城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

月別: 2016年8月

小机城 − Kodukue Castle

太田道灌に攻め落とされた小机城は、半島形に突き出た丘陵を削って曲輪を並べた平山城である

13世紀頃の神奈川県横浜市港北《コウホク》区あたりは関東管領・山内上杉家の勢力下にあり、室町時代後期の文明8(1476)年に、その家宰であった長尾左衛門尉景春[a]伊藤潤作の『叛鬼《ハンキ》』(講談社文庫)の主人公である。が家督争いに端を発して主家に反乱を起こした際、彼に味方した矢野兵庫助憲信らが立て籠もったと云う小机城がある。現在は横浜市環境創造局が管理する小机城址市民の森として開放されているが、城址の一部が第三京浜道路により分断されていたり、城址の地下にはJR東日本の横浜線が貫通するなどしている。往時、長尾景春は鉢形城で挙兵し、同じ武州五十子《イカッコ》城に駐屯していた主家本陣を強襲して敗走させた。この乱に乗じて文明9(1477)年に石神井城の豊島泰経も挙兵したが、景春が幼き頃から兄として慕っていた扇ヶ谷《オウギガヤツ》上杉家の家宰・太田道灌資長が豊島氏を痛破し、泰経らは豊島城を経て、ここ小机城まで敗走してきた。その後、道灌は景春に同調し下総の臼井城に籠城していた千葉孝胤《チバ・ノチタネ》を討伐し、とって返して小机城と鶴見川を挟んだ対岸の亀之甲山に陣城を築いて対峙、ついに小机城を攻め落とした。

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a 伊藤潤作の『叛鬼《ハンキ》』(講談社文庫)の主人公である。

日本の古城・古戦場マップ − Map of Castles in Japan

これは、本サイトで記録した日本の古城と古戦場、そして武将・勇将らの墓所や菩提寺などの訪問記と、オリジナル・フォト集のリンクを地図上に配置したものです:

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  • 地図をズームインするとマーカーが多くなり、ズームアウトすると日本百名城続日本百名城(日本城郭協会)のマーカーが優先表示されます
  • マーカーの上にマウス・カーソルを置くと城址や古戦場の名称がポップアップします
  • マーカーを選択すると、訪問記やフォト集のリンクがポップアップします(右上の[☓]ボタンで閉じます)

岩付城 − Iwatsuki Castle

室町時代後期に築かれた岩付城は主郭をはじめとする複数の曲輪が深い沼地によって分断されていた

埼玉県さいたま市岩槻区にある岩付城[a]岩附城または岩槻城とも。は複数の台地を利用した平城で、主郭やその北にある新正寺曲輪、そして南にある新曲輪や鍛冶曲輪がそれぞれ別々の台地の上に築かれ、それらの間には元荒川による深い沼地が広がっていた。築城時期は室町時代後期の長禄元(1457)年とされているが、築城主は扇ヶ谷《オウギガヤツ》上杉氏の家宰を務めた太田道真・道灌父子の説の他に、のちに忍城主となる成田氏の説があり、定かではない。道灌が暗殺された後は、彼の嫡子・資康《スケヤス》[b]稀代の名将・太田道灌資長の嫡子で、彼の正室は伊勢新九郎宗瑞に滅ぼされた三浦道寸の娘である。江戸城主に、そして彼の養子・資家とその子・資頼《スケヨリ》が岩付城主になった。戦国時代に入ると関東も戦乱期を迎え、相模の伊勢氏綱(のちの北條氏綱)が武蔵国に侵攻し岩付城攻略に乗り出すが、資頼の次男で、のちの三楽斎資正《サンラクサイ・スケマサ》がこれに激しく抵抗した。天文15(1546)年には主君・扇ヶ谷上杉朝定が河越夜戦で討死するが、その後も資正は孤軍奮闘する。しかしながら岩付城を伊勢新九郎氏康(のちの北條氏康)に包囲され家臣らが次々に寝返ると翌年に降った。それでも反小田原北條の立場を崩さなかった資正は、永禄3(1560)年に越後国の長尾景虎(のちの上杉謙信)による関東征伐に呼応して反旗を翻し、小田原城攻めでは箕輪城主・長野業政とともに先鋒を務めた。

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a 岩附城または岩槻城とも。
b 稀代の名将・太田道灌資長の嫡子で、彼の正室は伊勢新九郎宗瑞に滅ぼされた三浦道寸の娘である。

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