徳川幕府直轄地だった甲府城は、廃城後に山梨県指定史跡として鉄門などが復元されていた

甲斐国の戦国大名であった武田氏が天正10(1582)年に滅亡した後は、織田信長・徳川家康による支配を経て、天下統一を果たした豊臣秀吉が天正18(1590)年に甥の羽柴秀勝と、尾張時代からの直臣である加藤光泰に命じて甲府城の築城を開始させた。そして、文禄2(1593)年に朝鮮へ出兵していた加藤光泰が病没[a]大洲藩祖でもある加藤光泰は、『北藤録』に拠ると文禄の役で軍監であった石田三成と対立したがために毒殺されたというが、この北藤録は三成死後およそ160年後に編纂されたものであり、にわかには信じがたい内容である。おそらく改易に対してぶつけようがない腹いせから三成を貶める内容になったのであろう。すると、浅野長政・幸長父子が入国して完成させた。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦後は、再び徳川家康が甲斐国を支配し、以降は徳川将軍家の子弟が城主となった。そして宝永元(1704)年に城主徳川綱豊(のちの六代将軍家宣)が五代将軍綱吉の養子になると、綱吉の側用人であった柳沢吉保(やなぎさわ・よしやす)が城代となって治めた。この柳沢氏は、甲斐武田家一門である一条氏の末裔であり、本家滅亡後は武田家遺臣の多くがそうだったように、徳川氏の家臣団に与していった一族でもある。それから、享保9(1724)年に大和郡山へ移封されるまでの約20年間は柳沢氏が甲斐国を治め、城下町が再整備されて大いに発展した。その後は幕府直轄地となって明治の時代を迎えて廃城となり、建物は全て取り壊されたものの、明治37(1904)年には山梨県甲府市の舞鶴公園(のちに舞鶴城公園)として市民に開放された。

こちらは一昨年は2014年の秋の連休を利用して、初日は古府中の躑躅ヶ崎館跡とその詰城の要害山城跡を、そして最終日の二日目は午前中に新府城跡、午後から甲府城跡を攻めてきた。新府城跡から甲府へ戻ってきて、昨晩行った同じ店で昼食を摂った後は、まず山梨県警察本部があるビル(山梨県防災新館)の地下1Fへ移動した。ここには「甲府城石垣展示室」があり、平成22(2010)年にここのビルの建設工事に伴う発掘調査によって、甲府城楽屋曲輪南西部に位置する内堀の石垣が東西27m幅、最大高4mの規模で発見され、それらの一部が展示されていた:

このビルの地下1Fは休日も開放されていた

山梨県防災新館の案内板

素直にエレベータで降りたほうが近道です

甲府城石垣展示室(入場無料)

薄暗い照明がなかなか良かった

復元された甲府城築城期(約400年前)の野面積みの石垣

往時の甲府城は現在の舞鶴城公園の敷地の他、この山梨県庁や市政のビルが建っている場所、さらにはJR甲府駅近くまで曲輪が存在していた。

こちらは石垣の解説パネル:

土塁の上に異なる石を使って複数の層で構成されていた

石垣の断面構成図

中世の時代の最もポピュラーな石垣の積み方である

野面積みは自然石を積み上げただけの石垣

こちらは胴木(どうぎ)と呼ばれる石垣の下に敷く土台で、軟弱地盤での石材の重さで生じる不等沈下や滑りによって石垣が崩壊するのを防ぐために敷かれた。こちらは400年前の木そのものらしい:

重い石垣が地盤に沈まないようにする一種の土台のようなもの

約400年前の胴木

重い石垣が地盤に沈まないようにする一種の土台のようなもの

約400年前の胴木

 

あと、こちらはJR甲府駅北口の多目的広場に展示されていた石垣で、この場所を整備する際の発掘調査で確認された石垣の一部が復元されていた。ちょうど駅の北口は清水曲輪があったとされる場所である:

この北口よちゃばれ広場を整備する際の発掘調査で出土した石垣を復元したもの

JR甲府駅北口に復元された石垣

防災新館の石垣展示室を見たあとは舞鶴城公園へ移動した。山梨県防災新館から歩いても数分ほどの距離にある舞鶴城公園は県指定史跡の甲府城跡であり、この名称の由来は明確ではないながら、いつの頃からか白壁が重なりあう優雅な姿から、鶴が舞う雄大な姿を連想して付けられたものらしい。現在は6ヘクタール(18,150坪)が都市公園化されているが、往時は20ヘクタール(60,500坪)ほどの広大な城郭だった。たとえば柳沢吉保時代の甲府城は、次の城下図にあるように現在の舞鶴城公園の他に、JR甲府駅、山交百貨店、そして山梨県庁あたりも含まれていたようだ(中央の青線で囲まれた部分が現在の舞鶴城公園の領域。こちらが大きい写真):

