城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

小机城 − Kodukue Castle

太田道灌に攻め落とされた小机城は、半島形に突き出た丘陵を削って曲輪を並べた平山城である

13世紀頃の神奈川県横浜市港北《コウホク》区あたりは関東管領・山内上杉家の勢力下にあり、室町時代後期の文明8(1476)年に、その家宰であった長尾左衛門尉景春[a]伊藤潤作の『叛鬼《ハンキ》』(講談社文庫)の主人公である。が家督争いに端を発して主家に反乱を起こした際、彼に味方した矢野兵庫助憲信らが立て籠もったと云う小机城がある。現在は横浜市環境創造局が管理する小机城址市民の森として開放されているが、城址の一部が第三京浜道路により分断されていたり、城址の地下にはJR東日本の横浜線が貫通するなどしている。往時、長尾景春は鉢形城で挙兵し、同じ武州五十子《イカッコ》城に駐屯していた主家本陣を強襲して敗走させた。この乱に乗じて文明9(1477)年に石神井城の豊島泰経も挙兵したが、景春が幼き頃から兄として慕っていた扇ヶ谷《オウギガヤツ》上杉家の家宰・太田道灌資長が豊島氏を痛破し、泰経らは豊島城を経て、ここ小机城まで敗走してきた。その後、道灌は景春に同調し下総の臼井城に籠城していた千葉孝胤《チバ・ノチタネ》を討伐し、とって返して小机城と鶴見川を挟んだ対岸の亀之甲山に陣城を築いて対峙、ついに小机城を攻め落とした。

一昨年は平成26(2014)年の年の暮れ、その年の最後の城攻めとして自宅と同じ県内にある小机城を攻めてきた。正直、ここに城があったなんて思ってみたこともなかったけど、初めて下車したJR横浜線小机駅から城址方面の畑を眺めると、ここはホントに横浜市?って感じの「のどかな田舎風景」に思えた :D。でも、反対側には巨大な日産スタジアムが建っていたり。そんな一角には、築城時期は定かではないものの今から500年以上前の城が残っているって云うのは、なんとも奇妙なものだ :)

そんな小机城の縄張図というか想定図がこちら。これは本丸広場にあった説明板のものに一部加筆した:

説明板には西曲輪が本丸、東曲輪が二の丸と明記されていたが・・・どうやら定かではないらしい

小机城想定図(加筆あり)

というのも、城址内に置かれた説明板を読む上では、小机城はほとんど発掘調査が行われておらず、本丸と二の丸の位置を明確にするほど史料が存在していないため事実上は不明な状態にあるのだとか :O。そのため、ここでは説明板に記載のあった「本丸」は「西曲輪(本丸広場)」に、「二の丸」は「東曲輪(二の丸広場)」にそれぞれ変更してある。

この図を見ると、小机城は半島形に突き出た丘陵を削平して一列に数個の曲輪を並べ、それらを帯曲輪や階段状の腰曲輪で囲むといった典型的な連格式平山城であったことがわかる。

あと、こちらは登城口にあった説明板の案内図:

こちらは本丸広場、二の丸広場と現代っぽい名称になっていた

小机城址市民の森

この案内図から見てもわかる通り、小机城の西端に第三京浜が縦断した状態になっている。ちなみに敷地面積4.6haは東京ドーム1個分に相当するようだけど、実際に攻めてきて、分断されていたからか個人的にはもう少し広い印象がした。

まずは小机駅から城址の入り口にあたる根古谷《ネコヤ》に向けて15分程歩いた。これは、その途中から眺めた小机城の遠景(正面の小さな丘陵):

小机城址市民の森として開放されている木に覆われた小さな丘陵が小机城址

小机城の遠景(東側より)

対して、こちらは小机城とは反対側(東側)にある日産スタジアム(と横浜公園方面)。スタジアムの向こう側には鶴見川が流れており、そこに太田道灌が即席で築いた亀之甲山の陣城があった:

この先にある鶴見川の対岸に太田道灌が築いた亀之甲山の陣城があった

日産スタジアム

そして、ここが登城口にあたる根古谷(根古屋)ひろば。この周辺には家臣らの住居があったとされる:

いわゆる家臣らの住居があったところ(右手の小屋はトイレ)

根古谷

根古谷の周辺は、大部分が竹林になっていたが、その北側は帯曲輪が残っていた:

竹林と土塁の先には帯曲輪が東へ伸びていた

根古谷の北側に残る帯曲輪1

後世に造られた可能性もある土塁の上の削平地はほぼ竹林であった

根古谷の北側に残る帯曲輪2

根古屋から西曲輪・東曲輪へ向かう登城道。右手の土塁は西曲輪を囲む二重土塁の一重目になる:

根古谷から西曲輪や東曲輪の分岐点に至る登城道

登城道1

途中、登城道から周囲を振り返ってみると、竹林の他に、遺構と思える帯曲輪跡のような削平地があった:

登城道から根古谷ひろば方面を振り返ったところ

登城道2

竹林がちょっと邪魔だが、綺麗な曲輪が残っていた

登城道脇にある帯曲輪

そして、西曲輪(本丸広場)と東曲輪(二の丸広場)へ向かう分岐点が見えてきた:

この上が西曲輪と東曲輪の分岐点

登城道3

ここが分岐点。ここから左手へ進んでいくと西曲輪(本丸広場)方面、右へ進むと東曲輪(二の丸広場)の下にある帯曲輪(水の手)に至る。この土塁の先には西曲輪を囲む空堀があり、さらにその先にも土塁があるという、いわゆる北條流築城術の代表的な防御施設の二重土塁になっていた:

この先には西曲輪の空堀が横たわっている

西曲輪と東曲輪へ向かう登城道の分岐点

この空堀を挟んで正面に見えるのが西曲輪の東南隅にある井楼跡である:

この下には最大幅12m、深さ10mという立派な西曲輪の空堀が残っている

空堀を挟んで見上げた西曲輪の井楼跡

このまま左手の西曲輪へ向かった。この写真からも、登城道がある土塁と空堀、そして西曲輪の土塁という二重土塁の遺構がよくわかる:

直進すると城址最西端の富士仙元方面、土橋を渡った右手が西曲輪になる

城郭全体が二重土塁で囲まれていた1

分岐点を振り返った、その先には東曲輪下の帯曲輪(水の手)がある

城郭全体が二重土塁で囲まれていた2

そして、西曲輪虎口の手前には富士仙元(富士浅間)と西曲輪への分岐点がある。この先には出丸のような曲輪が築かれていた:

この先に見えるのが出丸跡

富士仙元と西曲輪への分岐点

そのまま写真右手の西曲輪へ。西曲輪虎口の手前には土橋があり、その両脇が空堀になっている:

両側は空堀になっている

西曲輪虎口に架かる土橋

西曲輪虎口に建つ後世に造られた模擬の冠木門。そして、そのすぐ右側には小机城址の碑がだった:

西曲輪の虎口に建つ模擬の冠木門

冠木門(模擬)

冠木門をくぐって西曲輪に入った所に置かれている

「小机城址」の碑

そして西曲輪。ここには「本丸跡」の説明板が建っていたが、小机城址は調査等の実績が少ないため、実際に本丸があったかどうかは断定できていないらしい。そういうことで、こちらは「本丸広場」と仮称されていた:

本丸かどうかは断定できていないらしいが、現在は野球の練習場になっていた

西曲輪(本丸広場)

西曲輪を囲む土塁。これが二重土塁の二重目にあたる:

この外側の空堀と土塁とで二重土塁を実現していた

西曲輪を囲む土塁

このまま東曲輪方面へ移動していくと、ちょうど南東隅あたりには井楼跡があった:

二重土塁で囲まれた西曲輪の南東隅に置かれていた

西曲輪の井楼跡

西曲輪の東側には枡形虎口跡が残っていた。正面奥が、「つなぎ曲輪」を挟んで東曲輪(二の丸広場)になる:

土塁に囲まれた虎口の先には、空堀に囲まれた独立した土塁(つなぎ曲輪)がある

西曲輪の枡形虎口

こちらは、現在の横浜市近郊に築かれていたとされる城址の分布図。但し、実際に発掘調査されたのは榎下城のみで、その他の城については、かっての城の位置が推定されている程度で、その実態はあきらかではないらしい:

こうしてみると室町時代末期から戦国時代には砦レベルを含め沢山の城址があったようだが・・・

横浜市内城址の分布図

文明10(1489)年、亀之甲山に対陣していた太田道灌に攻め落とされた小机城は一時廃城となるも、伊勢新九郎宗瑞を祖とする小田原北條氏が進出してきた大永4(1524)年に北條(伊勢)氏綱の重臣・笠原越前守信為や北條氏秀・氏堯らが小机城を再興させた。この城は、地理的に江戸城、玉縄城、榎下城といった諸城を結ぶ位置にあり、軍事・経済の両面で極めて重要な役割を果たし、のちに「小机衆」と呼ばれて小田原北條氏を支えることになった。
天正18(1590)年に関白秀吉が小田原北條氏を滅ぼすと、四代目城主であった弥次平衛重政が徳川氏の家臣として200石の知行を与えられ、近くの台村(緑区台村)に住むことになると小机城は(本当に)廃城となった。


