山梨県大月市賑岡(にぎおか)町にある標高634mの岩殿山山頂に築かれた別名・岩殿山城は、九世紀の末に天台宗の岩殿山円通寺として開創されたのが始まりと伝えられている。享禄5(1532)年には郡内と呼ばれたこの地(山梨県東部)の国衆・小山田氏が甲斐武田氏に被官し、小田原北条氏との国境に接した詰城(つめのしろ)として城郭化した。この山の麓を流れる桂川近くから仰ぎ見たその姿は急峻にして険しい断崖を巡らしたものになっており、攻めに難く守りに易しということから上州の岩櫃城と駿河の九能城と並んで武田領内の三名城と称された。天然の外堀であった桂川上流には駿河と吉田と谷村、その下流には相模と武蔵、そして北方の葛野川(かずのがわ)上流には秩父などの山並みを一望に収めることが可能だったので、山頂の本丸に烽火(のろし)台を設け、周囲の国々の情報を即座に収集・伝達できる連絡網の拠点として重要な役割を担っていた。現在、本丸がある要害には、他に二の丸跡、三の丸跡と帯郭跡、さらには蔵屋敷、兵舎、番所、東・南・西の物見台、厩、馬場、揚城戸(あげきど)などがある。そして断崖の下には七社権現、新宮などの大洞窟が出丸として利用されていたようで、城の北西にある大手口近くの兜岩から稚児落しへのルートは落城の道とされている。
一昨年は、2014年師走の寒晴[a]「かんばれ」。寒中の晴れた日、寒いが透き通るように冴える空が見られる。に「巨大な鏡岩」を持つ山城として、前から気になっていた岩殿城を攻めてきた。この日の早朝にJR中央線・甲府行に乗り継いで大月駅へ向かう車窓に突如現れた巨大な岩肌。実際に攻めてみて 登ってみて巨大な岩石や急崖、そして桂川の急流とが一体となって天然の要害を成しているのが「自分の体をもって」[b]ここは山城を攻めるという感覚ではなく、完全に登山であることを認識すべきで、相当の装備と体力を要する。自分の場合、城攻めの後に岩殿山西コースをトレッキングして脚がつってしまった。よくよく理解できた 。
で、この時は下車してもすぐに改札へは向かわずに、おもむろにホームの端まで移動し、しばらくの間、岩殿山を凝視してしまった。それから駅を出て、富士急大月線改札口へ向かう途中にある観光案内所へ行き、岩殿城跡を含む岩殿山のトレッキングルートの地図を入手し、さらに念の為に熊よけの鈴をレンタルした[c]下山して返却すると御金が戻ってくるし、そのまま購入することも可能だった。。
こちらが大月駅前から岩殿山(岩殿城跡)経由で兜岩・稚児落しへ至り、最後は浅利集落を経由して再び大月駅へ戻ってくる「西コース」と呼ばれるトレッキングルート:
そして、こちらが岩殿城跡の案内図。南物見台跡の乃木大将詩碑近くに建っていたもの。東西に細長く郭が並ぶ連郭式山城であることがわかる:
ちなみに城攻めの後、岩殿山西コースに挑戦してきた。事前に、自分はこんな初心者向けのガイドを見ておいたので特に道に迷うこと無くコースを踏破でき、何よりも山登りの装備(特に靴と手袋とカメラバッグ)をプラスで事前に用意できたのは良かった 。
この後はR20近くのコンビニでお昼を購入し、西コースの地図に従って岩殿城入口を目指した。
こちらはR139沿いに架かる橋から桂川の断崖絶壁を見下ろしたところ:
橋を渡って岩殿山公園の駐車場を越え少し坂を上り、ちょうど中央道を超える手前に城址入口があった:
ここから階段を登って行くと冠木門(模擬)と岩殿山の由緒が建っていた:
その由緒によると、10世紀初めの岩殿山の麓は三重塔や観音堂、僧房などが建ち並ぶ門前町であったとか。それが由縁であろうか、全国から修験者が集まる拠点に発展し、その支配は郡内(山梨県東部)一円はもちろんのこと甲斐国中の山梨や八代の東部一帯、駿河国は富士郡附近までに及んだとか。
そして、ここから眺めた富士山がこちら:
冠木門をくぐって登城道を登っていく。この上は山の中腹にあたる「岩殿山丸山公園」:
丸山公園までの登城道は綺麗に整備されていてまだまだ登りやすい。そして、その途すがらに見上げた岩殿山の巨大な鏡岩:
この整備された登城道の脇には巨石がごろごしていた:
そして岩殿山中腹にある丸山公園へ到着した:
園内には中世の城をイメージした「岩殿山ふれあいの館」なる建物があり、1Fの管理事務所で岩殿山や岩殿城の情報を入手できる:
そして、こちらが「ふれあいの館」越しに見上げた岩殿山の鏡岩:
さらに園内には円型古墳のような富士見台があり、ちょうどここ丸山は標高444.4mにあたるとか。そして関東の富士見百景の一つに数えられ、ここから眺めた富士山は「(中央道)大月I.C周辺からの富士」と呼ぶらしい:
そして、再び登城道へ。まだ舗装されてはいるが、この先の巨岩を越えるとだんだんと本格的な山道に変わっていく:
と同時に脇にある岩石も一段と大きくなってきた。これは階段を登り切ったところに鎮座していた巨石:
三度、登城道から見上げた鏡岩。一段と切り立ち具合がわかるが、実はあとで南物見台跡からこの辺りを見下した時の方がよくわかった:
ここで、岩殿山と反対側にある大月市街地も眺めてみた。写真中の右寄りにJR大月駅が見え、その奥には富士山がみえる:
さらに続く登城道を登っていく。そして、この辺りから勾配が急になってきた:
ここからも鏡岩を見上げてみた。この岩の上が南物見台跡になる:
そして登城道が山道に変わり、道の片側は急崖で、もう一方には巨岩が突き出ていたりした:
時には、こんな感じでクランクのある登城道を登っていく:
そして標高600mほどの位置にある稚児落し分岐点に到着した。一方は大手門跡、そして兜岩や稚児落しといった「クサリ場」のある要害、いわゆる岩殿山西コースで、もう一方は岩殿山の山頂に築かれた岩殿城跡に至る:
ひとまず「岩殿城跡」方面の坂を登っていく:
ここからは、さらに急峻で幾重にも折れる坂道を登って行くことになる:
山頂が近くなったところに揚城戸(あげきど)跡がある。大手門から数えると第二の関門となり、往時は背後にある巨大な石を利用した上げ下げ式の城門が建っていたと云う:
巨大な自然石の岩盤からなる切り通しに登城道が伸びていた:
こちらは狭い切り通しに造られた登城口をくぐって背後から揚城戸跡を眺めたところ:
現在でも揚城戸跡は巨石で囲まれていた。そして既に500年以上も経過していることを考えると、往時の険しさは想像に難くない:
揚城戸跡のすぐ上には、この城門を守備していた番兵の詰所である番所跡があった:
そして番所跡のさらに上へ登っていくと:
東西に細長い連郭式の要害の西端に位置する西物見台跡にたどり着く:
この先は急崖で、その昔に巨大な礫岩(れきがん)の露頭(ろとう)が「こぶ」のように出ていて、記録にはないが円通寺の修験者が修業した岩場とも云われている:
その大露頭は長い年月の間に風化・侵食が進み崩落の危険性が出てきたため、平成11(1999)年に頂部から高さ8m下方まで破砕撤去されてしまった。
それから本丸や二の丸などがある東方面へ移動した:
まず厩(馬屋)跡があり、そこが分岐点になっていて左奥へ進んでいくと馬場や帯郭や本丸・二の丸・三の丸へ、それに対して右上へ進んでいくと鏡岩の上にあたる南物見台跡に至る:
まずは南物見台跡へ。ここが登城時に何度も見上げた鏡岩の上にあたる。四阿(あずまや)の他に乃木希典陸軍大将の詩碑や案内図や説明板が建っていた。日陰には霜柱なんかも :
ここ岩殿城は、甲斐武田家の譜代の重臣であり、二十四将にも数えられる小山田氏の居城である。小山田氏はもともとは反武田勢力であったものの武田信虎の甲斐統一で傘下に入ると親族衆並の扱いを受け重用された。岩殿城は急峻で険しい断崖を巡らし攻めにくく守りやすい難攻不落の城と呼ばれ、桂川の下流は相模と武蔵と接し、上流は駿河と接する要衡である。
ちなみに、この南物見台跡は展望台になっており、とても素晴らしく「贅沢な」眺めだった:
そして、この南物見台跡からは、大分距離はあるが、甲斐武田家終焉の地と云われる田野方面を眺めることができる。今から430年も前、時は戦国時代の天正10(1582)年3月、長篠・設楽原の戦で大敗した武田勝頼は織田・徳川連合軍による甲斐侵攻が本格化したため未完成の新府城を捨て、小山田信茂の居城であるここ岩殿城を目指すことになったが、郡内に入ると信茂は謀反し岩殿城への入城を拒否した。進退に窮した勝頼一行は一路、真田昌幸の岩櫃城を目指すも、織田軍の先鋒の滝川一益隊の包囲を破ること叶わずとみて、武田家由緒の天目山(にあるお寺)にて自害しようとしたが結局はそれも叶わず、その途中の田野という場所で嫡子信勝と夫人北条氏、近習らと共に自害した。これにより、新羅三郎義光以来28代495年続いた名門甲斐武田家は滅亡した。
