群馬県高崎市箕郷(みさと)町にある箕輪城は、今から500年近く前の明応から永世(1492〜1521)年間に関東管領・山内上杉氏の下で西上野を治めた箕輪衆筆頭の長野業尚(なりひさ)によって、榛名山の東南麓に広がる独立丘陵上の中心部に築かれた梯郭式平山城である。それから時代が戦国の世に移り変わるにしたがって勢力を拡大していった子の憲業(のりなり)と孫の信濃守業政(なりまさ)の代に一段と城が強化された。特に業政は、甲斐の武田信玄と相模の北条氏康、そして越後の長尾景虎ら三雄が上州を舞台にして互いに覇権を争った時代に、あくまでも関東管領・山内上杉家の再興を図って箕輪衆を束ね、多くの支城を利用した「小豪族ネットワーク」で孤軍奮闘した勇将である。業政死後、甲州勢の猛攻に子の右京進業盛(なりもり)は父の遺志を守り将兵一体となってよくよく防戦したが、永禄9(1566)年に箕輪城はついに落城した。信玄は内藤修理亮昌豊を城代として上野経営の拠点としたが、天正10(1582)年の滅亡後は織田家中の滝川一益が在城し、信長横死の後は北条氏康が四男氏邦が城主となった。さらに天正18(1590)年の北条氏滅亡後は徳川家康が重臣である井伊直政を封し、城の大改修と城下町を整備させた。その後、慶長3(1598)年に直政が上野和田城[a]のちの高崎城である。を居城としたのにあわせて箕輪城は廃城となった。
こちらは一昨年は、2014年の秋に箕輪長野氏の菩提寺である長年寺と箕輪城跡、そして最後の当主である業盛公の墓所を巡ってきた。朝一に自宅を出て、車で関越自動車道を北上すること2時間ちょっと。高崎ICを下りてR27で高崎市街へ移動し、そこからR29に入って郊外の西へ移動。長野新幹線(当時)をこえて利根川水系の烏川(からすがわ)沿いにある長年寺で、まずは長野家累代の墓所を参拝してきた。参拝を終えて再びR29で長野新幹線をこえ、途中からR137のグネグネの山道を経由してR26に入り、そこから北上して箕輪城跡へ移動した。この当時は、城跡の駐車場として西側の虎韜門口と東側の搦手口ににそれぞれ用意されていたが、今回は長野氏が在城していた時代に搦手だった西側の駐車場を利用した(無料)。
こちらが現在の箕輪城跡の縄張図(加筆あり):
この城は城主が代わるたびに少しずつ改修が行われていたそうで、現在見ることができる縄張は最後の井伊直政在城当時のものらしい。個人的には長野氏時代の方が興味があるのだけれど、仕方がないので僅かながらに残る遺構を眺めつつ、武田信玄の甲州勢を六度も退けた長野業政・業盛時代の縄張に思いを馳せることにした。
こちらが、その長野氏時代の箕輪城を大手口側(現在の搦手口がある東側)から見た想像図:
長野氏時代の箕輪城は、この想像図の左右(城の南北)に湿地帯があり、上(城の西側)は榛名白川が、下(城の東側)は南の榛名沼(つばきなぬま)による天然の外堀が巡らされ、城自体が丘陵の頂上にあるという、まさに自然の地形を巧みに利用した縄張になっていたと云う。城内は巨大な堀が城の南北を隔てた堅固な土造りであった。これが、後に井伊直政が石垣を多用した近世城郭に大改修して今に至る。
とはいえ、現在の城跡でさえも見所がかなり多く縄張が入り組んでいるので、次のようなルートで攻略することにした(所要時間は約3.5時間):
