静岡県島田市金谷にある諏訪原城は、元亀4(1573)年に父信玄の跡を継いで甲斐武田家第20代当主となった四郎勝頼が、元号が改まった同年は天正元(1573)年に、筆頭家老の一人である馬場美濃守信房[a]名は信春とも氏勝とも。はじめ教来石景政(きょうらいし・かげまさ)と名乗り信玄の下で幾つもの軍功をあげ、のちに清和源氏系の馬場氏の名跡を継いで馬場信房と名乗る。甲斐武田四天王の一人。山本勘助の教授で各地に城を普請して、のちに築城の名手と云われた。を普請奉行に、そして武田典厩信豊[b]信玄の実弟である武田典厩信繁の次男にして、勝頼の従弟に当たる。をその補佐として遠江は東海道沿いの牧野原台地上にあった砦跡に築城させた城で、その名は甲斐武田家の守護神である諏訪大明神を城内に祀ったことが由来だと云う。この城は大井川を境として駿河から遠江に入る交通と軍事の要衝にあたり、そこから南西方面にある当時は徳川家康の属城であった高天神城攻略のための陣城として、そして攻略後は兵站の拠点としての役割を担うことになった。扇状の形をしたこの山城には、城から反撃するために深い三日月堀と馬出とで構成された丸馬出や桝形虎口を代表とする甲州流築城術が随所に見られ、搦手口は大井川を天然の外堀とする後堅固(うしろけんご)の城であった。そして天正3(1575)年の長篠・設楽原の戦後は、徳川家康らの反撃にもよくよく持ちこたえていたものの、城主の今福浄閑斎が討ち死にした上に勝頼は後詰を送ることができず、ついには落城した。
月別: 2016年11月
徳川家康が慶長10(1605)年に征夷大将軍の職を三男・秀忠に譲り、その翌年には「大御所政治」の拠点とすべく駿河国へ戻り、後に天下普請として拡張・修築した駿府城は静岡県静岡市にある。ここ駿河国は家康にとって所縁多き場所であり、かって今川氏全盛期で第11代駿河国守護であった今川義元の時代、天文18(1549)年に家康が松平竹千代と呼ばれていた頃、およそ12年間人質として駿府にある今川氏館で幼少期を過ごした。義元死後、甲斐の武田信玄が我が物とした駿府を天正10(1582)年、信玄の跡を継いだ四郎勝頼から奪いとり、領国の一つとした家康は度重なる戦火で衰えた町を再築し、天正13(1585)年から4年をかけて今川氏館跡に城を築いた。ただそれも束の間、天正18(1590)年には豊臣秀吉による小田原仕置の後に関八州へ国替えさせられ、先祖代々の土地の他、せっかく手に入れた駿河をも手放すことになる。しかし、ここは「鳴くまで待とうホトトギス[a]江戸時代後期の肥前国平戸藩主・松浦静山が記した「甲子夜話(かっしやわ)」という随筆集に載せられた川柳の一部。」として辛抱強く待った結果、秀吉死後の慶長5(1600)年の関ヶ原の戦で勝利し、その3年後に征夷大将軍に任じられた家康は江戸幕府を開府、その後は秀忠が継いだ将軍家を影から主導するために隠居と称して再び駿府へ戻ってきた。
参照
↑a | 江戸時代後期の肥前国平戸藩主・松浦静山が記した「甲子夜話(かっしやわ)」という随筆集に載せられた川柳の一部。 |
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