長野県長野市にある松代城は、永禄3(1560)年頃に甲斐の武田信玄が北信濃支配と越後の上杉家に対する軍事拠点として山本勘助に命じて築いた海津城が始まりと云われている。翌4(1561)年に上杉謙信が川中島へ侵攻すると、当時城代であった春日虎綱(高坂弾正昌信)は信玄ら本隊の到着を待ち、甲越両軍が八幡原で激突した(第四次川中島合戦)。そして、天正9(1582)年に武田氏が滅亡した後は織田家の森長可(もりながよし)が、そして同年の信長横死の後は上杉景勝が配下の須田満親(すだみつちか)がそれぞれ城代となり、慶長3(1598)年に上杉家が會津に転封されると豊臣秀吉の直轄地となった(城代は田丸直昌)。そして慶長5(1600)年には森忠政が城主となるが関ヶ原の戦での功績により美作(みまさか)の津山城に移封されると、慶長8(1602)年に徳川家康の六男・松平忠輝が城主となった。家康ら幕府から疎んじられていた忠輝が改易された後は、松平忠昌、酒井忠勝を経て、元和8(1622)年に上田城から真田信之が10万石で入封し松代藩を藩立した。そして三代藩主の幸道の時代に松代城と改称し、以後約250年間、明治時代の廃藩置県まで真田家の居城となった。
これも一昨年は2014年の秋に攻めてきた城で、午前中は八幡原史跡公園や典厩寺を巡って有名な信玄と謙信の一騎討ちがあった川中島合戦の古戦場を見て、その後に海津城跡公園にある松代城へ移動した。思い出すと小学生の頃にアオシマという模型メーカーが出していた「日本の歴史・戦国合戦シリーズ・川中島の戦い」(フィギュアで信玄と謙信の一騎討ちを再現したもの)というプラモデルを造った覚えがあるなぁ 。
なお、明治5(1872)年に廃城となった松代城は、城内にあった建物のいくつかが払い下げられり破却されたり、あるいは(花の丸などは)火災で焼失したりした。そのため現存している建物は三の堀の外に建てられている真田邸(新御殿)など僅かだったと云う。
こちらの縄張図は慶長5(1600)年の森忠政が二の丸、三の丸を整備し、土塁を石垣で築きなおした時のもの:
廃城後は昭和56(1981)年に真田邸と一体となって国指定史跡となり、現在は海津城跡公園として開放され、さらに平成16(2004)年には第一次整備が完了して、本丸の太鼓門や北不明門(きたあかずのもん)、内堀、二の丸の土塁などが復元された。それ以外の外堀の大部分、三日月堀、三の丸、大手御門、そして花の丸といった遺構は残念ながらほとんど残っていなかった。
今回の城攻めは本丸の南にある二の丸南門跡から開始した。最初は本丸内堀沿いに眺めて、それから太鼓門から本丸に入り、戌亥隅櫓(いぬい・すみやぐら)跡を見て、北不明門から二の丸に出て、二の丸から松代駅の駅舎が建っている外堀跡まで廻ってきた。その後は、真田公園の敷地にある真田邸(新御殿)と真田宝物館(真田邸の入場と共通券)を見て、最後に松代藩真田家の菩提寺・長国寺にて歴代藩主の墓所をお参りしてきた。
こちらが二の丸南門跡:
これは二の丸大手にあたる門で、門が土塁の土留(つちどめ)をしていたと思われ、実際そのように復元されていた:
二の丸南門をくぐって西へ向かうと、丸馬出のような形状をし、行き止まりになった土塁があった:
こちらは二の丸から内堀(水堀)を挟んで眺めた本丸の大手口。一際目立つ二層の櫓門と、その手前にある橋詰門を総称して太鼓門と呼ぶ。そして内堀に架かっているのが太鼓門前橋:
発掘調査から、太鼓門前橋は橋脚の状態から4回以上は架け直しが行われたらしく、往時の松代城は千曲川の水害に悩まされていたことがわかる。そして、こちらは内堀沿いに本丸の東側へ移動したところ:
次に本丸東側へ移動すると、東不明門(ひがし・あかずもん)跡に架かる東不明門前橋が復元されていた:
こちらは東不明門前橋から見た本丸東側の石垣:
次は内堀沿いに本丸西側へ移動した。こちらは本丸西南隅の石垣:
本丸北西隅に建つ戌亥隅櫓跡から西側に向けて土塁が延びており、そこには二の丸の南北を貫く埋門(うずみもん)があった:
これが本丸から西側へ延びる土塁:
ここで本丸大手口へ戻り、大手口から太鼓門をくぐって本丸へ移動する。まずは、再び松代城の大手口:
復元された太鼓門前橋を渡り、太鼓門の橋詰門をくぐると枡形虎口になっていた:
太鼓門は枡形門(橋詰門)と櫓門から構成され、その間は枡形虎口になっており、狭間付きの続塀で囲まれていた:
そして、こちらが太鼓門の櫓門。本丸の中で一番大きな二層の櫓門で、発掘時に良好に残っていた門礎石をそのまま利用し、古絵図などから栩葺(板葺)で切妻屋根の姿が忠実に復元されていた。太鼓門の名は、時を告げる太鼓を備えていたことに由来する:
櫓門の礎石は現存遺構だった:
そして太鼓門の櫓門をくぐって本丸へ移動した。こちらは本丸の中から見た櫓門と、その脇の石垣。
こちらが本丸跡。江戸時代中頃まで政庁や藩主の住居のための御殿があった:
発掘調査では、建物礎石や井戸跡、焼けた土壁など享保2(1717)年の火災で焼失した御殿の痕跡が多数見つかったらしい。しかしながら、度重なる千曲川の水害により、明和7(1770)年に御殿を城の南西に位置する花の丸へ移動したそうだ。
こちらは本丸から見た東不明門(ひがし・あかずのもん)前橋。正面の山は尼厳山(あまかざりやま)と奇妙山(きみょうざん)で、尼厳山には尼厳城があった:
そして、こちらは本丸を囲む石垣のうち西側にあるもの。関ヶ原の合戦前の城主・森忠政は本丸を囲む土塁や虎口にあたる箇所を石垣で置き換えた。大小さまざまな自然石を巧みに積み上げた特徴ある石垣になっている:
これは本丸の北西隅に建つ戌亥隅櫓(いぬい・すみやぐら)の石垣:
この石垣は松代城内でも古い近世初頭のものと云われており、その高さと勾配の美しさは、当時の石工の技術の高さを物語っていると言える。ちなみに、構造的に不安定な箇所は当時と同じ工法で積み直しをしているらしい。
戌亥隅櫓跡には階段が設置されており、石垣の上が展望台になっていた:
ということで、こちらが北信濃の山々の眺望:
さらに、戌亥隅櫓跡から眺めた西側土塁。その先に見える山が妻女山:
こちらは、同じく戌亥隅櫓跡から眺めた本丸の搦手にあたる二の丸跡:
戌亥隅櫓跡を下りて、本丸の搦手へ向かう。こちらは本丸の搦手側の石垣と北不明門(きた・あかずのもん):
本丸北に建つ海津城址之碑:
そして本丸の裏口にあたる搦手に建つ北不明門。太鼓門同様に、櫓門と表門(桝形門)の二棟による構成で、門礎石をそのまま利用して忠実に復元されていた:
こちらが北不明門の表門(桝形門):
18世紀中頃に行われた千曲川の灌漑工事以前は、北不明門が河川敷に接していたことから、水之手御門とも呼ばれていたとか。
そして北不明門の枡形を囲むように建つ続塀:
北不明門をくぐって本丸の北側の二の丸跡へ移動した。こちらは二の丸跡から見た戌亥隅櫓跡の石垣。往時、ここに建っていた櫓は実質的に天守に相当するものであったろうと推測される:
二の丸の北側には新堀とその土塁が復元されていた:
二の丸跡と、その先に遠く聳えるのは尼巌山(あまかざりやま):
二の丸跡から外堀や二の丸御殿があった方面を眺めたところ:
こちらは二の丸跡の土塁の上から眺めた北信濃の山々:
そして二の丸の東側にあった外堀の一部。現在は、外堀の大部分は埋め立てられていた:
外堀を渡って御殿があった二の丸へ移動するために二の丸引き橋が架かっていた:
引き橋から外堀を渡って御殿が建っていた二の丸東側へ移動した。こちらも土塁で囲まれており、往時はその外側に外堀があった:
こちらが、その二の丸の土塁の上:
二の丸の南東隅、往時は外堀が存在していた場所に石場門という曲線を持つ独特の石垣壁で、この外側(写真左側)には丸馬出しがあった:
二の丸の外は外堀が存在していたが、現在はもちろん埋め立てられていて、往時の痕跡も僅かではあるものの、こちらは二の丸石場門の外側にあった丸馬出跡と外堀跡:
さらに外堀跡には、廃線となった長野電鉄屋代線の松代駅駅舎が建っていた:
こちらも長野電鉄の線路沿いに延びる外堀跡:
この後は、三の丸の外にあった新御殿跡(真田邸)へ移動した。こちらが新御殿跡の入口:
新御殿跡こと真田邸は、元治元(1864)年に松代藩9代藩主の真田幸教(さなだゆきのり)によって建てられ、明治以降は真田家の私邸として使われていた。敷地内には御殿(主屋)と表門、七棟の土蔵などの付属建築に加え、庭園が一体のものとして残されている。
こちらは新御殿の玄関にあたる式台:
御殿の中には三十五の主要な部屋があり、外部の人間が出入りする「表」の区画と、生活のための私的な「奥」の区画とにわかれている:
この後は真田宝物館を足早に見学して、松代藩真田家の菩提寺である長国寺へ行ってきた。こちらは、その途中で見た矢沢家表門(長野市指定有形文化財):
矢沢家は代々無役席(筆頭家老)を務め、江戸中期以降は藩中最高の家柄であった。この門の屋根は入母屋造りの瓦葺で、両側に武者窓を備えた同心部屋を配し、右の部屋の隣には共侍(ともまち)という腰掛けを備えた空間を備えている。鬼瓦や破風に配された六連銭(むつれんせん)や、白漆喰の壁などは城門を思わせる格式を持っていた:
松代城(海津城)攻め (フォト集)
一昨年の10月中旬の長野。盆地だからだろうか、みごとな晴天で気温も高かった。天守台からの四方の眺めが最高でした。個人的には松代城よりは海津城という名前の方が親しみがあるけど。