①虎韜門口・白川口 → ②鍛冶曲輪 → ①虎韜門口 → ③大堀切 → ④郭馬出 → ⑤三の丸 → ⑥二の丸 → ⑦本丸 → ⑧御前曲輪 → ⑨丸馬出 → ⑩新曲輪 → ⑪稲荷曲輪 → ⑫本丸西の堀切 → ⑤三の丸 → ⑬蔵屋敷 → ⑤三の丸 → ④郭馬出 → ⑭木俣 →⑮搦手馬出 → ⑯観音様口 → ⑰水の手曲輪 → ⑱大手尾根口
まずは虎韜門(ことうもん)口附近。その隣には無料の駐車場がある。さらにその南側には畑があるが、ここは往時は馬出があったとか:
そして虎韜門口の西側には現在でも榛名白川が流れており、往時はこちら側に白川口埋門があった。ここは城の西側にある白川から虎韜門へ向かう唯一の通路であったという。この門は虎口の両側に石垣を積み、その上に木や石を渡して土手を盛りトンネル様式なっていたため埋門と呼ばれた。現在でも上州唯一の埋門遺構なのだとか:
ここから虎韜門方面に向かい、一旦その先にある鍛冶曲輪へ移動することにした:
鍛冶曲輪の虎口から階段を上がって森の中に入り、さらに上っていくと鍛冶曲輪の碑がある:
この曲輪に設けられた石垣も井伊直政在城時代のもので、野面積みであった:
さらに、この上には三の丸が続く:
が、ここで城外に出て榛名白川沿いの車道を北上してみた。そんな城の西側は断崖絶壁が続いていた:
それから再び虎韜門口へ。ちなみに「虎韜(ことう)」とは中国の兵書の「六韜三略(りくとうさんりゃく)」の虎韜(虎の巻)を表し、井伊直政在城当時からそう呼ばれていた:
こちらが虎韜門口から始まる大堀切で、堀底が遊歩道になっていた:
堀底から虎韜門口方面を見返したところ:
この堀の深さ・・・ 。重機も無い時代に、鍬(くわ)と畚(もっこ)を使って掘り起こした往時の農民たちの底力に驚かされる:
こちらは三の丸から見下した大堀切:
このまま大堀切を東へ進んでいくと、二の丸虎口前にある土橋に到達する。左手が二の丸、右手が郭馬出で、目の前の土橋の反対側も大堀切が続いていた:
大堀切の堀底から階段を上がって、まずは郭馬出西虎口へ移動する:
これが手前にある郭馬出と二の丸をつなぐ土橋。その両側には大堀切が東西に伸びていた:
土橋の上から東西に走る大堀切を見下したところ:
そして、こちらが土橋を渡った二の丸から郭馬出方面を見返したところ。これが城の北と南を行き来する唯一のルートで、いわゆる「一城別郭式」の城郭と云うらしい。すなわち、たとえ土橋の向こうの曲輪を失ったとしても、土橋を破壊すれば、こちら側の曲輪で十分に戦闘を継続できる戦術のことらしい:
ここで土橋を渡って二の丸西虎口に入ったら、ひとまず三の丸へ移動する。二の丸から三の丸へは再び細い土橋を渡って堀沿いを通ることになる。この西虎口の調査では門跡(間口2.8m、奥行3.2m、礎石6個)が発掘されたらしい:
こちらが二の丸の西側に位置する三の丸で、鍛冶炉や建物の柱跡が多数確認された。炉の周辺からは大量の鉄カス、火打石、釘などの鉄製品、羽口(熱風を吹き込む口)などが出土したらしい:
三の丸から、その下にある鍛冶曲輪を見下したところ。この下には三の丸の石垣が残っていた:
三の丸虎口から鍛冶曲輪にかけて築かれた三の丸石垣。箕輪城築城当時は土塁や堀を多用した「土造り」で、一部には石垣が使われていたが、せいぜい1〜2mほどであった。それが井伊氏が在城した時代の改修では石垣が多用されるようになった:
このあとは二の丸へ移動した。ここ二の丸は、本丸が守備の拠点であったのに対して、出撃の拠点であった。ここから城内の各方面(東は搦手口へ、西は白川口・大手口へ、北は蔵屋敷・通仲曲輪・霊置山へ、南は大堀切から木俣・椿名口へ)と通じていた:
二の丸の発掘調査では大型の城門礎石や石組溝などが出土した:
こちらは二の丸の東(搦手口)側からの眺め。この季節の赤城山の眺望が素晴らしかった。長野氏の時代には、こちら側から甲斐の武田勢が押し寄せてきたと云う:
このまま本丸へ移動していくと、まず左手に本丸南堀が、そして右手奥には本丸門前馬出が見えてくる:
こちらが本丸門前馬出。本丸の東から南に向かって鈎(かぎ)型の土塁があった馬出で、土塁の北側から搦手へ、南側から二の丸へ出撃できるようになっていた:
さらに進むと本丸南虎口が見えてくる。本丸には虎口が三ヶ所あり、その一つがこの南虎口で、その門は間口2.6m、奥行2.7m以下と推定され、門に続く石畳も発掘されたらしい:
南虎口横に建つ箕輪城跡の碑:
そして、ここが本丸南虎口の曲尺馬出にあたり、南虎口を攻め立てる敵に横矢をかけることができたと云う:
本丸南虎口に建てられた本丸の碑と、本丸の東側面を囲む土塁:
そして本丸。多数の「かわらけ」や楽焼碗などが発掘されていることから、城主の居館や軍議を開いたり酒宴を催したりする建物があったと推定されている。但し、城主の交代によって作り替えが激しい曲輪であった:
本丸土塁は本丸の東側から城内が見透かされないようにするために設けられ、縁部を石垣で補強した腰巻土居であった:
ここで本丸南虎口から西側へ移動していくと石垣の遺構の他、本丸二つ目の虎口跡があった:
現在は存在していない本丸西虎口は、往時は本丸西堀を隔てて西側にある蔵屋敷と木橋で連結されていたらしい:
この西虎口下から、大量の盛土と共に僅かながら橋台跡が発見された。これにより堀を隔てて本丸と蔵屋敷とが木橋でつながっていたことがわかった:
そして、こちらが本丸西堀を挟んで眺めた蔵屋敷:
次は本丸の北に配置された御前曲輪方面へ移動した:
本丸と御前曲輪の間には堀切があり、西堀へ向かって段々と深くなっていた:
そして、これが本丸で三つ目の虎口にあたる本丸北虎口。ここにも間口5.4m、奥行3.3mの門が建っていたようで、三ヶ所ある虎口の門の中で最大の規模だという。門跡の周囲には101個の四角い石塔で石組溝が造られ、石塔には梵字や15世紀の年号が刻まれているものがあったらしい:
こちらが御前曲輪。本丸の詰めであると同時に精神的な中枢部だった:
御前曲輪の井戸。深さは20mもあり、なんと底から長野氏累代の墓石が多数掘り出されたとか:
箕輪城将士慰霊の碑。永禄9(1566)年9月の武田信玄率いる甲州勢との激戦で討死した将士を祀っている:
こちらは慰霊碑の裏側に残る西虎口。御前曲輪から堀を挟んだ通仲曲輪(とおりなか・くるわ)へ渡る場所に門跡が発見された。こちらは間口、奥行共に3.1mの四脚門が建っていたと推定される。また、ここからは「大僧都」の文字や応永22(1415)年、天文22(1553)年といった文字が刻まれた石塔が門脇の石組溝に埋められていた:
そして、こちらは櫓台跡。天守ではなく、堀底にいる敵に向かって上から攻撃したり、御前曲輪の周囲を観察して指揮するような櫓が建っていたと推定される:
ここ御前曲輪は、永禄9(1566)年の落城の際、長野家最後の当主で齢17の業盛と家臣らが自刃した持仏堂があったと伝えられている。他にも箕郷町明屋集落出身の安田一雨(元文5(1740)年〜文政11(1828)年)が記した松尾芭蕉句碑「夏草や兵どもが夢の跡」とか、聖徳太子碑などが建っていた。