甲府市歴史公園に復元された山手御門櫓門2Fに展示されていた

柳沢氏が治めていた頃の甲府城下図

ちなみに、この図は舞鶴城公園ではなく「甲府城山手御門」が復元されている甲府市歴史公園で展示されていたもの。聞くところによると、同じ甲府城でも管理元が異なると少々複雑な事情があるようで、舞鶴城公園は山梨県甲府市が、甲府市歴史公園はNPO法人がそれぞれ管理・運営している。城攻め当時、NPO法人が復元し管理している山手御門のボランティアの方から予算とか運営方法など、意外と複雑な事情を聞けた。例えば老朽化対策とか自然災害後の復旧とか。あと富士山を眺める時に舞鶴城公園側の稲荷曲輪を囲む木が結構邪魔らしく、伐採を依頼しても公園が違うからということでいろいろ手続きやらが面倒らしい:$

で、こちらは舞鶴城公園の案内図(大きい写真):

左が北、右が南、上が東、下が西になる

県指定史跡・甲府城跡「舞鶴城公園案内図」

甲府城往時の遺構は江戸期の石垣と内堀の一部のみであり、その他の門や城壁などは全て復元遺構であるものの、山梨県は平成2(1990)年から公園整備事業に力を入れており、発掘調査の他に石垣の改修、門・塀・櫓の建設、園路・広場の再整備、堀の浄化などを行っているという意味でも見応えは十分にあった。

今回の攻城ルートはこんな感じ(所要時間は約3時間):

①鍛冶曲輪門 → ②坂下門跡 → ③天守曲輪 → ④二の丸 → ⑤中の門跡 → ⑥鉄門 → ⑦本丸 →

⑧天守台 → ⑨本丸櫓跡 → ⑩内松蔭門 → ⑪内堀 → ⑫鍛冶曲輪 → ⑬稲荷曲輪 → ⑭稲荷櫓 →

⑮数寄屋曲輪 → ⑯数寄屋櫓跡 → ⑰庄城稲荷跡 → ⑱稲荷曲輪門 → ⑲水溜跡 → ⑳山手御門

 

で、まずは鍛冶曲輪門。ここは鍛冶曲輪と(現在の山梨県庁周辺にあった)楽屋曲輪をつなぐ門で、明治初め頃まで残っていたが破却された。この門は切妻造りで、本瓦葺きの一間一戸の、控柱を覆う大きな屋根を持つのが特徴の薬医門形式であった:

切妻造で本瓦葺きの一間一戸薬医門であった

復元された鍛冶曲輪門(外側)

控柱を覆う大きな屋根が特徴の薬医門である

復元された鍛冶曲輪門(内側)

鍛冶曲輪側の雁木(がんぎ)から眺めた鍛冶曲輪門

鍛冶曲輪門

 

門を潜って右手にある恩賜林記念館の横にある石段を登って坂下門跡方面へ移動した:

この石段の先が坂下門だが、当時は石垣修復中だった

鍛冶曲輪の高石垣

奥に見えるのが天守曲輪の高石垣

鍛冶曲輪の石垣

 

この石段を上っていくと右手に天守曲輪の高石垣が見えてくる:

鍛冶曲輪から見上げたところ

天守曲輪の高石垣

石垣の一段上には武者走りが造られていた

天守曲輪の高石垣

この上が天守曲輪

天守曲輪の高石垣

 

こちらは近世城郭ではお馴染みの打込み接ぎ

天守曲輪の石垣

このまま二の丸虎口へ移動して、その枡形の中にある坂下門跡の前に到着してみると、石積み補修工事の最中だった(当時):

奥に見えるのが恩賜林記念館

二の丸虎口の手前にある鍛冶曲輪の高石垣

坂下門は鍛冶曲輪と天守曲輪・二の丸をつなぐ門だった

二の丸虎口は枡形だった

(残念ながら説明板は、この囲いの中にあって見れなかった)

