国盗りの攻防が激しかった戦国時代の上州にあって赤城山南麓一帯の大部分は、大胡(おおご)城を居城としていた大胡氏によって支配されていた。その支城として築かれ、大胡一族でもある上泉氏が在城していた上泉城は現在の群馬県前橋市上泉町にある。城域は推定で東西およそ600m、南北およそ400m、城の南に桃木川(もものきがわ)、西から北に藤沢川が還流することで三方を川という天然の外堀で囲まれていた。要害は本丸・二の丸・三の丸の他に、一の郭とニの郭、そして出丸を持っていた。中世の末期、剣道史に名を残した剣聖・上泉伊勢守秀綱(のちに武蔵守信綱)は永正5(1508)年に上泉城主・武蔵守義綱の次男として生誕し、のちに四代目城主となって領地と領民を守った。当時の上州は北から越後長尾氏、西から甲斐武田氏、南から相模北条氏がそれぞれの思惑をもって侵攻していた時代で、上泉伊勢守は平井城の関東管領上杉氏の被官であったが、その最後の管領だった上杉憲政(うえすぎ・のりまさ)が長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って越後入した後は、同じ上杉方の箕輪城主で勇将の誉高い長野業政の重臣となり、ともに武田信玄率いる甲州勢と壮絶な戦いを繰り広げ「上野国一本槍」と呼ばれた。
一昨年は、2014年の晩秋の週末を利用して群馬県にある真田氏ゆかりの城跡を巡った後、時間を作って攻めてきた。その前の週に箕輪城を攻めて以来、箕輪城主であった長野業政・業盛の二代に仕え、のちに柳生宗厳に新陰流を伝えて「剣聖」と聞こえた上泉伊勢守なる人物が気になっていたので、是非とも訪れたかった城だった。午前中の城攻めを終えて新前橋経由で前橋へ移動し、そこから20分ほど歩いて上毛電鉄の中央前橋駅へ向かい西桐生行に乗車、そこから5分ほどで上泉駅へ到着。駅から上泉城跡までは徒歩で15分ほど。
こちらは説明板に記載されていた上泉城跡図。桃木川と藤沢川に囲まれ西端には出丸もあった:
しかしながら、現在は遺構はほどんどと言っていいほど残っておらず、6年前(当時)の上泉伊勢守生誕500年を記念して建立された像や石碑などが見所となった。
まずは城跡へ向かう途中に渡った、往時は天然の外堀であったろう桃木川。左手の河川上が上泉城跡になる:
その川に架かる浪華橋から榛名山方面の眺め:
まずは一の郭跡へ。この跡には、現在は西林寺が建っているが、このように土塁のようなものがあった:
このようにして見ると、往時は現在の道路あたりまで桃木川があったであろうと想像できる:
このまま西林寺前を抜けて、その東側にある二の丸・本丸方面へ移動した。こちらが二の丸跡:
そして「上泉町自治会館」の看板に従って進んでいくと本丸跡となる。現在は、この町の自治会館が建っていた:
自治会館の入口前には、上泉城の説明板の他に、平成25(2006)年に建立された上泉伊勢守生誕500年記念碑と銅像などがあった:
こちらは本丸北側。土塁の上に少し見えているのは上泉郷蔵(群馬県指定史跡)。天明の飢饉の教訓から社倉貯殻が発令されて創建されたもの:
本丸と道路を挟んで東側にある二の郭跡。こちら側は完全に宅地化されていた:
そして、本丸の北側に向かって広がる畑が三の丸跡:
ここで本丸跡の自治会館の敷地内へ移動した。ここには上泉伊勢守信綱像や幟があった:
上泉氏の先祖は清和源氏の流れをくむ京都の一色家で、上州藤原氏の末裔で往時は衰亡の危機に瀕していた大胡氏を再興した一色五郎義秀である。この上泉伊勢守の曽祖父にあたる義秀は、康正元(1455)年に大胡城から西5kmの上泉の地に城を築き、これが上泉城となり、のちに上泉姓を名乗ったのが始まりであると云う。
こちらは、上泉城の本丸跡北側に残された郷蔵(県指定史跡)。天明3(1783)年の大凶作に端を発した江戸時代最大の大飢饉の教訓として、寛政2(1790)年に前橋藩では社倉法を定め、領内各村に郷倉を建設させ、永年保存が可能な小麦[a]ちなみに、米は永年保存には耐えない。を主体に貯殻が行われたと云う:
