箱根路の守備の要となった山中城は畝堀など北條流築城術の宝庫である

静岡県三島市にある山中城は、戦国時代末期の永禄年間(1560年代)に小田原に居城を置いた北條氏康が甲州武田氏の侵攻に備え、箱根の守りとして築城された山城である。それから時が経ち、天正17(1589)年に豊臣家と手切れになった北條氏政は、秀吉の小田原攻めに備えて急遽、堀の整備や岱先出丸《ダイサキ・デマル》などの増築工事を開始、翌18(1590)年2月の開戦間際まで工事が進められた。同年3月末には、秀吉本軍が沼津の三枚橋城[a]陸奥国の津軽為信《ツガル・タメノブ》は、この城で豊臣秀吉に謁見し所領を安堵された。に着陣、軍議の結果、箱根路の最前線にある、ここ山中城には羽柴秀次を総大将に、中村一氏、田中吉政、堀尾吉晴、山内一豊、一柳直末ら7万に及ぶ兵で攻撃することが決まり、3月29日未明には攻撃が始まった。工事が未完了のまま山中城に籠城する北條方は、小田原本城より援軍として派遣された間宮康俊を含む4千で奮戦したが、まずは岱先出丸が陥ち、本丸も程なく突き破られ、北の丸で最後の反撃をするも叶わず、城主・松田康長は討死、北條氏勝[b]黄八幡で勇名を馳せた北條綱成の孫にあたる。は玉縄城へ落ち延び、わずか半日で落城した。

これも一昨年は、平成26(2014)年の秋に攻めてきた城で、それも静岡県で初めて攻める城。今回は公共の交通機関ではなく自分の車で移動した。8:30amに自宅を出発、東名に上がって、途中から小田原厚木道路に入り、小田原西で下りて、あとは国道1号線(R1)をひたすら西へ。そして山中城址公園駐車場に着いたのが10:30am過ぎ。この城址公園に大きな駐車場があることを知らなかったので、城址の案内所を兼ねた売店前の駐車場(9台くらいのスペース)に停車。そして、この売店で「山中城跡 ー 富士の姿が美しい・・・日本百名城・山中城跡公園」なるパンフレットを入手し、そこに記載されている縄張図と探訪コースを参考に攻めてみることにした(同じ内容が案内板にも記載されているけど):

売店兼案内所でもらえるパンフレットの縄張図と同じもの

「史跡・日本百名城・山中城跡」の案内板

この縄張図を見てわかるように、城址の真中をR1が走っており、道路によって遺構が分断され三ノ丸が一部破壊されていたものの、400年前の主要な曲輪はよく残っていた。

まずはR1を渡って、三ノ丸や本丸のある北側へ:

R1を挟んで写真左が豊臣軍来週に備えて増築された岱崎出丸側、右が本丸側

城内を分断する国道1号線

一応、城址前のスペースにも車を止めることはできるようだった(トイレも有り)。ここから三ノ丸堀へ進む:

脇にある石畳の道が旧箱根街道

三の丸堀へ続く城址の門

ちなみに、この城址の門や駐車スペース、さらには小田原仕置の戦没者供養を行っている宗閑寺や山中町内会の公民館がある辺りが三ノ丸に相当する。

で、まずは三ノ丸曲輪の西側を、R1を越えて岱先出丸まで南北に走っている三ノ丸堀。この堀は自然の谷を利用して中央に縦の畝《ウネ》を設けて二重堀としている:

土塁の部分が畝にあたる

三ノ丸堀(西側)

これは西側の堀で、右手前には東側の堀があり、二重堀になっている

三ノ丸堀(西側)

そして、中央の畝を境界として、箱井戸や田尻の池で溢れた雨水や湧水を東側の堀の水路に排水する仕組みになっていたと思われる。そのため、こちら西側の堀は空堀となっている。この西側の堀の全長は約180m、最大幅は約30m、最大深度は約8mとなっている。

こちらが田尻の池。写真上に見えるのが三ノ丸堀の東側堀になる:

写真上に見えるのが三ノ丸堀の東側で、排水用の堀

田尻の池と三ノ丸堀(東側)

この池と、東側(写真手前)の箱井戸とは一面の湿地帯であったが、築城時に盛土(土塁)によって区切られていたものである:

その中央には土塁があって区切られている

田尻の池の東側には箱井戸がある

山城では水を貯える施設が城の生命であることから、この池も貴重な溜池の一つであったと考えられる。しかも、田尻の池ある側には馬舎《ウマヤ》があったと云われ、馬の飲料水やその他の用水に使用されていたと推測されている。