この曲輪の北には稲荷曲輪方面へ下りるための遊歩道があり、そこから御前曲輪北堀へ移動した。ここで堀は五つの方角へ分かれ、稲荷曲輪と霊置山と通仲曲輪の三つの曲輪がそれぞれ放射状に集まっていた:
三つの曲輪の間を北へ進むと霊木山(左手の森)と新曲輪(右手の土塁)へ至る:
それから新曲輪の土塁に上がったところに丸馬出がある。これは甲州流築城術の一つで、永禄9(1566)年の落城後に武田家が増設したものと云われる。城の東北部は緩やかな斜面なので、水堀を二重に巡らして備えを固めているが、ここから出撃するために馬出が設けられている。堀と土手は半円形で、南北両側に出入り口を持つ三日月堀になっている:
そして、こちらは新曲輪を囲む巨大な堀。馬出と新曲輪、そして稲荷曲輪を隔ていた水堀であったとか:
新曲輪は、関東屈指の堅城であった箕輪城の弱点とも云われている曲輪である。この曲輪で、初陣の若き諏訪四郎勝頼が血気に任せて力攻めした際に、長野家の猛将・藤井豊後守と組打ちし、危うく首を掻かれるところを味方の原加賀守胤元に救われたとか:
こちらは稲荷曲輪。ここは御前曲輪の東の、70mほど低い場所に配置された三角形の曲輪で、御前曲輪の東を通過する敵を挟撃できるものだった。この先の南側には帯曲輪と搦手口がある:
往時、稲荷曲輪の東にある堀は水堀だった。さらに、写真にある住宅地あたりには外堀もあった:
ここで、再び御前曲輪北にある分岐点まで戻った。これは御前曲輪に向かって堀が左と右に分岐しているところ:
このまま本丸西側の堀底を三の丸まで南下すると、御前曲輪西石垣が見えてくる。これは、通仲曲輪と御前曲輪との間の堀に架けられた木橋の橋脚部(土留)として積まれた石垣である。これも「一城別郭式」の戦術で、必要であれば木橋を破壊して、御前曲輪側で独立して戦闘を継続できるようにすることを想定していたと思われる:
御前曲輪と本丸の西側にある堀底はこんな感じ。高さといい幅といい、お見事 :
この辺りが御前曲輪と本丸の境目:
ここから更に南下すると、先に紹介した本丸西虎口と蔵屋敷との間に造られた橋跡に到達する。本丸から蔵屋敷に出る橋脚が建っていた場所で、ここで堀の幅が少し狭くなっていた。そして、こちらも「一城別郭式」の戦術を想定していたと思われる:
蔵屋敷と本丸西虎口の間の若干狭くなった場所に橋台の一部が残っていた:
このまましばらく堀底を進み、三の丸へつながる階段を上がり、三の丸の北にある蔵屋敷へ移動した:
こちらが蔵屋敷跡。ここは備蓄穀物を保管する館が建っていた場所で、一説によると、いわゆる「辻馬出」の機能を併せ持ち、ここから三の丸や通仲曲輪、鍛冶曲輪北方へ出撃する拠点だったと推定されている:
ここで三の丸を経由して、再び二の丸南にある郭馬出へ移動した。ここ郭馬出西虎口では間口5.8m、奥行3.8mの門跡が確認されている。礎石の配置や石組溝の存在などから二階建てで屋根付きの城門であったと考えられている:
郭馬出西虎口を堀に沿って南へ移動すると木俣(きまた)に至る。この名の由来は通路が二俣(ふたまた)、三俣(みつまた)のように五つの方向に分岐することからきている。郭馬出の南側にある尾根を二つに分断する中間地点でもあり、城の南側の拠点である:
木俣を通過し、郭馬出の南側を囲む堀に沿って搦手口方面へ移動した:
こちらは、搦手附近から先ほど攻めた稲荷曲輪方面の眺め。ここを進むと本丸の東を抜けて、御前曲輪北堀へ至る。右手奥の稲荷曲輪が左手の本丸・御前曲輪に比べて低くなっているのがわかる:
ここで再び城の東側の眺望。くどいけど、この季節の赤城山の眺めは素晴らしい:
城の東側にある搦手口。これは井伊直政在城時代、城の南側に城下町を整備したことで、それまでの大手口から搦手口に変更された。長野氏の時代は、こちらが大手口であったため武田信玄率いる甲州勢2万が押し寄せ、風林火山の軍旗をはためかしていたと想像してしまった:
そして搦手口にも馬出が残る:
これは、現在の搦手口から二の丸方面を見上げてみたところ:
そして搦手口から榛名山方面の眺望。これは先ほどの赤城山の眺望と同様に、自身初の体験でかなり感動した。ちなみ写真右手が搦手口の駐車場(無料):
搦手附近から一段低くなったところに畑が広がっているが、これらはかつての外堀の名残だとか:
この後は再び城内に戻り、木俣の手前で椿名口方面へ南下、さらに途中から西へ移動して観音様口・水の手曲輪へ移動した:
しばらく山道を下って行くと観音様口に到着した。ここと、その近くに建つ法峯寺一帯が水の手曲輪になる。城中で使用する大切な水が湧き出ていた曲輪で、その地形が「箕(みの)」のような形をしていたので「箕輪」という地名になったとか:
ひとまず遊歩道で城中へ戻り、最後は大手尾根口へ移動した。ここは、現在は民家になっている大手(丸戸張)からの虎口にあたる:
そして、ここ大手尾根口前から椿名沼跡に建つ高崎市立箕輪小学校方面の眺め。往時の箕輪城の南は湿地帯によって守られていた:
以上で箕輪城攻めは終了。土造りとは言え、関東でも屈指の堅城の面影は今尚、健在だった。
最後に、虎韜門口前に建てられていた注意書き。今回は遭遇することはなかったけど・・・:
箕輪城攻め (フォト集)
長野業政公と長野家累代の菩提寺、そして最後の当主業盛公の墓所
群馬県高崎市下室田町にある長年寺は鷹留城主長野氏の菩提寺で、ここには初代城主の長野業尚(なりひさ)公をはじめとして箕輪城主の業政公など長野氏累代七人を供養するための五輪塔が建っている:
文亀元(1501)年創建の長年寺の山門と本堂:
本堂の鬼瓦は上州長野氏家紋の檜扇(ひおうぎ)だった。長野家の本姓は在原氏で、伊勢物語の主人公である在原業平の末裔と云う伝説が残っている:
本堂脇に案内板があり、それに従って進むと長野家累代の墓所がある:
中央が初代鷹留城主で、長年寺の開基である長野業尚公の墓で、左右に三基づつ累代の墓が並ぶ。五輪塔墓石の最下段である方形石の地輪正面に戒名が刻まれていた。
まずは長野業尚公の墓石(戒名は慶岩長善庵主):
祖父業尚公の墓に向かって右から二番目にあるのが長野信濃守業政公の墓石(戒名は一清長純居士):
上野国箕輪城主の長野業政は、小田原北条氏や甲州武田氏に汲みすることなく、主家で関東管領の山内上杉家に忠義を尽くし、武田信玄の西上野侵攻を何度となくを撃退してきた勇将で、後世に「上州の黄斑(猛虎)」と呼ばれた。武田信玄をして「業政ひとりが上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」と言わしめた程の猛将である反面、領民に対する治世も伝わっている。彼には男子が二人しかおらず、嫡男である吉業(よしなり)は小田原北条氏との決戦であった河越夜戦で致命傷を受けて没している(享年16)。それに対し、女子は(養女を含めて)十二人もおり、政略結婚で西上野にいる小豪族の箕輪衆を束ね、沢山の支城を利用したゲリラ戦を展開したり、越後の長尾景虎に援軍を乞い、それを頼りに箕輪城で持ちこたえるなどして信玄を苦しめた。その一方で、景虎による小田原北条攻めにも加わり、上杉憲政から関東管領の職を譲られた際は小田原城包囲を解いて鎌倉まで同道し、鶴岡八幡宮での相続式にも参列した。しかしながら、彼も寄る年波には勝てず71歳で亡くなることになるが、死に際に
