城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

月別: 2016年10月

甲斐武田家終焉の地と景徳院 − The Last Battle of Takeda Clan at Tano

甲斐田野の地で自刃した武田勝頼公の銅像がJR甲斐大和駅北にある

甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家は第19代当主・晴信(のちの信玄)を父とし、信濃諏訪家は第19代当主・頼重の娘(のちの諏訪御料人)を母として、天文15(1546)年に諏訪で生まれた諏訪四郎勝頼は天正元(1573)年の信玄没後に家督を継いで第20代当主となった。当初は偉大な父の功績に負けず劣らず積極的な外征政策を推し進め、織田領の明智城や、父信玄でさえ陥せなかった徳川領の堅城・高天神城を攻略した。しかし天正3(1575)年の長篠設楽原の合戦で織田・徳川連合軍に大敗を喫したところを境に勝機を逸しはじめ、家康の反撃に対して後詰を送ることができずに諸城はつぎつぎと陥落、その度に国衆らの信望を大きく落とした。果ては穴山梅雪ら親族衆までが勝頼を見限り、その機を察して本格的に侵攻を開始した織田・徳川連合軍を前に、信州・駿河からの侵攻に備えて築いていた甲斐の新府城を棄て、重臣・真田昌幸からの岩櫃城入城の勧めを断り、同じ郡内にある岩殿城を目指して落ち延びていく。しかし、そこで小山田信茂の裏切りに遭い、付き従ってきた家臣らも日に日に逃亡し、織田方の先鋒である滝川一益隊が包囲網を狭める中、武田家の先祖が眠る天目山に向かって逃避行を続けた。

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江戸城 − Edo Castle (TAKE2)

太田道灌が築き、徳川家が拡張した江戸城で現在残る唯一の三重櫓が富士見櫓である

東京都千代田区にある皇居は、明治元(1868)年4月4日に時の新政府軍に明け渡されるまでは江戸城として260年以上にわたり徳川氏を将軍家とする江戸幕府の中枢として機能していた。江戸城のはじまりはさらに古く、今からおよそ550年以上も前の康正2(1456)年に武蔵国守護代・扇谷上杉氏の家宰で、稀代の名将の誉高い太田道灌が、往時は武蔵国荏原(えばら)郡桜田郷と呼ばれていたこの地に築いた城と云う説が有力である[a]徳川幕府の公文書の一つである徳川実紀に記されている。。また、天正18(1590)年の小田原仕置後に豊臣秀吉から関八州[b]武蔵国、相模国、上総国、下総国、安房国、上野国、下野国、常陸国の八カ国。を与えられた徳川家康であったが、その後はもっぱら京都の伏見城を居城としており、慶長8(1603)年に征夷大将軍の宣下を受けたのも伏見城と云われている。家康が江戸城に居城を移したのは慶長11(1606)年になってからで、その年から万治3(1660)年のおよそ57年間にわたり、天下普請の名の下に全国の諸大名を動員して江戸城の拡張工事が行われたと云う[c]慶長期天下普請は慶長11(1606)年から19(1614)年、元和期天下普請は元和4(1618)年から寛永元(1624)年、寛永期天下普請は寛永5(1628)年から万治3(1660)年。年はおおよそ。。そのうち天守は家康の慶長期、三男秀忠の元和期、秀忠の二男家光の寛永期にそれぞれ築かれた。三代将軍家光の時代には、現在の千代田区がすっぽりと収まる規模になり、名実ともに天下一の居城となったが、その後は度重なる火災で天守をはじめ御殿や門・櫓などを焼失しては再建が繰り返されることとなった。

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参照

a 徳川幕府の公文書の一つである徳川実紀に記されている。
b 武蔵国、相模国、上総国、下総国、安房国、上野国、下野国、常陸国の八カ国。
c 慶長期天下普請は慶長11(1606)年から19(1614)年、元和期天下普請は元和4(1618)年から寛永元(1624)年、寛永期天下普請は寛永5(1628)年から万治3(1660)年。年はおおよそ。

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