ここで、さらに鏡岩から見下ろすと、先ほど訪れた丸山公園の富士見台や「ふれあいの館」が見えた。文字通り「真下を見る」であり、鏡岩の切立ち具合がよくわかった:
そして、こちらが桂川とその断崖絶壁の深い渓谷。まさに天然の外堀:
ここ南物見台跡から本丸方面を見上げたところ。現在の本丸跡には大月市の無線中継所が建てられている:
往時の要害地区には西物見台と南物見台、さらに東物見台があり、本丸には烽火台が設けられていた。戦時、それぞれの物見台から得られた周囲の戦況や偵察情報が逐次、本丸の烽火台に集められ、本丸で決された指示が再び烽火台からそれぞれの物見台へ伝達されていたと云う。これは、平時にも周囲の隣接する国々からの情報収集に活用されていたと思われる。そういう意味でも、現在建っている無線中継所にとって本丸跡は非常に好都合な立地であったようだ。
それから南物見台を下りて厩跡まで戻り、さらに東へ移動した:
こちらが馬場跡。馬や兵士らの訓練場であり岩殿城の要害地区の中でもっとも広い面積を持っていたというが、ここまで馬を登らせる方が困難に思えたけど。で、その左脇には帯郭があった:
馬場跡の尾根から南側の見下ろすと用水池(亀ヶ池・馬洗池)跡がある:
用水池跡には二つの池があり、手前が馬洗池で兵士や馬の水浴用で、奥の亀ヶ池が飲用。岩場に湧水とはかなり貴重である:
再び馬場戻り、藪化して確認できなかった帯郭を過ぎたところに蔵屋敷跡があった。往時は籠城に必要なものを備蓄していた蔵が建っていたらしい:
この先の尾根を進んでいくと二の丸跡や三の丸跡があるらしいのだが、説明板も無く薮化して場所を特定できなかった:
二の丸があった登城道から本丸にあった烽火台方面を見上げたところ:
そして、ここが岩殿城の本丸跡で、虎口を入るとすぐ烽火台跡(標高は634m)があった:
ここは三箇所にあった物見台からの情報を収集し、さらに各所に指示を出していた本陣であったがらしいが、現在は大月市岩殿山無線中継所(無人)になっていた:
その中継所の脇をすり抜けて、本丸先の東物見台がある方面へ移動した:
その先にあった本丸の東端:
このまま下へ降りて行くと堀切があり、土橋を渡った先に東物見台が見えた:
土橋を中心とした堀切はこんな感じで残っていた。これが用水池と共に岩殿城で現存している貴重な遺構なのだとか:
土橋を渡り東物見台へ移動して、その下を覗くともう一つの堀切の先に帯郭が見えた:
この後は南物見台跡展望台まで下りて四阿でおにぎりにぱくついて、岩殿山西コース(稚児落し・浅利方面)を2時間近くかけて回り、JR大月駅まで歩いていった。
こちらは、その西コースをトレッキングしている途中に振り返って見た岩殿城跡。白く見えるところが西物見台の下にあって破砕撤去された礫岩の大露頭跡:
兜岩に登る手前には、かっては大手門が建っていたとされる築坂峠があり堀切と土橋が残っていた:
最後に、こちらは稚児落しを過ぎたところから岩殿城を眺めたところ。下に見える急崖が稚児落し:
天正10(1582)年に甲斐武田家が滅亡した後は、織田家黒母衣衆筆頭の河尻肥前守秀隆が甲斐22万石と信濃国諏訪郡を拝領し、岩殿城もその支配下に入ったものの、同年の織田右府公横死後には天正壬午の乱を経て徳川三河守家康の城となった。その後は豊臣秀吉の直轄地になるが慶長5(1600)年の関ヶ原の戦後に再び徳川家康の所領となった。一時は徳川家の詰城の要塞として存続していたが、江戸幕府開府と共に廃城となった。廃城後も円通寺はそのまま存続したが、明治政府の神仏分離政策により、こちらも廃寺となった。
岩殿城攻め (フォト集)
電車の車窓からでも明らかにわかる位の急峻な崖の上にある城。ここは登山者のトレッキングコースとして有名らしく、実際に城攻めの後に西コースという、岩殿山とその峠や尾根をたどって「稚児落とし」を経由し浅利という部落あたりまで行ってみたけど、これまた大変だった。崖をよじ登るので本格的な登山道具までとはいかないまでもそれなりの靴や手袋等は必須かな。とはいえ富士山の眺めも素晴らしく、イイ運動にもなるので、勇気のある方にはお勧めです。