葬儀は無用。菩提寺の長年寺に埋め捨てよ。むしろ敵の首を一つでも多く墓前に供えよ。敵に降伏してはならない。運が尽きたら潔く討ち死にせよ。これが私への孝養、これに過ぎたるものはない。
と次男・業盛(なりもり)に遺言し没した。
一時期、業政の下に武田信虎や村上義清に追われ、後に真田家中興の祖と呼ばれた幸綱(幸隆)ら海野衆が食客として滞在していたと云う。結局、その幸隆は武田家に与し、上州攻めの際は箕輪攻めの先方として業正と対峙することになる。
ちなみに長野氏累代の墓所は、長年寺の北側にある鷹留城址の麓にある:
この季節の長年寺境内は、これまた色彩やかな風景美だった:
長年寺を参拝した後は箕輪城攻めしてから、業政の跡を継いで長野家の当主となった業盛公の墓所として伝わる大安寺(群馬県高崎市浜川798-4)外の墓苑へ移動した。箕輪城跡からR28を南下して、長野新幹線(当時)と上越新幹線の間あたりにあるのだけれど、これがまた結構はまった 。墓苑といっても目印が少なく(おまけに墓石のため視野に入りづらいので)、かなり行ったり来たりすることになった。
で、こちらがなんとか辿り着けた「伝、箕輪城主長野業盛の墓」の一画:
父・業政の死後、若干17歳の業盛が長野家の当主となるが、家中の動揺が収まっていない機会を武田信玄は逃さず、年明け早々に二万の大軍を率いて西上野に攻めてきた。何度も煮え湯を飲まされていた信玄は支城を個別に攻め落とす作戦に出た。これにより、鷹留城を含め、たちまちに支城ネットワークが崩れ、ついに箕輪城は孤立して風林火山に包囲された。業盛は父の遺言を守り、城兵1500で一時は内藤昌豊、山県昌景ら歴戦の強者の猛攻撃を跳ね返し善戦するも、衆寡敵せず、最後は当主・業盛自ら200の城兵と討って出てさんざんに暴れまわったあと、御前曲輪の持念堂に籠もり、上泉信綱ら重臣が落ち延びて再起をかけることを提言するもそれを由とせず、母や妻子に別れを告げて:
春風に梅も桜も散り果てて 名のみぞ残る箕輪の山里
と辞世の句をうち、父である業政の位牌の前で念仏を唱えて自刃した。
彼の亡骸は哀れに思った僧法如らが、ここ大円寺の墓地に葬ったと伝えられている。
ちなみに業盛公の墓所へ行く目印は、このポール:
長野業政公墓所と業盛公墓所 (フォト集)
この城の大堀切を見ると、スコップやショベルカーなんか無い時代に鍬を使ってひたすら工事をした上州人の労苦と凄さを感じることができる。
そして、群馬県内で有名人はと言うと、中山秀征や井森美幸よりも長野親子と剣聖伊勢守が頭に浮かびます :)
平成28(2016)年11月23日、郭馬出西虎口門の復元が完了したらしい。これは長野業政の時代ではなく、小田原仕置の後の井伊直政の時代のもの。まぁ、もう一度城攻めしたくなった。
大河ドラマ『おんな城主・直虎』を観ていて、井伊直政が箕輪城主の頃、稲荷曲輪は別名「松下」と呼ばれており、直政の幼少時代(虎松)に養父だった松下源太郎が住んでいた曲輪だったとか。これまで箕輪城については長野家の頃しか興味はなかったけど、井伊家の縁を知って興味深かった:)