三ノ丸堀を木橋で渡り、一ノ門の高麗門をくぐって石垣で囲まれた桝形虎口を左に折れて渡櫓門から三ノ丸に入る構造になっていた:

これは一ノ門である高麗門の台座石垣

横内御門跡

こちらは、三ノ丸堀(横内御門)と二ノ丸堀(御水門)との間を結ぶ水路。往時は、この先で二ノ丸堀と合流していた:

この先に見える道路の奥に二ノ丸堀があり、そこへ流れ込んでいた

三ノ丸堀と二ノ丸堀を結ぶ水路

最後に、こちらは本丸堀の前に立っていた注意書き:

本丸堀の注意書き

以上で、この日の駿府城攻めは終了。この年は家康公薨去四百年ということもあり駿府城公園も大勢の人たちやボランティアの方々が居た。往時は将軍家の江戸城に負けず劣らずの豪華壮麗な天守閣が建ち、そして政治・経済・文化の中心として発展した城下町など隠居城とは思えない城だった。

この日、静岡県庁別館の展望ロビーから城址を見下ろせなかったことが心残りだけど:/。 

最後に、①駅前ロータリーで見かけた徳川家康公ゆかりの銅像たち:

JR静岡駅バスターミナルにて

竹千代君の銅像

JR静岡駅北口のバスターミナルにて

徳川家康公ノ像

 

富士山展望ロビーからの眺望

平成27(2015)年1月の城攻めでは実現できなかった静岡県庁別館21Fにある富士山展望ロビーから望む駿府城址は、同年7月に同じ静岡県静岡市にある丸子城攻めの後に時間を作ってなんとか実現できた;)。で、こちらがその静岡県庁別館。この最上階が展望ロビーとして無料開放されており、駿河湾や富士山、南アルプス等が一望できることはもちろん、眼下にある駿府城の眺望も素晴らしかった:

休館日は毎月第三土曜日と翌日の日曜日及び12月29日~1月3日

静岡県庁別館21階富士山展望ロビー

まずは駿府城南東隅にある二ノ丸東御門と巽櫓。東御門の桝形虎口と、巽櫓が矩折造りでL字型になっているのがわかる:

巽櫓が矩折造りでL字型になっているのがわかる

二ノ丸東御門と巽櫓附近

三ノ丸、二ノ丸堀、東御門、そして二ノ丸跡が見えた

二ノ丸東御門と巽櫓附近(コメント付き)

次は本丸堀と二ノ丸水路あたり:

一部が残された本丸堀がよくわかる

本丸堀と二ノ丸水路附近

幾つかの三ノ丸跡の遺構も見えた

本丸堀と二ノ丸水路附近(コメント付き)

さらに本丸堀を中心に眺めたところ。ちょうど左手が本丸跡、右手が二ノ丸跡になる:

中央に残されたのが本丸堀

本丸跡と二ノ丸跡

本丸御殿跡は現在は公園化されている

本丸跡と二ノ丸跡(コメント付き)

こちらは駿府城南西隅にある坤櫓・西ノ丸跡周辺:

坤櫓は平成26(2014)年に復元された

二ノ丸坤櫓・西ノ丸跡付近

二ノ丸御門は昭和32(1952)年に埋められ、その東側に橋が造られた

二ノ丸坤櫓・西ノ丸跡付近(コメント付き)

そして本丸跡と天守台跡のあたり:

現在、本丸跡は憩いの場になっていた

本丸跡・天守台跡付近

天守台は破却されて何も残っていなかった

本丸跡・天守台跡付近(コメント付き)

最後に、賤機山(しずはたやま)の麓にある大龍山・臨済寺と浅間神社(浅間神社)方面の眺め。臨済寺は、駿府城があった今川氏館跡から北西の位置にある臨済宗妙心寺派の寺院で、今川家の菩提寺であり、家康公の幼少時代である竹千代君が今川家の軍師・太原崇孚雪斎(たいげん・そうふ・せっさい)から学問の手ほどきを受けた修業寺である:

中央に横たわるのが静岡県の名称の由来ともなった賤機山

賤機山と臨済寺・浅間神社付近

駿府城攻めのあとで臨済寺と浅間神社を見学してきた

賤機山と臨済寺・浅間神社付近(コメント付き)

この日は、ちょっと天気が悪くて富士山を拝むことができなかったけど、これ以外にも安倍川河口や駿河湾、伊豆半島、日本平などを眺めることができた。

 

See Also駿府城攻め (フォト集)
See Also駿府城攻め(2) (フォト集)

 

臨済寺と浅間神社

駿府城を攻めて、お昼を摂った後に県道R27沿いにある県庁・静岡市役所葵区役所前というバス停から「しずてつバス」の安東循環線に乗って臨済寺というバス停で下車し、徒歩5分程のところに大龍山臨済寺があった:

バス停から徒歩5分ほど、賤機山の麓の閑静な住宅街の中にあった

大龍山臨済寺

臨済寺は、今川氏輝・義元の父で、駿河国と遠江国の守護であった今川家第9代当主・今川氏親が建立した、伊勢新九郎(後の北条早雲)の姉であり自らの母にあたる北川殿の別邸であり、後に第11代当主となった義元が兄氏輝の菩提を弔うために、今川家の軍師となる太原崇孚雪斎(たいげん・すうふ・せっさい)僧を招聘し開山したもので、兄氏輝の法名「臨済寺殿用山玄公」に因んだ寺号を持つ。この寺で、徳川家康の幼少時代である竹千代君もまた太原雪斎から学問の他に多くを学んだと云う。

臨済寺は、永禄11(1568)年に甲斐・武田信玄の駿河侵攻で焼失し、その後一部が再建されたが、天正10(1582)年には徳川家康の駿河侵攻で再び焼失した。家康が再建した本堂は慶長時代に修復され、現在は国の重要文化財になっている。

こちら臨済寺の山門:

徳川慶喜揮毫「大龍山」の扁額が掲げらている

臨済寺の山門1

臨済寺は現在でも修業道場であるため、一般日の拝観は許されていない。そのため、参拝できるエリアは山門内、仏殿前より中央石段を上がり本堂(大方丈)前までとなっている。

徳川慶喜揮毫「大龍山」の扁額が掲げられた山門は入母屋造、銅板葺で、八脚楼門、高欄付の木造である:

この下に仁王像が安置されている

臨済寺の山門2

山門に掛かる「臨済寺専門道場」と「臨済宗妙心寺派」の掛札:

現在も臨済宗の根本道場のため一般の立ち入りは制限されている

臨済寺の山門3

山門の中に安置されている二体の仁王像は、もともとは浅間神社の楼門に安置されていたものが明治時代の神仏分離令により、ここ臨済寺の山門に遷された:

この金剛力士像は浅間神社の楼門にあったもの

山門に安置された仁王像(阿形)

この金剛力士像は浅間神社の楼門にあったもの

山門に安置された仁王像(吽形)

山門をくぐり境内へ境内へ入り、本堂に向けて石段を上がっていく途中に、平成9(1997)年に建立された新仏殿があった。そして、ここ臨済寺には今川氏輝、太原雪斎、そして家康が関八州に転封された後に駿府城に入城した豊臣家臣の中村一氏の墓所が、本堂裏手の墓所にあるのだとか:

平成9(1997)年に建立された

新仏殿

今川氏輝公、太原雪斎僧、中村一氏の墓所があるのだとか

新仏殿の後方にある墓所

ここから、さらに石段を上がっていくと本堂(大方丈)がある。天正15(1587)年に再建されたもので、一層入母屋造、こけら葺き、平入、南西部は唐破風を持つ。昭和58(1983)年に国指定重要文化財に指定された。本堂には今川義元廟があり、桶狭間の戦後に岡部元信が持ち帰った義元公の首級が埋葬されていた天澤寺の首塚(城北公園あたり)より出土した遺骨が改葬されているのだとか。残念ながら、この当時は屋根のこけら葺の修築中だった:

天正15(1587)年に再建されたもので、国指定重要文化財

本堂(大方丈)

山門脇の通用門から上がっていくと、大書院の門前には「拝観謝絶」と「寺中静粛」の文字が掲げられていた:

通用門からの石段を上がっていくとある

大書院

大書院の門前に掲げられていた

「拝観謝絶」と「寺中静粛」

この後は、徒歩で静岡駅まで戻ったが、その途中に寄った静岡浅間神社では家康公在城400年記念の式典か何かが執り行われた後だったようで、大変な参拝者だった。ここにある七つの社を全て御参りすると万願叶うと云われている:

ここにあった仁王像が臨済寺の山門へ遷された

浅間神社の楼門

こちらは国指定の重要文化財である大拝殿。一層目は千鳥破風付き切妻屋根、二層目は入母屋屋根の三層二階建て楼閣造りで、一般に浅間造りとも呼ばれる。高さ25mで全国唯一無比の大建築として有名らしい(浅間神社のHPより):

高さ25mの国指定重要文化財である

大拝殿

徳川家康は竹千代君の時代に臨済寺に預けられていた頃から浅間神社を篤く崇敬し、ここで元服式を行ったと云う。

See Also臨済寺と浅間神社 (フォト集)

参照   [ + ]

a. 江戸時代後期の肥前国平戸藩主・松浦静山が記した「甲子夜話(かっしやわ)」という随筆集に載せられた川柳の一部。
b. だったけど・・・:(
c. しかし、その半年後には同じ静岡県静岡市にある丸子(まりこ)城を攻めたついでに念願の眺めを堪能してきた。それについては、本訪問記の後半で紹介している。
d. 安藤直次とも。戦国時代から江戸時代初期の武将で、幕府老中を務めた。
e. 再建されなかった理由は城主が不在だったからと云われている。最後の城主は二代将軍の秀忠の三男・忠長であったがのちに乱心し、三代将軍家光に改易を命じられた。その後、駿府城は天領(幕府直轄地)となり城代が置かれていた。
f. 家康公が大御所として駿府城に入城されて四百年となる平成19(2007)年に整備された場所で、フタバアオイは徳川家の家紋である三つ葉葵のモチーフとなった植物である。
g. 1間=約1.97m。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*

© 2018 Mikeforce::Castles

テーマの提供は Anders NorenUp ↑