坂下門跡の石垣は補修中だった

 

代わりにこんな感じで補修作業の様子が写真で紹介されていた:

石積み復元補修工事の様子

補修中の坂下門跡

石積み復元補修工事の様子

補修中の坂下門跡

石積み復元補修工事の様子

補修中の坂下門跡

石積み復元補修工事の様子

補修中の坂下門跡

 

坂下門跡を過ぎると二の丸方面と天守曲輪方面の分岐点になるので、ひとまず二の丸方面へ移動した。二の丸は廃城後にいろいろと建物が建てられたようで、現在は武徳館という演武場があった:

右手に見えるのが本丸石垣

二の丸に建つ武徳館

二の丸は標高約283m、面積は約5,706㎡。別名が山の井曲輪。

この曲輪の隣が本丸ということもあり、武徳館の横には本丸石垣(武者走あり)があった。この石垣との間にある通路をそのまま北へ移動すると二の丸の虎口にあたる内松蔭門(うちまつかげもん)がある:

ここ一帯が二の丸になり、右手の本丸石垣には武者走りがあった

武徳館と本丸の石垣の間から見た内松蔭門

ここで、先ほどの分岐点へ戻って天守曲輪と本丸を攻めることにした。そこには中の門という天守曲輪と本丸へ通じる門跡があった:

石段の上が中の門跡、その向こうに見えるのが復元された鉄門

坂下門の分岐点から天守曲輪へ移動した

天守曲輪・本丸へ通じる門が建っていた

中の門跡

古絵図には柵の門として描かれていた

中の門の礎石

 

その中の門跡から本丸方面を見上げたところ。写真左の記念塔のようなものは、明治天皇から山梨県への贈り物(山林)に対する感謝の形らしい:

県内にあった皇室保有の山林を山梨県へ下賜されたお礼だとか

本丸に建つ謝恩碑

平成25(2013)年に三年がかりで復元された

松の木と復元された鉄門

 

天守曲輪は標高が約289.6m、面積は約2,600㎡。本丸の腰曲輪的なものだった。

そして本丸南側虎口に建つ鉄門(くろがねもん)。二階建ての渡櫓門:

三間一戸潜戸付渡櫓門

本丸虎口に建つ鉄門

明治初年までは現存していた鉄門を史実と伝統工法に基づいて平成25(2013)年に三年がかりで完成させた:

一階は大扉、二階は冠木の典型的な渡櫓門

廃城まで存在していた鉄門

復元された門は、三間一戸潜戸付渡櫓門(木造)で、江戸時代の城の天守の屋根によく見る入母屋造、本瓦葺き。高さは9.653mもある。一階の大扉の向かって左手に小さな潜戸(くぐりど)が見える。さらに復元時は現代の耐震基準を満たすように、見えない所に補強材が入っていた:

現代の建築基準に合わせるため見えないところは鉄骨が入っていた

鉄門の石垣と寄掛柱

こちらは鉄門の石垣に埋め込まれていた鏡石:

(この鏡石、実際はどれくらい大きかったのだろうか)

鉄門の鏡石

そして鉄門の大扉をくぐって本丸へ移動した。こちらは、本丸から見返した鉄門:

三間一戸潜戸付渡櫓門で、木造、屋根は入母屋造の本瓦葺き

本丸から見た鉄門

鉄門の渡櫓内部は公開されていた:

雁木からあがって中に入ることができる

鉄門の二階

当時09:00〜16:30まで無料で公開されていた

鉄門二階の内部(広さ66.93㎡)

当時09:00〜16:30まで無料で公開されていた

鉄門二階の梁

 

こちらは謝恩碑のそばからの眺望。この時期は空気が澄んでいて富士山が綺麗だった:

右手後方には富士山も!!

