城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

月別: 2016年5月

甲府城 − Kōfu Castle

徳川幕府直轄地だった甲府城は、廃城後に山梨県指定史跡として鉄門などが復元されていた

甲斐国の戦国大名であった武田氏が天正10(1582)年に滅亡した後は、織田信長・徳川家康による支配を経て、天下統一を果たした豊臣秀吉が天正18(1590)年に甥の羽柴秀勝と、尾張時代からの直臣である加藤光泰に命じて甲府城の築城を開始させた。そして、文禄2(1593)年に朝鮮へ出兵していた加藤光泰が病没[a]大洲藩祖でもある加藤光泰は、『北藤録』に拠ると文禄の役で軍監であった石田三成と対立したがために毒殺されたというが、この北藤録は三成死後およそ160年後に編纂されたものであり、にわかには信じがたい内容である。おそらく改易に対してぶつけようがない腹いせから三成を貶める内容になったのであろう。すると、浅野長政・幸長父子が入国して完成させた。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦後は、再び徳川家康が甲斐国を支配し、以降は徳川将軍家の子弟が城主となった。そして宝永元(1704)年に城主徳川綱豊(のちの六代将軍家宣)が五代将軍綱吉の養子になると、綱吉の側用人であった柳沢吉保(やなぎさわ・よしやす)が城代となって治めた。この柳沢氏は、甲斐武田家一門である一条氏の末裔であり、本家滅亡後は武田家遺臣の多くがそうだったように、徳川氏の家臣団に与していった一族でもある。それから、享保9(1724)年に大和郡山へ移封されるまでの約20年間は柳沢氏が甲斐国を治め、城下町が再整備されて大いに発展した。その後は幕府直轄地となって明治の時代を迎えて廃城となり、建物は全て取り壊されたものの、明治37(1904)年には山梨県甲府市の舞鶴公園(のちに舞鶴城公園)として市民に開放された。

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a 大洲藩祖でもある加藤光泰は、『北藤録』に拠ると文禄の役で軍監であった石田三成と対立したがために毒殺されたというが、この北藤録は三成死後およそ160年後に編纂されたものであり、にわかには信じがたい内容である。おそらく改易に対してぶつけようがない腹いせから三成を貶める内容になったのであろう。

新府城 − Shinpu Castle

新府城は新羅三郎義光以来28代続いた名門甲斐武田家の最後の城である

天正9(1581)年2月15日に、武田四郎勝頼の命を受けた真田安房守昌幸と原隼人佑貞胤らを普請(ふしん)奉行として築城が開始された新府城は、山梨県韮崎市を流れる釜無川(かまなしがわ)と天然の要害で断崖絶壁の七里岩の上に建つ平山城であり、近世城郭のような石垣は用いられずに、土塁を中心として複数の曲輪と三日月堀や丸馬出といった甲州流築城術を駆使した造りとなっている。そして勝頼は普請半ばで甲府の躑躅ヶ崎館から居館を移し入城するも、翌10(1582)年3月には織田・徳川連合軍の甲斐侵攻が本格化したため、築城からわずか495日で新府城を放棄し、東方、郡内領にある小山田越前守信茂の居城・岩殿城を目指して落ちて行った。新府城は南北に600m、東西に550m、外堀との標高差は80mであり、その最高所にある本丸は南北120m、東西90mの広さを持つ。本丸とは蔀の構(しとみのかまえ)を隔てて西側に二ノ丸と馬出が配置され、東側には稲荷曲輪が、そして北側には外堀を巡らし、二ヶ所に出構が築かれていた。本丸の南側には帯曲輪と腰曲輪があり、横矢掛かりの土塁と三ノ丸が配置され、その南側には大手口が設けられていた。しかし地形堅固でありながらも未完成の城であるという印象は否めない。同年3月11日、笹子峠で小山田信茂の謀叛に遭い、天目山を目前にして勝頼父子は自刃し、新羅三郎義光以来28代、495年続いた名門甲斐武田家は滅亡、新府城は最後の城となった。

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要害山城 − Yogaiyama Castle

甲斐国守護の武田信虎が躑躅ヶ崎館の詰の城として築いた要害山城の麓には積翠寺がある

山梨県甲府市上積翠寺町(かみ・せきすいじ・まち)にある標高770mの要害山は山全体が「要害山城」(または積翠寺要害城)という山城になっている。この城は、永正17(1520)年に甲斐国守護職の武田信虎が躑躅ヶ崎館の詰めの城として築いたもので、居館と政庁を兼ねていた躑躅ヶ崎館に対し、緊急時に立て籠もる要害としての役割を担っていた。翌年の大永元(1521)年には、駿河国・今川氏親の属将であった福島正成(くしま・まさしげ)[a]一説に小田原北条氏の重臣で玉縄北条氏の祖である綱成は正成の嫡男と云われている。また豊臣氏恩顧の福島正則は福島正成の流れ汲む同族とも云われている。が甲斐に侵攻して河内を占領し、迎撃してきた信虎軍を蹴散らすと、さらに富田城を陥として国中まで進撃してきた。この危機に信虎は正室・大井夫人を要害山に避難させ、自身は再び軍を率いて飯田河原で福島軍に決戦を挑み敗走させた。この直後、要害山城に避難していた大井夫人は嫡男の太郎(のちの晴信、法号は信玄)を出産した。勢いにのった武田軍はさらに上條河原の合戦で福島正成を討ち取り、今川軍を敗退させた。要害山城はその後、信虎・信玄・勝頼と三代にわたって使用されたが実戦で使われたのはこの時ぐらいである。信玄死後、天正3(1575)年の長篠設楽原の戦で敗北した勝頼は翌4(1576)年に要害山の修築を城番の駒井高白斎に命じている。天正10(1582)年に武田氏が滅亡した後は織田氏・徳川氏が甲斐を支配し、天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原仕置後は羽柴秀勝が入国して甲府城を完成させると、躑躅ヶ崎館は廃城、慶長5(1600)年の終りには要害山城も破却された。

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a 一説に小田原北条氏の重臣で玉縄北条氏の祖である綱成は正成の嫡男と云われている。また豊臣氏恩顧の福島正則は福島正成の流れ汲む同族とも云われている。

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