康正2(1456)年頃というから今から500年以上も前に、相模国(現在の神奈川県や東京都)を勢力下においていた扇谷(おおぎがやつ)上杉家の家宰・太田道灌資長が、ここ江戸城の原形を築いた。城はたった一年後の長禄元(1457)年に完成したと云うのだから、その規模や施設は簡素なもので、中世の城のような高石垣や幅広の水濠といったものは無く、土を穿(うが)って造った空濠や土居(土塁の古称)が主体であったと云う。とはいえ、この当時、今のJR東京駅のある丸の内あたりは松原つづきの海岸であったので、城中からの眺めはすこぶる良かったらしく、東に筑波山が、西に富士山が見えたらしい[a]太田道灌が上洛した際に、時の天皇から江戸城について問われると和歌をもって返答した句が残っている:「わが庵は松原つづき海近く 富士の高嶺を軒端にぞ見る」。それから60数年後には小田原北条氏の属城となり、北条五色備(ほうじょう・ごしきぞなえ)[b]伊勢新九郎氏康(のちの北条氏康)麾下の部隊で、五つの色でそれぞれ染められた旗指物を使用していたことが由来。特に黄備の北条綱成は黄色地に染められた「地黄八幡」という旗指物を使用していた猛将で有名である。の一人で青備の富永直勝や遠山綱景[c]TVドラマ「遠山の金さん」こと遠山金四郎景元の先祖にあたる。をはじめとする北条家江戸衆が城代となった。そして更に66年後の天正18(1590)年に豊臣秀吉の小田原仕置で小田原北条氏が滅亡すると、秀吉は徳川家康を東海道筋から江戸城を含む関東八州へ転封した。家康は、それから10数年後の慶長8(1603)年に江戸幕府を開府し、「天下普請」の名のもとに幕府200年の礎(いしずえ)とすべく江戸城の拡張に着手した。
昨年は2015年の新春、年初めの城攻めに東京都千代田区にある江戸城を選択した。この城は、明治元(1868)年4月4日に開城すると東京城(とうけいじょう)に改称され、さらに江戸から東京奠都(とうきょう・てんと)すると皇城と改称され、最後は大戦後の昭和23(1948)年に皇居に改称された。こちらは宮内庁のホームページにある皇居全体図:

皇居全体図(宮内庁HPより)
皇居と云うことで立ち入りには制限はあるものの、実際には御所や宮内庁のある吹上御苑以外の本丸・二の丸・三の丸跡の皇居東御苑をはじめとして、西の丸下跡の皇居外苑や北の丸跡の北の丸公園は自由に散策できるようになっている。とはいえ江戸城が城として完成した寛永から万治の時代(1624〜1660年)の縄張図によると、その総構(城域)は北は神田明神のある御茶ノ水・水道橋、西は市ヶ谷・四谷、南は浜松町・御成門、そして東は隅田川・浅草橋あたりまで及んでいたので、全てを見て回るにはそれなりの時間が必要である 。
ということで、今回は皇居外苑の和田倉御門跡から開始して、本丸・二の丸・三の丸跡がある皇居東御苑、北の丸跡の北の丸公園、そして吹上御苑を濠沿いに半周して、最後は再び皇居外苑の西の丸下跡を攻めるルートとした。基本的には徒歩だが、時間と体力の都合で平川御門近くの竹橋から北の丸公園のある九段下までは地下鉄(東京メトロ東西線)を利用した。まぁ歴史が長い分だけ、とにかく見所が多い城である:
この日はJR東京駅を出て、まずは和田倉門跡のある和田倉噴水公園へ移動した。こちらは三年前(当時)に復原工事が完了した煉瓦造りの東京駅丸の内駅舎:
丸の内中央口あたりを西へ進むと江戸城の内濠である和田倉濠が見えてくる。その右手には和田倉橋が見えてくる:
この橋の周辺に蔵があったことが名前の由来で、慶長時代までは「蔵の御門」と呼ばれていた。この橋を渡った先には、かって江戸城を守衛するために築かれた内郭門の一つである①和田倉門があった。この門の一の門は高麗門で、二の門は渡櫓門であり、これらの門で枡形虎口を形成していた。なお高麗門は終戦後まで残っていたが、空襲で焼失した半蔵門(後述)に移築されてしまった:
こちらは枡形の中から和田倉橋を見たところ。ここに一の門の高麗門が建っていた:
和田倉橋から眺めた和田倉門渡櫓門石垣:
和田倉門石垣は切込接と打込接が融合していた。さらに刻印石もあった:
和田倉門跡を抜けると和田倉噴水公園があり、その先の内堀通り(R301)を挟んだ向こうに桔梗濠が見えてくる。こちらは皇居外苑の案内図:
そして、正面に見えてくるのが②桜田巽二重櫓(さくらだ・たつみ・にじゅうやぐら)。本丸から見て辰巳(南東)の向きに建っていることが名前の由来である:
この櫓は、現在の江戸城に三棟ある現存櫓の一つで、白漆喰塗籠壁に石落としと鉄砲狭間を備えている。なお、この櫓は富士見櫓と同様に、関東大震災で一部が破損したため解体復元されている:
このまま桔梗濠を北へ移動すると③三の丸大手門が見えてくる。ここが江戸城の正門で、正面に見えるのが一の門である高麗門:
そして大手門の北側(向かって右手)は大手濠:
ここで残念なことに、当時は平成23(2011)年の東日本大震災による一部損壊修理と耐震補強工事が実施されていたので二の門の渡櫓門はすっぽりと「カーテン」に包まれていた:
大手門は一の門と二の門から構成された典型的な外枡形門で、最初に大手門の普請を担当したのは築城の名手とも云われている藤堂高虎である。まずは一の門である高麗門:
一の門と右手に見える二の門との間に造られた枡形。直進し右に折れて渡櫓門をくぐることになる。この大手門は慶長12(1607)年に初めて造られたが、その後は何度か焼失しては再建された。元和6(1620)年頃の再建で枡形になったとされる:
こちらは枡形内に展示されている旧大手門渡櫓の鯱。昭和20(1945)年の戦災で焼失した大手門渡櫓の屋根に飾られていたもので、頭部に「明暦三丁酉」と刻まれていたことから、明暦の大火(1657年)で焼失した後、万治2(1659)年に再建された時のものだと云われている:
ちなみに、現在の大手門の渡櫓門は昭和41(1966)年に伝統的木造工法で復元されものだが、平成23(2011)年3月11日の東日本大震災において、建物が揺れにより大きく変化したため、土壁や漆喰の一部に被害がでたらしい。伝統的な外観を変更することなく、今後想定される大規模地震においても安全性が確保できるように耐震補強工事を実施することになり、平成27(2015)年9月までかかるとのこと(当時)。ということで櫓門にお目見えできたのは、今年は2016年の江戸城攻め(TAKE2)になった :
それでも門をくぐることはできるようだったので、枡形からそのまま三の丸跡へ進む。すると皇居東御苑入退出を受付けする建物があり、そこで入園票を受取って東御苑の中へ。ちなみに、ここ大手門以外には北詰橋門と平川門でも出入りができる仕組みになっていた:

皇居東御苑の入園票
そして、こちらが皇居東御苑の案内図:
皇居東御苑の三の丸跡に入るとまず右手に三の丸尚蔵館が見えてくる。ここには、皇室に代々受け継がれてきた美術品が一般公開されている(無料):
さらに進んでいくと、二の丸(奥)と三の丸(手前)を結ぶ④下乗門(三の御門)跡がある。往時、この石垣の手前には濠があり、下乗橋と呼ばれる橋が架かっていたそうで、その橋を渡り、さらに高麗門をくぐって二の丸へ向かったとされる:
ここには下乗門の一の門にあたる高麗門が建っていた:
下乗門の一の門を抜けた枡形の隅には同心番所があった。番所とは警備の詰所のことで、現在はこの同心番所の他に百人番所と大番所が残っており、本丸に近い番所ほど位の高い役人が詰めていた。ここの番所には同心(下級武士)が詰めて、主に登城する大名の供の監視にあたったとされる。この建物は江戸時代後期のものを修理復元したもので、鬼瓦には葵の御紋が付けられていた:
同心番所を先へ進むと下乗門(三の御門)の二の門にあたる櫓門跡の台座が現れ、その先には百人番所と中之門跡が見えた。ちなみに「下乗」とは文字どおり馬や駕籠から下りるという意味で、徳川御三家を除く大名らは、ここから徒歩で本丸へ向かったと云う:
こちらが下乗門(三の御門)の櫓門台座の石垣。この石垣は巨大な石を用いた切込接(石材同士の隙間がほとんど無い積み方)で、一つ一つの石材が巨大で、表面仕上げが丁寧であり、石材の形や色の組み合わせも絶妙である:
下乗門を抜けた二の丸と本丸へ通じる要所には百人番所が置かれていた。鉄砲百人組と呼ばれた甲賀組、伊賀組、根来組、廿五騎組[d]二十五騎組とも。福岡藩黒田家の家臣によって構成された集団で、いわゆる「黒田二十五騎」と呼ばれた後藤又兵衛基次や母里太兵衛友信など、黒田官兵衛孝高が家臣の中から選んだ精鋭部隊。彼の嫡男である黒田長政を加えての二十五騎だったらしい。の四組が昼夜交代で詰めていた。各組には与力が20人、同心が100人ずつ配属されていた。ちなみに百人組の屋敷は現在の新宿あたりにもあったことから、新宿区百人町などの地名に残っている:
百人番所を過ぎると⑤中之門跡に至る。ここにも渡櫓門が建っていたとされ、その台座石垣は下乗門と同様に、35トン前後の重量を持つ城内でも最大級の巨石が切込接で積まれ、丁寧な表面仕上げが特徴である:
台座石垣の間には、門柱跡の丸い穴が残った石が四つ並んでおり、江戸時代から現存している石畳の塼(せん)が敷かれている:
中之門跡を過ぎるとすぐに大番所がある。ここは他の番所よりも格が上で、位の高い与力や同心が詰めていた、まさに本丸へ至る最後の「砦」的な警備所である:
大番所を過ぎると書院門とも呼ばれた⑥中雀門跡があり、ここも複数の櫓で枡形が形成されていた。向かって左手の長い石垣の上には書院出櫓(手前側)と書院二重櫓が建ち、向かって右手の石垣の上に向かいの石垣との間を跨いだ渡櫓門が建っていた:
この中雀門には御書院大門(書院門)が建っていたとされる礎石が残っており、さらに両脇の石垣は文久3(1863)年の大火で本丸御殿が焼失した際に類焼し、その表面は熱でボロボロになっていた:
中雀門を過ぎて本丸跡に入り、左手奥に進んでいくと⑦富士見櫓(裏側)を眺めることができるが、手前にある鉄柵から先へ入ることはできない。但し、一年に数回、吹上御所が一般公開される場合は表側を見ることができる。実際に、平成28(2016)年の新年一般参賀の帰りに併せて見てきた:
かって江戸城には19棟もの櫓が建っていたが、現在残っているのは富士見櫓、桜田巽二重櫓、そして伏見櫓の3棟のみである。その中で富士見櫓は唯一の三重櫓で、最も古い遺構に属するものらしい。明暦3(1657)年の明暦の大火で焼失した最後の天守の代用として使われ、将軍が両国隅田川の花火や品川の海を眺めていたとされる:
この後は本丸・天守台方面へ移動した。往時、本丸には大奥や中奥、表と呼ばれた沢山の御殿が建てられていた。
こちらは江戸城表にあった松之御廊下(まつのおんろうか)跡。赤穂浪士討ち入りにつながっことで知られる、浅野内匠頭長矩(あさの・たくみのかみ・ながのり)の吉良上野介義央(きら・こうずけのすけ・よしなか)への刃傷事件があった所としても有名で、廊下に沿った襖戸に松と千鳥が描かれていたのが名前の由来。江戸城表の大広間から白書院を結ぶ城内で二番目に長い全長50mほどの畳敷の廊下だった:
そして、その松之御廊下跡の背後には⑧数寄屋多聞跡がある。多聞とは高石垣の上に設けられた長屋造りの櫓で、平時は主に倉庫として使われていた:
江戸城本丸には、それを囲むように合わせて15棟の多聞櫓が立っていたが、⑨富士見多聞(御休息所前多聞)はその内で唯一の現存遺構。この櫓の中には鉄砲や弓矢が収められ、戦時は格子窓を開いて狙い撃ちできるようになっていた。ちなみに「御休息所」とは本丸中奥にある将軍のプライベートな居間のこと。徳川家康が江戸城に初めて天守を建てた場所が近いことも、その理由と思われる。そして、この櫓の向こうは蓮池濠が広がっており、水面からここまで石垣が約20mも高く積まれている。この高石垣も平成28(2016)年の新年一般参賀で見てきた:
そして、こちらが富士見多聞あたりから眺めた⑩本丸跡。ちょうど寛永度の江戸城表にあたる場所で、これよりも左手方面に中奥や大奥の御殿が建っていた。さらに、もともとは慶長度天守、すなわち徳川家康が慶長12(1607)年に初めて創建した天守が建っていた所でもある:
さらに天守台に向かって移動すると石室(いしむろ)がある。ちょうど江戸城大奥御納戸の脇という場所柄から、非常の際に大奥用の調度などを収めたところと考えられている。また往時は、この右上には西側二階櫓が建っていた:
内部の広さは20㎡あり、伊豆半島の安山岩である 伊豆石の切石が敷き詰められている:
このまま竹林[e]金明孟宗(きんめいもうそう)竹などがある竹林。平成8(1996)年に天皇陛下の御提案により吹上御所から移植されたもので、13種類の竹が植えられている。脇を通過してさらに北上すると、現存する⑪天守台が見えてくる。これは三代将軍家光の時代に築かれた五層六階の天守(寛永度天守)が明暦3(1657)年の江戸大火[f]「明暦の大火」とか「振袖火事」とも。江戸の街を焼き払った火勢は江戸城にも広がり、天守の他に本丸、二の丸、三の丸まで焼失した。家光は火が及ばなかった西の丸御殿にいたため難を免れた。で延焼してしまったため、翌年の万治元(1658)年に加賀藩の四代藩主・前田綱紀が半年かけて再築した石垣である:
天守台が完成した翌年の万治2(1659)年には、同じく焼失した本丸御殿が再建されたが、天守の再建については家光の異母弟で、會津藩初代藩主である保科正之の建言[g]「天守は近世の事にて、実は軍用に益なく、唯観望に備ふるのみなり。これがために人力を費やすべからず」(寛政重修諸家譜)として、まずは被災した江戸の町の復興が先決であるという有名な句が残っている。により中止され、以後は現代まで再建されていない:
ちなみに天守台の南西隅部についた焦げ跡は、明暦の大火ではなく、幕末は文久3(1863)年の大火によるもの:
また、一見すると天守台の南側に張り出している石垣の上に小天守が建っていたかのように見えるが、寛永度天守には小天守は存在せず、一種の踊場(エントランス)だった。そして、その下には金名水と呼ばれる井戸があり、現在も満々と水をたたえていた:
明暦の大火後に再築された天守台の高さは六間(約11.8m)で、再築前より一間ほど低くなっているが、これは寛永度天守の設計ミス[h]天守台の石垣が少し高かったため、本丸を取り囲むように配置した富士見多聞などの櫓の屋根の上に石垣が少し見えてしまうという無粋な景観を、家光が悔しがったことによるもの。を修正した結果である。
このあと、後世に天守地階を埋めて造られた「無粋な」スローブ を使って展望台になっている天守台石垣の上に登ってみた。なおスローブなど一部改変はあるものの、天守台の隅石はしっかりと石材の長辺と短辺を交互に組み合わせた算木積になっていた
:
天守台の展望台から見下した地階(穴蔵)の状態。その大部分は土砂で埋まっていた。写真にある石段は、地階にある明かり採りの小窓に行くためのものであり、一階へ上がるものではない。一階へは木造の階段を使って上がるようになっていた:
これが天守台石垣の上面。五層六階の寛永度天守は、この石垣の上に切石で頑丈な基礎を造り、その基礎石の上に太い土台を敷い建てられていた:
NPO法人の中には寛永度の江戸城天守を再建する会なんてのがあるようだけれど、既に天守台は寛永度のものではないので、そこに寛永度天守を復元するのは、残念ながら大阪の天守閣同様に歴史的意義が全くないと思うが・・・ 。といったところで、展望台を下りてぐるりと天守台石垣を見て回ることにした。
現存している天守台は南北45m、東西41m、高さは約11mといった規模であり、花崗岩を横方向に整列させた布積(ぬのづみ)である。巨大な隅石は石材の長辺と短辺を交互に組み合わせた算木積になっていた。
隅石の表面加工の丁寧さも絶妙である:
ここで江戸城の天守に関して。江戸城の天守は三回建てられていることがわかっている。一番最初は、徳川家康が慶長12(1607)年に江戸幕府を開いた際に創建した五層六階の望楼型天守(慶長度天守)。この時の天守台の高さは約20mもあり黒田長政が工事を担当した。天守の外壁は、大坂城の黒漆塗りに対して白漆喰(しろしっくい)で塗り籠められ、この時点で既に大坂城を抜いて高さは天下一だった。その後、家康が没して六年後の元和9(1623)年に二代目の秀忠は、父親が創建した天守を取り壊して新たな五層六階の層塔型天守(元和度天守)を完成させた。これは本丸御殿を北側に拡張したことで、その北端に天守を移動したことによる。そして秀忠が寛永9(1638)年に没し家光が実権を掌握すると、これまた父親の天守を解体し寛永15(1638)年に再建した五層六階の層塔型天守(寛永度天守)。最後の天守となったこの寛永度天守は、天守台を除いた高さが44.84m、天守台を含めると58.63mで、現代の19階建てのビルに相当する。そして震度7の大地震にも耐えうる構造を持っていたと云う。層塔型天守は防御よりも装飾を重視して権威の誇示を目的とした「シンボル」だった。
そして天守台を越えた北側には⑫北桔橋門(きた・はねばし・もん)がある。太田道灌が築城した当時は、こちらが大手門であった:
ここは本丸大奥から外部へ通ずる門であったため、この先の三日月濠(乾濠)や平川濠には高石垣を用いて要衝堅固になっていた。さらに橋も跳ね揚げ式の仕掛けになっていたが、常に跳ね揚げたままだったのでほとんど利用されることはなかった。なお、現在でもその時の金具(赤矢印)が門の下に付いているのがわかる:
現在は一の門の高麗門しかないが、往時は二の門として渡櫓門と岩岐多聞(がんぎ・たもん)櫓が建てられて枡形虎口を形成し、さらに門に向かって右手には乾二重櫓が設けられていた:
また北桔橋門近くの石垣は二代将軍・秀忠の時代のもので、江戸城内で一番の高さを誇っている。まずは北桔橋門に向かって左手にある平川濠と高石垣。重要な北桔橋門を守るために濠を深くして高石垣にしていた。全体的に黒っぽい伊豆石を使用し、隅石だけは白っぽい花崗岩を用いて算木積となっている:
同様に、北桔橋門に向かって右手にある三日月堀(乾濠)と高石垣:
そして現在、北桔橋門を渡った向こうには北の丸跡に造られた北の丸公園がある。こちらは後ほど攻める予定:
ここで再び北桔橋門をくぐって天守台のある本丸へ移動した。
こちらは天守台の横で異彩を放っていた桃華楽堂(とうかがくどう)と云う音楽堂。昭和41(1966)年に、音楽好きとして知られる香淳皇后様の還暦を祝いして建設されたらしい:

桃華楽堂
そして、天守台展望台から眺めた⑬大奥跡。秀忠の時代に本丸を北側に拡張して造ったのが江戸城大奥、中奥のエリアで、御殿ばびっしりと立ち並んでいた(確かに延焼したらひとたまりもない… ):
それから本丸休憩所へ立ち寄って一休みし、そのあとは白鳥濠を望む銅多聞(あかがね・たもん)横の台所前三重櫓跡に造られた展望台へ移動した。こちらは本丸を囲むようにして建てられていた15棟ある多聞櫓の一つで、銅多聞跡の腰巻石垣:
こちらが、その展望台のある台所前三重櫓跡から左下あたりにある百人番所を眺めたところ:
同じく台所前三重櫓跡から見下した白鳥濠(はくちょうぼり)と二の丸跡。奥には汐見坂も見える:
ここで展望台を下りて、先ほど通った中雀門・中之門・百人番所を経由して下乗門前の二の丸虎口へ移動した。二の丸に向かって、こちらには銅門とその一の門と二の門で枡形を形成していた:
このまま遊歩道を二の丸跡に向かって進んでいく:
そして本丸側には、先ほど展望台から見下した白鳥濠と高石垣がある。この本丸東側の石垣は徳川家康による慶長期天下普請で造られたもので、往時その上には本丸を囲むように多聞櫓が立ち並んでいた:
二の丸跡を右手に見つつ遊歩道を進んでいくと、左手には汐見坂が見えてくる。この坂の上にも櫓と門が建っていた:
汐見坂は本丸と二の丸をつなぐ坂道で、往時は現在の新橋駅から皇居外苑近くまで日比谷入江が入り込み、この坂から海を眺めることができたとか:
汐見坂の上から眺めた本丸高石垣と⑭白鳥濠。本丸と二の丸間にある唯一の濠で、寛永期天下普請の二の丸拡張工事の際に他の濠は全て埋め立てられてしまったとか:
ここ汐見坂を境界に、家康時代と秀忠時代の石垣の両方を一度に見ることができる:
そして、汐見坂を上ったところには⑮汐見坂門が建っていた:
この後は汐見坂の正面にある⑭二の丸跡へ移動した:
往時の二の丸には長局や大御所座敷、書院、能舞台、泉水などを含む御殿が建っていた。また、四方の隅には三重櫓を含む隅櫓が建っていたとされる。とうことで一部には土居が残っていた:
現在の二の丸跡をぐるりとまわるように遊歩道を進んでいくと、諏訪の茶屋と呼ばれる書院風の建物があった。これは江戸時代には吹上地区に建っていた明治期の茶室風の建物で、吹上地区に御所ができたため昭和45(1970)年に、ここ二の丸へ移築・再建された:
この茶屋あたりから東にある三の丸あたりまで「二の丸庭園」という小堀遠州により造られた回遊式庭園なるものが再現されていた。さらに、往時の泉水に似た人口池もあった:
さすが日本庭園だけあって松の木のある風景は素晴らしかった:
この後は再び二の丸跡の遊歩道へ合流した。こちらは本丸高石垣。往時、この上には汐見多聞と汐見太鼓櫓が建っていた:
このまま北側の平川門方面へ向かうが、その途中には本丸と二の丸を結ぶ⑯梅林坂がある。この坂は、文明10(1478)年に太田道灌が天神社を祀り、数百株の梅を植えたことが名前の由来:
梅林坂と、現在は50本ほど植えられた梅の木(12月から2月が見頃とのこと):
そして、このまま平川門へ向かった。これは下梅林門跡。ここを過ぎると三の丸になる:
そして三の丸と二の丸の間にある天神濠を横目に進んでいくと:
⑰平川御門(の二の門にあたる渡櫓門)が見えてきた:
二の門に向かって左手には、その先にある竹橋門跡に向かって細長い帯曲輪が伸び、本丸との間には平川濠が広がる。この帯曲輪は、竹橋門より侵入した敵を撃退できるように平川濠と平行に伸びた細長い郭になっている:
平川御門の二の門である渡櫓門。門の両脇に見える石垣は亀甲状の切石になっていた。そして、この先は枡形虎口になっており右に折れると一の門に至る:
これが平川御門の枡形内部:
その枡形の中から見返した二の門の渡櫓門。石垣土台の亀甲城の切石が特徴である:
こちらは渡櫓門の脇にある帯曲輪門で、文字通り帯曲輪に出る門。また、城内で罪人や死人が出るとこの門から外へ運びだされていたことから不浄門とも:
平川御門枡形を囲む土塀には雁木が設けられている:
そして、平川御門の一の門である高麗門:
平川御門から外へ出ると、平川濠と大手濠に架かる平川御門前橋が復元されている。なお、この橋の欄干に付いている青銅の擬宝珠(ぎぼし)には「慶長拾九年」(1614年)の刻銘と「寛永元甲子年」(1624年)の刻銘が刻まれたものの二種類存在している:
ここまでが江戸城の本丸・二の丸・三の丸(の一部)に相当する皇居東御苑で、この後はお昼を摂って東京メトロ東西線竹橋駅から九段下まで移動し、北の丸公園の正門にあたる田安御門へ移動した。
⑱田安御門(重要文化財)は江戸城北の丸北部、現在の北の丸公園の出入り口あたりに一の門の高麗門と二の門の櫓門からなる外枡形門を形成していた。門の創建年を明らかにする文書は残されていないが、一の門である高麗門の扉釣金具に刻まれた刻銘から寛永13(1636)年[i]いわゆる寛永期天下普請の頃で、他にこの年には外郭をなす総構が完成している。また、その翌年には寛永期天守が完成し、天下一の大城郭となった。に建てられたものと考えられている。この門の名は田安徳川家[j]江戸時代の中期に徳川家の一族から分立した大名家で、田安家の他に一橋家と清水家で、徳川御三卿と呼ばれていた。田安家は第八代将軍吉宗の次男を家祖としている。の藩邸がこの辺りにあったことからきている:
こちらが一の門である高麗門:
そして、こちらは北の丸を囲む濠で、一の門の高麗門に向かって左手が牛ヶ淵濠、右手が千鳥ヶ淵:
田安御門の枡形虎口内部。正面が一の門である高麗門で、左手に見えるのが二の門の渡櫓門:
こちらが二の門の渡櫓門。この渡櫓門の上部は破損のため大正末期から昭和初期にかけて撤去されていたが、昭和36から41(1961から1966)年の修理で復旧整備したものである:
この渡櫓門の大扉を吊っている巨大な肘壺と云う金具にも「寛永十三年」の刻銘が残っており、最後の天守が焼失した明暦の大火を奇跡的に逃れた城門として、そして東京都心に残る現存最古の建築物ということで昭和36(1961)年に重要文化財に指定された:
このまま暫く北の丸公園を南下していく。これは、その途中にある日本武道館。今から50年も前の昭和39(1964)年に竣工した:
しばらく南下してから「吉田元首相像」あたりから牛ヶ淵方面に下りて行くと、北の丸の北東に位置する⑲清水御門が見えてくる(今回は一旦、濠を渡って城外へ出てから改めて攻めてみた)。
まずは清水御門の南側にある清水濠:
そして清水御門の一の門である高麗門があって:
さらに、この清水御門を境に北側には牛ヶ淵がある:
そして清水御門の一の門をくぐり、清水御門桝形虎口を形成しているもう一つの門である渡櫓門が右手にある。櫓門の丸太の梁は現存で国指定の重要文化財になっている:
この清水御門は徳川秀忠の小姓を務め、のちに紀伊和歌山藩二代藩主の浅野長晟(あさの・ながあきら)が寛永元(1624)年に建てた門である。こちらは櫓門を潜った先の枡形から見たところ:
こちらが、その櫓門内側の枡形。結局、清水御門から侵入した敵はコの字形に向きを何度も変える必要があり、その度に城方の横矢を受けることになる:
ここで、侵入した敵勢になった気持ちで清水御門の渡櫓門をくぐり、コの字形に向きを変えて、雁木坂と呼ばれる石段を上ってみた:
石段の幅は最初は広かったが、上へ進むに従って段々と狭くなっていた:
そして雁木坂の上は北の丸公園となる。北の丸の防備はもっぱら土居だということだが、櫓門回りの高石垣を含めて結構な石垣が残っていたと思う:
北の丸公園から見下した清水御門と清水濠:
この後は、さらに南下し科学技術館前を通って再び⑫北桔橋門(きた・はねばし・もん)を眺め、それから代官町通りを千鳥ヶ淵方面へ移動した。
北桔橋門から西へすぐのところには⑳乾門(いぬいもん)[k]この名の由来は皇居から見て乾の方角(北西)にある門だからで、ちょうど②桜田巽二重櫓とは対角線上に位置している。がある。この門はもともとは坂下門の内側にあった西の丸裏門であったが、明治21(1888)年の明治宮殿造営時に現在の場所に移築され、さらに黒の薬医門形式に改築された。現在は皇居の通用門として使用されている(ので通常は通行不可):
そして、再び代官町通りを西へ移動する。ここの歩道はけっこう狭いので、そんなことにはお構いのない(名物の?)マラソン・ランナーどもには注意しないといけない 。
こちらは、その代官町通りを境に皇居がある吹上側に設けられた空堀と、千鳥ヶ淵側にある土居:
このまま代官町通りを西へ進んでいくと内堀通りにぶつかると同時に、吹上御苑を囲む半蔵濠が見えてくる。これぞ「吹上の堀」である:
本丸周辺に見事な高石垣を持つ江戸城は、「関東の城郭」としての特徴である壮大な土居の城壁を備えている。西の丸や吹上には石垣は僅かで、その殆どが土居造りであった。土居の上部には鉢巻石垣が、下部には腰巻石垣が設けられ、その間は現在はなだらかな草土居の斜面になっているが、往時は関東ローム層による滑りやすい土居だったと思われる:
そして最大で200mの幅があるとされる半蔵濠と土居の下部はおおらかに屈曲していた:
このまま半蔵濠と吹上の土居を眺めながら内堀通りを南下していくと㉑半蔵御門が見えてくる:
半蔵御門は、秀忠による元和6(1620)年の天下普請時に建てられた桝形門で、甲州街道の起点の一つであり、四谷見附とともに江戸城の要衝の一つだったが、明治4(1872)年に二の門の渡櫓門が撤去されて一の門の高麗門だけになった。さらに大戦中の空襲で焼失してしまったため、現在の高麗門は和田倉門から移築されたものである。門の名前は、もちろんこの辺りに組屋敷を構えた服部半蔵[l]家康譜代の家臣の一人。この名は服部家代々が受け継ぐ通称。ちなみに現代活劇で取り上げられて有名な服部半蔵正成は二代目にあたる。の名に由来している:
こちらは半蔵御門前の土橋から眺めた桜田濠:
先ほどの半蔵濠の土居と同様に、半蔵御門からこの先にある桜田御門までの吹上を囲む土居と水堀の景観は、高層ビルが建ち並ぶ都内でも有数である:
この屏風折(びょうぶおれ)した土居上部の鉢巻石垣は横矢掛(よこやがかり)を仕掛けることができるようになっている:
おおからに屈曲した桜田濠。濠の幅は最大で200mにも及ぶという:
こちらは桜田濠を半蔵御門方面に見返したところ:
そして桜田濠ごしに桜田御門(外桜田門)が見えてきた:
ここで視線を右手に移してみると、「桜田門」の通称で有名な警視庁本部庁舎があった:
外桝形門の㉒桜田御門。内桜田門と呼ばれていた桔梗門に対して、外桜田門が正式名称。正面に見えるのが一の門にあたる高麗門で、その奥の右手には二の門の渡櫓門がある。万延元(1860)年3月3日に、この門外で当時の大老・井伊直弼が水戸脱藩浪士に暗殺された:
桜田御門にかかる土橋から、門に向かって右手に見える凱旋濠。こちらは土居ではなく石垣になっている。濠の左手は皇居外苑と呼ばれている西の丸下跡:
外枡形門を形成する一の門の高麗門。もともと家康と秀忠の時代は柵戸仕立であったが、家光時代の寛永13(1636)年にこの枡形門に改築された:
一の門をくぐると枡形虎口になっており、鉄板を貼り付けた鉄扉を持つ二の門の渡櫓門が脇に建つ:
現在見ることができる桜田御門は、大正12(1923)年の関東大震災で破損したのちに、寛文3(1663)年頃の門を参考に復元されたものである(重要文化財):
二の門をくぐると皇居外苑がある㉓西の丸下跡。すぐ先(JR東京駅方面)には丸の内の「摩天楼」がみえる:
西の丸下から皇居がある西の丸に入る正門へ向かう:
皇居正門(西の丸大手門)に入る㉔正門石橋。通称は「めがね橋」。この橋の向こう側には正門鉄橋があり、この二つを合わせて二重橋と呼ぶ。昔の二重橋の欄干に取り付けられていた擬宝珠は、現在は平川御門橋にある。奥に見えているのは伏見櫓:
これが正門鉄橋。ちなみ二重橋の由来は、この鉄橋(昔は木橋)が架けられていた部分の濠が深かったため、橋桁を二重に組んでいたことによる:
そして、二重橋ごしに見た現存の㉕伏見櫓(伏見二重櫓)と十四間多聞櫓(向こう側には十六間多聞櫓)。といっても、大正12(1923)年の関東大震災で倒壊したため解体ののちに復元されたもの。江戸城内で最も美しい櫓と云われている。三代将軍家光による寛永期天下普請で、京都伏見城から移築した櫓と伝えられている:
当然ながら平時は正門には近寄れない[m]天皇の即位大礼、天皇・皇后・皇太后の葬儀、新年一般参賀、国賓来訪の時以外は使われない。ので、このまま西の丸下跡を北へ向かう。これは西の丸と西の丸下の間にある二重橋濠:
そして坂下御門。西の丸北側の入口にあたり、宮内庁職員の出入口となる門。右手は蛤濠(はまぐり・ぼり)で、それに沿って伸びる土橋は坂下門橋と云われている。ちなみに、往時は右手の石垣の上に箪笥(たんす)多聞櫓とその両脇に蓮池二重櫓(奥)と蓮池三重櫓(手前)が建っていた:
往時、坂下御門も一の門と二の門からなる外枡形門であったが、明治18(1885)年の明治宮殿造営にあたり一の門の高麗門が撤去され、さらに明治20(1887)年には二の門の渡櫓門のみが角度を90度変えて一の門跡に移築され、現在のようになった。この門附近では、「桜田門外の変」の二年後の文久2(1862)年に時の老中・安藤信正が同じく水戸浪士によって襲撃され負傷した事件が起こっている:
それから坂下御門脇の蛤濠に沿って北へ向かうと㉗内桜田御門(桔梗門)がある。ここをくぐった先は三の丸跡で、明治政府時代の旧枢密院があったところ。ちなみに門の名前は、門の瓦に太田道灌の家紋である桔梗が付いていたことが由来という説がある:
桜田御門と対をなす桔梗門もまた外枡形門であり、一の門の高麗門と二の門の渡櫓門からなる。平時は通行不可:
こちらは、皇居外苑の皇居前広場に建つ楠木正成公像。鎌倉後期から南北朝時代に足利尊氏らと共に活躍した武人の一人で、時の後醍醐天皇を助ける側近であったが、後に尊氏の北朝側と対立し湊川の戦で敗れて自刃した。それ以後、室町幕府からは永らく朝敵やら悪党扱いとされていた。江戸幕府が倒れて明治の世になると忠臣としての評価が見直され、大楠公(だんなんこう)と称され、天皇家から正一位を追贈された:
最後に、こちらは大手濠に置かれていた注意書き:

城攻めする時も濠内は立ち入り禁止です
以上で江戸城を一回りしてきた。敷地も広いが見どころも多いので、ゆっくりと見て回るだけで半日はかかるだろう。平時は無理だが、一般参賀などで皇居が公開される日は伏見櫓や富士見櫓など、今回は近くに寄ることができなかった所を見て回ることが出来る。その他にも、赤坂や四谷辺りの外堀にも見どころが残っているので後日攻めてみる予定。
しかしながら、皇居を周回するマラソンランナー共のマナーの悪さは酷いものだった。是非、消えて無くなってほしい 。
江戸城攻め (フォト集)
江戸城(2) (攻城記)
江戸城攻め(2) (フォト集)
江戸城(3) (攻城記)
江戸城攻め(3) (フォト集)
江戸城攻め(4) (フォト集)
参照
↑a | 太田道灌が上洛した際に、時の天皇から江戸城について問われると和歌をもって返答した句が残っている:「わが庵は松原つづき海近く 富士の高嶺を軒端にぞ見る」 |
---|---|
↑b | 伊勢新九郎氏康(のちの北条氏康)麾下の部隊で、五つの色でそれぞれ染められた旗指物を使用していたことが由来。特に黄備の北条綱成は黄色地に染められた「地黄八幡」という旗指物を使用していた猛将で有名である。 |
↑c | TVドラマ「遠山の金さん」こと遠山金四郎景元の先祖にあたる。 |
↑d | 二十五騎組とも。福岡藩黒田家の家臣によって構成された集団で、いわゆる「黒田二十五騎」と呼ばれた後藤又兵衛基次や母里太兵衛友信など、黒田官兵衛孝高が家臣の中から選んだ精鋭部隊。彼の嫡男である黒田長政を加えての二十五騎だったらしい。 |
↑e | 金明孟宗(きんめいもうそう)竹などがある竹林。平成8(1996)年に天皇陛下の御提案により吹上御所から移植されたもので、13種類の竹が植えられている。 |
↑f | 「明暦の大火」とか「振袖火事」とも。江戸の街を焼き払った火勢は江戸城にも広がり、天守の他に本丸、二の丸、三の丸まで焼失した。家光は火が及ばなかった西の丸御殿にいたため難を免れた。 |
↑g | 「天守は近世の事にて、実は軍用に益なく、唯観望に備ふるのみなり。これがために人力を費やすべからず」(寛政重修諸家譜)として、まずは被災した江戸の町の復興が先決であるという有名な句が残っている。 |
↑h | 天守台の石垣が少し高かったため、本丸を取り囲むように配置した富士見多聞などの櫓の屋根の上に石垣が少し見えてしまうという無粋な景観を、家光が悔しがったことによるもの。 |
↑i | いわゆる寛永期天下普請の頃で、他にこの年には外郭をなす総構が完成している。また、その翌年には寛永期天守が完成し、天下一の大城郭となった。 |
↑j | 江戸時代の中期に徳川家の一族から分立した大名家で、田安家の他に一橋家と清水家で、徳川御三卿と呼ばれていた。田安家は第八代将軍吉宗の次男を家祖としている。 |
↑k | この名の由来は皇居から見て乾の方角(北西)にある門だからで、ちょうど②桜田巽二重櫓とは対角線上に位置している。 |
↑l | 家康譜代の家臣の一人。この名は服部家代々が受け継ぐ通称。ちなみに現代活劇で取り上げられて有名な服部半蔵正成は二代目にあたる。 |
↑m | 天皇の即位大礼、天皇・皇后・皇太后の葬儀、新年一般参賀、国賓来訪の時以外は使われない。 |
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