舞鶴城公園入口を見下ろしたところ

舞鶴城公園本丸の謝恩碑のあたりからの眺望

神々しい富士山

それから本丸内部へ移動。本丸東端には天守台が建っていた。若干、本丸が平面ではないのが気になる。往時は御殿が建っていたはず:

奥に見えるのは天守台

本丸

本丸は標高約295m、面積が約4,156㎡。別名は御本丸。その本丸から眺めた天守台:

手前が本丸だが、妙に凸凹になっていた

天守台

ちなみに、こちらは甲府市歴史公園の山手御門2Fにある展示室で見かけた天守の復元予想図:

実際に建てるかどうかは不明

甲府城の天守閣復元完成予想図

天守台は標高が約304m、面積は約440㎡。別名は御天守台:

明治36(1903)年頃までは天守が建っていたとか

天守台と本丸

この天守台西面の石垣には元々一つだった石材を分割して使った、いわゆる兄弟石なるものが多く見られるのだとか:

兄弟石でも有名な天守台の石垣

天守台西面の石垣

兄弟石でも有名な天守台の石垣

天守台西面の石垣

 

天守台向かって右側がやや張出しており、ここには附櫓(つけやぐら)のようなものが付属していた可能性がある。その天守台は、現在は展望台になっており、ここから甲府市街はもちろん山梨県百名山や富士山の眺望が素晴らしい:

屋上は展望台になっている

天守台の附櫓部分

(手前の丘陵が気になるが・・・)

天守台の附櫓部分

 

本丸から石段を登って天守台地下にあたる石倉内部へ移動した。ここにも門らしきの礎石が残っていた:

(手前に見える礎石は天守の門跡か?)

天守台の石倉内部

ここで本丸方面を振り返ってみる:

右側がやや張り出しているのがわかる

天守台地下の石倉から眺めた本丸

さらに石倉跡から階段を上がって展望台へ移動した。まずは、その眺望をパノラマで:

甲府城から南西方面の眺望(富士山も見えるはず・・・)

天守台から甲府市街の眺望(パノラマ)

最初に天守台展望台から西方面の眺望。一応、展望説明図があったので、一部の名所を追加してみた。西方面は建物に隠れてはいたが、この日の午前中に攻めた新府城跡のある七里岩があるらしい:

白根三山、甘利山と鳳凰三山、甲斐駒ヶ岳などを眺めることができる

天守台から西方面の眺望

右端の山辺りが、午前中に攻めた新府城跡になる

天守台から西方面の眺望(コメント付き)

 

次はやや南に寄って、天守台展望台から南西方面の眺望。左端にちょっとだけ富士山が見える:

中央の雲の下辺りは甲斐金山の遺跡がある場所

天守台展望台から西方面の眺望

こちらも山梨百名山が勢揃い

天守台展望台から西方面の眺望(コメント付き)

 

さらに東へよって天守台から南東方面の眺望:

こちらも山梨百名山のいくつかがそびえ立っている

天守台から南東方面の眺望

甲斐国国分寺の奥に少しだけ中央高速道が見える

天守台から南東方面の眺望(コメント付き)

 

最後に天守台から北西方面の眺望。前日に攻めてきた躑躅ヶ崎館跡、マンションの陰に隠れて要害山城跡などが見える:

躑躅ヶ崎館のある武田神社、要害山の麓にある積翠寺などが見える

天守台から北西方面の眺望

マンションの陰にはホテル要害も見えるはず

天守台から北西方面の眺望(コメント付き)

 

あと天守台の上には、先ほどの謝恩碑とあわせてか、こんな碑も建っていた:

皇室とのつながりも大切にしている舞鶴城公園

明治天皇来場記念碑

こちらは本丸城塁の石垣と、その奥に見える鉄門。雁木のような階段も見える。その下は天守曲輪になる:

本丸には御殿が建っていたらしいが、削平地にはなっていなかった

本丸城塁の石垣

そして天守台を降りる前に、三度、富士山 ;)

(雲がはけてくれてラッキーだった)

天守台から眺めた富士山

天守台を下りて本丸北側へ移動したところに暗渠(あんきょ)と本丸櫓跡があった:

いわゆる、雨水などが盛土や石垣内部にたまるのを防ぐための排水システム

本丸石垣の暗渠

本丸櫓跡は城内の中心に建てられた櫓で、破却前までは残っていたが公園の敷地の都合で一部だけ復元されていた:

廃城後に一旦破却されたが、公園化のため一部のみ復元されている

本丸櫓跡(一部だけ)

ここ舞鶴城公園はその殆どの登城道がスローブ化されていた。そういうこともあって石垣も一部が削られたり省略されているところがあった:

(改変されているのは公園化でスローブを設置した際に苦肉の策だろうか)

天守台の・・・

(改変されているのは公園化でスローブを設置した際に苦肉の策だろうか)

石垣の一部が改変されていた

 

次は本丸の西側にある銅門跡へ移動した:

この下の天守曲輪と本丸をつなぐ門だった

本丸西側の虎口と銅門跡

この礎石は甲府城築城当時のものらしい

銅門の礎石

 

このまま本丸と天守曲輪から二の丸へ降りていくと内松陰門が見えてくるが、ここでふらっと城の北側を眺めてみると、天守台ではビルの陰に隠れて見えなかった要害山城の麓のホテル要害が見えた=)。甲府城とは直接は関係はないけれど:

天守台からだと右手のビルが邪魔だった

要害山城とその麓にあるホテル要害

その右手が要害山城

小さく見えるホテル要害

 

で、こちらが内松陰門(うちまつかげもん)。この門は二の丸と(山梨県庁の庁舎敷地にあたる)屋形曲輪をつなぐ切妻造りで本瓦葺きの高麗門:

門を挟んで左手が屋形曲輪、右手が二の丸

復元された内松陰門

背面に二つある控柱に屋根がつく高麗門形式

二の丸から見た内松陰門

門も先が二の丸、手前が屋形曲輪

屋形曲輪側から見た内松陰門

手前は舞鶴通り(R31)で、往時は屋形曲輪だった

内松陰門から覗く二の丸の石垣

往時の屋形曲輪は標高約282m、面積は約445㎡で、別名が御屋形曲輪。現在はR31(舞鶴通り)と山梨県庁の敷地になっている。そして、そのR31沿いに内堀方面へ移動していくと公園化でやむなく石垣を破壊した「爪あと」が残っていた:

R31を通すために石垣を破壊して再構成していた

二の丸石垣

幾分、石垣の膨らみが往時の名残として残っていた

二の丸を分断する道路

この角度でも膨らんだ石垣を再構成しているのがわかる

二の丸を分断する道路

 

ところどころに矢穴が残る石垣は現存だとか

二の丸石垣(現存)

そして鍛冶曲輪門の前を通過して舞鶴城公園の出入り口に向かった所にある内堀。奥に見える橋が公園入口につながる遊亀橋:

この石垣と水堀は現存らしい

鍛冶曲輪の石垣と水堀

鍛冶曲輪の石垣の積み方が途中から変わっているらしく、工事を分担した大名家の技術の差が出ているのだとか。また往時の水堀は楽屋曲輪(山梨県庁の敷地)まで続いていたとか:

遊亀橋より西側の眺め

水堀と鍛冶曲輪の石垣

この正面が舞鶴城公園の入口

遊亀橋

遊亀橋より東側の眺め

鍛冶曲輪石垣と水堀

 

そして、これが舞鶴城公園の看板。その背後には、手前に鍛冶曲輪跡、奥に天主曲輪の石垣と鉄門、本丸石垣と天守台が見える:

遊亀橋は後世のもので、往時は橋は無かった

舞鶴城公園の正面入口

舞鶴城公園の出入口に置かれた鶴の銅像。元々は本丸に設置されていた噴水の名残で、当時の銅像は大戦中の供出されてしまった。戦後に市民の協力で再建されたのだとか:

舞鶴公園時代には本丸の噴水として使われていた二代目の鶴

舞鶴城公園の前身である舞鶴公園時代の鶴(二代目)

公園入口を入ると、一帯に広がっているのが鍛冶曲輪。この曲輪の標高は約273m、面積は城内で一番広く13,438㎡。別名は御鍛冶曲輪。往時は、年貢や作事・普請に関する事務を取り扱う建物(会所・勘定所)が建っていた。現在は埋没されて、その上が自由広場として開放されている:

往時は会所(勘定所)が建っていた

鍛冶曲輪

 

ここで一旦、鍛冶曲輪を離れて公園北側の出入口に位置し、鍛冶曲輪の次に広い稲荷曲輪へ移動した。こちらは公園北側の出入り口と、甲府城跡の碑:

左手は稲荷曲輪、スローブを上がると天守台のある本丸

舞鶴城公園北側の出入り口

こちらが甲府城の大手口にあたる (公園正面口とは逆にあたる)

史跡・甲府城跡の碑

 

こちらは稲荷曲輪の井戸と煙硝蔵跡。城内には7個の井戸が見つかっており、煙硝蔵は、いわゆる火薬庫で、それも地下構造で特別な防湿構造を持っていたという珍しいものらしい:

この木箱の中に井戸があったようだが塞がっていた

稲荷曲輪の井戸

この下に地下構造の火薬庫があったとか

煙硝蔵跡

 

