城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

鉢形城 − Hachigata Castle

荒川と深沢川に挟まれた河岸段丘の上にある鉢形城の本曲輪

埼玉県大里郡寄居町にある鉢形城は荒川と深沢川によって挟まれた河岸段丘の上に築かれた連郭式平山城で、川に面している南北はそれぞれ断崖絶壁で天然の要害になっている。この地は北関東の交通の要衝(ようしょう)にあたり、上州や信州方面を同時に望むことが可能な拠点であった。築城は、文明8(1476)年に関東管領だった山内上杉氏の家臣長尾景春[a]伊藤潤作の『叛鬼(はんき)』(講談社文庫)の主人公である。と伝えられている。のちに、山内上杉氏の家老で、寄居町花園城周辺の藤田郷を中心とする地域を支配した在地領主・武蔵七党と総称される猪俣党の藤田氏が治め、その十五代当主康邦に入婿した小田原の北条氏康が四男・氏邦が整備拡充し、現在に遺る規模になった。氏邦は鉢形城を上野を含む北関東支配の拠点としたが、そのため甲斐武田や越後上杉の攻撃を度々受けることとなった。天正18(1590)年には豊臣秀吉による小田原仕置がおこり、ここ鉢形城は重要な支城の一つであったが、氏邦は本城防衛のため不在で、城代黒澤上野介ら3千が籠城するも、豊臣方の北国口勢3万5千[b]加賀前田利家、越後上杉景勝の他、真田昌幸・信繁父子、徳川家康らそうそうたる顔ぶれ。に包囲され、徳川軍の本多平八郎忠勝らが城の目の前にある車山から大砲を撃ちこんで被害を甚大にさせると、およそ一ヶ月後に降伏・開城した。現在は国の史跡に認定され、鉢形城公園として整備されている他、外曲輪には鉢形歴史館が設置されている。

これも一昨年は2014年の秋に攻めてきた城。北東部は荒川の急流と断崖絶壁、南は土塁、荒川の支流である深沢川と渓谷に守られた天然の要害は今もなおその趣を残す「崖城」だった。戦国時代の城跡としては比較的良好な状態で遺っていたようで、近年の発掘調査の結果を元に空堀や石積土塁、城門、池などがきれいに復元されていた。階段状に曲輪が造られた見事な縄張りは必見。さらに三の曲輪や伝秩父曲輪に建っていたであろう庭園跡や池に浮かぶ弁天社跡など、こちらも往時の優雅な文化を思い浮かべることができるように整備されてもいた。また、今年は2016年の初めには、同じ寄居町にあり鉢形城の支城でもある花園城を攻めた合間に、藤田康邦夫妻と藤田(北条)氏邦夫妻の墓所を拝観することができた。一方の花園城攻めは登城道が荒れ放題で、かなり薮化しており、道そのものを探すのが困難であったため、途中で城攻めを断念せざるを得なかった。同じ県なのに、きれいに整備された鉢形城とは雲泥の差があった :(

で、こちらが鉢形城跡の縄張図(一部記載に誤りあり):

北に荒川、南に深沢川に挟まれた要害でありながら交通の要衝でもあった

鉢形城跡曲輪配置図

今回は秩父鉄道の寄居駅からR30を20分ほど歩いて荒川を渡り、鉢形城の搦手へ移動して、そこから公園内の曲輪を一つ一つ見て回ってきた。まずは搦手に向かって行く途中の正喜橋から眺めた荒川。こちらは鉢形城側ではないけれど、断崖絶壁はしっかりと残っていた。左の写真の、ちょうど右端あたりが荒川と深沢川との合流地点となる:

埼玉県と東京都を流れ東京湾に注ぐ第一級河川

正喜橋から望む荒川

奥に見えるのは東武東上線の鉄橋

正喜橋から望む荒川

このままR30を進んでいくとJR/秩父鉄道/東武東上線が乗り入れる寄居駅がある

正喜橋から望む荒川と断崖絶壁

この辺りの荒川の河川を埼玉県指定の名勝・玉淀河原(たまよどかわら)と呼ぶそうで、川中に鎮座していた巨石:

このあたりは玉淀河原と呼ぶらしい

玉淀河原に残る巨石

こちらは正喜橋から鉢形城の搦手(笹曲輪)方面の眺めで、城が荒川の河岸段丘の上に築かれているのがよくわかる:

荒川の河岸段丘の上に築かれた鉢形城

正喜橋の上から眺めた鉢形城搦手方面

ここで橋を渡らずに脇道へ入って行くと、県指定の「名勝・玉淀」の碑があるので、さらにここから荒川の河川敷へ降りていく:

ここを左へ入って降りて行くと玉淀河原に至る

名勝・玉淀の碑

この絶壁の上に鉢形城がある

荒川と絶崖(ぜっがい)と鉢形城

玉淀は埼玉県寄居町に所在する県指定名勝

玉淀河原と鉢形城

奥に見えるのが正喜橋(R30)

荒川の対岸から見た鉢形城

実際に人間の大きさと比較するとこんな感じ:

手前の人と比較するとその壮大さがわかる

かなりの要害であることがわかる

この上は笹曲輪・本曲輪あたり

河岸段丘の上に建つ鉢形城

玉淀は秩父山地から関東平野へ流れ出る荒川が創りだした特徴的な地形と、県指定の奇岩・絶景の景勝地である。現代の荒川は水位が変動してしまって、往時の姿から大きく変わってしまっているが、「玉淀」とは水が緩やかに流れる様を玉の色に見立て、「玉のように美しい水の淀み」だということから命名された:

埼玉県指定の奇岩・絶景の景勝地

荒川の対岸から眺めた玉淀と鉢形城

埼玉県指定の奇岩・絶景の景勝地

荒川の対岸から眺めた玉淀と鉢形城

明治の文豪田山花袋も絶賛した絶景

荒川の対岸から眺めた名勝・玉淀

河川敷にも荒川の荒々しさが残っていた

荒川の河川敷

荒川ごしに鉢形城を眺めたあとは来た道を戻り、改めて正喜橋を渡って城の搦手へ移動した。この搦手あたりから、さらにR30を東武東上線鉢形駅方面へ進んでいくと深沢川に架かる搦手橋が見えてくる:

この下には、荒川から分かれた深沢川が鉢形城内に流れ込んでいる

深沢川に架かる搦手橋

そして、こちらが橋の上から見た深沢川(手前の川)と荒川(奥に見える川)が合流する地点:

搦手橋からの眺め

深沢川と荒川の合流地点

逆に、こちらは城内へ流れ込む深沢川の急峻な渓谷側:

搦手橋からの眺め

急峻な深沢川の渓谷

搦手橋を渡った右手で、ちょうど鉢形城の東南端には搦手の馬出跡があった。そこには、天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原北条氏の仕置の際に、徳川軍麾下の本多平八郎らが車山から鉢形城に向けて大砲を打ち込んだと云う言い伝えの再現だろうか、大砲のオブジェが置かれていた:

雰囲気のある櫓や旗指物が並べてあった

搦手の馬出跡

小田原仕置で本多忠勝らが車山から大砲を打ち込んだシーンの再現か!?

搦手の馬出跡

ここから、ひとまずは搦手の笹曲輪まで戻って城攻めを始めることにした。こちらは笹曲輪内に建っていた鉢形城址の碑:

鉢形城搦手の笹曲輪に建っている

「史跡・鉢形城址」の碑

こちらが笹曲輪:

正面に見えるのが唯一遺されていた石垣

鉢形城の搦手にある笹曲輪

笹曲輪と伝御殿曲輪との間にある土塁の上からの眺め

鉢形城の搦手にある笹曲輪

その笹曲輪には鉢形城模型が置かれていた:

縄張や堀、土塁などの具合がよくわかる模型

鉢形城模型 (1/250)

そして、笹曲輪から本曲輪へ向かう場所には鉢形城で唯一の遺構である石垣があった:

この奥が本曲輪(伝御殿曲輪)となる

笹曲輪の石垣跡

鉢形城で唯一の遺構

笹曲輪の石垣跡

笹曲輪を抜けると伝御殿曲輪がある:

この土塁の上が伝御殿曲輪で、さらにその奥が本曲輪

伝御殿曲輪の土塁

園内の「鉢形城跡曲輪配置図」では、本曲輪は伝御殿曲輪と伝御殿下曲輪から構成されているように記載されていたが、実際はそれぞれが別個の曲輪であり、荒川から見て本曲輪、伝御殿曲輪、空堀(現在は道路)、そして伝御殿下曲輪という配置であったとされる。

こちらが、その土塁の上にある伝御殿曲輪:

本曲輪を囲む腰曲輪的な位置づけにみえるが敷地は広い

伝御殿曲輪

この伝御殿曲輪を荒川方面へ進んでいくと本曲輪がある。これはその本曲輪碑:

その背後は土塁で、さらにその奥は荒川の急崖になる

「鉢形城本丸址」の碑

本曲輪は土塁の上にあり、さらにその周囲が土塁によって囲われていた:

左が伝御殿曲輪、右が本曲輪

本丸土塁

こちらの敷地も広かった

土塁の上にある本曲輪

この土塁の先は荒川に面した断崖絶壁

本曲輪を囲む土塁

この土塁の先は荒川に面した断崖絶壁

本曲輪の背後には一段高く築かれた土塁がある

こちらは本曲輪の土塁の上からの眺めで、鉢形城の支城である花園城も見えた:

対岸に広がるのは埼玉県寄居町の町並み

本曲輪から荒川の眺め

左端に見える山が花園城

本曲輪の土塁の上から眺め

そして伝御殿曲輪から二の曲輪・三の曲輪方面へ移動するために伝御殿下曲輪へ下って、見返してみると伝御殿曲輪そのものが大きな土塁の上に築かれた曲輪であったということがわかる:

巨大な土塁の上に築かれた曲輪だった

伝御殿下曲輪から見上げた伝御殿曲輪

こちらが伝御殿下曲輪:

奥に見える土塁の上に伝御殿曲輪がある

伝御殿下曲輪

左の土塁の上が伝御殿曲輪で、空堀によって隔てられていた

伝御殿下曲輪

この道路が二の曲輪(左)と伝御殿曲輪・本曲輪(右)を分断する堀切だった:

二の曲輪と本曲輪を分断する堀切だった

公園の中を通る道路

この後は、鉢形城の最も大きな見所のある二の曲輪と三の曲輪、そして伝秩父曲輪と伝諏訪曲輪を見て回った。

まずは二の曲輪。こちらはかなり広く、土塁で上段と下段に区切られていた:

かなり広い曲輪で、土塁で区切られていた

二の曲輪(下段と土塁)

土塁の上にある上段で、この先は土塁と堀と土塁を越えて三の曲輪に至る

二の曲輪(上段)

こちらは二の曲輪の上段にある長い土塁。この土塁と堀との間には平坦で細長い空間があり、敵に攻められた際に城兵が守備についていた場所と想定されている:

この土塁の左が二の曲輪、右にあるのが三の曲輪

二の曲輪にある土塁

この土塁の左が二の曲輪、右にあるのが三の曲輪

二の曲輪にある土塁

土塁と柵との間が平坦で細長い空間になっている

二の曲輪にある土塁

土塁と柵の間の細長い空間は城兵が守備につく場所と云われている

二の曲輪と三の曲輪の間の空堀

向かって左が三の曲輪、右の土塁の向こうが二の曲輪

二の曲輪と三の曲輪の間の空堀

二の曲輪の土塁と三の曲輪の間には長い空堀と高い土塁が築かれていた:

堀底には畝が復元されていた

二の曲輪と三の曲輪を区画する空堀と土塁(復元)

空堀を境に、左が二の曲輪、土塁の上が三の曲輪

二の曲輪と三の曲輪を区画する空堀

三の曲輪にある馬出から眺めたところ

二の曲輪と三の曲輪を区画する空堀

この堀と土塁は発掘調査の結果、二の曲輪の敷地内にある城山稲荷神社の参道となっている土塁の他に、二の曲輪と三の曲輪を区画する堀に沿って土塁の基礎部分が存在していたことが明らかになった。そして、この土塁は空堀を掘った時に出た土を盛土して造っていたと思われる。堀の最大上幅は約24m、深さ約12mという大規模なもので、堀底には畝(うね)が見つかっている。畝は、敵兵が堀底を動きまわれないようにするものだとか、あるいは堀底の中の水位を一定に保つものだとか、いろいろな説がある。また、畝を持つ堀を障子堀と言い、山中城と同様に後北条流築城術の一つとされる。

そして、こちらが三の曲輪。この先の土塁の上に建っている門が四脚門(復元)で、その門と土塁の奥にあるのが伝秩父曲輪。そこには四阿(あずまや)や庭園跡が復元されていた。四脚門の前には虎口が復元されていた:

奥の土塁の上に見えるのは四脚門と土塀(復元)

三の曲輪

四脚門横の石積土塁の上からの眺め

三の曲輪と虎口

これが三の曲輪の虎口(小口)。発掘前は畑だったそうで、土中から石積土塁が出てきたとか。この石積土塁の最下段の西側には石列が一列確認され、おそらく石段を隠す蔀(しとみ)の一部とされている。そして、この石積土塁が北向きに折れる部分には、最上位面が広くなることから櫓が建てられていた可能性があるそうだ。この櫓と蔀(しとみ)に囲まれた場所は城兵が一時待機する武者溜まりであった。そして、この土塁の間を通って馬出(現在の諏訪神社)に向かう部分が虎口である:

この先は三の曲輪の伝・秩父曲輪から諏訪神社(馬出)へ至る

三の曲輪虎口(復元)

この土中から石積土塁や蔀(しとみ)、門跡が発掘された

三の曲輪虎口

右側の土塁は西石積土塁(復元)で、その目の前にあるが蔀(しとみ)

三の曲輪虎口と石積土塁

この石積土塁の前辺りに門があったと云う

三の曲輪の虎口と石積土塁

虎口には門が建ってい可能性が高いが、柱穴は確認できなかったため、礎石建ちの門であったと推定されている。虎口は防御の要であり、特に後北条流築城術では虎口の前に更に角馬出(かくうまだし)を設けていることが特徴である。

そして、これが三の曲輪の上段の伝秩父曲輪へ至る土塁の上に復元された四脚門。石段は六段確認された:

三の曲輪から伝秩父曲輪へ至る門

復元された四脚門と石段(表)

伝秩父曲輪から三の曲輪を覗いたところ

復元された四脚門(表)

四脚門から三の曲輪の土塁に沿って造られていた石組排水溝も復元されていた:

四脚門から土塁を沿って石組井戸まで続いていた

石組排水溝跡

四脚門から土塁を沿って、奥に見える石組井戸まで続いていた

石組排水溝

四脚門をくぐった伝秩父曲輪の内部には、こちらも復元された石積土塁があった。この土塁は、全長が約100m、高さは約4.2mで、上幅である馬踏(まふみ)は約6m、下幅である敷(しき)は約12mといった規模で、発掘当時は城内でも最も状態が良好だったとか:

土塁の表面に河原石を階段状に積み上げているのが特徴

伝秩父曲輪を囲む石積土塁

左に見える階段状のものが雁木(がんぎ)

雁木と石積土塁

発掘調査の結果、伝秩父曲輪を囲む土塁の内側には河原石を3〜4段の階段状に積み上げていたことが確認され、門に上がるための雁木も造られていた:

土塁の内側には河原石を3〜4段の階段状に積み上げていた

河原石を積み上げた石積土塁

土塁の内側には河原石を3〜4段の階段状に積み上げていた

河原石を積み上げた石積土塁

通常の石垣のように裏込石(うらごめいし)は無く、一段の高さも1m程度で、一段造るたびに控えを置き、それを積み上げて土塁全体を高くしていたと思われる。近世の城の石垣とはその規模や技法等が見劣りするものの、関東地方の石積技法や技術者の存在を示す重要な発見であった:

約1m積んでは控えをつくり、さらに積み上げて土塁全体を高くしていた

石積土塁

約1m積んでは控えをつくり、さらに積み上げて土塁全体を高くしていた

石積土塁と庭園跡

三の曲輪からみて土塁で一段高くなっているこの場所(城内で一番高い場所)は、伝承によると藤田(北条)氏邦の重臣・秩父孫次郎が守備した秩父曲輪と云われている。この曲輪も内部は大きく二つに区画され、その上段からは庭園が発見された:

この曲輪は石積土塁で囲まれていた

伝秩父曲輪の庭園跡(復元)

池を囲むように建物が配置されていた

伝秩父曲輪と庭園跡

二棟の掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)跡のうち、一つは四阿として立体復元し、もう一方は標柱を立てて平面復元していた:

こちらの建物跡には四阿が建っていた

伝秩父曲輪の建物跡

こちらの建物跡は丸太を使って平面復元されていた

伝秩父曲輪の建物跡

池も復元されていた

伝秩父曲輪の庭園跡

この後、三の曲輪にある馬出や石組井戸などを見て回った。まずは石組井戸跡で、井戸自体は土中に埋められていて外観は復元されていなかった。これは三の曲輪の土塁に沿って造られた石組排水溝から延びた先にある:

木で囲われていて場所だけ復元されていた

石組井戸跡

そして三の曲輪の東端、二の曲輪の城山稲荷神社の上にあたりに角馬出(かくうまだし)跡が復元されていた。馬出は虎口を守ると共に、城内の動きを悟られないようにするために造られた施設である。ここの馬出は西・南・東の三方を薬研堀(やげんぼり)で堀り切られ、北側は荒川の崖になっており、内部は五段の石積土塁になっていた:

西・南・東の三方を薬研堀で堀り切られ復元された木橋で渡る

三の曲輪の角馬出

西・南・東の三方を薬研堀で堀り切られ復元された木橋で渡る

三の曲輪の角馬出

馬出の北・西・南側に築かれた五段の石積み

角馬出にある石積土塁

この後は、三の曲輪の奥にある伝諏訪曲輪、伝逸見(へんみ)曲輪、そして外曲輪へ移動した。

三の曲輪と空堀を挟んで西側には伝諏訪曲輪があり、往時は角馬出であった。現在は諏訪神社が建てられていた(当時は立ち入り禁止だった):

右ある三の曲輪とは空堀で区切られていた

伝諏訪曲輪

三の曲輪の南には大手と伝逸見曲輪があり、その大手と伝逸見曲輪との間には巨大な空堀があった:

空堀の奥に見えるのは土橋

大手と伝逸見曲輪を隔てる空堀

こちらが大手と御手洗池:

左側には御手洗池、右側には巨大な空堀がある

大手

(もともとは「大手洗池」だったのだろうか?)

御手洗池

伝逸見曲輪は深沢川から水を引いて造った水堀(池)を利用して、かなり複雑な地形をした曲輪であった。池の中には氏邦の兄氏照の居城だった滝山城と同様に弁天社跡があった:

現在は水は無いが、往時は池の中に浮かぶ小島だった

弁天社跡

複雑な地形の上に、深沢川に面する側には角馬出が造られていた:

往時は深沢川の水流を利用した池があった

複雑な地形を持つ伝逸見曲輪

往時は深沢川の水流を利用した池があった

複雑な地形を持つ伝逸見曲輪

この先は深沢川の崖になる

角馬出

この後は外曲輪へ。園内を走る道路を挟んで、二の曲輪の東端(深沢川方面)の土塁には寄居町指定天然記念物のエドヒガン(桜の木)が立っていた。ソメイヨシノよりやや早めの彼岸の頃が満開時期であり、残念ながら、この時期は満開の頃を想像するしかなかった:

2009年現在で樹齢は約150年だとかで、ソメイヨシノよりも早めの彼岸ころに満開になる

町指定天然記念物のエドヒガン

この土塁の先を降りて行くと深沢川に至る。現在でも西側には断崖絶壁が遺っているそうで、いつの頃からか淵を釜と呼んで「四十八釜」と総称された町指定の名勝になっている:

この角度からも往時の要害度がわかる

深沢川

鉢形城の天然の要害である深沢川

深沢川

鉢形城の内堀だった

深沢川

深沢川を渡ると外曲輪に至り、土塁が復元されていた:

下級武士の住まいがあったとされる曲輪

外曲輪と土塁

周囲は土塁で囲まれ、その外には城下町が形成されていたと云われる

外曲輪と土塁

そして、この曲輪には鉢形城歴史館が建てられていた。ココでは常設展示として精巧に造られた鉢形城のジオラマや復元された櫓門などを見ることができる。入場料は200円(当時)。この時は、他に歴史館開館10周年記念特別展として「関東三国志〜越相同盟と北条氏邦〜」が開催されていた:

外曲輪に建つ鉢形城歴史館

模擬冠木門の奥に歴史館がある

最後に、外曲輪の土塁の上を搦手方面へ移動した:

この先には、往時は城下町が形成されていた

外曲輪の土塁(復元)

この先が搦手で、左側が町指定名勝の四十八釜

外曲輪

外曲輪を抜けて搦手へ移動する途中に見かけたこの場所では「北條流流鏑馬」(Youtube)が開催されるらしい:

この砂場を馬で駆け抜けて流鏑馬をするようだ

寄居町・北條流流鏑馬が開催される場所

こちらは伝逸見曲輪で見かけた注意書き:

この時期はおそらく遭遇することは無いと思うけど・・・・

伝逸見曲輪に建っていた注意書き


藤田康邦夫妻と藤田(北条)氏邦夫妻の墓所

埼玉県大里郡寄居町にある正龍寺には鉢形城の城主であった藤田康邦と、彼の婿養子で小田原北条氏康の四男氏邦の墓所がある。その近く(徒歩で10分位)の善導寺は藤田家の菩提寺だけれど墓所は無いので注意のこと。正龍寺は寄居駅北口を出てR140を渡った先にある:

藤田康邦夫妻と北条氏邦夫妻の墓所がある

曹洞宗・正龍寺の山門

なぜか、この山門は高麗門形式だった。近くにある花園城や武家屋敷からの移築だろうか:

なぜか控柱に屋根を持つ高麗門形式だった

正龍寺の山門

そして本堂と、その棟には藤田氏(上り藤)と北条氏(三つ鱗)の家紋があしらわれていた:

この左手を上って行くと墓所がある

正龍寺の本堂

(山内上杉家ではなかった)

本堂の屋根にあしらわれた藤田家と北条家の家紋

本堂の向かって左の墓地の最上段に藤田康邦夫妻と氏邦夫妻の墓所がある:

当初は上杉方であったが川越合戦後は北条方に降った

藤田康邦公(左)と同夫人西福御前(右)の墓所

藤田康邦公は、正龍寺の西の山上に築いた花園城及び周辺の藤田郷を中心とする地域を支配した在地領主の藤田氏十五代当主である。藤田氏は武蔵七党と総称される中小規模の武士団の一つである猪俣党の系譜を引いており、室町時代後半には関東管領を世襲した山内上杉家の重臣だった家系である。この武蔵七党は、関東の平氏の一門とともに坂東武者と称され、弓馬に通じて武蔵・相模の二州の兵は天下の兵に匹敵すると賞賛された武士団であった。そのため康邦も元々は上杉方であったものの、小田原北条氏の隆盛に圧迫されて、河越夜戦で大敗した後は滝山城主の大石定久と共に北条氏康に降り、氏康の子・氏邦を娘の大福御前の婿に迎えて家督を譲った。康邦の没年は天文24(1555)年である。その後、康邦の二人の息子のうち兄・重連は沼田城主となるものの氏邦に毒殺されてしまう。その真相を知った弟・信吉は疑心暗鬼になり、当時四郎勝頼の命で上野攻略中であった真田昌幸の調略に乗って沼田城を渡してしまう。そして武田家滅亡・信長横死の後、藤田信吉は上杉景勝に使え、天正18(1590)年の秀吉による小田原仕置では越後上杉家の先鋒として功を上げた。戦後は、妹で氏邦の妻である大福御前の嘆願を聞き入れ、氏邦夫妻の助命運動を行い、一命を取り留めた氏邦は加賀前田氏に預けられた。

小田原仕置の後、加賀前田家預かりとなり能登国で没した

北条氏邦公(左)と同夫人大福御前(右)の墓所

北条氏邦公は、藤田氏の名跡を継いで天神山城に入るが、永禄年間に鉢形城を改修して居城とし、小田原北条氏の北関東経営の拠点とした。天正18(1590)年に豊臣秀吉に降伏した後は、加賀の前田利家に預けられて能登七尾で晩年を過ごした。没年は慶長2(1597)年と伝えられている。夫人の大福御前は文禄2(1593)年、ここ正龍寺で没した。

墓所から眺める鉢形城方面の眺望:

左端にかすかに見えるのが鉢形城で、その奥は秩父山渓

墓所から鉢形城方面の眺望

こちらは正龍寺の近く、花園城方面に移動したところにある藤田氏の菩提寺である善導寺:

ここには藤田康邦公の墓所は無いので注意

藤田善導寺の山門

こちらはオマケで、鉢形城の支城であった花園城。善導寺から徒歩5分位のところに神社があるので、そこの裏から上って行くことになるが、山道が見つからないほど藪化がひどく、途中大木が折れて倒れていたり、スネ辺りまで埋まりそうな落ち葉と腐葉土があって、とてもではないけど山頂まで行くことが叶わず、帰りも遭難寸前で降りてくる羽目に:

それほど急峻な地形ではないが…

花園城の遠景

これは未だ綺麗な方で、途中竪堀を越えた途端に道がなくなる

神社の裏手から延びる山道

See Also鉢形城攻め (フォト集)
See Also北條氏邦と藤田康邦の墓所 (フォト集)

参照

参照
a 伊藤潤作の『叛鬼(はんき)』(講談社文庫)の主人公である。
b 加賀前田利家、越後上杉景勝の他、真田昌幸・信繁父子、徳川家康らそうそうたる顔ぶれ。

1 個のコメント

  1. ミケフォ

    この時、歴史館で特別展として開催されていた「関東三国志-越相同盟と北条氏邦」では上杉家と武田家の貴重な絵画や鎧などが拝めた。個人的には新羅三郎義光から受け継いだ武田家伝来の御旗・ *楯無* で有名なる鎧の写し(レプリカ)が展示されていたのは特によかった。
    しかしながら、花園城は(前評判どおり)ひどかった。そもそも登山口さえも見つからない。

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