山梨県甲府市上積翠寺町(かみ・せきすいじ・まち)にある標高770mの要害山は山全体が「要害山城」(または積翠寺要害城)という山城になっている。この城は、永正17(1520)年に甲斐国守護職の武田信虎が躑躅ヶ崎館の詰めの城として築いたもので、居館と政庁を兼ねていた躑躅ヶ崎館に対し、緊急時に立て籠もる要害としての役割を担っていた。翌年の大永元(1521)年には、駿河国・今川氏親の属将であった福島正成(くしま・まさしげ)[a]一説に小田原北条氏の重臣で玉縄北条氏の祖である綱成は正成の嫡男と云われている。また豊臣氏恩顧の福島正則は福島正成の流れ汲む同族とも云われている。が甲斐に侵攻して河内を占領し、迎撃してきた信虎軍を蹴散らすと、さらに富田城を陥として国中まで進撃してきた。この危機に信虎は正室・大井夫人を要害山に避難させ、自身は再び軍を率いて飯田河原で福島軍に決戦を挑み敗走させた。この直後、要害山城に避難していた大井夫人は嫡男の太郎(のちの晴信、法号は信玄)を出産した。勢いにのった武田軍はさらに上條河原の合戦で福島正成を討ち取り、今川軍を敗退させた。要害山城はその後、信虎・信玄・勝頼と三代にわたって使用されたが実戦で使われたのはこの時ぐらいである。信玄死後、天正3(1575)年の長篠・設楽原の戦で敗北した勝頼は翌4(1576)年に要害山の修築を城番の駒井高白斎に命じている。天正10(1582)年に武田氏が滅亡した後は織田氏・徳川氏が甲斐を支配し、天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原仕置後は羽柴秀勝が入国して甲府城を完成させると、躑躅ヶ崎館は廃城、慶長5(1600)年の終りには要害山城も破却された。
こちらは一昨年は2014年の秋の連休を利用して、初日は古府中の躑躅ヶ崎館とその詰城の要害山城を攻めてきた。予定では要害山までR31を黙々と上って行く予定だったのだけど、ちょっと雲行きが怪しく雨が降りそうな天気だったので、武田神社前から要害山の麓にある積翠寺までタクシーで移動した(10分くらいで当時1,000円程で、歩くと40分以上)。
まずは積翠寺。臨済宗妙心寺派のお寺で、開山は大永元(1521)年。寺の名前の由来は、境内に産湯の天神「産湯の井戸」があり、産湯を汲んだ磐石から水が湯になったことから「石水寺」と名付けられ、いつからか「積翠寺」となったとか:
その参道には見事な松の木が立っていた:
こちらは拝殿:
その拝殿の左隣にある御堂には「信玄公像」と「武田不動尊」、そして「毘沙門天」が置かれていた:
そして拝殿の左脇を通って裏手に回ると庭園がある。この庭園は甲陽軍艦にも記載されている積翠寺名園だとか:
さらに、この庭園の奥には「信玄公産湯の井戸」が残っていた。今川家・福島兵庫守の侵攻を受けた大永元(1521)年、信虎夫人は戦乱を避けて積翠寺に留まり嫡男の太郎(のちの信玄公)を出生した。その時に使用した産湯を汲んだ井戸らしい:
それから積翠寺を出て、相川を渡り要害山城へ向かって移動した:
相川と並行する山道を上って行くと、要害山の麓にあたる場所に甲府積翠寺温泉の「ホテル要害」があった。こちらも柱や通気口などに武田菱がかたどられていた:
こちらが要害山の案内板。山梨県の百名山の一つに指定されている:
要害山そのものを要塞化した要害山城は山腹から主郭に至る登城道に沿って、枡形虎口や曲輪が複雑かつ連続的に付設されているほか、竪堀や堀切を要所に設けて防御を固めていた。山頂にある主郭には規模の大きな建物が存在していたものと推測されている。南東の尾根上には支城の熊城があり、深い堀切で区切られた連続的な小曲輪と畝状竪堀があるとか。また、麓には根古屋の地名が残り、城番を勤める武士の屋敷などがあったと思われる。
これが登城口。ホテル要害の脇にある。登城道は整備はされてはいたが、今回は前日の雨でやや泥濘んでいた:
ちなみに甲府自然休養林ハイキングマップ(PDF形式)によると、登城口から一の門までが15分、さらに不動曲輪までは20分、不動曲輪から主郭のある七の門までが10分(目安)とされていた。
ということで登城を開始すると、いきなり石積みを見ることができた。この林の向こうには何段かの腰曲輪があるらしい:
このような見事な石積みが遺構であるかどうかは不明:
登城道はほぼ山道で、案内板は少なかったが、特に迷う程ではなかった。ただ要害山中腹の腰曲輪にある井戸(諏訪水)を見つけるのには苦労したけど:
まずは一の門を目指して、腰曲輪を横目にひたすら山道を上って行く:
しばらく上って行くと、岩がむき出しの小曲輪に到着した:
さらに一の門へ向かってどんどん上って行く:
一の門へ行く途中に見た竪堀跡。とはいえ、丸太が投げ込まれていて堀の具合が全くわからなかったけど :
これは、竪堀と平行して延びていた竪土塁。あまり見ることができない貴重な遺構の一つ:
ここから、一の門までもう少し上って行く:
そして、ここが一の門跡:
