長野県上田市にある砥石城[a]戸石城と書く他に、別名は伊勢山城とも。は、東太郎山の一支脈が神川(かんがわ)に沿って南方に突出している高い尾根の上に築かれ、本城を中心に北に枡形城、南に砥石城、西南に米山(こめやま)城を配す堅固な連郭式山城で、「砥石城」はこれらの城の総称となっている。この城の築城時期や築城主は定かではないが、天文年間(1532〜1555年)には信州葛尾城を居城としていた村上氏の属城であったと云う。時の村上家当主・義清は甲斐の武田信虎[b]甲斐守護職で、甲斐源氏宗家の第十八代当主。武田晴信こと武田信玄の実父である。と諏訪の諏訪頼重と共に、小県(ちいさがた)の海野平(うんのたいら)に侵攻し、海野棟綱ら滋野一族、そして真田幸綱(幸隆)とその弟の矢沢頼綱らを上州へ追い出して、信州小県郡を支配下に置いた。その後、武田晴信が父・信虎を駿河に追放し、信州佐久郡へ侵攻して村上義清の属将が守る志賀城を陥落させると、村上義清との対立が鮮明となる。天文17(1548)年2月に武田軍と村上軍が上田原で激突し、勝敗は付かなかったものの、武田方は宿老の板垣信方と甘利虎泰が討死するという事実上の大敗を喫した。これにより、一時期は甲斐武田家の信濃経営に陰りが出たが、のちに信濃守護職の小笠原長時を破って挽回し、晴信は上田原の雪辱を果たそうと、村上義清の属城・砥石城攻略に着手した。
これも一昨年は2014年の秋に攻めてきた城で、その前の月に攻めた小諸城の時と同様に長野新幹線あさま(当時)に乗車して、今回は上田駅で下車、そのまま駅構内にある観光案内所へ行って、砥石城址へのアクセス方法について情報を入手した。事前に調べた時には車で移動する事例が多く、公共機関を使った情報はほとんど無かったので、最悪はタクシーでの移動も考えていたのだけれど、さすが観光案内所、しっかり案内してもらえた。この「砥石・米山城」は上田市認定のトレッキングコースの一つになっているそうで、バスを使ったアクセス方法や登山コースや所要時間など、丁寧な情報が掲載された「信州上田地域トレッキングマップ Vol.2」なる冊子で説明を受けることができた。この当時の上田市は(2016年の)NHK大河ドラマ「真田丸」の制作が決定した頃で、街中至る所に六連銭がはためいていたっけ。
砥石城は東太郎山から南東方向に伸びた南北800m程の尾根上に築かれた枡形城・本城・砥石城・米山城から構成されている。ただし、四つの独立した城が連結しているというよりは、一つの城が一つの郭(くるわ)に相当する構成と言ったほうがわかりやすい。なお、本丸とか二の丸とかの呼び方は近世になってからで、中世初めは本丸を御城、二の丸を中城などと呼んでいたことから、こちらの見方が妥当であろう:
こちらは上田市のトレッキングコースの案内板:
今回は、現在地と示されている登城口から米山城と砥石城の分岐点(15分)、分岐点から米山城(10分)、米山城から砥石城(20分)、砥石城から本城(10分)、本城から枡形城(5分)の行程(と下山時の40分)の合計100分ほどの登山となった。ちなみに観光案内所で貰った「トレッキングマップ Vol.2」には砥石・米山城(象山街道・砥石城自然散策コース)で一周約120分と記載されていた。
観光案内所によると、上田駅前お城口から登城口附近までバスで行けるそうで、当初は上田城を攻めた後に砥石城を攻める予定だったけれど、予定を変更して早速バスのりばへ。バスのりば③の「菅平高原線」で上田駅から菅平方面に向かう上田バス(当時)に乗車、R141→R18→R144といったように上田市内を北上し真田の郷へ向かい、その途中に「伊勢山」というバス停があるので、そこで下車する。それからバス停から少し南下して「伊勢山」の交差点を西へ移動する。ここには「砥石城址入口」の看板があった:
この看板から西へ進んで行くと、登城口を案内する看板が見えてくる。そのそばには赤備えを彷彿する真っ赤な六連銭の看板なんかが建っているのですぐにわかるはず:
そして、ここが登城口。「なめんなよぉ!」っていう石碑が立っていた:
石碑の案内に従って石畳の登城道を登って行くと、観光ガイド向けに建てられた「笑門」なる櫓門(模造)が建っていた。ここが事実上の登山口でしょう:
この模擬門から南側の上田市方面の眺望:
この門から先は普通の山道に変わり、所々に登山補助用・危険防止用のロープが張ってあった。ひとまず、砥石城と米山城への分岐点まで(案内図によれば)15分ほど登って行くことになる:
そして、ほどなく米山城と砥石城の分岐点に到着した。写真左方面が米山城、右方面が砥石城になる。ちなみに、この水平方向が東太郎山から南東に伸びた尾根にあたる:
で、ひとまず米山城へ。この城は他の三つの城から少し離れた位置にあったということから、どちらかと言うと独立した出城的役割を担っていたのではと推測されている。
こちらは米山城へ向かう急な坂道:
所々に岩だらけのガレ場があったりする:
さらに、登山道を横切る砂岩の岩脈など:
10分ほど登ったところで米山城の一郭へ到達した:
米山城は砥石城の西南方の峰続きにあって、三段に削られた平場群(一郭と二郭と三郭)と腰郭(こし・くるわ)から構成されている。この城には、白米を馬の背に流して、遠くから眺めると水が有り余るほどあることを敵に見せかけたと云う「白米城伝説」なんてのが残っているらしい。
一郭に建つ村上義清公を讃える石碑:
一郭はそれほど大きな郭(くるわ)ではなかった:
三郭と、その下の腰郭へ降りる道:
こちらは米山城の一郭から眺めた砥石城:
全体的にごくごく普通の郭(くるわ)の配置であり、砥石城や本城から離れすぎていて、敵に攻められたら、あっという間に陥ちそうな所なので、ほぼ出城であることは間違いなさそうだ。
こちらは、同じく米山城から眺めた上田市の眺望で、往時は砥石城と共に村上家の属城であった塩田城址や上田原の合戦の舞台となった上田原、そして現在の上田城が見えた:
こちらはオマケで、おそらく浅間山方面だと思う眺望:
次は砥石城へ向かうため、登って来た時の登山道を下って再び分岐点へ向かう:
分岐点から砥石城までは、案内板によると15分とのことだけれども、こちらも一部は階段が設置されているものの、尾根を渡る急な坂道を延々と登って行くことになる:
ここにも登山補助用のロープあり・・・、:
ガレ場あり・・・、:
と思ったら、途中からは階段が設置されていたり:
その途中には岩をくり抜いたような石段があったり:
頂上附近になると、さらに勾配がキツくなり、階段の幅も狭くなってきた:
ここを越えると砥石城の山頂である:
こちらが砥石城の山頂:
砥石城の山頂にある一郭は尾根の南端の最高位を削平した方20mの方形郭で、周囲の展望は(雑木がなければ)かなり良い状態であるが、こちらの郭にも特に目立った遺構はなく、物見台程度の規模だった。この城が本城の南に接続している箇所には幅9mほどの深い堀切があり、一郭の回りには腰郭があることから、米山城と同様に、独立した曲輪の位置づけだったかもしれない。
こちらは砥石城から見た米山城:
天文19(1550)年、武田晴信が砥石城を攻略しようとしていた時、おりしも村上義清は同じ北信濃の国衆の一人、高梨政頼との小競り合いの真最中であり、砥石城攻撃に関しては、斥候として「鬼美濃」こと原虎胤(はら・とらたね)や名足軽大将の横田備中守高松(よこた・びっちゅうのかみ・たかとし)を検分に使わしたり、晴信自身も物見に出るなど時間をかけて入念な偵察を行っていた云う。しかしながら、力攻めに及ぶこと一ヶ月程、東西を崖に囲まれ、まさに「砥石」のように急坂を持つ砥石城(兵1千)は全く陥ちる気配がなく、そうしている間に村上義清が後詰に出てきたとの報で、武田軍は撤退を開始するも、義清の猛追を受けて、殿軍(しんがり)を引き受けた横田高松ら1千が討ち取られ、ほうほうの体で退却したという「砥石崩れ」の惨敗として伝えられている。先の上田原の合戦で板垣信方と甘利虎泰を失い、そしてまた、この砥石崩れでは名老臣・横田備中守を失うという、武田晴信自身にとってかなり悔しく、辛い時期だったと言える。
