埼玉県さいたま市岩槻区にある岩付城[a]岩附城または岩槻城とも。は複数の台地を利用した平城で、主郭やその北にある新正寺曲輪、そして南にある新曲輪や鍛冶曲輪がそれぞれ別々の台地の上に築かれ、それらの間には元荒川による深い沼地が広がっていた。築城時期は室町時代後期の長禄元(1457)年とされているが、築城主は扇谷(おおぎがやつ)上杉氏の家宰を務めた太田道真・道灌父子の説の他に、のちに武州忍城主となる成田氏の説があり、定かではない。道灌が暗殺された後は、彼の嫡子・資康(すけやす)[b]稀代の名将・太田道灌資長の嫡子で、彼の正室は伊勢新九郎宗瑞こと北条早雲に滅ぼされた三浦道寸の娘である。が江戸城主に、そして彼の養子・資家とその子・資頼(すけより)が岩付城主になった。戦国時代に入ると関東も戦乱期を迎え、相模の伊勢氏綱(のちの北条氏綱)が武蔵国に侵攻し岩付城攻略に乗り出すが、資頼の次男で、のちの三楽斎資正(さんらくさい・すけまさ)がこれに激しく抵抗した。天文15(1546)年には主君・扇谷上杉朝定が河越夜戦で討死するが、その後も資正は孤軍奮闘する。しかしながら岩付城を伊勢新九郎氏康(のちの北条氏康)に包囲され家臣らが次々に寝返ると翌年に降った。それでも反北条の立場を崩さなかった資正は、永禄3(1560)年に越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)による関東征伐に呼応して反旗を翻し、小田原城攻めでは箕輪城主・長野業政とともに先鋒を務めた。
一昨年は2014年の年の暮れ近くに、友人が永眠っているお寺を参拝したついでに攻めてきた。現在は広大な城郭のうち、小田原北条氏によって造られた新曲輪と鍛冶曲輪の一部が岩槻城址公園として整備されているものの、公園周辺は宅地化されていて遺構というほどの物は残っていないと云うことだったが、実際に攻めてみて、個人的には意外と良く整備されていたという印象である。
まず、こちらは東武野田線・岩槻駅前にある芳林寺にあった「太田道灌公築城550年記念・岩槻城復元図」:
室町時代後期に築かれた時には本郭、二郭、三郭などの多数の曲輪が広く深い沼や湿地で囲まれていたと云う。
こちらは岩槻城址公園に建っていた「ふるさと歩道案内図」に記載されていた江戸時代後期の縄張図と城下町。現在の道路や建物の名前が重畳されているので、上の復元図よりは、こちらの方が位置関係をつかみやすいかもしれない:
これが城の北側を覆うように流れていた元荒川(古荒川)とその河川敷。右手に城址があり、往時はこれが外堀の役目を果たしていた:
戦国期の岩付城はまさに反北条勢の拠点の一つであり、初めは越後の長尾輝虎(のちの上杉謙信)の支援を仰ぎつつ、なんとかその勢力を維持していたが、合戦に勝利しても自領とはしない輝虎の「義戦」に対して、相模の北条氏康やその同盟国である甲斐の武田信玄による領土拡大を目的とした執拗な侵攻に徐々に圧され、岩付城内も反北条派の三楽斎資正に対し、嫡男の資房が親北条派として意見が二分するという状態だった。そんな中、永禄7(1564)年に資房は父が留守中に北条氏に内応し、父と弟の政景を岩付城から追放するという挙に出た。こうして岩付城太田氏は北条氏に属し、氏政の妹を娶って偏諱を受け、名を氏資(うじすけ)に改めた。しかし永禄10(1567)年の里見氏との上総三船台(みふねだい)合戦で、氏資は撤退する北条軍の殿を務め討死してしまった。
その後、岩付城は北条氏が直接支配するところとなるが、天正18(1590)年に天下統一を目指して関東へ進出してきた豊臣秀吉麾下の浅野長吉(のちの浅野長政)らの猛攻撃により落城、さらに北条氏が滅亡した後は関東八洲へ移封となった徳川家康の家臣・高力清長(こうりき・きよなが)が岩付城主となった。
江戸時代になると岩付城は江戸北方の守りの要として重要視され、幕府要職の譜代大名らの居城となった。その頃の岩付城は、戦国期の北条氏による大改修により、本丸・二ノ丸・三ノ丸などの城の中心部となる主郭、その周囲を取り囲む沼の北岸に位置する新正寺曲輪、そして南岸に位置する新曲輪の三つの部分から構成されていた。更に城の西側と南側一帯には武家屋敷と町家、門前町などからなる城下町が形成され、その周囲を巨大な土塁と堀からなる大構が取り囲んでいたと云う。
このあとは県道2号線の橋を渡り、元荒川沿いに岩槻城址公園に向かった。その道すがらは、往時は完全に沼地の中であったが、現在は埋め立てられて住宅地になっていた。現在、城址公園がある辺りは、ちょうど新曲輪の部分に相当し、県指定の史跡になっていた。