この手前には石積み土塁があった。これは、門の先にある枡形を囲んでいた土塁と思われる:
ここは両側に石積みを築いた虎口で、さらに防御を目的とした門が建てられていた:
一の門跡を抜けると枡形になっており、さらに登城道は正面の竪堀を避けるように右上へ折れ曲がっていた:
登城道の上から見下ろした枡形:
次は不動曲輪に向かって、再び上って行く。この登城道の右側には何段かの腰曲輪があったという:
こちらが不動曲輪と銘打った削平地。この名称は、江戸時代後期に建てられた武田不動尊に由来するものらしい:
不動曲輪を過ぎると、二の門から主郭のある七の門あたりまで小さな曲輪が階段上に続いてた。不動曲輪のすぐ上にあるのが二の門跡で、こちらも巨石を使った石積みが残っていた:
これが二の門跡。要害山城で最も堅固な門が建っていた場所で、その両側に高く整然とした石積みを築いて通路を狭くし、防御と攻撃の拠点として機能していたとか:
こちらも門を過ぎると枡形になっていた:
このまま枡形を進んでいくと小さな曲輪が連続して連なっていた。こちらの曲輪の左側は武者溜まりだったと云われる:
この辺りからは登城道が石敷きになっていた。そして、各曲輪の虎口は正面切り通しのような形をしていた:
さらに削平地は続く。こちらは四の門跡と五の門跡の間にある曲輪と、五の門に上がる切り通し:
そして五の門。この虎口の切り通しとその土塁も遺構だと云われている:
ここから主郭がある山頂までもう少し。七の門を目指してさらに上る:
そして七の門跡は高い土塁と石積みに囲まれた虎口だった:
ここで主郭に到着した:
こちらは主郭の中から虎口を見たところ:
主郭は要害山の山頂に位置し、東西73m、南北22mほどの枡形になっており、周囲には高さ2mほどの土塁で囲まれていた。城で最も重要な場所で、庭園に用いられたと思われる石が残っているのだとか:
主郭に建つ「武田信玄公誕生之地」の石碑:
この城は搦手側も見所が多い。まずは主郭を搦手側から見てみたところ:
搦手虎口も小さいながら石積みと八の門で守られていた:
搦手口を出たすぐのところに南北に走る堀切跡とそれに交わる土橋があった。ここは狭い土橋を残して尾根を切り取った跡であり、一度に大勢の敵兵が城の背後から主郭に侵入するのを防ぐことを目的に造られた:
しかも、この堀切は護岸の一部として石積みで覆われていた:
土橋を渡って尾根の上を歩いて行くと、狭い尾根の両側に深く、勾配が急な竪堀跡が連続していた:
竪堀といっても、その殆どが急崖だった:
さらに尾根を東へ進んでいく:
搦手側は堀切や竪堀の他に、曲輪(削平地)が縦長に点在していた。こちらは最東端あたりの物見台:
そして、この物見台近くにある虎口。こちらにも門があったようだ:
ここから見る竪堀跡や石積み土塁:
この先も尾根が続いていたので、行けるところまで行ってみた:
尾根の一番奥にある土橋と竪堀。要害山城の史蹟境界はこのあたりまで:
搦手側は大手側よりも見るものが多くて、夢中になって尾根筋を歩いていたら、周囲は靄だらけだった 。段々と視界が悪くなってきたので遭難しないうちに下山することにした。
途中、二の門あたりから脇にそれて(というか、藪をかき分けて)奥に入ったところに、諏訪水という要害山城を支えた井戸跡を見つけた:
その後は無事に麓まで下山できたので、このままR31を歩いて武田神社まで下りていくことにした。行きはタクシーで上ってきた坂だけど、下りは徒歩でも十分歩ける勾配だった。と言っておきながら、結局はそのまま甲府駅南口の宿まで行ってしまったけど 。
その途中で見かけた風景をいくつか。まず、要害山城とその支城である熊城:
そして、これはR31沿いから眺めた丘陵:
要害山城攻め (フォト集)
参照
↑a | 一説に小田原北条氏の重臣で玉縄北条氏の祖である綱成は正成の嫡男と云われている。また豊臣氏恩顧の福島正則は福島正成の流れ汲む同族とも云われている。 |
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典型的な山城。戦のない平時は躑躅ヶ崎館に住み、いざ合戦になると山城に籠城する。
躑躅ヶ崎館から麓の積翠寺までタクシーで10分くらい。当日は曇りながらも前日に雨が降ったようで登山道はややぬかるみ気味。おまけに山頂の主郭に到達した時点で霧が発生し、搦手を見て回っているとホント道に迷いそうなくらい靄っていたので程なく下山。城の見どころは主郭から搦手の尾根にある山肌に沿って掘られた竪堀。あとは信玄公の誕生の場である主郭の土塁など。
平成29(2017)年1月30日のニュースにて:
『信玄の隠し湯』として知られる甲府市・積翠寺温泉の温泉旅館「ホテル要害」が1月31日をもって閉館する。123年の歴史ある宿として親しまれたが、今後見込まれる維持費などの負担が重いらしい。
積翠寺温泉は、信玄の父・信虎が要害山城を築いた際に、麓に湧く鉱泉を見つけて一族の療養の場としたのが始まりだったとか。
ちょっとさびしい。