群馬県の北部に位置し、皇海山(すかいさん)・赤城山・武尊山(ほたかやま)などの山々に四方を囲まれ、利根川とその支流の片品川、蓮根川により形成された河岸段丘の上に広がる沼田市には、天文元(1532)年に三浦系沼田氏十二代万鬼斎顕泰(まんきさい・あきやす)[a]万鬼斎の娘には、先日城攻めした箕輪城主・長野業政の側室がいる。が約三カ年の歳月を費やして、急崖の台地上に築いた沼田城(蔵内城)がある。その後、関東管領山内上杉氏と小田原北条氏との覇権争いに巻き込まれて家中で内紛が起こり、万鬼斎は會津へ逃亡した。そして天正6(1578)年、謙信死後の御館の乱(おたてのらん)に乗じて北条氏邦が沼田城を支配し、弟で氏康七男の上杉景虎を援護しつつ上杉景勝を牽制したものの、翌年には景勝方勝利と景虎自刃で沼田城内は動揺、天正8(1580)年にはその隙をついて武田勝頼の命で上野支配に動いていた真田昌幸の計略により、疑心暗鬼になった城将・藤田信吉[b]鉢形城主・北条氏邦は藤田康邦の婿養子であり、信吉(のぶよし)は康邦の孫にあたる。の内応を誘い開城させ武田氏の城となると、沼田城と呼ばれるようになる。翌9(1581)年には、沼田万鬼斎の子・平八郎景義(かげよし)[c]摩利支天の再来と云われた勇将だったらしい。が悲願の沼田城奪回を計って挙兵するも、戦では叶わないとみた昌幸の策略で謀殺された。さらに同10(1582)年に武田家が滅亡し、天正壬午の乱を経て、同18(1590)年の豊臣秀吉による小田原仕置後は昌幸の嫡男・信幸が城主となり城下町の整備を行った。
一昨年は、2014年の晩秋の週末を利用して群馬県北部にある真田氏ゆかりの城跡をいくつか巡ってきた。この時期の群馬県の景色は日本の秋を代表するものとして、秋から冬のはざまの風情を十二分に堪能できるといった意味でも、個人的に「一生に一度は見ておきたい景色」の一つとしてオススメする 。
初日の午前中は2016年の某大河ドラマにもたびたび登場し、現在とは異なり(!?)戦国時代は非常に注目度の高い城であった沼田城を攻めてきた。ただ残念なことに、この城跡は江戸中期に真田五代信澄が幕府から失政を咎められて改易された際に破却され、それ以来現在まで宅地化が進んでしまったようで、ほとんど遺構は残っていなかった。また、真田信之(改名後)在城時代には五層六階の天守が建てられたと云われているがその痕跡も見当たらなかった 。とはいえ、日本でも数本の指に入ると云われる河岸段丘の上に築かれた崖端(がけばた)城の面影や城内から眺めた名胡桃城、そして日本百名山に連ねる山々の景色はすばらしかった。
まず沼田公園の案内図。辛うじて左側にある本丸と捨曲輪あたりが見所になる:
こちらは江戸中期(1644〜1647)頃の真田氏四代沼田藩主信政の頃の縄張図(加筆あり)。この絵図には四層五階の天守が描かれている。下側の三の丸と追記している辺りが沼田公園の入口:
JR上越線沼田駅から沼田城までは徒歩20分ほど。ただし、ご覧のとおり上り坂である。遠景からも、西は利根川、北は蓮根川、そして南は片品川で囲まれた比高60mほどの河岸段丘の崖端に築かれた面影は残っていた:
本丸は、この辺り(鐘楼が少し見えているところ):
こちらは、沼田公園敷地に建つ旧生方(うぶかた)家住宅で展示されていたジオラマと、JR沼田駅高架から眺めた河岸段丘と沼田市街の眺め。宅地化された分だけ平地が高く見えるので、それほど急崖には見えないが、近づいてみると「急傾斜地崩壊危険区域」に指定されただけはある崖具合であった:
JR沼田駅前からはバスで沼田公園まで行くことも可能だが、晩秋の季節だし、たかだか20分程度の山登りだと思えば大した距離ではない。途中、榛名神社(分祀?)があったり、白く雪が積もった谷川岳を眺めたりすることもできるし。
そして、これが崖下から沼田城の捨曲輪附近を見上げたところ。コンクリート製の柵や擁壁が多数設置されていた:
さらに、こんな角度の坂を登っていく:
ときどき立ち止まって周囲の風景を楽しむ。こちらは河岸段丘の西を走る利根川・蓮根川方面の眺望:
河岸段丘の頂上手前から沼田公園を見上げたところ。左手の土塁の上は三の丸跡で、丁度、今いる登城道が三の丸堀跡に相当する:
坂を上りきったところから見た沼田公園の入口。この辺りは三の丸であった:
沼田城の三の丸は東西約380m、最大幅約120mの広さを持ち、侍屋敷が建っていたとされる。そして公園の駐車場脇には三の丸の土塁が残っていた:
この土塁を過ぎると本丸堀を境として二の丸になるが、こちらはそれぞれ遊歩道とテニスコートになっていた:
このテニスコートを越えて野球場方面へ向かう途中には、真田氏時代の本丸石垣と本丸堀が僅かながら残っていた:
現在、野球場のあるところも二の丸跡だが、その面影は全くなかった:
あと、二の丸跡を囲む土塁や脇にある土居はどうも野球場の造成でできた盛土らしい:
これは二の丸跡から本丸跡へ戻る途中に見た三重櫓跡。本丸の隅に建っていたらしい。従って、写真正面に向かって左手が本丸、右手に本丸堀、そして二の丸が続くことになる:
ここから本丸堀跡に沿って北へ移動すると天守跡がある。小田原北条氏が滅亡した天正18(1590)年に真田昌幸の長子信幸(改名前)が沼田領2万7千石の領主になると、慶長2(1597)年には間口10間奥行9間、五層六階の天守を造営し、城の規模を拡張したと云う:
ちなみに江戸中期、江戸の街の大半を焼失することになった明暦の大火(1657年3月2日)で江戸城の天守が焼失すると、沼田城は関東で唯一五層の天守もちになったと云う:
信之(改名後)は関ヶ原の戦で東軍について勝利し、父昌幸の上田領が加増されて9万5千石の大名になる。それから信之は、元和2(1616)年に上田城に居城を移すことになったため、嫡子信吉に沼田城を譲った。
こちらは本丸南側の急崖:
現在は県指定の「急傾斜地崩壊危険区域」(傾斜角度が30度以上、高さは5m以上)になっていた本丸跡:
そして現在の本丸跡には鐘楼が建っていた:
この鐘楼はもともとは城の大手口そばに建てられていたが、天和元(1681)年に真田五代信澄は江戸両国橋の用材調達の遅延と失政を幕府に咎められ閉門・改易となり、翌年には幕府の命で沼田城は堀を埋められ破却されてしまったが、その際に鐘楼も一緒に取り壊された。その時の城鐘は平等寺に保管されたが、明治の世に入って鐘楼だけが沼田町役場に復元されると、その城鐘に取り替えられ、大戦中も供出されることはなかったと云う。その後、沼田市役所建設に伴い鐘楼も撤去されたが、昭和58(1983)年に沼田公園の本丸跡に復元新築されたと云う:
現在の鐘は城鐘の代わりとなる梵鐘であり、実物の城鐘は沼田市の中央公民館に展示されているらしい:
本丸の北側へ移動していくと、西櫓台の石垣と石段が遺構として残されていた:
これらは、五代城主信澄(信利)の改易により跡形もなく破却されたと云われていたが、壊されずに地中に埋められていたものが300年以上を経て再び往時の姿を現した:
西櫓台の石垣は本丸の北側の堀(天然の崖)に面していた:
本丸西櫓台跡そばに立つ見事な一本松:
同じく本丸に立つ御殿桜で、推定樹齢は400余年。往時、ここは水の手曲輪で三階建ての隅櫓が建っていた:
こちらは西櫓台石垣から眺めた捨曲輪。本丸と捨曲輪(すてくるわ)との間には天然の堀ともいうべき急崖が残っていた:
次は本丸の北に位置する捨曲輪(古城)へ移動した:
捨曲輪に残る平八石。沼田平八郎景義の首級を載せ、真田昌幸が首実検した石と伝わる。平八郎は、沼田城を築いた万鬼斎顕泰の側室の子で、沼田家中の内紛で一時期は父の万鬼斎と共に會津に逃れていたが、沼田城奪還の兵を挙げて沼田に迫った。昌幸は城中に居た景義の伯父を籠絡して謀殺させた。平八郎の亡骸は小沢城内に埋葬されたが、この石の上に載っていた首がそこまで飛んで行ったという伝説がある:
この捨曲輪から蓮根川ごしの眺めは絶景であった。
まず、こちらは豊臣秀吉による小田原仕置の発端となった名胡桃城方面を眺めたところ:
次は谷川岳方面の眺望。この山の向こうは越後国(新潟県)である:
11月下旬には既に積雪のあった谷川岳:
次は上州三峰山(みつみねやま)。その名のとおり峰を三つ持ち、日本本土の中央に位置する標高1123mのぐんま百名山の一つ:
最後は上州武尊山(ほたかさん)。標高は2,158mもあり、日本武尊の像が立っているのだとか:
こちらは捨曲輪:
そして捨曲輪の虎口:
これは捨曲輪東側の空堀跡で、この先の保科曲輪はずいぶんと宅地化されているにも関わらず、その堀の深さは健在であった:
そして、これは捨曲輪から本丸の天守跡方面の眺め。四阿(あずまや)附近には、なにやら意味有りげな土塁が残っていたが天守跡と関係があるかどうかは不明:
保科曲輪との間の本丸堀跡に移築された旧生方(うぶかた)家住宅は東日本で最も古い町家造りの建築物らしく、重要文化財となっていた。こちらは観覧料100円(当時)で内部を見学でき、沼田城天守の模型やジオラマなども展示していた:
沼田城のジオラマ:
そして、在り日の沼田城天守を思い起こさせてくれる模型:
最後に、沼田城本丸跡に建っていた群馬県指定の「急傾斜地崩壊危険区域」の標柱:
沼田城攻め (フォト集)
なにやら最近は「真田信之夫婦像」なるものが建てられたとか。是非、天守閣を復元して城址の名を取り戻して欲しい。