三ノ丸堀を過ぎて西ノ丸方面へ登城道を上って行くと、元西櫓下の堀がある。この堀は西ノ丸と二ノ丸の元西櫓跡との間にある空堀である。ちなみに「元西櫓」という名称は、本来は伝わっていないものらしく、当初は無名曲輪と呼ばれていた:

写真左上が西ノ丸、写真右上が元西櫓

元西櫓下の堀(三ノ丸堀側から)

写真左上が元西櫓

元西櫓下の堀(西ノ丸から)

そして西ノ丸を右手に見つつ、その周辺にある長大な畝堀や障子堀が迫ってきた:

西ノ丸の南側に掘られた堀には5本の畝によって区画さている

西ノ丸南側の畝堀

西櫓方面から見下ろした畝堀

西ノ丸南側の畝堀

西ノ丸内部に敵が侵入することを防ぐために、曲輪の周囲を堀によって完全に取り巻き、その中に5本の畝によって区画されている。畝の高さは堀底から約2m、そして西ノ丸の曲輪へ入るには更に9m近くもよじ登る必要があると云う。現在は遺構を保護するために、芝生や樹木を植生してあるが、往時は滑りやすいローム層が露出していたと推測される。

次は西ノ丸には未だ攻めこまずに、その曲輪から西に突き出た馬出的な位置づけにある西櫓方面へ。西ノ丸南側の畝堀は、そのまま西櫓を囲む堀(西櫓堀)になっていた:

右に見えるのが西櫓跡で、その周囲も堀があり、さらにその外側に帯曲輪ある

西櫓を囲む帯曲輪と畝堀

左から帯曲輪、畝堀、西櫓跡

西櫓堀

この附近には西櫓へ渡るための架橋が作らていたとか

西櫓堀

西櫓堀も、ほぼ9m間隔で八本の畝が、堀の方向に対して直角に造られている。そしてローム層を台形に掘り残して畝を作っている。この高さは堀底から約2m、頂部の幅は約0.6mで、外形は丸みを帯びている。畝の傾斜度は50〜60度と非常に急峻である。

そして西櫓跡と西ノ丸との間は障子堀という、これもまた独特の堀になっていた。これは、中央に太く長い畝を置き、そこから交互に両側の曲輪に向かって畝を出し、障子の桟《サン》のように区画されたもの:

ここに溜まった水は、その傾斜で下にある三ノ丸の外堀に排水される仕組み

西ノ丸と西櫓の間にある障子堀

わざと互い違いの格子にしているのが特徴

西櫓跡と西ノ丸との間にある障子堀

こちらは見る角度を変えて、西ノ丸の見張台から南北方向に眺めた障子堀:

西ノ丸の物見台跡から眺めたところ

障子堀

西ノ丸の物見台跡から眺めたところ

障子堀

西ノ丸の物見台跡から眺めたところ

障子堀

障子堀で中央にある畝からは水が湧きだしており、溜まった水は南北の堀へ排水される仕組みになっており、このように水堀と用水池を兼ねた堀が山城で造られることは非常に珍しいことだとか。

それでは西櫓へ。西ノ丸から障子堀を越えて、西側に突き出た曲輪で、形状は矩形(長方形)で、それに沿って土塁と堀を巡らしている:

長方形に土塁と堀を巡らしている

角馬出に相当する西櫓

西ノ丸に対する角馬出に相当する

西櫓の北隅にある櫓台跡

掘立て式の建物柱穴などが見つかったらしい

低い土塁で囲まれた西櫓の内部

西櫓と西ノ丸を囲む帯曲輪の北側に回り込むと、こちらからも見事な障子堀を見ることができた:

左側の丘陵が西ノ丸、右側の丘陵が西櫓

西ノ丸と西櫓の間にある障子堀

畝が互い違いになっているのがわかる

西ノ丸と西櫓の間にある障子堀

そして、これが西ノ丸。頂部には見張台が見える:

帯曲輪から眺めた西ノ丸の頂部には見張台が見える

西ノ丸と西ノ丸堀

この帯曲輪北側からは愛鷹連山と富士山の眺めが素晴らしいとのことだけれど、この時は台風の上陸間近の影響か、ぐずついた天気のため綺麗に見えなかった。残念。

この帯曲輪からは西木戸口を確認したあとは、西ノ丸を迂回していくような山道をおりて西ノ丸の虎口方面へ移動した。虎口の直ぐ下には溜池跡があった。山田川の支流の谷がここまで延びてきていたものを盛土によって仕切りを付け、人工的な土手で深い堀にしたもの:

貯水池の跡で、深さ4m以上発掘したが池底には到達しなかったと云う

溜池

溜池へ本丸、北ノ丸等で溢れた堀水が集まり、また広大な西ノ丸の自然傾斜による排水も、元西櫓の排水も流入する仕組みになっている。

そして西ノ丸へ。この曲輪は3,400㎡の広大な面積を持ち、山中城の西方防衛の拠点であった:

山中城の西方防衛の拠点だった

西ノ丸

西端を中心にコの字型に土塁で囲まれていた

西ノ丸

西端を中心にコの字型に土塁で囲まれていた

西ノ丸

 

曲輪は全体的に東へ傾斜して、雨水等を溜池に排水できるようになっていた

西ノ丸

曲輪は全体的に東側へ傾斜しており、その下にある溜池には連絡用通路を排水口として、雨水等が集められる仕組みになっていた。

そして西端にある見張台は全て盛土で積み上げたもので、ここを中心に曲輪の三方をコの字形に土塁を築き、内部は尾根の稜線を削平していた:

すべて盛土で積み上げたもの

西ノ丸の見張台

すべて盛土で積み上げたもの

西ノ丸の見張台

こちらは見張台の上から眺めた西櫓台:

西ノ丸から障子堀を越えて西側に突き出た曲輪

西櫓台

その見張台からの眺望(パノラマ):

左から西櫓、障子堀、西ノ丸で、天気が良ければ富士山が見えるとか

西ノ丸の見張台からの西側の眺望

さらに、西ノ丸には三ノ丸方面から土橋でつながっていた:

三ノ丸から西ノ丸をつなぐ土橋

三ノ丸方面か土橋がつながる

左側が元西櫓下の堀、右側が西ノ丸南側の堀

西の丸の虎口に付けられた土橋

こちらは西の丸から見た元西櫓。木橋の先には二ノ丸の大土塁が見える:

右下は三ノ丸堀方面

元西櫓と二ノ丸方面

西ノ丸のあとは、二ノ丸と本丸の帯曲輪を通って北ノ丸方面へ移動した。帯曲輪は山林化していたが、その両側には堀の跡が残っていた:

本丸や二ノ丸周囲の堀も深く、一部は何条かの畝もあるらしい

帯曲輪から北ノ丸方面へ

右側には本丸堀がある

帯曲輪から北ノ丸方面へ

ここが北ノ丸跡。標高583m、本丸の天守櫓に次ぐ本城第二の高地に位置し、面積も1,920㎡と立派な曲輪に相当する

豊臣軍と最後の攻防の舞台となった曲輪

北ノ丸

北ノ丸は豊臣軍と最後の攻防の舞台となった曲輪であり、城主・松田康長は奮戦の末に討死にした。

この曲輪は堀を掘った土を尾根の上に盛土して平坦な面を作り、本丸側を除く三方を土塁で囲んでいたという。西隅には見張台らしき土塁が残っている:

この曲輪の三方が土塁で囲まれていた

北ノ丸の見張台

また、本丸との間には木橋を架けて往来できていたことが明らかとなっており、現在は木橋が復元整備されていた:

北ノ丸には本丸と往来できるように木橋が架かっていた

北ノ丸の南側の虎口

木橋の向こうが最後の戦いが行われた北ノ丸跡、手前が本丸跡

本丸と北ノ丸を結ぶ木橋

このように、山中城の堀には土橋が多く構築されていたが、重要な曲輪には木製の橋も架けられていたと推測できる。

また北ノ丸を囲む堀(北ノ丸堀)は畝堀ではないが、深さや幅共に規模が大きく、400年の歳月が堀底を2m以上埋めていることを考えても、築城時は現在よりも更に急峻だったと思われる:

山中城全域を囲むように掘られた水のない空堀だった

北ノ丸堀

深さ・幅とも規模が大きく

北ノ丸堀

北ノ丸から本丸方向へ移動するために復元された木橋を渡ると天守櫓跡がある:

ここには井楼(せいろう)または高櫓の類が建てられていたようだ

天守櫓跡

ここは、標高586mという山中城第一の高地に位置しており、井楼《セイロウ》または高櫓が建てられていたものと推定されるが、発掘調査では櫓の柱穴を確認できなかった。

天守櫓台の下は本丸で、標高578m、面積1,740㎡で天守櫓と共に山中城の中心となる曲輪である。周囲は堅固な土塁と深い堀に囲まれ、南は兵糧庫と接している:

周囲は堅固な土塁と堀で囲まれていた

本丸

本丸は盛土によって兵糧庫側から2m前後の段を作り、二段の平坦面で築かれていた:

こちらは二ノ丸と連結している段

本丸は二段になっていた

こちらは兵糧庫や武器庫があった

本丸は二段になっていた

本丸の一番下の段は兵糧庫とか弾薬庫などがあったとされ、現在は兵糧庫が休憩所として復元されていた。この曲輪の中央を走る溝は排水溝のような設備であったとされ、この溝が兵糧庫を東西二つの区画に分けていたようだ。さらに、その西側の区画からは兵糧庫の柱穴が見つかっている:

周辺からは平たい石も見つかっており柱穴と礎石の存在が明らかになった

兵糧庫跡と柱穴

これは矢立の杉といって、本丸の天守櫓跡に接して生えている巨木で、推定樹齢は500年前後、出陣の際に、この杉の木に矢を射立てて勝敗をを占ったと云う:

樹高は約31.5mで、推定樹齢は500年前後

本丸に立つ「矢立の杉」

本丸と二ノ丸の間も堀切底の非常に複雑な畝堀になっており、土橋によって南北に二分されている:

写真左が本丸の西虎口、写真右が二ノ丸

本丸西側堀

この先は三ノ丸の箱井戸につながっている

本丸西側堀

本丸と二ノ丸を隔てる堀切底の非常に複雑な畝堀

本丸西側堀

この堀の北側の堀止めの斜面は薬研堀《ヤゲンボリ》で、その南側に箱堀があり、反対の南側は畝によって区画が造られ、途中屈折して、三ノ丸の箱井戸へ続いている。この堀の間は簡単な架橋施設が存在していたそうで、現在は通行の安全を確保するために木橋(イメージ復元)になっている。

こちらは二ノ丸(北條丸)。東西に延びる尾根を切って構築された曲輪:

南北方向に傾斜している

微妙な傾斜を持つ二ノ丸(北條丸)

南側は斜面となって三ノ丸の箱井戸に続いている

二ノ丸(北條丸)

尾根の頂部にあたる部分は土塁になっている

二ノ丸(北條丸)

この曲輪は尾根の頂部にあたる部分が土塁で、南北方向に傾斜しており、北側には堀があり、南側は斜面となって三ノ丸の箱井戸に続いている。この斜面を削ったり盛土して、山中城最大の曲輪である二ノ丸が造られたのであるが、本丸が狭いのでその機能を一部分担していたと思われる。

これは二ノ丸虎口で、三ノ丸(写真奥)から箱井戸を越えて、こちら側へ渡り、長い通路を登って大土塁に突き当たり、右折して二ノ丸へ入る用になっていた:

写真左が二ノ丸、写真右は元西櫓

二ノ丸大土塁から見た二ノ丸虎口(左:二ノ丸、右:元西櫓)

また、二ノ丸と元西櫓の間の堀には、橋脚台が堀残されており、四隅に橋脚を立てた柱穴が検出された。橋脚の幅は南北4.3m、東西1.7mで、柱の直径は20~30cmであった。復元した橋は遺構を保護するため、盛土して本来の位置より高く架けられている:

二ノ丸と元西櫓の間に架けられた木橋

架橋

そして、これは二ノ丸の大土塁(高さ4.5m)から元西櫓をみたところ。元西曲輪は西ノ丸と二ノ丸の間に位置し、周囲を深い空堀で囲まれた広さ640㎡の小曲輪である:

西ノ丸と二ノ丸の間に位置し、周囲を空堀で囲まれた小曲輪

元西櫓

こちらは二ノ丸虎口附近の眺望(パノラマ):

左が二ノ丸、右が元西櫓方面

二ノ丸虎口附近の眺望

ここまでが、いわゆる山中城址北側の曲輪群であり、次は二ノ丸虎口から三ノ丸へ下りて、岱先出丸方面に移動することにした。

まずは二ノ丸虎口から出ている通路を下り:

両側が土塁になっていて堀底のような道で、正面が二ノ丸虎口

二ノ丸への通路

この道(堀)は三ノ丸の箱井戸まで続いている

二ノ丸への通路

門跡(門らしき標柱)を抜けて:

これは後世に建てられたもの

二ノ丸と三ノ丸の間にある門(標柱?)

