天正9(1581)年2月15日に、武田四郎勝頼の命を受けた真田安房守昌幸と原隼人佑貞胤らを普請(ふしん)奉行として築城が開始された新府城は、山梨県韮崎市を流れる釜無川(かまなしがわ)と天然の要害で断崖絶壁の七里岩の上に建つ平山城であり、近世城郭のような石垣は用いられずに、土塁を中心として複数の曲輪と三日月堀や丸馬出といった甲州流築城術を駆使した造りとなっている。そして勝頼は普請半ばで甲府の躑躅ヶ崎館から居館を移し入城するも、翌10(1582)年3月には織田・徳川連合軍の甲斐侵攻が本格化したため、築城からわずか495日で新府城を放棄し、東方、郡内領にある小山田越前守信茂の居城・岩殿城を目指して落ちて行った。新府城は南北に600m、東西に550m、外堀との標高差は80mであり、その最高所にある本丸は南北120m、東西90mの広さを持つ。本丸とは蔀の構(しとみのかまえ)を隔てて西側に二ノ丸と馬出が配置され、東側には稲荷曲輪が、そして北側には外堀を巡らし、二ヶ所に出構が築かれていた。本丸の南側には帯曲輪と腰曲輪があり、横矢掛かりの土塁と三ノ丸が配置され、その南側には大手口が設けられていた。しかし地形堅固でありながらも未完成の城であるという印象は否めない。同年3月11日、笹子峠で小山田信茂の謀叛に遭い、天目山を目前にして勝頼父子は自刃し、新羅三郎義光以来28代、495年続いた名門甲斐武田家は滅亡、新府城は最後の城となった。
こちらは一昨年は2014年の秋の連休を利用して、初日は古府中の躑躅ヶ崎館跡とその詰城の要害山城跡を、そして最終日の二日目は新府城跡と甲府城跡を攻めてきた。この日はJR甲府駅南口にある宿泊地をチェックアウトして、まずは南口に鎮座する武田信玄公に挨拶し、それから甲府駅へ移動した。そしてJR中央線の松本行き普通列車に乗ること15分強で無人駅の新府駅に到着した。ここで、ホームをすぐ降りることができないくらい周囲が絶景だった。北は甲斐八ヶ岳と茅ヶ岳(かやがたけ)、西は南アルプスの山々、そして南には富士山という秋の韮崎・甲斐の風景は、新府城に加えて一見の価値が大いに有り。意外だけれど、一番良い眺望スポットはJR新府駅のホームかもしれない。新府城攻めの前に少しばかり紹介してみるとすると:
こちらは新府城の背後にそびえる鳳凰三山と呼ばれる南アルプスの連峰(右から薬師岳、観音岳、地蔵岳):
新府駅から新府城のあるR17方面へ坂を上って行って振り返ると見えるのが金ヶ岳・茅ヶ岳(かやがたけ)・曲岳:
今度はぐるりと周りを眺めて、新府城ができるまで信虎・信玄・勝頼の甲斐武田家三代に渡って居館のあった古府中(現在の甲府市)方面の眺め:
そして、そのまま南へ目を向けると富士山が見えてくる。秋から冬にかけて空気が澄んだ、この時期がもっとも見頃か。そういう時期はホント寒いけど:
これは坂を上がりきる直前から甘利山と御所山方面の眺めで、この右手の森の奥に新府城がある:
坂を上った所には新府藤武神社の社頭(しゃとう)がある。ここを通ってR17を越えると新府城本丸への短絡道に至る:
社頭をくぐった先は新府城の東に築かれた外堀である通称・首洗池:
外堀を過ぎたところに外堀と平行してR17(七里岩ライン)が走っており、その先には新府藤武神社の参道が見える:
この参道は新府城の本丸に建つ藤武神社の拝殿まで続いており、ここを上って行くと本丸へ一気に上がれてしまうが、これはもちろん後世に造られたものである。今回の城攻めは、この参道を利用して一気に本丸へ移動し、そこから二ノ丸、東西の三ノ丸、最後に大手口を経由して、再びこのR17へ降りてくる経路にした。