こちらが稲荷曲輪。標高は約285m、面積は約11,338㎡と鍛冶曲輪に次いで広い曲輪で、別名は御稲荷曲輪:

本丸の北と東を囲む曲輪

稲荷曲輪

そして稲荷曲輪の東端にあり、甲府城の鬼門(北東)にあたる場所に建てられていたのが稲荷櫓。そのため艮(うしとら)櫓とも呼ばれており、江戸時代には武具蔵として使われていた:

江戸初期の寛文4(1664)年建築当時の姿で復元された

復元された稲荷櫓

二層二階櫓(木造)、入母屋造り、本瓦葺き、白壁の、北と東に石落としを持つ櫓である:

内部は展示室になっていた二層二階の櫓

復元された稲荷櫓

復元された稲荷櫓の内部は展示室になっており、発掘調査で出土した物やジオラマなどが公開されていた:

稲荷櫓2Fに展示されていた

甲府城の立体模型

櫓の中にある石落としから下を覗いたところ:

往時、この下は堀だった

稲荷櫓の石落とし

稲荷櫓の外には歴代城主の家紋の幟があった。左から五三桐(ごさんのきり・豊臣家)、丸に違い鷹の羽(浅野家)、葵(徳川家)、花菱(甲斐武田一門の一条氏・柳沢家):

左から豊臣家、浅野家、徳川家、武田家

甲府城の歴代城主の家紋

こちらは矢穴を開けて石切をしているデモ展示:

大きな石を割るために開けた四角い穴を矢穴と呼ぶ

石切場のデモ展示

そして、こちらは石垣に付けられた線刻画のサンプル。これは築城当時に作業の安全を祈願するオマジナイの類だったとか:

城内の石垣石材には鳥や魚、☆や☓井などの記号が多く描かれていた

線刻画のサンプル

城内の石垣石材には鳥や魚、☆や☓井などの記号が多く描かれていた

線刻画のサンプル

 

この後は稲荷櫓を石垣の下から見上げるために、公園の東側の出入り口に下てみた:

二層二階櫓・木造・入母屋造の本瓦葺き

土塀と稲荷櫓

北側と東側にそれぞれ石落としが設けられていた

稲荷櫓の石落とし

往時の稲荷櫓の下は堀であった:

現在は埋められているが、往時は水堀だった

稲荷櫓の下は内堀だった

現在は埋められているが、往時は水堀だった

稲荷櫓の下は内堀だった

 

現在は道路が通っているが、往時ここは内堀だった

稲荷曲輪の石垣

再びスローブを上がって稲荷曲輪の東端へ進むと、二重の石垣なるものが展示されていた。ある石垣の解体調査中に、その背後からもう一つの石垣が現れた。これにより石垣の積み直しがあったことがわかったという:

石垣の積み直しが行われていたらしい

二重の石垣

一つ目の石垣の背後からもう一つの石垣が出てきた

二重の石垣

 

次に甲府城にで最も東にある数寄屋曲輪へ移動する。ここが数寄屋曲輪の虎口になる:

手前が稲荷曲輪で、虎口の先が数寄屋曲輪

数寄屋曲輪の虎口

数寄屋曲輪の標高約282m、面積は約1,431㎡。別名は御数寄屋曲輪。往時は茶室があったとか:

甲府城の最も東にある曲輪

数寄屋曲輪

数寄屋曲輪を通過するとそのまま鍛冶曲輪へ繋る。こちらが数寄屋曲輪から鍛冶曲輪を見下ろしたところ:

緑の部分の下には会所(勘定所)が埋没保存されている

数寄屋曲輪から眺めた鍛冶曲輪

そして、これが鍛冶曲輪との虎口にあたる石段で、実際に江戸時代の古絵図にも描かれていたとか:

左手に見える石垣の上が数寄屋櫓跡

数寄屋曲輪から鍛冶曲輪へ下る石段

右手に見える石垣の上が数寄屋櫓跡

鍛冶曲輪から数寄屋曲輪へ上る石段

 

数寄屋櫓は城内で最も東に建てられた櫓で、別名は巽櫓(たつみやぐら)。廃藩置県で破却されるまで残っていた:

東南端に建つ櫓なので巽櫓とも云われていた

数寄屋櫓跡(石垣の上)

