天然の要害に守られ、連郭式崖端城である名胡桃城の二ノ郭は食違い虎口だった

利根川と赤谷川の合流近くに突き出た段丘面に築かれ、三方に切り立った崖を成している天然の要害に守られ、南面のみ狭丘を以って繋がっている名胡桃城は群馬県の利根郡みなかみ町にある。歴史の流れを変えた城としてもたびたび名前がでてくる、この城は室町時代に沼田氏の一族といわれる名胡桃氏が(のちの般若郭に)館を築いたのが始まりと伝えられている。そして、この付近は上野(こうづけ)と越後を結ぶ三国峠道と清水峠道、さらに鳥居峠を越えて信濃に通じる道にも近いために、軍事上戦略的に重要視されていた場所であった。天正7(1579)年に、武田勝頼の命を受けた真田昌幸が信濃から吾妻・利根に侵攻し、利根川を挟んで対岸にある沼田城攻略の前線基地として名胡桃城を拡張した。一時、沼田城は真田昌幸の支配下になったものの、天正17(1589)年には関白太政大臣となった豊臣秀吉からの上洛要請を拒む小田原北条氏がその条件として利根・吾妻地域の領有を要求してきたが、昌幸は「沼田城は渡しても臣の墳墓の地である名胡桃城は渡すことはできない」と突っぱねたため、秀吉は富田左近将監らを派遣して検分させ、「利根川を境として沼田城を含む東部一帯を北条に、名胡桃城を含む西部一帯、ただし赤谷川の左岸に限って真田に」という裁定を下した。真田は名胡桃城に鈴木重則を、北条は沼田城に猪俣邦憲をそれぞれ城代として置いた。そして同年秋、この名胡桃城を舞台に、ついに全国の大名らを巻き込むことになる大事件が勃発した。

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