そして、こちらが新府城跡の縄張図(想定復元図)で、丁度この参道は図の右手にある外堀を渡って稲荷曲輪へ至る経路に相当する:
ということで、新府藤武神社の石段(神輿石段登壇)を登って行くと、真っ赤で大きな鳥居が建っていた。その横には、この石段が造られる前までの参道だった乙女坂(稲荷坂)がある:
本丸に建つ拝殿まで続く神輿石段登壇は合計249段もあると云う:
特に新府城とは関係はないのだけれど、とりあえず写真に納めた長い石段は、こんな感じ:
神輿石段登壇を上り切った拝殿の入口は稲荷曲輪に相当するが、ここには冠木門が建ち、両脇には(当然ながら)狛犬が置かれていた:
そして拝殿と神楽殿。正確には拝殿は本丸に、神楽殿は一段下の稲荷曲輪に建っていた。なお共に屋根の棟には武田菱があしらわれていた:
新府藤武神社は、新府城造営中に城内の稲荷曲輪に鎮守を祀ったのが始まりであるが、普請半ばで自落した折に焼失した。その後、甲斐に入国した徳川家康が平岩七之助に命じて再建し、藤武神、稲荷神同殿に鎮座して藤武神社と称したと云う。
そして本丸の下段にあたる稲荷曲輪は現在はこのような状態だった:
本丸は東西90m、南北120mの広さを持ち、西には蔀の構(しとみのかまえ)を隔てて二ノ丸があり、その下に三ノ丸、大手と続く:
本丸には本丸跡の碑の他に、「史跡・新府城跡」の説明板や「新府城・想像復元図」などが建っていた:
また、本丸の北側には石祠(せきし)・武田勝頼公霊社と長篠陣没者慰霊塔が建てられていた:
石祠・武田勝頼公霊社は、武田氏滅亡後に当地方民が国主の御徳を追慕し新府城守護神・藤武神社の北西の地を相して石祠を建立し、勝頼公の心霊を納め之を祭り勝頼神社と称し、毎年慰霊祭を執り行っているらしい。建立時期は1684年頃と云われている:
その近くには長篠没陣之将士の大塚と小塚、長篠陣没者分骨之碑、甲斐国主武田氏四百年追悼碑などが立ち並んでいた:
そして、こちらは信玄公亡き後の武田家を支え、長篠・設楽原の戦で散っていった将士らの霊社。右から馬場美濃守信房、山縣三郎兵衛尉昌景、高坂源五郎昌澄、眞田源太左衛門信綱、眞田兵部丞昌輝、小山田五郎兵衛昌輝、五味眞惣兵衛貞氏:
こちらの霊社は、右から横田十郎兵衛康景、甘利郷左衛門信康、土屋右衛門尉昌次、高坂又八郎助宣、内藤修理亮昌豊、原隼人左昌胤、武田兵庫頭信実:
北側の土塁の下は西堀、中堀、東堀の他に、鉄砲陣地として東西二ヶ所に出構(でがまえ)という「つの」のような出っ張りが設けられていたが、残念ながら今回は見忘れてしまった 。本丸の蔀の構と、この出構は新府城の特徴であると云われている:
ここで本丸のある七里岩台地からの眺め。この七里岩は八ヶ岳火山の泥流によって作られたと云う。ちなみに本丸から見て北東側にそびえる茅ヶ岳らは八ヶ岳に似ていることから、古くから混同されることが多く「にせ八つ」と呼ばれていたらしい:
次は本丸の南側へ移動した。本丸の下段には馬出があり、本丸との間に蔀の構が設けられていたが、現在はこんな感じで遺構は殆ど残っていない:
蔀の構は、元々は本丸と本丸馬出との間に置かれ、本丸内を見透かせないように植込み・蔀土居・蔀塀でできた壁のようなものだった。
さらに南側へ移動すると土塁があり、その下段には腰曲輪が設けられていた:
これが本丸を囲んでいた土塁:
それから本丸虎口にあった馬出へ移動した。しかしながら馬出の中に登城道が敷かれた格好になっているため、形状が今ひとつよく分からなかった:
このまま馬出から本丸を出て二ノ丸へ向かい、案内板に従って曲輪の中に入った:
本丸側から土塁で造られた虎口を抜けて、一段下がった曲輪が二ノ丸である:
二ノ丸の南側(写真の左手)には馬出があり、その境界には曲輪を囲むように土塁が設けられていた。さらに、この二ノ丸は北側(写真右手)に延びており、今回は見忘れてしまったが、そこにはすり鉢状の遺構が残っているらしい:
二ノ丸の奥は、往時は七里岩の断崖絶壁と釜無川があったとされるが、現在は藪化が激しくて今ひとつ分からなかった:
この後は、二ノ丸のもう一つの土塁虎口へ移動し、そこから二ノ丸の馬出へ下った。まずは二ノ丸から見下ろした馬出跡:
そして、こちらはその二ノ丸馬出から土塁虎口を見上げたところ:
このあとは二ノ丸馬出を抜けて三ノ丸方面へ下った:
三ノ丸へ向かう登城道脇もまた見事な土塁が遺っていた:
途中、横矢掛かりが可能なように登城道がカーブになっていた:
そして、横矢掛かりを抜けると登城道は西三ノ丸までしばらく直線になる。ちなみに左手は本丸と三ノ丸の間に置かれた長大な腰曲輪である:
そして、西三ノ丸の前に到着した。三ノ丸は中央に土塁を設けて東西に分割されていた:
こちらが三ノ丸の中で、西三ノ丸はどちらかと言うと、本丸(写真左手)に向かって縦長だった。写真右手奥には東三ノ丸を隔てる土塁がある:
西三ノ丸の奥に見えるのが、手前の西三ノ丸とその奥の東三ノ丸を隔てる土塁:
西を東を隔てる土塁へ接近してみると:
そして、こちらが土塁を越えた側の東三ノ丸:
東三ノ丸と登城道を挟んで下段は、ちょうど大手門下にあたり、丸馬出があった:
そして、このまま登城道を下っていくと、その右に折れたところに大手口がある:
ちなみに、このまま真っ直ぐ進むのは現代の登城道で、往時は帯曲輪に相当する:
ここが南大手門跡で、この土塁虎口の先に枡形があり、その先にはもう一つの虎口(食い違い虎口)があり、そこを出ると大手門の丸馬出が広がる:
往時、この土塁虎口で挟まれた枡形の端には大手望楼台が建てられ、南方甲府盆地富士河谷一帯を監視していたと云う:
この先のもう一つの虎口を出ると大手口であり、丸馬出に至る:
ここで振り返って土塁虎口を見たところ:
さらに、丸馬出の下段には、こちらも甲州流築城術の一つに数えられる三日月堀があったと云う。馬出との高低差は5m以上はあったようで、現在でも水が湧いていた:
そして、こちらは大手口前からのぞき見えた富士山:
この後は再び登城道へ戻って、帯曲輪へ移動した:
最後に、新府城東側の外堀、通称首洗池附近に建てられていた注意書き:
新府城攻め (フォト集)
新府城(2) (訪問記)
新府城周辺散策 (フォト集)
前から見てみたかった甲斐武田家の最後の城。一昨年の11月初めに登城した。城の片側は七里岩という絶壁と釜無川があり、縄張りも複雑で、枡形と馬出しを使って侵入しずらいものになっているのが、ちょっとだけわかる状態だった。とても天気が良かったのに、本丸にあがると突然強風になったのにはびっくりした。ここから見る甲斐八ヶ岳、富士山、南アルプスの眺めも素晴らしかった。ただ残念なことに、北側の外堀や出構を見るのを忘れてしまった・・・
> 北側の外堀や出構を見るのを忘れてしまった…
それから二年後に再訪した時は城の北側から攻めてきた。