群馬県西部は吾妻(あがつま)郡東吾妻町原町平沢郷にある標高802mの岩櫃山中腹東面に築かれた岩櫃城は、山頂から200mほど下ったところ(標高593m)に本丸・二の丸・中城を連ねた典型的な中世の山城である。岩櫃山の麓にあるすり鉢状の高原盆地に広がった平沢集落からの比高は100m程、岩櫃城の東を走る吾妻街道からは200m程の高地にある。この城は年代は定かではないが、言い伝えによれば南北朝の頃に藤原鎌足の子孫である吾妻太郎助亮(あがつま・たろう・すけふさ)が築いたとされ、のちに松井田城主斎藤氏の家系が代わって戦国時代まで吾妻を支配していた。永禄6(1563)年に甲斐の武田信玄が上州攻略のため真田幸綱(幸隆)に岩櫃城攻略を命じ、城方の六代目吾妻太郎斎藤越前守憲広は堅城を利して奮戦したがついに落城した。以後、信玄より吾妻郡守護代を命じられた幸綱とその一族が、元和2(1616)年の一国一城令により廃城になるまで支配した。幸綱の三男昌幸は、天正10(1582)年3月に織田・徳川の連合軍に追われ新府城を放棄した武田四郎勝頼と当主・信勝を迎えて再挙を図るために、ここ岩櫃山南面に御殿(現在の潜龍院跡)を三日間の突貫工事で造ったものの、ついに勝頼ら一行が吾妻の地を踏むことはなかった。
一昨年は、2014年の晩秋の週末を利用して群馬県にある真田氏ゆかりの城跡をいくつか巡ってきた。初日は沼田城と名胡桃城で、最終日の午前中は、ここ岩櫃城を攻めてきた。真田家の軍記物を読むと必ずと言っていいほど、その名が登場する岩櫃城。念願が叶うということでやや興奮した面持ちで宿泊先をチェックアウトし、JR高崎駅から吾妻線・万座・鹿沢口行の普通列車に乗り、小一時間ほどで最寄り駅の群馬原駅に到着した。秋の早朝ということもあってか山間地の空気は冷たく澄んでいた。駅から城址がある岩櫃山の登山口までは徒歩で50分ほど。その途中、吾妻八景の一つに数えられた風景はまさに絶景であった 。
まずは群馬原駅ホームから岩櫃城と岩櫃山を眺めたところ。意外な所に絶好のSpotがあった(手前ではなく、岩が出ている奥の方が岩櫃城):
駅の南口から線路沿いに西へ移動し、踏切を渡ってR145に合流し、岩櫃ふれあいの郷(岩櫃城温泉くつろぎの館)を横目に、善導寺前から観音山入口方面の山道(舗装)へ入った。それから20分ほど歩いていくと、この看板が見えてきた。なお、この舗装道と平行して番匠坂(ばんしょうざか)というトレッキング向けの山道もあるようで、そちらは帰りに利用した:
この道路の右手には観音山上流から吾妻川へ注いでいるであろう小さな渓流があったが、進むに従ってその渓谷が段々と深くなっていった:
と突如、渓流を挟んで目の前に現れた観音山:
岩櫃山の北東に位置し、この山頂には岩櫃城の支城(出丸)とされる柳沢城があったされ、「岩鼓の要害」と呼ばれていた。この南東に向かって先端の高所が主郭だったと云う。あるいは、真田忍軍を生んだ山伏らの修行場とも:
この要害もスゴイが、その上を送電線が通っていたのには別な意味で驚いた :
そして、この辺りから「巨石や巨岩」が目立つようになってきた:
さらに上って行くと、丘の茂みの中に「観音山へ(For Mt.Kannon)」という道標が建っていたので、少しだけ寄り道して岩場に入ってみた。これは車で移動しているとわからないぞ :
実は、この先には観音山不動滝があるようで、その周囲はまさに「岩窟」だった:
中には巨岩が突き出ていたり、洞穴なんかがあったりする。さらに観音様の石像が建っているところもあった:
水の音が聞こえてきたので、更に藪をかき分けて下りてみると渓流が流れていた:
こんな小さな渓流が巨岩の間を通過していくと、こんな感じで観音山不動滝になっていた。この名前は、すぐ近くに建つ観音山不動堂からきている。そして、冬の季節には滝の流れの一部が氷の彫刻に変化するのだとか:
寄り道はここまでにして、再び登城道を西へ移動すると分岐点にさしかかる:
このまま案内板に従って岩櫃山登山口へ向かうのが近道だが、この時は真っ直ぐ進み、平沢集落を経由して登山口へ向かった:
平沢集落は岩櫃山麓のすり鉢状の高原盆地の上に広がっており、岩櫃城の南西が急崖になっていることで、こちら側ルート(東側からのルート)からしか攻めることができないことを考慮すると、この集落自体が一種の防御施設の役目を果たしていたのではないかと思われる:
こちらは平沢集落ごしに眺めた岩櫃城の大手口「城の口」の東に位置する天狗丸。一種の出丸とも、真田忍者の拠点とも云われている:
こちらは平沢集落共同の集会場である「岩櫃ふれあい広場」。この集落の標高が499mなので、岩櫃山頂との比高は300mほど、岩櫃城本丸との比高は100mほどになる:
そして、やっと登山口に到着した。ちょっと遠回りしたので結局一時間程かかったけど。この入口左手には無人の案内所が建っており、岩櫃城に関する史料や東吾妻町のガイドブックなどが置かれていた:
登山口をくぐると舗装された普通の登城道が続くが、ここは岩櫃山の麓を取り巻く横堀の堀底にあたるようである:
このまま進むと三の丸に相当する中城から本丸へ向かうコースと、水曲輪から本丸へ向かうコース (さらに岩櫃山の山頂へ進むコース)の分岐点がある。ちなみに写真左が前者のコース、右が後者のコースである。今回は前者のコースで本丸へ移動した:
中城へ向かう登城道:
登城道とは垂直に広がる段々となった削平地を上って行く。往時は、ここも何らかの曲輪であったと予想できる:
中城の虎口に入る手前には、向かって左右に走る空堀があった:
この空堀は、上の写真の右手上の二の丸から左手下にある麓近くまで伸びていた。なお、二の丸からは合わせて三つの竪堀が麓まで伸びており、これはその一つ目にあたる:
これは、その空堀を土塁の上から眺めたところ。写真左上から右下へ空堀が走っているのがわかる:
空堀を過ぎたところには中城の虎口があり、そこには「中城跡」の標柱が建っていた。実際には、この藪の裏にある栗林がある傾斜地あたりまでが中城ということだが、どこまでが遺構なのかは不明:
中城の傾斜地頂部から、その上にある二の丸方面を見上げたところ。これもかなりの傾斜をもっていた:
さらに、ここから中城の北にある空堀を覗き込んでみた:
中城の南を麓まで走る竪堀の堀底が登城道になっており、ここから二の丸・本丸方面へ上って行く:
堀底の登城道から振り返るとこんな感じ:
二の丸下(東側)にはいくつかの腰曲輪がつながっていたようで、登城道からその土居などが確認できた:
二の丸方面へ堀底をどんどん上って行く:
そして二の丸方面を見上げたところ:
しばらく進むと、上ってきた登城道からクランク気味に二の丸方面に上る階段があった:
そして二の丸跡。防御と攻撃の中心となった曲輪である:
この二の丸から岩櫃城の東側に広がる東吾妻町の眺望も、また素晴らしかった:
二の丸の西側には本丸が見えた:
そして本丸との間には空堀があり、これが二の丸から麓に走る二つ目の竪堀にあたる。下の二つの写真は本丸を正面にして見た土橋の両脇に残る竪堀:
本丸へ上る階段から二の丸を見下したところ。斜め横に竪堀が走っているのがわかる:
この階段を登って本丸へ移動した:
本丸へ登り切って、先ほど見た二の丸からの竪堀を見下ろしてみた:
この角度で見下ろすと竪堀の傾斜具合がよくわかるし、岩櫃城南側のちょうどJR郷原駅方面がよく見えた:
そして、こちらは居館(いだて)と呼ばれる御殿跡。本丸は上段と下段に分かれており、下段に居館があった。なお当時は発掘調査が行われていたため、いたるところにブルーシートが置かれていた:
そして本丸址の碑と岩櫃城由来記:
岩櫃城の規模は1.4キロ平方メートルと上州最大を誇り、のちに甲斐の岩殿城、駿河の九能城(現在の静岡県にある久能山東照宮)と並び武田領内の三名城と称された。永禄6(1563)年に武田信玄は上州攻略の先鋒として小県の真田幸綱に岩櫃城攻略を命じた。当時の岩櫃城の守将は斎藤太郎憲広(基国)で、地の利を活かして奮闘したがついには落城した。落城の際に、憲広は岩櫃山へ飛び移り、神照坊大天狗と化し、領民の安全を保護したという言い伝えがあり、天狗丸に建つ岩櫃神社はこの大天狗を祭神としているらしい。その後、幸綱は岩櫃城を居城とし吾妻領内を経営した。信玄公が亡くなった翌年の天正2(1574)年に幸綱が世を去ると、嫡男の信綱が城主となったが、その翌年の長篠・設楽原の戦で信綱・昌輝兄弟が討死にすると、武藤喜兵衛こと幸綱の三男・昌幸が真田家の当主となり岩櫃城主となった。それから昌幸が信州上田に上田城を築城すると、昌幸の嫡男・信幸が城主となり、弟で昌幸の次男である信繁もまた少年期は、ここ岩櫃城で過ごしたという。そして、信幸が沼田城主となると、真田家重臣の出浦(いでうら)対馬守盛清[a]2016年の大河ドラマでは寺島進さんが演じていた。が城代となったと云う。
