標高634mの岩殿山の急峻にして険しい断崖上に築かれた岩殿城の要害には烽火台網がある

山梨県大月市賑岡(にぎおか)町にある標高634mの岩殿山山頂に築かれた別名・岩殿山城は、九世紀の末に天台宗の岩殿山円通寺として開創されたのが始まりと伝えられている。享禄5(1532)年には郡内と呼ばれたこの地(山梨県東部)の国衆・小山田氏が甲斐武田氏に被官し、小田原北条氏との国境に接した詰城(つめのしろ)として城郭化した。この山の麓を流れる桂川近くから仰ぎ見たその姿は急峻にして険しい断崖を巡らしたものになっており、攻めに難く守りに易しということから上州の岩櫃城と駿河の九能城と並んで武田領内の三名城と称された。天然の外堀であった桂川上流には駿河と吉田と谷村、その下流には相模と武蔵、そして北方の葛野川(かずのがわ)上流には秩父などの山並みを一望に収めることが可能だったので、山頂の本丸に烽火(のろし)台を設け、周囲の国々の情報を即座に収集・伝達できる連絡網の拠点として重要な役割を担っていた。現在、本丸がある要害には、他に二の丸跡、三の丸跡と帯郭跡、さらには蔵屋敷、兵舎、番所、東・南・西の物見台、厩、馬場、揚城戸(あげきど)などがある。そして断崖の下には七社権現、新宮などの大洞窟が出丸として利用されていたようで、城の北西にある大手口近くの兜岩から稚児落しへのルートは落城の道とされている。

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