康正2(1456)年頃というから今から500年以上も前に、相模国(現在の神奈川県や東京都)を勢力下においていた扇谷《オウギガヤツ》上杉家の家宰・太田道灌資長が、ここ江戸城の原形を築いた。城はたった一年後の長禄元(1457)年に完成したと云うのだから、その規模や施設は簡素なもので、中世の城のような高石垣や幅広の水濠といったものは無く、土を穿《ウガ》って造った空濠や土居(土塁の古称)が主体であったと云う。とはいえ、この当時、今のJR東京駅のある丸の内あたりは松原つづきの海岸であったので、城中からの眺めはすこぶる良かったらしく、東に筑波山が、西に富士山が見えたらしい[a]太田道灌が上洛した際に、時の天皇から江戸城について問われると和歌をもって返答した句が残っている:「わが庵は松原つづき海近く 富士の高嶺を軒端にぞ見る」。それから60数年後には小田原北條氏の属城となり、北條五色備《ホウジョウ・ゴシキゾナエ》[b]伊勢新九郎氏康(のちの北條氏康)麾下の部隊で、五つの色でそれぞれ染められた旗指物を使用していたことが由来。特に黄備の北條綱成は黄色地に染められた「地黄八幡」という旗指物を使用していた猛将で有名である。の一人で青備の富永直勝や遠山綱景[c]TVドラマ「遠山の金さん」こと遠山金四郎景元の先祖にあたる。をはじめとする北條家江戸衆が城代となった。そして更に66年後の天正18(1590)年に関白秀吉の小田原仕置で小田原北條氏が滅亡すると、秀吉は徳川家康を東海道筋から江戸城を含む関東八州へ転封した。家康は、それから10数年後の慶長8(1603)年に江戸幕府を開府し、「天下普請」の名のもとに幕府200年の礎《イシズエ》とすべく江戸城の拡張に着手した。
月別: 2016年9月
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