岩櫃城は二つの支城を持ち、一つ目は北東側の、ちょうど登城時にみた観音山にある柳沢城と、南側の郷原城。城域の東端は番匠坂近くにある東の木戸、西側は本丸のある要害地区から距離にして400mほど行った西の木戸を端としている。この東西を両端とする北東方面へ1.9km伸びる尾根線上に主たる遺構があるそうだ。城域の南端は切沢の谷を自然の堀にして南西の境とし、南東側は岩櫃山の山裾の斜面を壁面として、さらに吾妻川を自然の堀に見立てている。北端は不動沢が境界である。
この本丸址の碑は居館よりも一段高い所にあり:
そこには櫓台もあった。城内外の指揮連絡所であったとされる:
これは、本丸上段から見下した下段の居館には御殿があった:
これは逆に居館から本丸東側の上段を見たところ:
本丸西隅には腰曲輪があり、写真左手下の南枡形虎口と二の丸から本丸に上る通路を守備するための曲輪だった。この本丸や二の丸、中城を含む、いわゆる要害地区は写真左手下に続く南面の切沢の谷と山裾の斜面を自然の城壁としていた:
本丸の上段の実体は武者走りにも見える細長い土塁だった:
細長い土塁を境界に、左手は本丸の腰曲輪、右手は本丸北側で急崖だった:
本丸北側の急崖を見下したところ。この下あたりには水曲輪がある:
東西に細長い本丸の西端から振り返ってみたところ。左手が本丸北側で北桝形虎口方面、右手は南側で南枡形虎口方面である:
本丸の片隅で見かけた奇岩(その1):
本丸の北西隅からは岩櫃山の山頂へ続く登山道。この上は、本丸よりさらに高い場所に配置された曲輪と思われる:
その削平された場所には奇岩(その2)が鎮座していた。写真の右下が本丸になる:
本丸側に戻って、北桝形虎口へ:
北桝形虎口の下にある帯曲輪。高さは二の丸とほぼ等しいところに位置する:
その帯曲輪から本丸北側を見上げたところ:
そして一の木戸方面に降りて行き、こちらも本丸北側を見上げたところ:
これは岩櫃山の山頂から一の木戸あたりまで走る空堀:
本丸と水曲輪の間にある一の木戸跡:
一の木戸から岩櫃山山頂を見上げると先ほど見た奇岩2がそびえ立っていた
そして、一の木戸を通過して水曲輪方面へ降りていく:
右手でいきり立っていた本丸北側の急崖もすごかった:
しばらく降りて行くと水曲輪がある。この背後にある沢から水を汲んでいたらしい。この下にも何段かの削平地が続いていた:
水曲輪を過ぎて麓あたりまで降りてくると、二の丸から走る三つ目の竪堀が横立てっていた:
更に接近して見ても見事な堀底だった。ここも、いわゆる登城道になっており、この先で、中城虎口附近でみた最初の竪堀と合流して二の丸の下に至る:
そして、この後は城の口前の堀に合流する:
こちらは城の口へ向かう堀側の土塁から眺めた天狗丸。真田忍者の拠点だったと云われている。ちなみに、一時城代となった出浦対馬守は真田忍者を率いていた甲州透破(すっぱ)の棟梁である:
現在の天狗丸は畑になっており、その東には吾妻太郎を継承した最後の当主・斎藤太郎憲広が化けた大天狗を祀る岩櫃神社がある:
天狗丸から眺めた東吾妻町方面の眺め。この下には「真田道」なる道がJR群馬原駅方面の貯水池まで続いていた:
さらに南へ目を移してみると、わずかだが遠くに榛名山が見えた:
こちらは、同じく天狗丸から西側の平沢集落方面の眺め:
このまま岩櫃城をあとにして、真田道を通って群馬原駅へ向かった。なお、郷原駅方面には西の木戸跡が残っているらしい。
で、こちらは貯水池の奥にあった東の木戸跡:
東の木戸を過ぎたところから急坂となった。これが番匠坂:
JR群馬原駅方面に向かって右手は、ごらんの通りの急崖だった:
最後に、登城する際にJR群馬原駅近くで見た岩櫃ふれあいの郷(岩櫃城温泉くつろぎの館):
そして、こちらは岩櫃城内で目撃した注意書き:
岩櫃城攻め (フォト集)
参照
↑a | 2016年の大河ドラマでは寺島進さんが演じていた。 |
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この真田氏の聖地ともいえる岩櫃城、今でも昌幸が勝頼のために建立した御殿(潜龍院)の跡が残っているようで、城とは逆方面にあったため今回は断念した。
この城は岩櫃山の絶壁とは逆側の尾根に築かれているため、今回のように平沢集落側から攻めると、その独特の岩肌をみることができなかったのも残念。とはいえ、片側にある天然の要害と麓にある渓谷とがいかに侵入困難な地形であったことが容易に想像できた城攻めでした。次回は郷原側から攻めてみたい。