箱根路の守備の要となった山中城は畝堀(うねぼり)など北条流築城術の宝庫である

静岡県三島市にある山中城は、戦国時代末期の永禄年間(1560年代)に小田原に居城を置いた北条氏康が甲州武田氏の侵攻に備え、箱根の守りとして築城された山城である。それから時が経ち、天正17(1589)年に豊臣家と手切れになった北条氏政は、秀吉の小田原攻めに備えて急遽、堀の整備や岱先出丸(だいさき・でまる)などの増築工事を開始、翌18(1590)年2月の開戦間際まで工事が進められた。同年3月末には、秀吉本軍が沼津の三枚橋城[a]陸奥国の津軽為信(つがる・ためのぶ)は、この城で豊臣秀吉に謁見し所領を安堵された。に着陣、軍議の結果、箱根路の最前線にある、ここ山中城には羽柴秀次を総大将に、中村一氏、田中吉政、堀尾吉晴、山内一豊、一柳直末ら7万に及ぶ兵で攻撃することが決まり、3月29日未明には攻撃が始まった。工事が未完了のまま山中城に籠城する北条方は、小田原本城より援軍として派遣された間宮康俊を含む4千で奮戦したが、まずは岱先出丸が陥ち、本丸も程なく突き破られ、北の丸で最後の反撃をするも叶わず、城主・松田康長は討死、北条氏勝[b]黄八幡で勇名を馳せた北条綱成の孫にあたる。は玉縄城へ落ち延び、わずか半日で落城した。

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参照

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a 陸奥国の津軽為信(つがる・ためのぶ)は、この城で豊臣秀吉に謁見し所領を安堵された。
b 黄八幡で勇名を馳せた北条綱成の孫にあたる。