「六連銭《ムツレンセン》」は清和天皇の子孫を称する信州の名族・滋野《シゲノ》一族の海野氏と、その嫡流である眞田氏が使用していた家紋であり、三途の川の渡し賃として納棺の際に六銭入れる地蔵信仰(六道銭[a]「六道」とは仏教でいう地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上のことで、六道銭には死後にこれらの道に入って迷わないようにという念が込められている。)の影響を受け継いだものである。また、それが転じて「戦場で死ぬ覚悟ができている」という心構えを表すこともある。本来、この家紋は戦時に使用する旗紋として使われていたが、江戸時代に出版された講談などで眞田の名前と共に知られるようになった。ちなみに、眞田家はこの他に「結び雁金《ムスビカリガネ》」という羽を結んで円を描く結びにして横向きの雁《ガン・カリ》の顔を載せた紋と、「州浜《スハマ》」という三角州などの水辺にできる入り組んだ浜辺の渚を表す紋を使用していた。六連銭が主流になると、後者の二つの家紋は替紋として使用されるようになったと云う。その信州眞田家の中興の祖と云われる眞田幸綱[b]一般的には「幸隆」の名で知られ、江戸幕府が編纂した家系図にも幸隆と記されているが、壮年期まで幸隆と記された史料は存在しておらず、「幸綱」は出家を契機に幸隆に改名したという説が有力である。隠居後は一徳斎とも。は、軍神・上杉謙信から「智謀は七日の後れあり」と云わしめた[c]自分(謙信)は智謀の面では幸綱に後れを取っていると認めたという意味。人物であり、その三男・昌幸(武藤喜兵衛)は武田信玄から軍略用法の妙を学び「我が両眼の如し」と云わしめ、武田家中からは「小信玄」とも云われた。さらに、幸綱の孫にあたる眞田信繁もまた、大坂の陣にて関東勢を相手に父・昌幸譲りの鬼謀を存分に発揮して散っていった。
一昨年は平成26(2014)年秋に、長野県にある城攻めに合わせて眞田家の菩提寺も拝観してきた。さらに上田と長野の両市ともに、これでもかと言わんばかり至るところで六連銭にお目にかかることができた。
で、まずこちらが冒頭で紹介した眞田家の家紋。お馴染みの六連銭の他、結び雁金と州浜:
今回の城攻めでは初日に上田市の砥石・米山城と上田城を攻めてきたが、その合間に眞田の郷まで足を伸ばして、ゆきむら夢工房という観光案内所兼農産物直売所の施設で電動アシスト型の自転車をレンタル(無料)して、眞田幸綱公夫妻と眞田昌幸公の菩提寺である真田山長谷寺まで行ってきた。
こちらはその途中に目撃した六連銭:
曹洞宗・真田山《シンデンサン》の長谷寺《チョウコクジ》は、天文16(1547)年に眞田幸綱が、武田信虎に追われて上州箕輪に逃れていた頃の「つて」で現在の群馬県安中市の長源寺より伝為晃運和尚を招き、「真田山・種月院《シュゲツイン》・長谷寺」として創立した。そして天正16(1588)年には眞田昌幸の代で、父幸綱の菩提のために諸堂を建てたものの、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦で兵火にかかり、また宝暦7(1757)年の火災や寛保2(1742)年の大洪水、そして明治23(1890)年の再三の火災で全山が焼失して貴重な史料全てが灰燼と化してしまったとか。現在の本堂などは昭和53(1978)年以降に再建されたもの。
こちらの駐車場に自転車を置かせてもらい、墓地を横目に石段を登って山門をくぐり、境内の右手にある庫裡の脇からさらに奥へ進んで、本堂の裏手へ移動すると墓所があった(上田市指定文化財):
眞田幸綱は永生10(1513)年の生まれと伝えられ、天正2(1574)年に吾妻の地に没するまでに、信州小県《チイサガタ》・真田の郷を本拠として、眞田氏隆盛の礎を築いた。天正10(1542)年の海野平合戦で、古くからの敵である村上義清と、武田信虎・諏訪頼重らの連合軍に敗れて上州へ逃れると、箕輪城主・長野業政を仲介として関東管領・上杉憲政を頼った。しかし幸綱は上杉憲政の将器の小ささを知り、関東管領上杉家の将来は危ういと悟ると、早々に見限って、当時クーデターをおこして甲斐武田家の当主の座についていた武田晴信の下に身を寄せることにした。これは第一に真田の郷の旧領回復を願った上での判断であり、この後、関東管領上杉氏はほどなく没落し、甲斐武田氏が隆盛をはくしたことからも、幸綱の判断が正しかったことの裏付けである。幸綱の名が武田家中に広く知られるようになったのは、やはり砥石城攻略である。この城は旧敵・村上義清の拠点の一つであり、信玄さえも陥とせなかった要害であるが、それをたった一日で攻略し、ついに悲願の旧領回復を成し遂げた。なお幸綱の正室は、眞田氏の家老・河原隆正の妹で、のちの恭雲院《キョウウンイン》殿[d]平成28(2016)年の某大河ドラマでは「とり」という役名で草笛光子さんが演じていた。。
