躑躅ヶ崎館は「武田氏館」とも呼ばれ、甲斐国守護であった武田信虎が永正16(1519)年に石和館(現在の山梨県甲府市川田町)からこの地に「府中」と呼ばれる居館(きょかん)を移したことから始まり、信虎の孫である四郎勝頼が新府(現在の山梨県韮崎市)へ移るまでの63年間、信虎・信玄・勝頼の三代に渡って武田家当主の館として使われた。在りし日の信玄公は、ある時はここから信濃の川中島へ、またある時は上野の箕輪城へ向かって出立したが、元亀3(1573)年には京へ上洛せんとこの門から出陣するも、その翌年には信州駒場で逝去し、自ら再びこの門をくぐることはなかった。この館は、一辺が約200mの正方形の主郭を中心として、その周りに配置したいくつかの副郭から構成された連郭式平城で、その周囲には重臣らの屋敷が立ち並び、その南方一帯には碁盤の目状に整備された城下町が開けていた。館の前方(南)には甲府盆地と富士山が、背後(北)には石水寺(現積翠寺)と詰城を持つ要害山が、そして東西を相川と藤川によって囲まれた立地にあった。天正10(1582)年3月に武田氏が滅亡した後は、織田家臣の河尻秀隆が入府し政務を取るも、同年6月の信長横死の混乱の中、武田の旧臣らに率いられた一揆勢に討たれる。その後は徳川家康の支配下に入るが、天正18(1590)年に甲府城が築かれると廃城となった。現在は大正期に造営された武田神社の境内の一部として、縄張を含め堀や土塁などが往時のままで遺されている。昭和13(1938)年に国の史蹟に指定された。
こちらは一昨年は2014年の秋の連休を利用して、初日は古府中の躑躅ヶ崎館とその詰城の要害山城を攻めてきた。そして、その合間に機山公こと武田信玄公や正室・三条夫人の墓所、河尻秀隆公の慰霊碑、武田家重臣らの屋敷跡、さらには機山公の生誕地である積翠寺を見て回ってきた。
まずは躑躅ヶ崎館の主郭に建てられている武田神社全図(大きい図)。この図を見ると、武田神社の入口が躑躅ヶ崎館の大手口と思われそうだが、往時の大手口は今の武田神社の東側にあった:
武田神社は、大正4(1915)年に大正天皇の御即位に際し信玄公に従三位(じゅうさんみ)が追贈されたのを契機に、公の遺徳を慕う県民に武田神社ご創建の気運が沸きあがり、官民一致協力して社殿が造営された。
そして、こちらが躑躅ヶ崎館の縄張図の一部。この図には主郭(含、中曲輪・東曲輪)・西曲輪、梅翁(ばいおう)曲輪しか記載されていないが、他にも大手、味噌曲輪、無名曲輪、稲荷曲輪、そして御隠居曲輪があり、往時はこれら全てが堀と土塁で囲まれていた:
戦国最強と謳われた武田信玄の居館・躑躅ヶ崎館は、今は武田神社となっていた。これはR31越しに見た武田神社の入口。この日の武田神社は七五三で大賑わいだった:
R31側から神橋を渡って拝殿へ向かう参道。なお神橋は後世のものであり、そもそも往時はここに土橋は存在していなかった:
そして国史蹟に指定された武田氏館跡の碑(くどいが、こちらは躑躅ヶ崎館の大手口ではない):
まず主郭南側を堀沿いに西へ移動した。これは西曲輪南側の堀。往時は水堀ではなく空堀だったらしい:
さらに西へ進んで西曲輪の南西隅へ移動した。こちらは南西隅の土塁:
この後は再び武田神社の正面へ移動して神橋を渡り、主郭へ移動した。主郭は永正16(1519)年に造営され、躑躅ヶ崎館の中心部であり、現在は武田神社の社殿など建てられていた。また、徳川家康が接収した際に館の領域が拡張され、さらに天守も造られたということだが、天守台などがある御裏方は立ち入り禁止のため確認できなかった。
こちらは甲陽武能殿(こうようぶのうでん)。能楽を始め神楽や演武といった芸能が演じられているとか:
こちらは武田神社の拝殿:
これは、躑躅ヶ崎館の中心部に掘られた井戸で「おそらく」信玄公も使用されていたことから「信玄公御使用井戸」と名付けられていた:
こちらは、一説には信玄公の御息女誕生の折に産湯として使用したことから姫の井戸だとか、あるいは四郎勝頼公が京よりの客をもてなす茶会の折に使用した茶釜が見つかったことから茶之湯の井戸とも云われている:
残念ながら主郭には往時の遺構が殆ど残っていないが、武田信玄公の木像や風林火山の軍旗や信玄公の軍扇、重要文化財の太刀・吉岡一文字、江戸中期に描かれた武田二十四将図などが展示されている宝物殿(入場料は当時300円)は予想外に勉強になった。オススメ 。
この後は西曲輪へ移動し、北へ抜けて大手側へ周ることにした。これらは主郭と西曲輪とを結ぶ虎口の土塁と石垣:
そして、これが土橋から見た主郭と西曲輪の間にある堀:
ここで再び西曲輪の南側にある虎口へ移動した。こちらが土橋(現みその橋)から眺めた西曲輪南側虎口。なお、この土橋は西曲輪と堀と道路を挟んで後方にある梅扇曲輪を結んでいる:
こちらが虎口の石垣:
そして西曲輪の中へ。西曲輪は土塁で囲まれている他に、内部も上段と下段で高低差があったようだ。南側虎口から北へ移動するとまず下段に入る:
西曲輪(下段)から主郭との間にある土橋方面を見たところ:
西曲輪下段から上段へ向かう石段と、上段の周囲も高い土塁で囲まれていた:
西曲輪上段から主郭側(東側)を見ると深い空堀があった:
主郭とは反対側(西側)を見ると、こちらは高い土塁で囲まれていた:
この西曲輪上段は、武田信玄の嫡男・太郎義信と駿河の今川義元の娘との婚姻に合せて天文20(1551)年に新造された居館である。のちに義信は謀叛の罪に問われ、東光寺で自害したため、西曲輪のその後の利用は不明だとか。
で、実際どれくらい高い土塁なのか近寄ってみた:
西曲輪上段をさらに北上すると、西曲輪北側枡形虎口に至る。こちらは西曲輪上段よりさらに高い場所にあった:
西曲輪北側枡形虎口の北と南にはそれぞれ門が建っていた。南門は北門に比べて土塁先端部の石垣や間口の規模が大きく、門の構造自体も違っていたと思われる。門の石垣は野面積みで、背面には栗石と呼ばれる磔が使用されているが、現在見られる石垣は武田氏滅亡後に設けられたものらしい:
土塁の上から見た南門跡の石垣。これらの石垣が対になる箇所から発掘調査で門の礎石が六枚見つかったが、石垣の石よりも古い時代のものだそうで、武田氏の時代に存在した門の可能性が高いとか:
発掘した礎石から推測される門の規模は、幅が約3.3m、奥行きが約3.8mであり、土塁の高さと西側の石段の存在を考慮すると、櫓構造の門であったと考えられているらしい。
こちらは、南門石垣の上に鎮座していた機山公:
南門跡を過ぎると枡形虎口が出現する。土塁で囲まれ、前後を門で仕切られた空間が一升枡の形をしているのがわかる。さらに、前後二ヶ所の門も意図的に位置をずらして敵の侵入の勢いを削ぐ構造になっている(食い違い虎口):
枡形虎口には二ヶ所に門が設けられており、石垣のある通路部分の発掘調査では礎石が確認された:
ここで左右から枡形虎口を形成していた土塁の上に登ってみると、西曲輪を囲む土塁につながっていた:
そして、北側枡形虎口を抜けると土橋があり、その先は稲荷曲輪、そして味噌曲輪(北曲輪とも)に繋がっていた:
その土橋の上から見た東西の空堀:
そして西曲輪(と稲荷曲輪)の北にある味噌曲輪。この曲輪は武田氏滅亡後の豊臣時代に造成されたもので、ここにも馬出があったらしいが、現在は土塁とわずかな石垣が残るのみだった:
味噌曲輪から、今度は東へ移動すると主郭側に張り付くように稲荷曲輪が見える:
こちらは、稲荷曲輪の石垣と祠(ほこら):
稲荷曲輪を横目に東へ向かうと無名曲輪に入る。この曲輪も武田氏滅亡後に造営されたもの:
さらに東へ進むと御隠居曲輪があり、御隠居曲輪南スポット公園なる憩いの場に到達する:
ここから主郭東側の堀沿いに大手方面へ南下する:
こちらが躑躅ヶ崎館の大手虎口で、現在は武田神社東側の駐車場に至る:
これは虎口から見た大手門南側の堀:
大手門の正面(東側)には虎口を守るために築かれた石塁(せきるい)が復元整備されていた:
この総石垣の石塁もまた、武田氏滅亡後に甲斐を支配した豊臣秀吉の家臣・羽柴秀勝または加藤光泰らによって築かれたものらしい。石塁の上部には何らかの建造物が存在していたと考えられており、石垣は野面積み、裏側には石垣の安定と排水を意図した無数の栗石が詰め込まれていた:
また、この石塁の直下からは新たに三日月堀が発見された。三日月堀は、丸馬出と呼ばれる館の入口を守る施設の一つで、内側に土塁を伴っている場合が多く、甲州流築城術として有名である。おそらく武田氏滅亡後、徳川氏、豊臣氏の領主交代によって人為的に破却されて埋め戻されたと思われる。
そして、こちらは厩跡。大手石塁のすぐ脇から特殊な柱配置の掘立柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)が発見された。古絵図にも「御厩(おうまや)」の存在を示す表記がみられたことから厩跡として平面復元されている。建物中央に位置する三基の長方形の柱穴からは柱を据えるための礎板が出土し、柱位置も戦国時代としては特殊な間隔を持つという:
こちらは復元された大手門前土塁と惣堀(そうぼり)。躑躅ヶ崎館の東側一帯を囲い込むように延びる堀と土塁を総称して惣堀・土塁と呼んでいる:
躑躅ヶ崎館の正面玄関にあたる大手東側には惣堀と土塁で囲まれた曲輪が形成されていた。惣堀には、古道である鍛冶小路に面して南北二ヶ所に土橋が架けられていた:
そして躑躅ヶ崎館の南側には、こちらも武田氏滅亡後に造営された梅翁曲輪があった:
こちらは武田神社正面の水堀近くに置かれていた注意書き:
この後は館の周囲に配されていた武田家の重臣らの屋敷跡などを巡りつつ、機山公こと武田信玄公や正室・三条夫人の墓所、その近くの住宅地の片隅にひっそりと遺された河尻秀隆公の慰霊碑などを見てきた。
機山公と正室・三条夫人の墓所
武田神社の正面入口から歩くこと15分、岩窪町の閑静な住宅街の中に武田信玄公の火葬塚(御墓所)があった:
天正元(1573)年4月12日、信州伊那駒場で五十三歳を一期として波乱の生涯を閉じた英雄信玄公は、その臨終に際し「三年間の秘喪」を遺した。嫡子四郎勝頼公は、これに従い、信玄公の遺骸を密かにして、三年後に武田二十四将の一人、土屋右衛門昌次の邸内で荼毘に附し、天正4(1576)年4月16日、塩山の恵林寺に於いて葬礼を行い埋葬した。この岩窪の墓所を後に魔緑塚と呼んで里人は恐れて近づかなかったという:
それから二百年後の江戸時代安永8(1779)年に甲府代官が発掘して石棺を見つけ、その銘に「法性院機山信玄大居士・天正元年癸四月十二日薨」とあったので、元に戻して埋めて幕府に届け、信玄公の墓と定められた:
石棺からは灰と骨が発見された伝承もあり、ここで火葬されて荼毘に附された可能性が高いらしい。
こちらJR甲府駅南口に鎮座する信玄公の像は高さが6.2mもあり、機山公の命日の4月12日に完成させたそうで:
岩窪町の火葬塚から5分くらい歩くと、機山公の正室である三條夫人の廟所がある圓光院に至る:
三條夫人のお人柄は「西方一美人・円光如日・和気似春」(恵林寺の快川国師の語)だったようだ:
河尻秀隆公の慰霊碑
ところで、機山公の火葬塚(御墓所)へ向かう途中で、こんな案内板を見た:
河尻塚は、天正10(1582)年の武田氏滅亡後に甲斐22万石と信濃諏訪郡を拝領した織田家黒母衣衆筆頭の河尻肥前守秀隆公の首塚とも、彼の屋敷跡とも伝えられた慰霊碑が建つ場所である。信長の嫡男・信忠の副将であり、かなりの武功を立てたが、同年の信長横死後に一時は甲府に留まるも武田の旧臣が率いた国人一揆に抗しきれず、甲斐国を脱出する際にここ岩窪で討ち取られてしまった:
武田氏滅亡後に甲斐に入国した織田軍は隠れている武田の旧臣らを一人残らず討ち取ったり、快川和尚ともども恵林寺を焼き討ちした。そんな恨みを買ってか、埋葬された時は逆さまに吊るされて埋められたとか:
武田家臣団の屋敷跡
最後に、躑躅ヶ崎館の周りにあった武田家の諸将の屋敷跡に建っていた案内板など。これ以外もまだまだ沢山あったようだ:
躑躅ヶ崎館攻め (フォト集)
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