実際に園内に入ってみると僅かに残った往時の沼地を利用した池があった:
しかしながら、大部分は埋め立てられて市民の憩いの場として開放されていた:
ちなみに、この新曲輪は豊臣秀吉の小田原仕置に備えて北条氏が城の防衛力を補強するために設けた曲輪と考えられており、新曲輪・鍛冶曲輪という二つの曲輪が主郭部南方の防備を固めていた。現在は、新曲輪の外周に築かれた土塁や空堀などの遺構が残されていると云う。
ということで、次は沼地の回りを歩いて土塁や堀を見てきた:
明治維新後に廃城となった岩付城内は宅地化が進み城郭の面影が完全に失われたが、それと対照的に園内の新曲輪跡は土塁や堀が良好な状態で残っていた:
新曲輪跡(左手)と鍛冶曲輪跡(右手)の間にある沼地には八ツ橋が架かっていた:
八ツ橋は後世のもので、沼地に架かる遊歩道であり、公園のシンボルになっていた:
次に、新曲輪の東にあり出丸的な役割を持っていた鍛冶曲輪跡へ移動した。こちらが往時の鍛冶曲輪虎口にあたり、現在は公園出入り口8となる:
そして鍛冶曲輪跡に建つ城址の碑。主郭部が宅地化されてしまったので、仕方なくこの曲輪跡に建てたのだとか:
こちらが鍛冶曲輪跡。若干、周囲に土塁が残っていた:
そして、奥に見えるのが鍛冶曲輪から大構へ出る方向の虎口跡で、その両脇に土塁が残っていた。その先には土橋と馬出跡があった:
鍛冶曲輪虎口にある土橋。手前には馬出があった:
そして、この土橋の両脇には鍛冶曲輪を廻る空堀があった。発掘調査によると、往時はもう3mくらい深かったらしい:
鍛冶曲輪と新曲輪周辺の空堀は綺麗に整備されており、遺構が少ないと云われているが、小田原北条氏の築城術が随所に残っていた。こちらは新曲輪附近の土塁と堀で二重土塁になっていた:
こちらは空堀に造られた横矢掛かり[c]これら北条流築城術については、以前攻めた後北条時代の小田原城の訪問記も参照のこと。。この奥の土塁の上は車道になっているが、往時は馬出になっていた:
それから、再び新曲輪方面へ移動した。こちらは新曲輪を囲む土塁切れ目から眺めた沼地跡の八ツ橋:
新曲輪と鍛冶曲輪との間にある空堀には、こちらも北条流築城術の一つである障子堀(堀障子)跡があった:
障子堀は堀の底に設けられた障害物で、堀に入った敵の移動を妨げたり、飛び道具の命中率を上げることを目的として設けられたと考えられている。岩付城では三基の障子堀が見つかっており、堀底からの高さは約90cm、幅が上で約90cm、下で約150cmあり、その間隔は約9mはあったと云う:
新曲輪と鍛冶曲輪との間にある空堀と比高二重土塁:
この空堀に沿って西へ移動していくと公園内を横切る車道にぶつかるが、そこに新曲輪の碑が建っていた。そしてその道路を挟んだところには馬出跡があった:
新曲輪を縦断している車道を渡って反対側へ移動してみると、新曲輪南側に至り、そこには道路に分断された空堀がさらに続いてた。丁度、上から見下ろす感じになるので、その長大さがよく分かった:
そのまま道なりに野球場方面へ移動すると新曲輪南側の土塁がある。この右手の新曲輪跡には野球場が造られていた:
再び車道を渡って反対側へ移動すると、江戸時代後期の岩槻城裏門と黒門(ともに現存で、さいたま市指定文化財)が移築されていた。
まずは木材部分が黒く塗られていたことから黒門と云う名で呼ばれていた岩付城城門。城内での位置は不明だが三ノ丸藩主居宅にあったものと考えられている。門扉の両側に小部屋を附属させた長屋門形式で、廃城とともに城内から撤去されていたが、昭和40(1970)年に、ここに移築された:
もう一つは岩付城裏門であるが、こちらも城内での位置は不明。門扉を付けた本柱と、後方の控柱で屋根を支える薬医門形式で、向かって左側袖塀に門扉、その左に潜戸を設けている。屋根は切妻造で瓦葺。廃城後に民間に払い下げられたが昭和55(1980)年に、ここに移築された:
さらに新曲輪を縦断する車道の脇には櫓台跡が残っていた:
そして城址公園イグレッタ(さいたま市民会館いわつき)横に残る新曲輪の一角。往時は、これより北側(写真の手前側)の三ノ丸までは沼地であった:
新曲輪を縦断する車道を県道2号線に向けて歩いて行くと、なんの変哲もない公園が続いているが、往時は沼地だった:
そして沼地跡を抜けると、再び台地となり、その上に三ノ丸跡があった。現在は本丸跡では無いのに、なぜか岩槻本丸会館:
ここで県道から少し逸れて消防局の出張所脇の小路に入り、南に向かって道なりに進んでいくと大手門跡がある:
そして道路から岩槻商業高校を眺めると三ノ丸堀跡がある。左手が三ノ丸、堀を挟んで右手は大構となる:
さらに南へ移動していくと住宅街の交差点隅に大手口の碑が建っていた:
そして大手口近くの、これまた住宅地の中に復元されていた時の鐘(さいたま市指定文化財)。寛文11(1671)年に岩付城主・阿部正春が武家屋敷と町人町の境の出入口の一つ渋江口に設置させた鐘楼:
現在の鐘は享保5(1720)年にヒビが入ったため、時の城主・永井直信が改鋳したもの:
これは渋江口[d]江戸時代は武家地や町家の出入り口のことを「口」と呼んでいた。跡。ちょうど信号の名前が「渋江」となっていてすぐに分かった。江戸時代に入って岩付城の城下町も再編され、大手門外の一帯を中心に武家地、街道沿いに町家が配置されていた。この渋江口は、城下町に入る日光御成街道が沼地を避けるために直進せずに横(写真右手)に折れて大手口に入るように整備されていた。また、この県道沿いには日光御成街道の一里塚も残っていた:
最後に、県道をさらに南下して東武野田線沿いにある愛宕神社へ。ここには岩付城の大構(おおがまえ)が残っており、その土塁の上に神社が建っていた:
大構は外構(そとがまえ)、惣構(そうがまえ)、総構(そうがまえ)、土居など呼び方はいろいろあるが、その特徴は城下町の周囲を土塁と堀で囲んでしまうことにあり、全長約8kmという長大な規模であったことである。これも北条流築城術の一つで、天正18(1590)年の豊臣秀吉による関東仕置で緊張の高まった北条氏が岩付城外の町家を城郭と一体化するために築いたものとされ、城の防御力を強化する他に、城下の町家を保護することにも大きな役割を果たしたと云う。廃城後は次第に姿を消し、現在は東武野田線沿いにその一部が残っているだけである:
城攻めする前はあまり期待をしていなかったが、新曲輪と鍛冶曲輪の間にある空堀、元荒川から大手口、そして大構を含めた城郭全体を一通り見ることができたのは予想外にも良かった。
岩付城攻め (フォト集)
太田道灌公と太田氏資公の墓所
太田資長(のちの道灌)公と岩付城主であった太田氏資公の墓所が、東武野田線岩槻駅近くの芳林寺(ほうりんじ)にある:
太田道灌は、室町時代後期の武蔵国守護代であった扇谷上杉家の家宰として、長尾景春の乱など関東各所の乱を平定し、文武両道で名将の誉が高い人物であったと云われている。文明18(1486)年に、彼の類まれな戦術家としての能力を畏れた主君・上杉定正により謀殺された。享年55。この時、父の道真と道灌の養子・資家が遺骨や遺髪を貰い受けて、現在の埼玉県越生(おごせ)町の龍隠寺と、ここ芳林寺に分祀されて丁重に葬られ、今日まで供養されている。
こちらが芳林寺境内に置かれた「太田道灌公の騎馬武者像」:
そして「太田道灌公鷹狩之像」:
道灌公と鷹狩に関して、こんな話が残っている:
鷹狩の途中でにわか雨に降られた道灌が一軒の農家に立ち寄り、その家の娘に「蓑を借りたい」と申し入れると、貸す蓑すら無い家の娘は八重山吹を差し出して、後拾遺和歌集の一句を引用し
「七重八重は咲けども 山吹の実の一つだになきぞ悲しき」
と答えた。これは八重山吹は実をつけないことから、蓑と実をかけて「みのひとつだになき」としたものだが、意味の分からない道灌は腹を立てたという。後日、その奥ゆかしさ知った道灌は古歌を知らなかった自分を恥じて、それ以降は歌道に励んだという。
そして太田道灌公の供養塔:
こちらは関東戦国期の勇将の一人である太田三楽斎資正の嫡男で、のちに父と弟を岩付城から追い出し、相模北条氏の勢力に降った資房(のちに氏資)の像:
北条氏康の娘婿となり、父資正の跡を継いで岩付城主となった氏資は武勇に勝れた若武者であったが、永禄7(1564)年に上総三船台において里見氏と戦い討死した。享年25。この芳林寺に彼の供養塔がある:
こちらは三楽斎資正の正室であり、氏資の母にあたる芳林妙春尼の像:
こちらは芳林妙春尼の供養塔。武州松山城(現在の埼玉県東松山市)の城代・難波田憲重の娘として資正に嫁いだが、後に離縁している:
こちらは徳川時代に岩付城代であった高力清長公の霊廟。彼は三河松平氏の頃からの直臣の一人:
太田道灌公・氏資公供養塔と芳林寺 (フォト集)
現代では当時の面影が少く住宅地の中に埋もれ、それほど有名ではない岩槻城は、名将太田道灌が築城したと云われている上に、関東の歴史の中では重要なポジションにあったりして、意外と興味深い城。一昨年の暮れに東岩槻まで用事した後に攻めてみた。今でも日の本一の軍師は二兵衛(竹中半兵衛と黒田官兵衛)でもなく、太田道灌だと云う歴史学者が多いようで。個人的には黒田官兵衛に似て、主君の質問に的確な答えを出すほど頭の回転がすこぶる早い人だったように思う。結局、彼はそれが仇となって自滅するのだけれど。