ところが、その翌年の天文20(1551)年、一度は海野平を追い出されたが後に武田家に降伏して信濃先方衆に加わっていた真田幸綱(幸隆)が、5月26日未明に調略(内応)をもって砥石城を乗っ取り、難攻不落と云われた砥石城はたった一晩で武田方に陥ちることとなった。砥石城を抜かれた葛尾城主・村上義清は、これ以降、武田軍に圧され、越後の長尾景虎を頼ることになる(そして、これが長期に渡る川中島の合戦につながっていく)。そして佐久や小県で村上方であった室賀家[c]2016年のNHK大河ドラマ「真田丸」では西村雅彦さんが演じていた室賀正武など。や屋代家、石川家などの国衆がつぎつぎに武田方へと鞍替えし、北信濃の村上勢は完全に瓦解することになった。
で、こちらは同じく砥石城から眺めた上田市内の眺望。ちょっと木が邪魔で上田城が見えなかった:
砥石城は「関東の富士見100景」の一つだそうで、ここから富士山が・・・本当に見えるのかな:
ということで、次は本城へ移動した:
砥石城を下りると切岸(きりぎし)の説明板がある。すなわち、砥石城は切岸の上にできた郭(くるわ)ということになる:
切岸とは切り立った険しい崖のことを言うが、砥石城ではこの先にある堀切とセットで、伊勢山方面からの侵攻の抑えとなっているらしい。元来は梯を架けて昇り降りしていたものと思われる。
切岸を下りると、今度は一転して幅広の尾根を辿って行くことになる:
これは砥石城と本城との間にある大手口。その実体は平坦で幅広の尾根であり、これを郭として使っていたと思われる。さらに、写真右にあるような削平された段郭がいくつか存在していた:
この大手口脇から下りたところにある山腹には湧水があり、砥石城の水の手だったと伝えられている:
大手口を抜け、いくつかの段郭を経由して本城方面へ移動する。下の写真の右側に見えるのが削平された段郭の一つ:
こちらは段郭の上から下の郭を見下ろしたところ。幅広な尾根であることがわかる:
ここが本城の一郭への虎口になる:
そして、これが本城の一郭。砥石城全域で最も広大な郭であり、最上部にあるこの一郭から南へ二郭、三郭と続き、その東下または東南側に四郭、三日月形郭・帯郭などの郭群の遺構が残っている。このことから、ここには館が建っていたのではないかと云われている。また、本城の東南側は小さな谷間になっており、これを登る両側には小段郭が麓まで連続しており、大手口があったそうだ:
これは一郭から、その下の段にある二郭を見下ろしたところ:
最後に砥石城の最北端に位置する枡形城へ向かう:
これは本城一郭の北側にある堀切:
堀切から尾根に上がって更に北へ進むと矢竹(やだけ)があった。この辺一帯に茂っている矢竹は砥石城内に植えられていたものの名残ではないかと云われている:
尾根をつたってどんどん北へ進む:
そして枡形城の虎口に到着:
これが枡形城。北方最高所標高800mにあって、自然の山頂を利用した郭になっている。郭自体は矩形で、南側に半月状の段郭が二つある:
郭の西側虎口に枡形あることから、この名が付いたらしいが、残念ながら枡形には見えなかった:
こちらは枡形城の背後(北側)にあった堀切で、深さはたかだか2mほど。その先には展望所のある小郭があった:
この小郭の下は急崖だったがトレッキングコースがあった(ロープ付き):
こちらは枡形城から眺めた上田市の眺望で、往時は砥石城と共に村上家の属城であった塩田城址、そして上田原の合戦の舞台となった上田原、そして現在の上田城が見えた:
こちらは、ちょっと目の前の松の木が邪魔で見難いけれど、真田の郷方面:
こちらは枡形城から西の鳩ケ峰方面の眺望。はるか遠くに槍ヶ岳が見えた:
以上で、砥石城攻めは終了。砥石城は北信濃の村上氏、小県の真田氏(と甲斐武田氏)が戦略上の拠点として重要視し、また重要な役割を果たしてきた城で、規模が大きく、四つの要害を三体として構築し、しかも居館としても用いられてきた極めて特色ある貴重な史跡といえる。
最後に真田氏の菩提寺である長谷寺へ行く際に見かけた「旗見石」。この石は真田七つ石の一つ。真田本城や松尾城まで望める展望の良い場所で、この石の上から攻めてきた敵方の旗印を見張っていたと云う:
砥石城攻め (フォト集)
砥石崩れのわずか数カ月後、真田幸隆が調略で乗っ取ってしまったというのも凄いです。天晴、真田一徳斎。今の砥石城、どちらかというと城址というよりは登山道のように見えちゃいますが、それでも上田城ができて関ヶ原の頃までは詰城として使われていたのだから、やっぱり凄い城だったんだろうなぁ。