城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

月別: 2016年4月

躑躅ヶ崎館 – Tsutsujigasaki Fortified Residence

信玄の父・信虎が築いた甲斐武田家の居城・躑躅ヶ崎館は現在は武田神社として残っている

躑躅ヶ崎館は「武田氏館」とも呼ばれ、甲斐国守護であった武田信虎が永正16(1519)年に石和館(現在の山梨県甲府市川田町)からこの地に「府中」と呼ばれる居館(きょかん)を移したことから始まり、信虎の孫である四郎勝頼が新府(現在の山梨県韮崎市)へ移るまでの63年間、信虎・信玄・勝頼の三代に渡って武田家当主の館として使われた。在りし日の信玄公は、ある時はここから信濃の川中島へ、またある時は上野の箕輪城へ向かって出立したが、元亀3(1573)年には京へ上洛せんとこの門から出陣するも、その翌年には信州駒場で逝去し、自ら再びこの門をくぐることはなかった。この館は、一辺が約200mの正方形の主郭を中心として、その周りに配置したいくつかの副郭から構成された連郭式平城で、その周囲には重臣らの屋敷が立ち並び、その南方一帯には碁盤の目状に整備された城下町が開けていた。館の前方(南)には甲府盆地と富士山が、背後(北)には石水寺(現積翠寺)と詰城を持つ要害山が、そして東西を相川と藤川によって囲まれた立地にあった。天正10(1582)年3月に武田氏が滅亡した後は、織田家臣の河尻秀隆が入府し政務を取るも、同年6月の信長横死の混乱の中、武田の旧臣らに率いられた一揆勢に討たれる。その後は徳川家康の支配下に入るが、天正18(1590)年に甲府城が築かれると廃城となった。現在は大正期に造営された武田神社の境内の一部として、縄張を含め堀や土塁などが往時のままで遺されている。昭和13(1938)年に国の史蹟に指定された。

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鉢形城 − Hachigata Castle

荒川と深沢川に挟まれた河岸段丘の上にある鉢形城の本曲輪

埼玉県大里郡寄居町にある鉢形城は荒川と深沢川によって挟まれた河岸段丘の上に築かれた連郭式平山城で、川に面している南北はそれぞれ断崖絶壁で天然の要害になっている。この地は北関東の交通の要衝(ようしょう)にあたり、上州や信州方面を同時に望むことが可能な拠点であった。築城は、文明8(1476)年に関東管領だった山内上杉氏の家臣長尾景春[a]伊藤潤作の『叛鬼(はんき)』(講談社文庫)の主人公である。と伝えられている。のちに、山内上杉氏の家老で、寄居町花園城周辺の藤田郷を中心とする地域を支配した在地領主・武蔵七党と総称される猪俣党の藤田氏が治め、その十五代当主康邦に入婿した小田原の北条氏康が四男・氏邦が整備拡充し、現在に遺る規模になった。氏邦は鉢形城を上野を含む北関東支配の拠点としたが、そのため甲斐武田や越後上杉の攻撃を度々受けることとなった。天正18(1590)年には豊臣秀吉による小田原仕置がおこり、ここ鉢形城は重要な支城の一つであったが、氏邦は本城防衛のため不在で、城代黒澤上野介ら3千が籠城するも、豊臣方の北国口勢3万5千[b]加賀前田利家、越後上杉景勝の他、真田昌幸・信繁父子、徳川家康らそうそうたる顔ぶれ。に包囲され、徳川軍の本多平八郎忠勝らが城の目の前にある車山から大砲を撃ちこんで被害を甚大にさせると、およそ一ヶ月後に降伏・開城した。現在は国の史跡に認定され、鉢形城公園として整備されている他、外曲輪には鉢形歴史館が設置されている。

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参照

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a 伊藤潤作の『叛鬼(はんき)』(講談社文庫)の主人公である。
b 加賀前田利家、越後上杉景勝の他、真田昌幸・信繁父子、徳川家康らそうそうたる顔ぶれ。

六連銭と真田家菩提寺 − The Six Coins as Hell Money

駅前に真田幸村公騎馬像がある上田市の至るところで六連銭を見ることができる

「六連銭(むつれんせん)」は清和天皇の子孫を称する信州の名族・滋野(しげの)一族の海野氏と、その嫡流である真田氏が使用していた家紋であり、三途の川の渡し賃として納棺の際に六銭入れる地蔵信仰(六道銭[a]「六道」とは仏教でいう地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上のことで、六道銭には死後にこれらの道に入って迷わないようにという念が込められている。)の影響を受け継いだものである。また、それが転じて「戦場で死ぬ覚悟ができている」という心構えを表すこともある。本来、この家紋は戦時に使用する旗紋として使われていたが、江戸時代に出版された講談などで真田の名前と共に知られるようになった。ちなみに、真田家はこの他に「結び雁金(むすびかりがね)」という羽を結んで円を描く結びにして横向きの雁(がん・かり)の顔を載せた紋と、「州浜(すはま)」という三角州などの水辺にできる入り組んだ浜辺の渚を表す紋を使用していた。六連銭が主流になると、後者の二つの家紋は替紋として使用されるようになったと云う。その信州真田家の中興の祖と云われる真田幸綱[b]一般的には「幸隆」の名で知られ、江戸幕府が編纂した家系図にも幸隆と記されているが、壮年期まで幸隆と記された史料は存在しておらず、「幸綱」は出家を契機に幸隆に改名したという説が有力である。隠居後は一徳斎とも。は、軍神・上杉謙信から「智謀は七日の後れあり」と云わしめた[c]自分(謙信)は智謀の面では幸綱に後れを取っていると認めたという意味。人物であり、その三男・昌幸(武藤喜兵衛)は武田信玄から軍略用法の妙を学び「我が両眼の如し」と云わしめ、武田家中からは「小信玄」とも云われた。さらに、幸綱の孫にあたる真田信繁もまた、大坂の陣にて関東勢を相手に父・昌幸譲りの鬼謀を存分に発揮して散っていった。

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参照

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a 「六道」とは仏教でいう地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上のことで、六道銭には死後にこれらの道に入って迷わないようにという念が込められている。
b 一般的には「幸隆」の名で知られ、江戸幕府が編纂した家系図にも幸隆と記されているが、壮年期まで幸隆と記された史料は存在しておらず、「幸綱」は出家を契機に幸隆に改名したという説が有力である。隠居後は一徳斎とも。
c 自分(謙信)は智謀の面では幸綱に後れを取っていると認めたという意味。

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