太田道灌が築き、徳川家が拡張した江戸城で現在残る唯一の三重櫓が富士見櫓である

東京都千代田区にある皇居は、明治元(1868)年4月4日に時の新政府軍に明け渡されるまでは江戸城として260年以上にわたり徳川氏を将軍家とする江戸幕府の中枢として機能していた。江戸城のはじまりはさらに古く、今からおよそ550年以上も前の康正2(1456)年に武蔵国守護代・扇谷上杉氏の家宰で、稀代の名将の誉高い太田道灌が、往時は武蔵国荏原(えばら)郡桜田郷と呼ばれていたこの地に築いた城と云う説が有力である[a]徳川幕府の公文書の一つである徳川実紀に記されている。。また、天正18(1590)年の小田原仕置後に豊臣秀吉から関八州[b]武蔵国、相模国、上総国、下総国、安房国、上野国、下野国、常陸国の八カ国。を与えられた徳川家康であったが、その後はもっぱら京都の伏見城を居城としており、慶長8(1603)年に征夷大将軍の宣下を受けたのも伏見城と云われている。家康が江戸城に居城を移したのは慶長11(1606)年になってからで、その年から万治3(1660)年のおよそ57年間にわたり、天下普請の名の下に全国の諸大名を動員して江戸城の拡張工事が行われたと云う[c]慶長期天下普請は慶長11(1606)年から19(1614)年、元和期天下普請は元和4(1618)年から寛永元(1624)年、寛永期天下普請は寛永5(1628)年から万治3(1660)年。年はおおよそ。。そのうち天守は家康の慶長期、三男秀忠の元和期、秀忠の二男家光の寛永期にそれぞれ築かれた。三代将軍家光の時代には、現在の千代田区がすっぽりと収まる規模になり、名実ともに天下一の居城となったが、その後は度重なる火災で天守をはじめ御殿や門・櫓などを焼失しては再建が繰り返されることとなった。

今年は2016年の正月に皇居の新年一般参賀に参加してきた。この参賀では天皇皇后両陛下はもちろん、皇族の皆様方を「間近」でお目にかかれるという新春の年始めで最も贅沢で縁起の良いイベントだった8)。と言っておきながら、実のところ本来の目的は、昨年は2015年の江戸城攻めで見ることができなかった西の丸をしっかりと見ることだったけど :X

現在、皇居の名で知られている城域は江戸城の西の丸と吹上と呼ばれていた庭園部分に相当する。この西の丸は本丸との間に堀(蓮池濠)があるため独立した曲輪という位置づけ(一城別郭)で、さらに往時は紅葉山という丘陵に幕府を開府した初代将軍の家康を祀った東照宮が建っていたと云う。この新年の一般参賀では、通常は開くことがない皇居正門から参入して宮殿前の広場へ移動し、皇室の方々のお出ましを拝見して陛下の御言葉を頂いた後は宮内庁舎を横目に坂下御門、桔梗御門、または乾御門のいずれかの門から退出する要領となっていた。一歩でも皇居に入ると一つの場所に長く立ち止まることは遠慮させられる[d]正門の外は警視庁警備部の警察官が、そして皇居の中は皇宮警察官が多数配置されている。当然のことだけど。ので自由に写真を撮れるとはいえ、なかなかゆっくりと落ち着いて撮影することは難しい:|。それに加えて参観者の数もスゴイけど。

ということで、今回の一般参賀を利用した江戸城攻めでは西の丸下跡の皇居外苑から開始して、皇居の正門である西の丸大手門渡櫓をくぐり、二重橋から伏見二重櫓を眺めて、西の丸跡で一般参賀を終えたら蓮池濠越しに富士見多聞を眺め、お目当ての富士見三重櫓を堪能した後は内桜田門の桔梗門から皇居を退出した。それから桔梗濠越しに桜田巽二重櫓と、前回は耐震工事のため見ることができなかった大手門の渡櫓門を見学。ここで一旦城攻めを一休みにして、近くにある平将門公の首塚に参拝し新年の祈願を行った。それから外桜田御門へ戻って城攻めを再開、まずは江戸城三十六見附[e]江戸城の城門に置かれた見張り番所のうち、めぼしい36ヶ所のこと。の一つである赤坂見附の石垣、弁慶濠、真田濠、食違見附を見て回って四谷駅へ移動して終了というルートとした:

今回は西の丸跡→富士見櫓→桔梗門→大手門→赤坂見附→食違見附を攻めた

上空から見た江戸城と外堀の一部 (Google Mapより)

今回も番号順に攻めた (途中、平将門公の首塚をお参りした)

江戸城攻略ルート第二弾 (Google Mapより)

一般参賀は、現在は皇居外苑となっている①西の丸下跡付近に数カ所設けられた列に並び、所定時間になったら警視庁警備部の指示に従って皇居に参入することになる。こちらは三の丸下跡の二重橋ごしに眺めた伏見櫓。ちなみに二重橋とは、この皇居の②正門石橋とその奥にある正門鉄橋の二本の橋を合わせた呼称である:

この正門石橋とその奥にある正門鉄橋をあわせて二重橋と呼ぶ

二重橋ごしに眺めた伏見櫓

二重橋の正門石橋を渡ると見えてくるのが、皇居の正門である③西の丸大手門(の二の門の渡櫓門)。往時は手前に一の門の高麗門が建ち、他の御門同様に外枡形門を形成していたが、明治21(1888)年の明治宮殿造営時に撤去されて二の門だけ残って「正門」という呼び名に変更された:

往時は手前に一の門の高麗門があったが、明治宮殿造営時に撤去された

西の丸大手御門の二の門である渡櫓門

西の丸大手門をくぐり、二重橋の二本目の④正門鉄橋へ向かうところで見えてくるのが⑤伏見櫓

三代将軍家光の時代に京都の伏見城から移設されたという説がある

伏見二重櫓と十四間多聞櫓

伏見櫓は、西の丸の御隠居御城の西南に建てられた二重櫓で、その左右には多聞櫓が付随しており、手前に見えるのが十四間、奥にあって見えないのが十六間といった規模を持つ。この櫓、一説には寛永5(1628)年の西の丸造営にあたって京都の伏見城から移築したものだという:

この向こう側には十六間多聞櫓が付随している

正門鉄橋から眺めた伏見二重櫓と十四間多聞櫓

この後は、往時は西の丸大奥の御殿が建っていた宮殿前の広場にて天皇皇后両陛下と皇族の方々を拝見、陛下の御言葉を拝聴し、次の回のために広場から半強制的に退出を促される。そして宮内庁庁舎を横目に、退出口に指定されている坂下御門か桔梗御門、または乾御門に分かれる分岐点に至り、それぞれに向けて参賀客が移動する中、前回の城攻めは見ることができなかった遺構を見るために桔梗御門方面へ[f]本当のところは行ったり来たりすることも許されていないが、大勢の参賀客に紛れて行動した。但し、あまり大胆に動くと警察官に注意される。

こちらは本丸石垣の上に建つ⑥富士見多聞(現存)。本丸石垣は屏風折れになって高い防御性を持っていた。手前に見えるのは西の丸と本丸を隔てる蓮池濠で、その向こうには現在は固定だが、往時は跳ね門式だった西桔橋(にし・はねばし)があり、その先には⑦西桔橋門(にし・はねばしもん)がある:

屏風折れの高石垣の右手向こうは松の廊下などがある東御苑

屏風折れの本丸石垣と富士見多聞

左手が西の丸、右手が本丸、正面は西桔橋(にし・はねばし)

蓮池濠

さらに進んで行くと、お目当ての⑧富士見三重櫓が見えてきた:

本丸に現存する唯一の三重櫓で、江戸城遺構の中で最古の建築物

本丸南端に建つ富士見櫓

この櫓は、三代将軍家光の時代の明暦3(1657)年に発生した江戸開府以来未曾有の大火により焼失した天守の代用として使用された。総白漆喰の大壁を持ち、長押型を二条に塗り出し、石垣と濠に面した外壁の中央に様々な形式の「張出」をつけ、「石落とし」を兼ねた三重櫓である:

富士見櫓が建つ場所は天守台についで高い場所(標高23m)である

本丸南端に建つ富士見櫓

どの方角から見ても同じ姿に見えることから「八方正面の櫓」と呼ばれた富士見櫓:

どこから見ても同じに見えることから「八方正面の櫓」と呼ばれた

「八方正面の櫓」こと富士見櫓

江戸城本丸の南端に建つ富士見櫓は、天守台についで高い石垣(23m)の上に建っており、将軍らは両国の花火や品川の海を眺めていたとも。なお、江戸城を最初に築城した太田道灌はこの辺りからの眺めを、上洛時に天皇から受けた「江戸とはどんな処か?」という質問の返答にしたらしい:

わが庵は松原つづき海近く  富士の高嶺を軒端にぞ見る

明暦の大火後には天守の代用となった

江戸城全体の中心に建つ富士見櫓

富士見三重櫓は本丸南西隅の高石垣の上に建つが、江戸城全体だとそのほぼ中央に位置しており、天守の代用として江戸開城まで使用された。明暦の大火の際に西の丸に退去して難を逃れた将軍家光はのちに天守台石垣を修復させ、天守建造物の再建に意欲的であったが、彼の異母弟である保科正之公の建言で中止となり、それ以後は再建されることなく現在に至っている:

天守は近世の事にて、実は軍用に益なく、唯観望に備ふるのみなり。
これがために人力を費やすべからず。

稀代の勇将である太田道灌もこの辺りから眺めていたのだろうか

天守の代用として使われた富士見櫓

こちらは富士見三重櫓が建つ富士見丸への虎口にあたり、下埋門と呼ばれていた。この門をくぐると、さらに上埋門があって本丸南の富士見丸へ至るらしい:

この先に上埋門があり、その奥が本丸や富士見丸になっている

富士見三重櫓下にある下埋門跡

それから参賀の出口の一つである内桜田門こと桔梗門へ向かった。こちらは、⑨桔梗御門の二の門にあたる渡櫓門をその内側である三の丸跡から眺めたところ:

三の丸跡から見た二の門の渡櫓門

桔梗門(内桜田門)の二の門

そして二の門をくぐった先にある枡形虎口の中からそれぞれ眺めた二の門と一の門:

枡形虎口から見た二の門の渡櫓門

桔梗門(内桜田門)の二の門

枡形虎口から見た一の門の高麗門

桔梗門(内桜田門)の一の門

内桜田門の一の門である高麗門。一説には、この門の瓦に、太田道灌公の家紋である桔梗が彫られていたことから、桔梗門と云う名がつけられたと云う:

この門の瓦に太田家の家紋が彫られていたことが名前の由来だとか

一の門の高麗門

西の丸下方面から眺めたところ

桔梗門(内桜田門)の一の門の高麗門

一般参賀を終えて西の丸下の皇居外苑側へ出た所には、沢山の記念品売り場が立ち並んでいた。皇室ゆかりの菊花の御紋にちなんだ饅頭や装飾品、酒が販売されていた。通常期では購入できないとのことで、結構な人だかりであった。

そんなことにはお構いなく、こちらは内桜田門こと桔梗門前の土橋から眺めた蛤濠と桔梗濠:

この石垣の上には蓮池巽三重櫓、玉薬多聞、弓矢多聞が建っていた

桔梗濠と二の丸石垣

この先には桜田巽二重櫓(現存)が建っている

三の丸石垣と桔梗濠

前回も見た⑩桜田巽二重櫓(現存)。なお富士見三重櫓と共に現存ではあるが、関東大震災で破損したため解体後復元されたものである:

ここにも警視庁警備部の警備の目が光っていた (ご苦労様です)

桜田巽二重櫓

そして、こちらも前回見た⑪三の丸大手門。但し、この日は、通常は開いている東御苑の方が閉鎖中だったので遠目から。前回の城攻めでは耐震補強工事中でカバーがかかっていた二の門の渡櫓門だが、この日は既に完了していた:

一般参賀の日は、東御苑が閉鎖中だった

三の丸大手門

平成の耐震補強工事が無事終了していた二の門の渡櫓門を見てきた

三の丸大手門

このあとは一休みし、毎年恒例の⑫将門塚をお参りして、今年は平成28(2016)年の無事を祈願してきた。

それから皇居外苑を散策して⑬外桜田御門へ移動して城攻めを再開:

桔梗門の内桜田門に対して外桜田門とも呼ばれている

外桜田門の一の門

桔梗門の内桜田門に対して外桜田門とも呼ばれている

外桜田門の全景


ここから先は江戸城の外堀に向かって西側を攻めてきた。江戸城の外堀跡は、寛永13(1636)年の寛永期最後の天下普請で江戸城の内郭と城下を取り巻くように造られた総延長約14㎞の濠のことで、現在はその約4㎞ほどが史跡指定を受け、遺構として残っている。

まずは外桜田門前のR20沿いに歩いて三宅坂交差点からR246に入り西へ移動した。東京メトロの永田町駅をちょっと過ぎたところに⑭赤坂見附の石垣が残っていた。往時はこの辺りに赤坂門が建っており、その門を警備する番所なので赤坂見附と呼ぶらしい。この石垣も刻印が多数あった:

山王社の北に位置する赤坂門を守衛する見張り番所だった

赤坂見附跡の石垣

この石垣の先には⑮弁慶濠があり、その横をギリギリ首都高速4号新宿線が走っていた:

左手には首都高4号線、その先に見えるのが弁慶橋(現代版)

弁慶濠

その石垣の下に潜り込むようにして通過しているのが首都高4号線

弁慶橋から振り返った赤坂見附の石垣

こちらが赤坂門見附の西側にある喰違見附(くいちがい・みつけ)方面の弁慶濠。この右手の丘陵にはホテルニューオータニがある:

赤坂見附の交差点から弁慶濠に架かっている弁慶橋からの眺め

弁慶濠

弁慶濠沿いを西へ移動して紀の国坂の交差点を上智大学方面に右折したところに喰違門が建っていたとされる。こちらは喰違門の北側にある⑯真田濠跡。現在は埋め立てられて、堀底下は東京メトロ南北線の四谷駅や上智大学のグランドになっているが、右手に見える土塁などは現存である:

真田信之が徳川家に貢献した証として築いた外堀である

真田濠跡

この外堀は、真田昌幸の嫡男で、真田信繁の兄である信之が三代将軍家光に忠誠を誓う証として築いたもの。台地を削って築いた真田濠は外堀の中でも最も高い場所に位置し、水の流れの起点でもあったらしく、その南にある弁慶濠よりも20mほど高かった。それを利用して玉川上水の水を真田濠に引き入れて周囲の濠に水を流した。貯水池としても利用されていた可能性が高いのだとか。

そして、こちらは喰違門跡から見た弁慶濠。江戸城外堀の一つで、ちょうど真田濠と道路を挟んで反対側にある。真田濠側からだと見下ろすような高低差があることがわかる:

こちら側の真田濠は弁慶濠よりも20mほど高低差があるのだとか

喰違門跡から見下した弁慶濠

これが⑰喰違見附跡。喰違門は慶長17(1612)年に甲州流兵学者の小幡景憲(おばた・かげのり)によって縄張されたと伝わる江戸城外郭門の一つで、ここは近世の枡形虎口ではなく、土塁を前後に延ばして直進を阻むという、戦国時代ではよく用いられた虎口である:

この辺りに建っていた喰違門を守衛する見張り番が置かれていた

喰違見附跡

この辺りは、二つの谷に挟まれた江戸城外堀としては最も高い位置にあり、寛永期天下普請で作事された江戸城外郭門に先駆けて、江戸城防御の要として構築されたと考えられている。

このまま喰違見附を上智大学方面にしばらく進んでいくと四谷に至るが、上智大学の手前、「紀尾井町」という地名の一角には御三家の一つ⑱尾張徳川家屋敷跡があったらしく石碑が建っていた:

御三家の一つ名古屋藩の藩邸があったところ

尾張名古屋藩徳川家屋敷跡

この近辺は、他にも同じ御三家の一つである紀伊徳川家藩邸跡や井伊家の屋敷跡があり、その頭文字をとって「紀尾井」と云う地名になったのだとか8)


最後に江戸城の火事年表を引用しておく。歴史が長いだけあって火災による焼失と再建、そして維持は幕府の財政を圧迫したであろうが、全国の諸大名が肩代わりしていたであろうこともまた十分に予想できる:

長禄元年 1457年 太田道灌が築城した江戸城が落成する
天正18年 1590年 徳川家康が江戸城入城し、工事着手する
慶長8年 1603年 徳川家康が征夷大将軍を拝領し、江戸幕府を開く
慶長10年 1605年 徳川秀忠が二代将軍になる
慶長11年 1606年 慶長期天下普請を開始、この年に本丸が完成する
慶長12年 1607年 慶長度天守(五重)が完成するが、田安門が焼失する
元和2年 1616年 徳川家康が死去する
元和8年 1622年 本丸拡張工事が始まる
元和9年 1623年 元和度天守が完成し、徳川家光が三代将軍になる
寛永11年 1634年 西の丸御殿が焼失する
寛永12年 1635年 日比谷門が焼失する
寛永14年 1637年 本丸天守台を改造する
寛永15年 1638年 寛永度天守が完成する
寛永16年 1639年 本丸御殿が焼失する
寛永17年 1640年 本丸御殿を再建するが、二の丸から出火する
明暦3年 1657年

振袖火事(明暦の大火)で天守、本丸、二の丸、三の丸御殿が焼失する

(以後、天守は再建されず)

万治元年 1658年 本丸御殿を再建する
寛文元年 1661年 鍛冶橋門、大手下馬大腰掛門が焼失する
寛文8年 1668年 虎ノ門、市ヶ谷門が焼失する
正徳2年 1712年 天守再建計画が提出される
享保9年 1724年  芝口門渡櫓が焼失する
享保16年 1731年 虎ノ門、幸橋門が焼失する
元文3年 1738年 三の丸御殿が撤去される
延享4年 1747年 二の丸御殿が焼失する
明和元年 1764年  鍛冶橋門が焼失する
明和5年 1768年 竹橋門が焼失する
安永元年 1772年  巽三重櫓、馬場先門、日比谷門、神田橋門などが焼失する(翌年に復旧)
寛政6年 1794年  幸橋門が焼失する
文化3年 1806年 常磐橋門、呉服橋門が焼失する
天保4年 1833年 数寄屋橋門、鍛冶橋門が焼失する
天保9年 1838年 西の丸御殿が全焼する(翌年に再建)
弘化元年 1844年 本丸御殿と大奥が焼失する(翌年に再建)
嘉永5年  1852年  西の丸御殿が焼失する(同年に再建)
安政6年 1859年  本丸御殿が焼失する(翌年に再建)
文久3年 1863年  本丸御殿、二の丸御殿が焼失する(以後、本丸御殿は再建されず)
慶応3年 1867年  大政奉還、二の丸御殿が焼失する(以後、二の丸御殿は再建されず)
明治元年 1868年  無血開城、東京奠都する
明治5年 1872年 城内の建築物が撤去される
明治6年 1873年 西の丸御殿が焼失する
明治21年 1888年 明治宮殿が建造される
大正12年 1923年 関東大震災で大手門、半蔵門などが焼失する 
昭和20年  1945年  東京空襲で宮城が焼失する

 

以上で江戸城攻め第二弾は西の丸の一部と外郭外堀(西側)を一通り見てきた。とは言っても外郭外堀は、北は水道橋、東は両国橋、南は新橋あたりまで及んでいるので、また来年の新年一般参賀に参加したついでにどこか攻めてくる予定。

 

See Also江戸城攻め(2) (フォト集)
See Also江戸城 (攻城記)
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See Also江戸城(3) (攻城記)
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See Also江戸城攻め(4) (フォト集)

参照

参照
a 徳川幕府の公文書の一つである徳川実紀に記されている。
b 武蔵国、相模国、上総国、下総国、安房国、上野国、下野国、常陸国の八カ国。
c 慶長期天下普請は慶長11(1606)年から19(1614)年、元和期天下普請は元和4(1618)年から寛永元(1624)年、寛永期天下普請は寛永5(1628)年から万治3(1660)年。年はおおよそ。
d 正門の外は警視庁警備部の警察官が、そして皇居の中は皇宮警察官が多数配置されている。当然のことだけど。
e 江戸城の城門に置かれた見張り番所のうち、めぼしい36ヶ所のこと。
f 本当のところは行ったり来たりすることも許されていないが、大勢の参賀客に紛れて行動した。但し、あまり大胆に動くと警察官に注意される。