左手に見える岩櫃城は、右手は岩櫃山の中腹東面に築かれた典型的な中世の山城である

群馬県西部は吾妻(あがつま)郡東吾妻町原町平沢郷にある標高802mの岩櫃山中腹東面に築かれた岩櫃城は、山頂から200mほど下ったところ(標高593m)に本丸・二の丸・中城を連ねた典型的な中世の山城である。岩櫃山の麓にあるすり鉢状の高原盆地に広がった平沢集落からの比高は100m程、岩櫃城の東を走る吾妻街道からは200m程の高地にある。この城は年代は定かではないが、言い伝えによれば南北朝の頃に藤原鎌足の子孫である吾妻太郎助亮(あがつま・たろう・すけふさ)が築いたとされ、のちに松井田城主斎藤氏の家系が代わって戦国時代まで吾妻を支配していた。永禄6(1563)年に甲斐の武田信玄が上州攻略のため真田幸綱(幸隆)に岩櫃城攻略を命じ、城方の六代目吾妻太郎斎藤越前守憲広は堅城を利して奮戦したがついに落城した。以後、信玄より吾妻郡守護代を命じられた幸綱とその一族が、元和2(1616)年の一国一城令により廃城になるまで支配した。幸綱の三男昌幸は、天正10(1582)年3月に織田・徳川の連合軍に追われ新府城を放棄した武田四郎勝頼と当主・信勝を迎えて再挙を図るために、ここ岩櫃山南面に御殿(現在の潜龍院跡)を三日間の突貫工事で造ったものの、ついに勝頼ら一行が吾妻の地を踏むことはなかった。

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