ここで本丸をあとにして上泉城の西端にあった出丸跡へ移動した。現在ここには玉泉寺が建っているが、こちらも土塁の上に境内があった:
特に玉泉寺西端と桃木川河川の境界あたりの土塁の高さは往時の名残であろうと思われる:
こちらは玉泉寺の山門:
最後に、これは本丸跡の上泉町自治会館に取り付けられていた「剣聖・上泉伊勢守」の唄を再生する機械:
上泉城攻め (フォト集)
上泉伊勢守信綱公の墓所
上泉伊勢守信綱公の墓所は上泉城一の郭跡に建てられた西林寺境内にある:
こちらは本堂で、そこには「新陰流開祖・上泉伊勢守藤原秀綱菩提所」とあった:
本堂の左脇奥に進むと上泉伊勢守の墓所がある:
上泉伊勢守の没所については大和国の柳生谷であったり、奈良の芳徳寺に供養塔があったりと諸説ある。没年も天正5(1577)年1月だったり4月だったりとする記録が残っているのだとか。ここの墓所は、上泉伊勢守が開基した西林寺の過去帳によるものであるが、その信憑性については論争があるそうだ:
新陰流の剣名が関東八州に震った上泉伊勢守信綱公の墓所:
永正5(1508)年、上泉三代目城主の武蔵守義綱の次男として生まれたのが上泉伊勢守で、幼名は源五郎、後に伊勢守秀綱、さらに武蔵守信綱と改名した。13歳で鹿島神流の兵法の奥義を受け継ぎ、それから剣仙・愛洲移香斎(あいす・いこうさい)から陰流を伝授された。これにより、のちに兵法一流を創して生み出した新陰流の源流は愛洲移陰流とされている。
往時、最後の関東管領である上杉憲政に被官していた上泉伊勢守は、のちに箕輪城主の長野業政の重臣の一人となり、有力大名が侵略を繰り広げていた上州のなかで領地と領民を守ってきた。特に武田信玄が率いる甲州軍を、約七年の長い間にわたりその侵攻を食い止めるのに尽力し、業政の右腕であった藤井豊後守とともに「長野十六槍」の一人に数えられた。しかしながら永禄4(1561)年11月に業政が没すると、甲州軍の攻撃は激しさを増し、ついに永禄9(1566)年に最後の当主の業盛が自刃して箕輪城は落城した。この攻防戦で上泉伊勢守の武勇を知った信玄は再三にわたり招請したが、上泉伊勢守はそれを固辞した。その後、他家に仕えないことを条件として信玄から新陰流弘流の旅に出ることを許された上泉伊勢守は、その返礼として信玄からの偏諱を受けて秀綱から信綱に改名した。
兵法求道者として京に向けてあらたな旅立ちをした時、上泉伊勢守信綱は齢55ないし56とされ、伊勢国の北畠具教、大和国の宝蔵院胤栄、柳生宗厳と出会い、それから将軍足利義輝の前で上覧試合を行い、「上泉伊勢守兵法天下一」と感状を拝承した。また正親町天皇の前で天覧演武を行い従四位下を授与された。柳生宗厳(石舟斎)、宝蔵院胤栄、丸目蔵人佐ほか大勢の弟子に剣を指導して、新陰流は全国に広まった。一国一人として新陰流の後継者には柳生宗厳を選び、新陰流の全てを印加相伝した。その後、現代に至るまで新陰流は柳生家によって受け継がれることになった。
こうして上泉伊勢守が生み出した新陰流の精神は「活人剣」として人を斬る兵法が人を活かす兵法となり、日本を代表する流派に上りつめた。
剣聖・上泉伊勢守信綱公墓所 (フォト集)
参照
↑a | ちなみに、米は永年保存には耐えない。 |
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長野家に仕えて上泉城を守った、後に剣聖と呼ばれる上泉信綱。骨格雄偉で教養が高く文武両道に優れた人物で、業政・業盛の二代を支えた重臣の一人。長野家が断絶した後、信玄に乞われるも仕官を断り諸国流浪した。その時に柳生宗厳(石舟斎)に出会い、三回勝負して全勝し弟子にして後に印可状を与えた。これが柳生新陰流となる。並み居る剣豪の中でもダントツで剣聖と呼ぶに相応しい人物である。