箱井戸跡へ。この井戸と、西にある田尻の池の間は土塁によって分離され、排水溝によってつながっていた。これは湧水量が多く、一段高い箱井戸から田尻の池へ水を落とすことにより、水の腐敗や鉄分による変色を防ぐための工夫と考えられる。箱井戸の水は城兵のの飲料水として利用していたと思われる:

城兵用の飲料水として利用していた

箱井戸

箱井戸を過ぎてR1方面へ移動すると三ノ丸に到達する。現在、ここには山中公民館と宗閑寺が建っていた:

この隣には宗閑寺がある

三ノ丸跡に建つ山中公民館

宗閑寺境内には、天正18(1590)年の山中城攻防戦で戦死した北條方と豊臣方の武将たちの石碑や墓所があった:

戦死した将兵の菩提を弔っている

三ノ丸跡に建つ宗閑寺

山中城の守将らの他に、豊臣軍の寄せ手で討死した一柳直末の墓もある

豊臣方と北條方の戦死者の墓碑

山中城主・松田康長の他、守将の松田右兵衛太夫、間宮康俊、箕輪城主・多米出羽守[c]箕輪城は北條氏邦の支配下だと思われるが、この多米出羽守なる人物が箕輪城主であったかどうかについてはこちらのページが参考になった。らの墓と共に、寄せ手で討ち死にした豊臣方の武将・一柳直末らの墓が並んでいる:

城主松田康長、副城主間宮康俊等の墓

山中城の守将らの墓

先鋒として攻撃中に、間宮康俊の軍の銃弾に当たり戦死した

一柳直末の墓

それから、R1を越えて売店を過ぎたところ、旧箱根街道脇に岱先出丸の入口があるので、そこを上って行く。

これが岱先出丸。標高547~557m、面積20,400㎡に及ぶ広い曲輪である。地名の岱崎をとり、岱崎城と呼ばれることもある。秀吉の小田原征伐に備えて増築された出丸であったが、時間がなく未完成のまま戦闘が始まった:

面積は20,400㎡にも及ぶ広大な曲輪

岱先出丸(北側)

小田原征伐に備えて急遽、増築された曲輪だが完成しなかった

岱先出丸(南側)

この出丸を守ったのは副将であり、小田原本城から援軍として派遣された間宮豊前守康俊といわれ、壮絶な戦闘を繰り広げ、豊臣軍の先手・一柳直末を討ち取るなどしたが、緒戦で全員が討死したと伝えられる。享年73。この時の秘話が三島市のHPにあった。ちなみに、彼の娘が宗閑寺を開いたらしい。さらに言うと、「間宮海峡」で有名な間宮林蔵の先祖にもあたる。

岱先出丸の中には御馬場曲輪(出丸御馬場跡)がある:

この先は深い空堀になっている

御馬場曲輪

曲輪の東と北は土塁で囲まれている

御馬場曲輪

ここは、古くから御馬場《オンババ》跡と伝わっており、土塁で東側と北側を守り、西側は深い空堀につづき、南側は急峻な谷で囲まれた岱崎出丸最大の曲輪である。曲輪内は、本丸は同様式の二段構築でつくられている。建物跡は確認されなかったが、土塁上からは田方平野を眼下に見渡すことができ、出丸防衛上の拠点であったものと推定されている。

こちらは、御馬場曲輪の土塁の上から眺めた愛鷹連山と富士山。この時は、残念ながら靄って綺麗には見えなかった:

台風が近づいていたので、綺麗には見えなかった

愛鷹連山と富士山

台風が近づいていたので、靄って綺麗には見えなかった

霞の上からのぞく富士山

台風が近づいていたので、靄って綺麗には見えなかった

霞の上からのぞく富士山

こちらは三島市街のある田方平野《タガタ・ヘイヤ》方面の眺望:

台風が近づいていたので、靄って綺麗には見えなかった

田方平野方面

御馬場曲輪の西側には深い堀が築かれていた:

堀内に畝があったので、西櫓堀や西ノ丸堀と同様に畝堀だった

出丸御馬場堀

堀内に畝があったので、西櫓堀や西ノ丸堀と同様に畝堀だった

出丸御馬場堀

奥に小さく見えるのが畝

出丸御馬場堀

この堀内に畝が検出されたことから、西櫓堀、西ノ丸堀と同様に畝堀であったと考えられる。畝の高さは堀底から約2m、頂部の幅は0.6m、馬の背のように丸みを帯びていた。堀底の幅や約2m、堀底から曲輪までの高さは約9mもある。

これは出丸御馬場より西に広がる岱先出丸:

この先にはすり鉢曲輪、右脇には岱崎出丸「一の堀」がある

岱先出丸

こちらは増築途中で完成が間に合わなかった曲輪跡らしく、尾根を削り成形しながらここに曲輪を構築すべく工事を急いだ様子が伺われる:

御馬場曲輪西堀を掘って出た土で土塁を造った跡

構築途中の曲輪跡

さらに南へ進むと武者溜まりがある:

幅8mの矩形の曲輪

武者溜まり

ここから西へ向かうと、すり鉢曲輪がある。これはすり鉢曲輪の虎口:

手前が武者溜まり、奥がすり鉢曲輪

すり鉢曲輪の虎口

これがすり鉢曲輪。山中城出丸の最南端を防備する重要な位置にある曲輪であり、そのためか曲輪の構築方法も、本丸側の曲輪とまたく異なり、中央部を凹《クボ》ませて低くし、中心から緩やかな傾斜で土塁まで立ち上がり、中途から傾斜を強め土塁の頂部に達している。上方から見た様子が、すり鉢によく似ていることから通称「すり鉢曲輪」と呼ばれる:

中央部を凹ませて低くし、中心から緩やかな傾斜をつけている

すり鉢曲輪

これはすり鉢曲輪見張台。岱先出丸の先端に位置するこの見張台は、土塁上の一角をやや拡げて、土塁と兼用させたものであり、すり鉢曲輪南側の樹木を低くすることにより、三島・沼津方面から韮山城まで手に取るように望見できたたらしい:

三島・沼津方面から韮山城まで手に取るように望見出来る

すり鉢曲輪見張台

ここから引き返して、岱先出丸沿いに造られた一の堀を見てきた:

すり鉢曲輪から西側の中腹を貫く空堀で畝堀

岱崎出丸「一の堀」

すり鉢曲輪から西側の中腹を貫く空堀で畝堀

岱崎出丸「一の堀」

この堀は、岱先出丸全域を鉢巻のようにめぐるのではなく、先端のすり鉢曲輪から西側の箱根旧街道の空堀まで続くものである。指定地内の約150m間に、17ヶ所の畝が見つかり、完堀された一の堀の第三区画はローム層を掘り下げて畝を残し、70度前後の傾斜角をもって立ち上がっていることから、堀底からすり鉢曲輪の土塁までは斜距離18~20m前後の急峻な勾配になるそうだ。

そして、こちらは御馬場北堀。この堀は幅8mを持ち、北に延びて、すり鉢曲輪から出丸の中腹を巡る堀と直交していたのではないかと推測されるが、未調査部分が多く、まだ完全には復元されていなかった:

完全には復元されておらず、堀の位置がわかる程度に残ってるだけだった

御馬場北堀(推定)

最後に、岱先出丸の一部の空堀を埋めて造られている旧箱根街道:

東海道の小田原宿と三島宿を結ぶ区間

旧箱根街道

この街道は、慶長9(1604)年、江戸幕府が整備した五街道の中で江戸と京都を結ぶ一番の主要街道である東海道のうち、小田原宿と三島宿を結ぶ標高845mの箱根峠を越える箱根八里(約32km)の区間である。大変滑りやすいローム層であったので、後に石畳に改修されたそうだ。

この見応え十分な城跡について少し補足しておくと、静岡県三島市は昭和48(1973)年に全ての曲輪の全面発掘に踏みきり、学術史料に基づいて環境整備を行った結果、戦国末期の北條流築城術が解明され、特に堀や土塁の構築法、尾根を区切る曲輪の造成法、架橋や土橋の配置、曲輪相互間の連絡道など自然の地形を巧みに取り入れた縄張の妙味と、空堀・水堀・用水池・井戸といった山城に不可欠な要素の確保に意を注ぎ、石を使わない土造りの山城であるなど貴重な史料を提供する城跡の一つとして、国指定史跡にも指定されている。

ホント、この山中城で見ることが出来る「北條流築城術」、すなわち石垣を使わずに堀と土塁だけで曲輪を作る方法は必見。これで天気が良ければ富士山も眺めることができるし。

See Also山中城攻め (フォト集)

参照

参照
a 陸奥国の津軽為信《ツガル・タメノブ》は、この城で豊臣秀吉に謁見し所領を安堵された。
b 黄八幡で勇名を馳せた北條綱成の孫にあたる。
c 箕輪城は北條氏邦の支配下だと思われるが、この多米出羽守なる人物が箕輪城主であったかどうかについてはこちらのページが参考になった。