このまま鍛冶曲輪へ下りていった数寄屋曲輪寄りの場所に石切場(いしきりば)跡が残っている:

ここで石を切って城内へ運んでいた

石切場跡

数寄屋曲輪を経由して、三度、稲荷曲輪へ移動した。稲荷曲輪の本丸・天守台側には庄城稲荷(しょうじょういなり)跡がある。鎌倉時代、一条小山と呼ばれていたこの地を守る稲荷神社が建っていた。現在は公園正面出入り口から東へ移動したところに移設されている:

一条小山の守護として稲荷神社が建っていた

庄城稲荷跡

現在は公園東に庄城稲荷大明神として移設されている

庄城稲荷跡

 

そして稲荷曲輪と鍛冶曲輪をつなぐ稲荷曲輪門へ。こちも破却までは存在してた門を復元したもの:

門を潜ると鍛冶曲輪、手前は稲荷曲輪

稲荷曲輪門

単層門、入母屋造り、瓦葺、東(写真左)側に土塀有り

稲荷曲輪門

 

右手に土塀が続く高麗門形式

稲荷曲輪門

ここが鍛冶曲輪と稲荷曲輪の虎口になる

鍛冶曲輪から見上げた稲荷曲輪門

稲荷曲輪門から下りてすぐ隣には、古絵図にも描かれていない水溜(みずため)跡がある。何のために水を溜めていたか具体的な用途は不明だとか:

発掘調査で初めて確認され、古絵図にも描かれていなかった

水溜跡

以上で舞鶴城公園の散策は終了で、公園を出て北へ移動し陸橋を渡って甲府駅北側にある甲府市歴史公園内に復元された山手御門へ:

(この城攻めで見事に復元された城郭を堪能できた)

舞鶴陸橋の上から舞鶴城の眺め

山手御門は甲府城に三つあった出入り口の一つで北口に相当する。土橋によって堀を渡り、高石垣と土塀に囲まれた内側の高麗門(山手門)と櫓門(山手渡櫓門)から構成される山手御門を通って、南の城内に出入りすることができた。明治の廃藩置県で破却された上に、現在はJRの線路で分断された状態になっている。

まずは高麗門である山手門:

手前が土橋、門を潜ると枡形虎口になっている

復元された山手門(高麗門)を正面から

山手門を潜ると、山手渡櫓門との間で枡形虎口を形成している。その枡形から眺めた山手門:

控柱に屋根を持つ高麗門形式

復元された山手門(高麗門)を枡形から

こちらが枡形から眺めた山手渡櫓門。見事な城漆喰塗の櫓であった:

木造二階建櫓門、入母屋造りの本瓦葺き、外部大壁城漆喰塗

復元された山手渡櫓門

R31側から見た山手渡櫓門。二階の櫓部分は展示室になっている:

棟高は11.499mにも及ぶ堅固な門

復元された山手渡櫓門

山手渡櫓門の大扉:

右側には潜戸も見える

山手渡櫓門の大扉

この後は渡櫓門2Fの展示室(無料)でNPO法人のボランティアの方にいろいろお話を聞きながら、櫓内部と外部を見学した:

梁はマツやヒノキなどが使われている

内部の復元された渡櫓門

梁はマツやヒノキなどが使われている

内部の復元された渡櫓門

 

さらに櫓門の外にでて土塀をみることもできる他に、知る人ぞ知る、富士山眺望が可能なスポットだった:

狭間はもちろん腕木や控柱などが忠実に復元されていた

山手渡櫓門上の土塀

こちらは櫓門から見た山手御門枡形内部:

左手が山手渡櫓門、右奥が山手門

山手御門桝形内部

この櫓から眺める富士山もすばらしかった。ということで、最後に甲府城内の幾つかの場所から眺めることができた富士山を:

甲府城の稲荷櫓の他、手前には鐘楼も見える

山手渡櫓門の櫓から

神々しい秋の風景である

坂下門跡から

2014年11月の秋の風物詩的な眺望

鍛冶曲輪から

 

See Also甲府城攻め (フォト集)

参照   [ + ]

a. 大洲藩祖でもある加藤光泰は、『北藤録』に拠ると文禄の役で軍監であった石田三成と対立したがために毒殺されたというが、この北藤録は三成死後およそ160年後に編纂されたものであり、にわかには信じがたい内容である。おそらく改易に対してぶつけようがない腹いせから三成を貶める内容になったのであろう。