甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家は第十九代当主・武田信玄を父とし、信濃諏訪家は第十九代当主・頼重の娘(のちの諏訪御料人)を母として、天文15(1546)年に諏訪で生まれた諏訪四郎勝頼は天正元(1573)年の信玄没後に家督を継いで第二十代当主となった。当初は偉大な父の功績に負けず劣らず積極的な外征政策を推し進め、織田領の明智城や、父でさえ陥せなかった徳川領の堅城・高天神城を攻略した。しかし天正3(1575)年の長篠・設楽原の合戦で織田・徳川連合軍に大敗を喫したところを境に勝機を逸しはじめ、家康の反撃に対して後詰を送ることができずに諸城はつぎつぎと陥落、その度に国衆らの信望を大きく落とした。果ては穴山梅雪ら親族衆までが勝頼を見限り、その機を察して本格的に侵攻を開始した織田・徳川連合軍を前に、信州・駿河からの侵攻に備えて築いていた甲斐の新府城を棄て、重臣・眞田昌幸からの岩櫃城入城の勧めを断り、同じ郡内にある岩殿城を目指して落ち延びていく。しかし、そこで小山田信茂の裏切りに遭い、付き従ってきた家臣らも日に日に逃亡し、織田方の先鋒である瀧川一益《タキガワ・カズマス》隊が包囲網を狭める中、武田家の先祖が眠る天目山に向かって逃避行を続けた。
昨年は平成27(2015)年の正月明け、本格的な冬になる前に山梨県甲州市にある天目山古戦場や土屋惣蔵片手斬跡、そして田野の部落にある景徳院で勝頼主従らの墓所を御参りしてきた。この地はJR中央線の甲斐大和駅が最寄り駅であり、公共機関を利用する場合、この当時は駅前から天目山栖雲寺《テンモクザン・セイウンジ》方面へ行くバスが甲州市から出ていた[a]令和3(2021)年現在は、甲州市ではなく(株)栄和交通が運行しているようだ。。このバスの大菩薩上日川峠線は天目山の栖雲寺から折り返しになっているようだが、本数が少ない上に寒い季節である。バスを一本逃すと相当な時間待つことになりそうなので、本当は勝頼一行が目指していた栖雲寺に寄りたかったが、今回は駅前の「甲斐大和駅」から乗車して「日川渓谷レジャーセンター」で下車、そのバスが折り返して戻って来るまで近くの土屋惣蔵片手斬跡を見学、それからバスで「景徳院入口」へ移動することにした:
なお、実際の勝頼公主従らの経路はこれとは異なり、⑤→④→③→②→③ の順番だったと思われる。
こちらが山梨県甲州市にある歴史文化公園エリアに指定された地域の案内図。武田家終焉の地となった田野部落周辺の遺構・遺跡などが記載されていた:
JR甲斐大和駅前から小型バスに乗車してR20を北上し、更にそこから県道R218を日川《ヒカワ》沿いに10分ぐらい行った所に日川渓谷レジャーセンターなるバーベキューとキャンプ場を併設したような施設がある。道沿いには天目庵という御食事処も建っていたが、この時期は閉鎖中でひと一人居なかった。正月早々なので当然といえば当然だが:
時刻表によると、先程乗車したバスが栖雲寺から折り返して来るのが17分後。それまでの間、ここから来た道を300mほど戻った日川沿いのカーブがある辺りに建つ②土屋惣蔵片手斬跡を見学してきた:
土屋惣蔵昌恒《ツチヤ・ソイウゾウ・マサツネ》は、先の長篠・設楽原の戦で三重の馬防柵のうち二重目まで突破したところで鉄砲の一斉射撃で戦死した土屋右衛門昌次の弟であり、勝頼の近習を務め、勝頼に最後の最後まで付き従った忠臣の一人である:
新府城を棄てて落ち延びた時には5〜6百余人はいた軍勢も日に日に逃げ出すものが多くなり、岩殿城主・小山田越前守に裏切られて笹子峠で進路を阻まれた時点で婦女子50数名、近習ら40数名ほどとなった勝頼主従ら一行は渓谷沿いに田野の郷へ入り、武田家の先祖が自害した天目山(栖雲寺)[b]応永24(1417)年に室町幕府の討伐を受けた当時の甲斐武田守護であった武田信満がこの山中で自害した場所と伝わっている。へ向かうことにしたと云う。厳しい渓谷の崖道を天目山を目指して北へ進んで行くも、織田軍の先鋒である瀧川一益隊に捕捉され、この遺蹟が建つあたりの大蔵沢口より先に進むことができなくなったため田野の郷に引き返すことにした。
その際に殿軍を引き受けた土屋惣蔵は、主君の危機を救わんと最も崖道の狭い処にある岩角に身を隠し、片手には藤曼《フジカズラ》を掴み、もう片方の手に刀を握って迫り来る敵兵を次々に斬っては、この下にある日川に蹴落としたと云う:
周囲は数丈の崖が乱立し、自然の楯のようなこの場所で、寄せ来る敵兵を防ぎ片手だけで奮戦したことに因んで「土屋惣蔵片手千人斬り」と云う伝説が残っている:
土屋惣蔵が敵兵をこの日川に蹴落としたため、川の水は三日間も血で赤く染まったと云う。彼の活躍奮闘により勝頼主従は田野の郷まで戻ることができ、そこで従容《ショウヨウ》として自刃することができたと云う:
こちらが一級河川の日川。当初は満川《ミツルカワ》と呼んでいたが、それが三日血川《ミツカチカワ》→三日川→日川《ニツカワ》で、現在は日川《ヒカワ》と呼ばれている:
現在は治水整備が行われたものになっているが、それでも往時はスゴイ崖川だったのだろうと予想できる。しかし、この時期の日川は凍てつく冷たさだった:
このあとは日川渓谷レジャーセンター前でバスが来るまで散策してみた。こちらは園内にあった管理事務所のような建物の玄関先で見つけた武田菱:
ここからは折り返してきたバスに再び乗り込んで10分かからずに景徳院入口に到着した。
こちらが甲斐武田家終焉の地に建てられた田野寺こと③景徳院。現在は山梨県市指定史跡として武田勝頼公廟所が置かれている:
武田家が滅亡した後に甲斐国に入国した家康は、天正16(1589)年に勝頼ら将士の菩提を弔うために田野寺を建立した。それから江戸時代に入ると住職不在状態になり衰退してしまうが、甲斐国曹洞宗本山の中山広厳院から住職を招き、その後に再興されて景徳院となった:
こちらが景徳院の境内の案内図:
参道に従って進んで行くと「県指定史跡・武田勝頼之墓」の碑と山門が見えてくる:
この山門は安永8(1779)年建立だそうで、景徳院も何度か火災が生じて類焼しているが、この山門だけは免れて現在は山梨県指定有形文化財になっている。この山門の棟には武田菱があしらわれていた:
山門をくぐって境内に入ると本堂・庫裡・錬成館・鐘楼などが建っていた。こちらは本堂:
本堂の東側にあるのが甲将殿(影堂)で、勝頼公と夫人北條氏、そして嫡男信勝公の影像を祀っている(非公開):
家康は、この甲将殿の裏に墓地を設け勝頼主従を手厚く葬った:
こちらが、甲将殿の裏に設けられた勝頼公主従の墓所。中央に建つ三基のうち、左から武田信勝(法雲院殿甲厳勝信大居士)の五輪塔、武田勝頼(景徳院殿頼山勝公大居士)の宝篋印塔《ホウキョウ・イントウ》、夫人北條氏(北條院殿模安妙相大禅定尼)の五輪塔:
天正10(1582)年3月、天目山に向かうことならず、田野の郷に戻ってきた勝頼主従らは平屋敷に柵を設けて陣所とした。3月11日、織田軍先鋒である瀧川一益がその情報を聞きつけ、瀧川義太夫益氏[c]漫画や遊戯でも有名な戦国一の傾奇者である前田慶次郎利益は彼の子とされている。と篠岡右衛門に命じて包囲させた。逃れ難いことを悟った勝頼は、嫡男の信勝、夫人北條氏と共に自刃して果てた。勝頼公は享年37、夫人北條氏は享年19、信勝公は享年16:
勝頼ら主従が自刃して果てた後、甲斐国曹洞宗本山・中山広厳院の住職・拈橋[d]彼は、勝頼に最後まで付き従い鳥居畑古戦場で討死した忠臣の一人、小宮山内膳友晴の弟にあたる。が兄友晴の行方を探すため田野の地に入り、敵味方の死体が累々としている中で刀の中子に自分の氏名を朱書きしている武田家の家臣に戒名を付けていったと云う。そして勝頼父子の亡骸は陣を張った高台の中腹に埋葬し、のちに田野の人々が首のない三体の地蔵尊を安置したと云う。現在の墓所は、没後200年遠忌を期して安永4(1775)年に建立されたものであるが、それまで200年近く甲将殿とその中に安置された勝頼公・夫人北條氏・信勝公の坐像と殉難者の位牌が事実上の「墓」であったとされる。
現在、勝頼公らの墓所の両脇には正方形の基壇上に殉難者の供養塔が二基据えられている。また、片手千人斬りの伝説を残し、主君勝頼公の介錯後に自刃した土屋惣蔵昌恒の墓所は、ここではなく現在の山梨県南アルプス市にある。もう一人の忠臣・小宮山内膳友晴の墓所が見つからなかったが、前述のとおり彼の弟がここ田野寺を開基した僧侶なので、どこかちゃんとした場所で眠っているのだろう。
そして本来の墓であった甲将殿を囲むようにして、信勝公、夫人北條氏、そして勝頼公の生害石が置かれていた。彼らがこの平らな石の上で自刃したとのことで、それぞれの生害石と呼ばれている。
まずは武田信勝公、法名は法雲院殿甲厳勝信大居士。享年16。甲斐武田家第二十一代当主にして、最後の当主である。父は勝頼、母は美濃国の苗木城《ナエギジョウ》主・遠山直廉《トオヤマ・ナオカド》の娘で織田信長の養女であり、信長の姪にもあたる龍勝院殿。すなわち武田信玄と織田信長と云う戦国時代を代表する 英傑の血を引き、なおかつ両家の和睦の楔として生きねばならぬ人物であるのに、この最後は残酷といえよう:
仇に見よ 誰も嵐の桜花 咲き散るほどの 春の夜の夢 (信勝公辞世の句)
こちらは夫人北條氏、法名は北條院殿模安妙相大禅定尼。享年19。北條氏康の六女とされるが、名前は不詳。甲駿相の三国同盟が崩壊したのち、長篠・設楽原の合戦で惨敗した勝頼は相模の北條氏政と同盟を結び、その証として夫人北條氏が勝頼の継室として嫁いできた[e]正室の龍勝院殿は、甲陽軍艦によると元亀2(1571)年9月16日に信勝出産後に死去したとある。。介錯を頼まれた近臣がためらう様子を見て自ら自害するが、勝頼が苦しませてはならぬと駆け寄り、とどめを刺したと云う:
黒髪の乱れたる世ぞ はてしなき 思ひに消ゆる 露の玉の緒 (夫人北條氏辞世の句)
そして勝頼公、法名は景徳院殿頼山勝公大居士。享年37。介錯は土屋惣蔵昌恒。父信玄の死後に家督を継いで甲斐武田家第二十代当主となる。信玄公は遺言として、嫡男の武田竹王信勝[f]信玄は生まれてきた信勝をして「わしが孫で、信長の孫である。どちらに似ても器量抜群の名将となるはずだ」と大いに喜び、まだ産室にいるにも関わらず「武田竹王信勝」と名づけて、武田家の跡継ぎに決めたと云う。が16歳になったら勝頼は隠居して家督を譲り、越後国の上杉謙信を頼りにしろと遺した。初めの数年は、信長や家康から畏れられた信玄公以来歴戦の年寄衆らに「頭」を抑えられていたが、天性が勇猛な性格であったため亡父や老臣らに反発心を抱くとともに、隣国の信長や家康らを異常に敵視するようになった。この勝頼自身の気質が最終的に御家の滅亡を早めたとする説が専らである:
おぼろなる月もほのかに 雲かすみ はれてゆくえの 西の山の端 (勝頼公の辞世の句)
また、勝頼公と夫人北條氏の生害石は仲睦まじく松の木を境に並んで置かれていた:
本堂前には旗竪松と云う松の木が立っている。勝頼は自刃する前に甲斐武田家累代の重宝「御旗《ミハタ》」をこの大松の根元に立て、嫡子の信勝に対して「楯無《タテナシ》の鎧」を着させて、甲斐源氏の伝統ある古式に則って「環甲《カンコウ》の礼」を執り行い、第二十一代武田家当主の家督を譲ったと云う。この儀式の際の師は、本来は公卿か同盟国の大名が勤めるのが習わしだが、この時は土屋惣蔵昌恒が務めて執り行なわれたと云う:
こちらは景徳院がある田野の郷から天目山栖雲寺方面の眺め。逃避行を重ねるも逃げ場が無いと悟った勝頼一行が向かおうとした天目山には甲斐武田家の先祖が眠っている:
景徳院境内南東隅、ちょうど総門の上辺りには没頭地蔵尊が祀られている。往時、勝頼主従らの遺骸が埋葬された高台の中腹(甲将殿の南側)に、田野の人々が首のない三体の地蔵尊を安置したことが始まりと云う:
その脇には、勝頼公、夫人北條氏、信勝公らの辞世の句が彫られた石碑が置かれていた:
この辺りから眺めた田野部落と県道R218。この日は近くの人達が道祖神祀りの準備をしていた:
境内から出て総門の東側あたりには首洗い池跡が残っている。既に池は無くなっているが、ここにあった湧水で勝頼の首を洗ったという:
そして県道R218を渡った側にある駐車場の奥には、夫人北條氏の侍女16名が、この裏にある日川の淵に身を投じて殉死した辺りに碑が建っていた。後にこの淵を姫ケ淵と言い伝えてきたと云う。この碑は夫人北條氏を含めた十七人を表現したもので、侍女らを顕彰し慰霊するために建立したものだと云う:
ここで景徳院をあとにしてR218を国道R20のある西へ下りて行くことにした。こちらは振り返って天目山方面を眺めたところ:
日川沿いに、しばらく下りていくと鳥居畑古戦場跡が見えてくる:
ここが小宮山内膳友信らが織田軍の瀧川勢と死闘を繰り広げた④鳥居畑古戦場跡:
天正10(1582)年3月、新府城を棄て僅かな家臣らを従えて逃避行を続ける勝頼主従らの一行が、ようやく笹子峠の麓の駒飼にたどり着いた時、岩殿城に連絡に行った土屋惣蔵が急ぎ戻り、城主小山田越前守信茂が謀叛を図っていることを言上し、勝頼はやむなく天目山に籠もって防戦すると決意し、それに付き従う者は大熊朝秀、秋山紀伊守光継、阿部加賀守、土屋惣蔵ら四十三人で、初鹿野から日川の渓谷づたいに田野の郷に入った。其時、かねて佞人《ネイジン》らの諫言により主君勝頼公の勘気にに触れて蟄居させられていた小宮山内膳友晴は、今こそ主君に忠節を貫く時と田野の陣まで馳せ参じ、主君の許しを得た。そして3月11日早朝、山麓より織田軍の先鋒である瀧川一益と河尻鎮吉らの軍勢約四千に追撃された際に激戦を交えた場所が、ここ鳥居畑古戦場といわれている場所である。友晴は奮戦したが衆寡敵せず討死をした:
現在、この古戦場跡には供養碑が建っているが、その建立に協力をした御仁の中には、かの東宝の映画スターである三船敏郎氏の名前も刻まれていた:
そこから日川に沿って更に数百メートル下りたところには、もう一つ、⑤四郎作古戦場跡がある:
忠臣・小宮山内膳友晴(友信)は武田家重臣小宮山丹後守昌友の嫡男として武田家に仕え、諸国への使番十二人衆の一人に数えられ、武田家の軍政に重きを成していた。天正3(1575)年の長篠・設楽原の敗北以後の軍政は、勝頼の側近衆で佞人とも云われている長坂釣閑斎らが司っていたが、友晴はこれらの政策に対して素直に意見を述べ批判した。佞人らはこれを快しとはせず、最後は主君の勘気を被り蟄居を命ぜられ幽閉の身となっていた。しかし、天正10(1582)年3月のこの日、主君の危急を知り、まさに武田家最後の前夜に一行に追い付き、主君に言上したと云う:
友晴が譜代の臣でありながら武田家最後の戦いに臨めなかったなら、小宮山家末代までの恥辱であり、武士道にも背くゆえ、蟄居の許しを乞い、最後の戦いに御盾となり高思の万分の一にも報いたい
勝頼は「あっぱれな武士の鑑よ。余の不徳の致す処であった」と直ちに友晴の帰参を許したとある。若干、物語風で創作された感は否めないが、蟄居させられていた小宮山内膳が鳥居畑古戦場で討死したのは確からしい。幕末のある儒学者は、小宮山内膳の忠臣ぶりを絶賛していたと云う話もある。また、この碑は小宮山内膳の末裔一族らが資材を持ち合い、この大和町に住む地主さんに場所を提供してもらって建立されたものである。
このあとは県道R218を日川沿いに下ってJR甲斐大和駅へ向かった。下流へと下りてくると日川も一級河川らしく見えてきた:
そしてR218と国道R20が合流する場所には「山梨の歴史文化公園・日川渓谷と武田の秘境」と、ちょっと意味が違うようなタイトルの案内板があり、その背後にはしっかりと武田菱が建っていた:
このまま国道R20を下ってJR甲斐大和駅へ向かう:
駅の北側、大和中学校脇にひっそりと建つ⑥武田勝頼公之像:
甲斐国主である勝頼公の威徳を偲び、末永く後世に伝えるため大和市制60周年記念事業として、平成14(2002)年に建立された:
最後に、かの有名な三河物語には武田勝頼をして
日本にかくれなき弓取なれど、運が尽きさせ給ひて、かくはならせ給ふものかな
と織田信長が首実検の時に言ったと記されているのだとか。なんとも悲しいものかと思ったり。
甲斐武田家終焉の地と武田大膳大夫勝頼公墓所 (フォト集)
参照
↑a | 令和3(2021)年現在は、甲州市ではなく(株)栄和交通が運行しているようだ。 |
---|---|
↑b | 応永24(1417)年に室町幕府の討伐を受けた当時の甲斐武田守護であった武田信満がこの山中で自害した場所と伝わっている。 |
↑c | 漫画や遊戯でも有名な戦国一の傾奇者である前田慶次郎利益は彼の子とされている。 |
↑d | 彼は、勝頼に最後まで付き従い鳥居畑古戦場で討死した忠臣の一人、小宮山内膳友晴の弟にあたる。 |
↑e | 正室の龍勝院殿は、甲陽軍艦によると元亀2(1571)年9月16日に信勝出産後に死去したとある。 |
↑f | 信玄は生まれてきた信勝をして「わしが孫で、信長の孫である。どちらに似ても器量抜群の名将となるはずだ」と大いに喜び、まだ産室にいるにも関わらず「武田竹王信勝」と名づけて、武田家の跡継ぎに決めたと云う。 |
2015年はじめ、本格的な冬になる前にいってきた甲斐大和にある景徳院などがある天目山古戦場。JRの駅前からバスで「土屋惣蔵片手千人斬りの碑」に向かったこの日は思いの外寒く、バス停近くにある蕎麦屋は冬季期間中はお休みということで、乗ったバスが戻って来るまでの15分の間に写真に収めてきた。それからバスで下って景徳院に向かい、勝頼・夫人・信勝のお墓をお参りしてきた。
あれから二年後、「土屋惣蔵片手千人斬り」の主人公・土屋昌恒公の墓所を山梨県南アルプス市で訪問することができた。