眞田昌幸は天文16(1547)年に幸綱の三男として生まれ、のちに人質として武田晴信の母方・大井一族の名門・武藤家に養子入りして武藤喜兵衛と名乗り、さらに晴信の奥近習衆《オクキンジュウ》に採りたてられると頭角を現し、一奉行を任されるほどになった。そして父・幸綱が逝去した翌年の天正3(1575)年、長篠・設楽原の戦で長兄の信綱、次兄の昌輝が奮戦の末に討死したことにより、急遽、眞田に復名し家督を継いだ。その後、四郎勝頼から上野《コウズケ》侵攻の指揮を任されたりと、信玄亡きあとの武田家を支える柱石として活躍した。天正10(1582)年には織田信長の侵攻をうけて武田家は滅亡、そして同年の本䏻寺の変で信長横死を受け、真田の郷を含む北信濃を巡って、隣国上杉・北條・徳川氏による弱肉強食の争奪戦・天正壬午の乱を持ち前の智謀で切り抜けるも、これ以降、眞田氏の怨敵となる徳川家康との関係が悪化する。のちに、徳川の大軍を二度にわたって退けたことで昌幸の名は全国レベルまであがるが、関ヶ原の戦後、高野山九度山に配流され、慶長16(1611)年、再び真田の郷を踏むことなく、この世を去った。なお、昌幸の長子・信之は上田から松代へ移封となった時、松代に菩提所長国寺を建立している。
新羅三郎義光以来28代続いた名門甲斐武田家中で、外様でありながら眞田氏ほど取り立てられた一族は皆無である。例えば江戸時代の絵画「武田二十六将図」(長野市立博物館蔵)には幸綱(一徳斎)・信綱(源太左衛門)・昌輝(兵部)・昌幸(武藤喜兵衛)と、一族で四人も描かれているのは他に例をみない。
そして、この眞田家墓所の脇には、なんと眞田幸村(信繁)公の供養塔が建っていた:
あと墓前の至るところで、六連銭にちなんだ形でお賽銭が置かれていた:
この後は日も暮れそうなので早々に上田城を攻める予定だったけれど、眞田信綱公と昌輝公の墓所が置かれている信綱寺が近そうだったので、レンタル終了までのギリギリの時間を使って行ってみた。
こちらがその信綱寺の山門と本堂:
しかしながら境内に入ってみても案内板が見つからず、さしあたって本堂左手の丘の上まで登って探してみたけどこちらでも見つからず。そうこうしているうちにタイムアップとなり、残念だけれど、ここ信綱寺を後にした 。あとで調べてみたら、どうやら本堂の右手に墓所への案内板があったらしい 。
そんな残念な思いをした信綱寺だったけれど、実はその二年後に別の場所で信綱公と昌輝公の墓所を参拝することができた。それは後日紹介する予定。
この後は自転車を返却し、ゆきむら夢工房の目の前にある停留場からバスに乗ってJR上田駅まで移動した。そして上田駅前からは徒歩で上田城まで移動した。
ここで再びJR上田駅のお城口の水車前広場に建つ眞田幸村公騎馬像を。この像は上田城築城400周年記念の一環で建てられた。ちなみに信繁(幸村)が上田城に居たのは青年期であったため、この像も若武者スタイルになっていた:
この武者姿にも六連銭がくっきりと確認できた。
そして、上田城本丸跡にある真田神社には幸村公合祀の碑があった:
同じく真田神社境内に置かれていた真田赤備え兜:
また上田市役所前の道沿いには講談や立川文庫の小説で一躍人気を博した真田十勇士のモニュメントがあった(と云っても、実は勇士の一人にお目にかかれなかったけど・・・。ちなみに、それは誰でしょう?):
長野県の城攻め二日目は川中島古戦場跡と海津城(松代城)で、最後に松代藩の藩祖で、眞田昌幸の嫡男・眞田信之(信幸から改名)が上田にある真田山長谷寺《シンデンザン・チョウコクジ》を移転した長國寺に拝観してきた。松代城からは徒歩で15分位。
そして、こちらが曹洞宗・長國寺の総門:
総門をくぐり、かつては山門が建っていた場所から正面の本堂を眺めたところ:
この本堂も何度か大火にあっており、現在の本堂は明治19(1886)年に再建されたもの。その本堂の棟にも六連銭があしらわれ、さらに海津城から移設した身の丈1mの鯱がみえる:
こちらは開山堂。もとは松代藩三代藩主・幸道公のために享保12(1727)年に建てられた御霊屋《オタマヤ》で、焼失後の再建時に現在の場所に移築された。堂には方三間の宝形造、桟瓦葺。肘木などの細部には見事な細工が残っており、長野県宝に指定されている:
ここで一旦、庫裡にある社務所へ移動して拝観料300円(当時)を支払って、その他の拝観者グループと一緒に住職の後ろについて境内の東端にある眞田家墓所へ移動した。
こちらは墓所へ移動する途中に見た鐘楼。こちらは、寛文元(1661)年に建立され、何度かの大火を免れた貴重な現存遺構である:
なお眞田信之公の御霊屋を含む眞田家墓所は鍵付きの柵で囲ってあるため、住職の付き添いがないと中には入ることができない。
そして、こちらが眞田信之公の御霊屋。万治3(1600)年に建立されたもので、桁行3間、梁間4間の入母屋造り平入り、屋根は柿葺き《コケラブキ》の壮麗な建築になっている。いたるところに透かし彫りや丸彫りが施され、なかでも正面の唐破風の雌雄の鶴は左甚五郎作と伝えられており、内部の格天井には狩野探幽筆と伝わる天井画、奥に禅宗様仏壇を据え、現在は信之公と小松姫御夫妻の位碑が安置されている:
その隣にあるのは松代藩四代藩主の信弘公の御霊屋で、建立は元文元(1736)年で、方三間の宝形造り、柿葺き、装飾は唐草の透かし彫りのみという信之御霊屋に比べると簡素な造りになってる。現在は歴代藩夫人らの位牌が安置されている:
そして、この四代藩主の御霊屋の屋根の棟には六連銭と結び雁金の家紋があしらわれていた:
こちらが御霊屋の背後にある眞田家墓所の入口:
墓所に入るとすぐに眞田昌幸公と眞田幸綱(幸隆)公、そして眞田信綱公の供養碑があった:
その隣には信之公の弟にあたる眞田信繁(幸村)公と眞田幸昌(大助)公の供養碑があった。こちらの供養塔は松代藩十一代当主・眞田幸正によって大正3(1914)年6月に建てられた:
その先の、白土塀に囲まれた崇厳な霊域には松代藩祖で初代藩主の眞田信之から十代にわたる眞田家歴代の墓所があった:
眞田信幸(のちに改名して信之)は、永禄9(1566)年に武藤喜兵衛こと眞田昌幸の嫡男として誕生し、幼名は源三郎。幼少期は甲斐武田家の人質として過ごし、元服後に甲斐武田家が滅亡したため岩櫃城のある上州へ脱出した。当時17歳の信幸は母の山手殿と一族200人を率いて、落武者狩りなどを撃退しつつ、甲州から岩櫃まで脱出したと云う。さすがに父・昌幸の血を引いた若武者である。初陣は天正壬午の乱での北條氏との戦い(上野・手小丸城奪還)で、手勢800で5000の大軍が守る城を調略によって一日で陥落させた。それから天正13(1585)年の第一次上田合戦では上田城の支城・砥石城で徳川相手に勇戦した。その後、眞田家が豊臣秀吉の命で徳川家康の与力大名となった際に、信幸は家康に出仕し、天正17(1589)年に駿府城で家康に謁見した。これが信幸自身、そして眞田家の運命を変えることになった。家康は常に冷静で信義を以って尽くす信幸を信頼し、それが徳川家中に広がり、のちに徳川四天王の一人である本多平八郎忠勝の娘・稲姫を家康の養女として妻に迎えた。そして太閤秀吉による小田原仕置ののちに沼田城城主となり城下町の整備に尽力した。文禄3(1594)年に従五位下・伊豆守に任官されるも、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦では父昌幸と弟信繁と袂を分かち東軍につく(犬伏の別れ)。この時、信幸から信之に改名した。前哨戦の第二次上田合戦では徳川秀忠軍に属して、父と弟の敵として参加し、戦後は真田領の全てを引き継いで上田藩主となる。その戦後処理では必死の嘆願で父と弟の助命が許されるものの、慶長16(1611)年に九度山で死去した父・昌幸の葬儀を執り行えるよう幕府に許可を求めるが戦犯扱いが理由で認められなかった。慶長19と20(1614と1615)年の大坂の陣では病床についていたため、代わりに嫡男の信吉と次男の信政を参陣させた。元和8(1622)年には松代へ移封を命じられ、明暦3(1657)年には、嫡男とその長男が死去していたため次男・信政に家督を譲って隠居するが、翌年に信政も死去したため、信之自ら復帰して藩政を執った。その年の10月、信之死去。享年93であった。
こちらは三代藩主の眞田幸道公の墓所:
最後にJR上田駅近くで見かけた六連銭たち:
眞田家墓所 (フォト集)
六連銭と真田家菩提寺(2) (訪問記)
信綱寺の拝観と、上田市の真田十勇士のモニュメントで十人全員を拝めなかったは心残り。ちなみに、拝めなかった一人は筧十蔵でした。