甲斐田野の地で自刃した武田勝頼公の銅像がJR甲斐大和駅北にある

甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家は第19代当主・晴信(のちの信玄)を父とし、信濃諏訪家は第19代当主・頼重の娘(のちの諏訪御料人)を母として、天文15(1546)年に諏訪で生まれた諏訪四郎勝頼は天正元(1573)年の信玄没後に家督を継いで第20代当主となった。当初は偉大な父の功績に負けず劣らず積極的な外征政策を推し進め、織田領の明智城や、父信玄でさえ陥せなかった徳川領の堅城・高天神城を攻略した。しかし天正3(1575)年の長篠設楽原の合戦で織田・徳川連合軍に大敗を喫したところを境に勝機を逸しはじめ、家康の反撃に対して後詰を送ることができずに諸城はつぎつぎと陥落、その度に国衆らの信望を大きく落とした。果ては穴山梅雪ら親族衆までが勝頼を見限り、その機を察して本格的に侵攻を開始した織田・徳川連合軍を前に、信州・駿河からの侵攻に備えて築いていた甲斐の新府城を棄て、重臣・真田昌幸からの岩櫃城入城の勧めを断り、同じ郡内にある岩殿城を目指して落ち延びていく。しかし、そこで小山田信茂の裏切りに遭い、付き従ってきた家臣らも日に日に逃亡し、織田方の先鋒である滝川一益隊が包囲網を狭める中、武田家の先祖が眠る天目山に向かって逃避行を続けた。

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