静岡県島田市金谷にある諏訪原城は、元亀4(1573)年に父信玄の跡を継いで甲斐武田家第20代当主となった四郎勝頼が、元号が改まった同年は天正元(1573)年に、筆頭家老の一人である馬場美濃守信房[a]名は信春とも氏勝とも。はじめ教来石景政(きょうらいし・かげまさ)と名乗り信玄の下で幾つもの軍功をあげ、のちに清和源氏系の馬場氏の名跡を継いで馬場信房と名乗る。甲斐武田四天王の一人。山本勘助の教授で各地に城を普請して、のちに築城の名手と云われた。を普請奉行に、そして武田典厩信豊[b]信玄の実弟である武田典厩信繁の次男にして、勝頼の従弟に当たる。をその補佐として遠江は東海道沿いの牧野原台地上にあった砦跡に築城させた城で、その名は甲斐武田家の守護神である諏訪大明神を城内に祀ったことが由来だと云う。この城は大井川を境として駿河から遠江に入る交通と軍事の要衝にあたり、そこから南西方面にある当時は徳川家康の属城であった高天神城攻略のための陣城として、そして攻略後は兵站の拠点としての役割を担うことになった。扇状の形をしたこの山城には、城から反撃するために深い三日月堀と馬出とで構成された丸馬出や桝形虎口を代表とする甲州流築城術が随所に見られ、搦手口は大井川を天然の外堀とする後堅固(うしろけんご)の城であった。そして天正3(1575)年の長篠・設楽原の戦後は、徳川家康らの反撃にもよくよく持ちこたえていたものの、城主の今福浄閑斎が討ち死にした上に勝頼は後詰を送ることができず、ついには落城した。
昨年は平成27(2015)年の初春、その前の週に続いて同じ静岡県にある諏訪原城跡を攻めてきた。行きは静岡までJR新幹線こだま639号で、静岡からはJR東海道本線で大井川を渡り金谷まで移動し、金谷から城址へは駅前から出ている島田市コミュニティバスの菊川神谷城線(時刻表)のバスで「諏訪原城跡」前まで移動した(運賃は当時100円)。時間にして金谷駅前からだと10分程度。ちなみに、帰りは旧東海道金谷坂石畳を経由して金谷駅まで徒歩20分程だった。
こちらは諏訪原城の縄張図(上側が北方面)。南北約580m、東西約1.454m、指定地の面積は92.542㎡(約92ha)の扇状の形をしており、南西側に沿って三日月堀を有する馬出が幾つかあるのが特徴で、その大部分がそのまま遺構として残っている(但し、大手曲輪や惣曲輪は茶畑になっていたが):
この城がある牧野原台地はJR金谷駅の南にある旧東海道金谷坂石畳を500mほど登った標高217m、比高140mの高台であり、城域の南側はほとんどが緩やかな斜面で、北側はゆるやかな台地が栗ヶ岳(標高510m)の中腹に達し、西側は谷を下ると「菊川の郷」に通じ、東側は足元に金谷の町を見て、大井川を隔てて島田、藤枝、焼津方面を一望のうちに収めることができる立地である。さらに、城跡の北と東には急崖が広がっている:
こちらは現地で入手した「国指定史跡・諏訪原城跡」のパンフレットに描かれていた推定復元図(右が北方面):
これは、その城域の東側で、バス停があった旧東海道沿いから眺めた諏訪原城跡。ちょうど正面が二の曲輪東馬出にあたり、その右手は険しい断崖が落ち込んでいた:
旧東海道を西へ向かって歩いて行くと、城址の入口を指す案内板が見えてくる:
今回の城攻めルートは次の通り。旧東海道から大手側に入り、そこにある駐車場前からスタートして、ぐるりと一周し再び旧東海道へ戻ってくる感じで攻めてきた。所要時間は2.5時間ほど。なお、この当時は二の曲輪の外堀や一部の馬出が立入禁止(復興整備および発掘調査中)だったので一部省略した箇所ある:
①城址西側出入口(駐車場前)→②大手南外堀跡(11号堀ロと11号堀ハ)→③大手曲輪跡→④大手北外堀跡→⑤惣曲輪(西の曲輪)跡→⑥二の曲輪中馬出跡(3号堀)→二の曲輪北馬出跡(1号堀)→⑦帯曲輪跡→⑧二の曲輪外堀跡(2号堀と4号堀)→⑨二の曲輪跡→⑩仕切土塁→⑪二の曲輪内堀跡(5号堀と6号堀)→⑫本曲輪虎口跡→⑬本曲輪跡→⑭(伝)天主台地跡→⑮本曲輪搦手外郭と内堀跡(15号堀と16号堀)→⑯水の手曲輪跡→⑪二の曲輪跡→⑰二の曲輪外堀跡(4号堀と9号堀)→⑱二の曲輪東内馬出跡(8号堀)→⑲二の曲輪大手馬出跡(12号堀)→⑳二の曲輪南馬出跡(13号堀)→城址東側出入口
ということで、こちらが①城址西側出入口。城址説明板脇のメイルBOXみたいな箱に島田市教育委員会編纂の「諏訪原城跡」カタログが置いてあった:
ここから先が大手口にあたり、そのまま北へ進んで行くと碑の両脇に②大手南外堀跡(11号堀ロハ)がある:
さらに進むと茶畑が左手に広がった場所に入るが、そこが③大手曲輪跡になる。但し、この曲輪は落城後は徳川氏支配の時代に増築されたもので、武田家の時代には存在していない曲輪である。現在はその片隅(というか茶畑の中)に武田方の最後の城主で武田家譜代老衆の一人であった今福条閑斎(友晴)の戦死墓塚が建っている:
さらに大手曲輪跡を進んで行くと武家屋敷跡がある。徳川氏時代に、方形をした大手曲輪を増築することにより東海道を城内に引き込んだ縄張りに拡張されていた:
その先には④大手北外堀跡がある。ちょうど大手曲輪とその北にある惣曲輪(そう・くるわ)との境界附近にあたる場所に遺されていた小さく細長い堀跡で、往時は水堀だったとか:
この大手北外堀跡を過ぎると広大な森林が広がっているが、ここが⑤惣曲輪(西の曲輪)跡である。そこには目新しい城址の碑と説明板が建っていた:
惣曲輪跡の碑。現在は森林になっているが、その手前には馬場があったらしい:
馬場跡を過ぎたところに巨大な三日月堀(3号堀)が見えてきた。これは籠城側から攻撃を仕掛けるために備えられた「丸馬出」で、三日月堀と馬出がセットになった甲州流築城術の特徴の一つである。この⑥二の曲輪中馬出の三日月堀は水堀で、その規模は長さ約70m、幅約14.5mであったと云う:
但し島田市の発掘調査では、現在見ることができる丸馬出は徳川氏によって改修されていた可能性が高いとのこと。そして、二の曲輪中馬出の三日月堀は少し北側に「ヒゲ」が残ったような形になっていた。ヒゲの先は二の曲輪北馬出跡であるが工事作業中のため立入禁止だった:
こちらは二の曲輪から外堀ごしに北馬出方面を眺めたところ。残念ながら、この先は通行止で見ることができなかった:
見事な三日月堀を堪能した後は馬出側にまわってみた。この馬出と二の曲輪の間には外堀があり、そしてそれを囲むように⑦帯曲輪が設けられていた:
こちらは、その帯曲輪跡から見た二の曲輪中馬出の馬出部分:
そして二の曲輪中馬出と二の曲輪との間には長大な外堀が設けられ、二の曲輪に向かって土橋を渡るようになっていた。こちらは土橋よりも北にある⑧二の曲輪外堀(2号堀)跡で、その規模は長さ72.5m、幅14.5mの空堀である。この当時は休日にも関わらず復元整備中だった:
これが丸馬出と二の曲輪の虎口を結ぶ土橋。左右にあるのが二の曲輪外堀(左が2号堀、右が4号堀):
これは土橋からみて南側に横たわる⑧二の曲輪外堀(4号堀)。この堀が城内で一番規模が大きい横堀である:
同じく土橋。こちらは二の曲輪虎口から中馬出方面の眺め:
これが⑨二の曲輪跡。副将またはそれに準ずる武士の詰所の他に、武器保管や他の城からの来城者の控所にもなっていたとか。武士の屋敷もあったと云う。但し、最近までは茶畑になっていたようで、だいぶ遺構が破壊されてしまったと予想する:
この曲輪は城内で最も長大な区域であり、虎口には全て丸馬出が設けられていた。そして左手先にある本曲輪を「扇」の要にたとえ、この二の曲輪で本曲輪を覆うかの様に大きな曲輪が扇状に広がっていると云う特徴のある縄張であった:
こちらは二の曲輪から眺めた外堀(2号堀)と、そこに架かる土橋の向こうに見えるのが中馬出跡:
ちなみに城攻め当時、二の曲輪外堀(2号堀)や北馬出周辺はこんな感じでいろいろ工事中だった:
遺構は期待できなさそうな二の曲輪を南下してみると中央あたりに盛土があった。⑩仕切土塁と呼ばれていたものらしいが、これは茶畑の跡なのか復元されたものなのかは不明:
それから二の曲輪を東へ移動した。この遊歩道も後世の造物だと思われる:
仕切土塁の脇には奇妙な石積遺構があったが、特に説明板は無かったので、これらは茶畑の痕跡だったと思われる:
二の曲輪の東には内堀を挟んで本曲輪があり、それらの虎口は土橋で結ばれている:
これらが、土橋が架かる⑪二の曲輪内堀(左:5号堀、右:6号堀)。5号堀は空堀で、甲州流築城術では「三段竪堀」と云い、堀底に三段の土居を設けて敵の侵入を遅らせるようになっていたが、現在はかなり藪化して確認できなかった。規模は長さ約40m、幅約13mと云う。6号堀の方は長さ約85m、幅約14.5mの空堀で、本曲輪の南側にある水の手曲輪から続く谷の沢という自然の地形を巧みに利用した堀となっている:
そして土橋を渡った先が⑫本曲輪虎口跡となる:
ここが⑬本曲輪跡で、富士山や大井川を望む高台にあたる(現在は周囲の樹木が邪魔なので搦手側の方が眺望が良い)。この土塁で囲まれた区画には城主が居住する館の他に指令所があったとされる:
本曲輪の奥には⑭(伝)天主台地跡がある。ここには二層の物見櫓が立ち、敵の動向を監視していたとされ、そのすぐ脇には石積遺構も残っていた。(伝)と云うこともあり、この台地は徳川氏時代に設けられたものではないかと想像する:
そして(伝)天主台地を越えた城の東南側が⑮本曲輪搦手外郭になる。ここは食糧・衣料・飲料水・武具などの運送に利用した武者走りが設けられていた:
これは搦手外郭から大井川方面の眺め。雲が無く空気が澄んでいれば富士山も見えるのだとか:
そして搦手口。この先は急崖で、その下には多数の内堀(空堀や水堀)が設けられ、甲州流築城術で云う「後堅固の城」となっている:
搦手口から急坂を30mほど下りていくと、県道R381(島田金谷線)が見えてきた:
現在の搦手側遺構が道路までということで、この辺り(外郭から20m下ほど)を堀跡沿いに歩いてみた。これは内堀(16号堀)跡で規模は長さ約90m、幅約6mの空堀である:
内堀を南へ移動し、そこから本曲輪外郭を見上げてみた:
この先にも内堀跡が幾つか続いていたが藪化が激しかったので搦手道を引き返して本曲輪外郭跡へ戻り、上から見おろすことにした。こちらは内堀(15号堀)と内堀(16号堀)の間に設けられた小さな竪堀(17号堀)跡で、斜面に対して垂直に堀られているのがわかる:
こちらは本曲輪の西側を囲んでいた土塁跡から水の手曲輪と、そこから北へ延びる内堀(6号堀)を見下ろしたところ。谷の沢を巧みに利用しているのがわかる:
それから、この土塁跡をつたって水の手曲輪方面へ移動した(左が急崖、右手が天主台地跡):
⑯水の手曲輪跡には天然の沢を利用した堀切が残っており、本曲輪からの遊歩道もそのまま堀底へ下りていく感じだった:
こちらは堀切の堀底から振り返って本曲輪を見上げたところ:
水の手曲輪の堀切と内堀(6号堀)との中継地点あたりに残るカンカン井戸。井戸の周囲は丸石が積まれていた:
そして堀切の堀底から遊歩道を上がっていった先には二の曲輪跡に至る。こちらはその遊歩道の途中から見た本曲輪西側の急崖と水の手曲輪の堀切部分:
水の手曲輪から上がった先は⑪二の曲輪跡である。往時は堀切に本曲輪と二の曲輪を結ぶ二つ目の土橋があったと思われる:
これは、こちら側の虎口から二の曲輪の仕切土塁がある北側を眺めたところ。この曲輪はまさに「扇」の扇面に相当するように大きい区域であったことがよくわかる:
それから、この二の曲輪を横断して大手馬出方面へ向かった。その丸馬出の前には大きな⑰二の曲輪外堀跡(4号堀と9号堀)と土橋があった:
この土橋は外堀(左:9号堀、右:4号堀)を渡るための橋(道)であり、かつ二つの堀の水位を調節する役割ももっていた。9号堀はさらに東へ延びて隠し堀の8号堀まで続き、自然の湧水を利用した水堀で、その規模は長さ約109m、幅約14.5mである。対して4号堀は二の曲輪大半を守護しており、自然の湧水による水堀であり、城内で最も大きな堀である。その規模は長さ約221m、幅約14.5mである:
外堀の9号堀沿いに東へ移動すると、⑱二の曲輪東内馬出跡が見えてきた。こちらは至るところがブルーシートで覆われロープで立ち入りが制限されていたので発掘調査中と思われる:
その東内馬出の南には二の曲輪東馬出があり、こちらも発掘調査中で立入禁止であったが、遠くから見ても三日月堀で囲まれた馬出しの形が良くわかった:
こちらは、この東馬出を横から眺めたところ。この角度の方が三日月堀がよくわかる:
この後は外堀に沿って二の曲輪大手馬出方面へ戻った。こちらは、その丸馬出の背後に設けられた外堀(4号堀)跡である:
現在、⑲二の曲輪大手馬出跡には諏訪神社が建っている:
こちらは諏訪神社鳥居前あたりで大手口という説明板が建っていたところ。ここから丸馬出を見ると三日月堀(12号堀)の曲がり具合が良くわかる。そして堀の向こうには②大手南外堀跡が見えた:
ここで大手丸馬出しの三日月堀(12号堀)を幾つか。見事な曲線と垂直に削られた累壁を保ちつつ残っていた:
そして大手口附近から外堀(9号堀)沿いに旧東海道方面へ移動していくと⑳二の曲輪南馬出跡がある:
この後は大手口あたりへ戻り、そこから旧東海道に出て城攻めは終了。
この諏訪原城は、甲斐武田軍が天正3(1575)年5月の長篠・設楽原の戦で惨敗したすぐ後の6〜8月に三河の徳川家康による攻撃を受け、緒戦はよくよく防戦していたが、一ヶ月以上籠城するも四郎勝頼からの後詰は無く、次々と将士らは後方にある遠江の小山城へ逃亡したため8月24日に落城した。これまで高天神城に対する兵站基地として機能していた諏訪原城が落ちると、高天神城も籠城戦の末に落城し、四郎勝頼は武田氏による遠江支配を完全に失うこととなった。
徳川家康が諏訪原城に入ると牧野原ににちなんで牧野城と改名し、城主に松平周防守康親を置いた。その後、駿河国の田中城などに籠もっていた甲斐武田軍による諏訪原城奪還が行われたが力及ばず敗退した。
天正10(1582)年に四郎勝頼が甲斐田野で自刃して新羅三郎義光以来28代続いた甲斐武田家が滅んだ後、天正18(1590)年頃に牧野城は廃城となった。
最後に、こちらは二の曲輪中馬出附近に置かれていたもの。この当時は発掘調査や保護整備などで若干、立ち入りが制限されていたのは残念ではあったが、それでも十分に甲州流築城術を堪能できた:

丸馬出あたりに建っていた注意書き
諏訪原城攻め (フォト集)
ちょっと残念なのは、現存の遺構が長篠・設楽原の戦い後に家康が高天神城包囲の一環として攻め落とした後に改修した時のモノだったということ。これって甲州流築城術と言えるのかな?