この後は、西曲輪と東曲輪の間にある「つなぎ曲輪」へ移動した。一見するとただの土塁に見えるが、西曲輪側は幅12.7m、深さ12mからなる堀切が設けられていた。また、ここが馬出であったという説もあるらしい:

西曲輪から土橋を渡って、空堀に囲まれ独立した曲輪へ移動する

西曲輪から見たつなぎ曲輪

つなぎ曲輪は片側が空堀で囲まれているため、西曲輪から土橋が、東曲輪からは土塁の扱いになっていた。こちらは西曲輪からつなぎ曲輪に架かっていた土橋と、その上から左右の堀切を眺めたところ。なお、この西曲輪との間にある空堀は根古谷側の二重土塁の空堀に合流していた:

この時は手前が「つなぎ曲輪」で、奥が西曲輪

西曲輪との間にある土橋

堀上部の幅12.7m、堀底の幅5.0m、深さ12mからなる空堀であった

土橋が架かる堀切1

堀上部の幅12.7m、堀底の幅5.0m、深さ12mからなる空堀であった

土橋が架かる堀切2

半周ほど空堀に囲まれたつなぎ曲輪の上には櫓台跡が残っていた。これは、矢蔵すなわち兵庫や高櫓《コウロウ》井楼《セイロウ》と呼ばれる「火の見やぐら」のような見張台のことらしい。近世城郭のように天守を持つことが無かった時代に、周囲を展望するために櫓台があったとされている。この土塁の上に立ってみたが、その狭さから馬出では無いように思えた:

往時は、ここに建っていた井楼が周囲の見張台であり展望台だった

つなぎ曲輪の櫓台跡

そして、もう一方の東曲輪側から見たつなぎ曲輪は二の丸土塁とも云われており、基底幅は5m、上底幅は2.5m、高さは2.0mあった。一般的に、この時代に築かれた土塁は塁線に屈曲が無く、塁上もしくは外のりには必要に応じて柵や塀、逆茂木が設けられていた:

西曲輪側とは異なり、こちらは堀切はなく土塁の扱いになっていた

東曲輪から見たつなぎ曲輪

つなぎ曲輪を越えると東曲輪の虎口になるが、こちらも西曲輪同様に枡形で、井楼跡と櫓台跡が残っていた:

手前右に井楼跡、左奥に矢倉跡が残っていた

東曲輪(二の丸広場)の枡形虎口

現在は小さな土塁が残っている

井楼跡

こちらは櫓台跡。この東曲輪の土塁の上に櫓が建っていたという:

土塁の上に高櫓井楼と呼ばれる「火の見やぐら」のような見張台があった

東曲輪の櫓台跡1

実際に土塁の上に登ってみると礎石のような石があったが、往時のものかどうかは不明:

ここに高櫓井楼と呼ばれる「火の見やぐら」のような見張台があった

東曲輪の櫓台跡2

礎石のようなものもあったが、矢倉のものかは不明

東曲輪の櫓台跡3

そして、こちらが東曲輪。こちらも土塁で囲まれており、西曲輪同様に、ここが二の丸かどうかは定かではないが現在は二の丸広場と呼ばれていた:

左手下には帯曲輪(水の手)がある

東曲輪1

正面が櫓台跡で、高楼井楼の類の見張台があったとされる

東曲輪2

西曲輪同様に、こちらも土塁で囲まれていた

東曲輪3

東曲輪跡にある二の丸広場。東曲輪は本丸と云われている西曲輪を直接守備する役割を持つ:

西曲輪同様に史料が乏しいため、ここが二の丸かどうかは不明である

東曲輪(二の丸広場)

この東曲輪から北側を取り囲む空堀へ下りることが可能であった。こちらが、その堀底。左手が東曲輪で、右手には櫓台跡が残っていた:

ほぼ竹林になっていたが、右手には櫓台跡が残っていた

東曲輪北側の空堀1

ここは城の北端に辺り、二段になった腰曲輪に櫓台跡が残っていた

櫓台跡

深さ12mはある堀底から東曲輪を見上げたところ。そして周囲に植えられた孟宗竹《モウソウチク》という中国産の竹林を眺めつつ堀底を辿って西へ向かった:

堀底から東曲輪を見上げたところ

堀底から東曲輪

周囲は孟宗竹が植えられた竹林になっていた

東曲輪北側の空堀2

東曲輪の北半分を囲む空堀の堀底を歩いて行くと、つなぎ曲輪を囲む空堀に合流し、ここが分岐点(左手:根古谷、右手:西曲輪)にとなる:

東曲輪の北半分をぐるり回ると、つなぎ曲輪がある分岐点に至る

東曲輪北側の空堀3

つなぎ曲輪の脇を進み根古谷の上にある帯曲輪に入る

根古谷方面

竹林を抜けた、土塁の上には西曲輪跡に造られていた野球の練習場がある

西曲輪方面

このまま左手に折れて根古谷の上に築かれていた帯曲輪へ移動した:

右手奥に見えるのが、つなぎ曲輪

東曲輪下にある帯曲輪

それから、つなぎ曲輪を囲む深さ10mほどの空堀の堀底を歩き:

このまま堀底を進むと西曲輪下の空堀に合流する

つなぎ曲輪南側の空堀1

そのまま正面にある土塁の上にあがると、そこには帯曲輪の祠があった:

ここは二重土塁の一重目にあたり、正面の空堀の先には、つなぎ曲輪が見える

帯曲輪の祠

この土塁が二重土塁の一重目で、そのまま西へ向かうと、ちょうど根古谷から上がってきた際に最初に到達した登城道の分岐点に合流する。こちらは、その土塁の上から見下したつなぎ曲輪南側の空堀:

西曲輪・つなぎ曲輪の南にある二重土塁の上から見下した空堀

つなぎ曲輪南側の空堀2

次は城址の西端にあり富士仙元と呼ばれている出丸跡へ。但し現在、城の西側は第三京浜道路が縦断しているため一度城郭の外に出る必要がある:

富士仙元は、右手に見える第三京浜道路の更に右奥にある

富士仙元へ向かうために、一旦城外へ出る

それから横浜線沿いに歩いてトンネルをくぐり、再び石段を登って土壇の頂上へ向かう。:

この土塁の上に富士仙元があり、右手は第三京浜道路になっている

富士仙元へ続く登城道

これは、その途中で見た小机城址と、城址を縦断する第三京浜道路。そして、遠くには日産スタジアムが見えるが、その左手で城址の陰になっているところが、太田道灌が即席で築城した亀ノ甲山の陣城跡になる:

日産スタジアム左手には太田道灌が即席で築城した亀ノ甲山の陣城があった

第三京浜を挟んで小机城址、遠くに日産スタジアム

土壇の頂上は削平されているが宅地化が激しく、かなり改変されており、富士仙元の大部分は民家の畑になっていた:

第三京浜を挟んで西側の丘陵

富士仙元(富士浅間)1

こちらは畑ではなく遊歩道になっていた富士仙元。右手の藪の隙間から富士山が眺められるようでベンチが置いてあった。まさに出丸的な地形であった:

右手は急崖になっているが、この辺りも大分改変されているようだ

富士仙元(富士浅間)2

そして、これが富士山の眺め・・・と云いたいけれど、辛うじて見えるといった具合だった:

「かろうじて」見えたと言った具合

富士仙元から眺めた富士山

さらに出丸の尾根を南へ進んでいくと、その先は住宅地になっていた。実際のところ、往時この先は堀切の一部で、その先の住宅街は出丸跡の一部であったとも云われている:

この尾根の先は堀切で、それを利用して削平し住宅街にした可能性がある

富士仙元の南端

こちらは「富士仙元大菩薩」の碑が建つ塚:

「富士仙元」と云う呼び名は富士山を眺めることができるからではなかった・・・

「富士仙元大菩薩」の碑が建つ塚

初め、ここから富士山を眺めることができるから「富士仙元」と呼ばれていたと思っていたけど、実はそうではなく、この塚の形が富士山(「富士仙」)に似ており、その根「元」という意味だからということが後でわかった :|。これが、その塚の上に建っていた「富士仙元大菩薩」の碑:

これが建つ塚が富士山の形をしていたことが名前の由縁だった

富士仙元大菩薩の碑

ともに城址とは直接は関係はないけど、個人的には物見台跡だったと思っている。

See Also小机城攻め (フォト集)

参照

参照
a 伊藤潤作の『叛鬼《ハンキ》』(講談社文庫)の主人公である。

1 個のコメント

  1. ミケフォ

    この2014年は広島長期出張から始まり、それを契機に城攻めを始めた年であった。最初は暇だったからと云う小旅行のつもりが、一眼レフまで購入して本格的に城攻めを楽しみ、なんだかんだ言って、この年は58ヶ所の城址(百名城では37ヶ所)を攻めてきた。そして、その年の最後の城攻めが小机城。師走という季節柄か、本当に誰も居なくて静かに堪能できた。

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