第四次川中島の戦いでは、乱戦の中、謙信が信玄の本陣に切り込んだと云う

甲斐武田と越後上杉との間で北信濃の覇権を争った「川中島合戦」は、今から450年も前の天文22(1553)年から永禄7(1564)年に至る十数年、都合5回の永きに亘って行われたが、その中でも後世に広く伝えられ、講談や活劇の題材にもなっている合戦が永禄4(1561)年の第四次川中島合戦こと八幡原(はちまんばら)合戦である。甲越双方が決戦を回避した前合戦より3年の間に関東周辺の情勢も大きく変化した。小田原に本拠を置く北条氏康は関東制覇の手を緩めることなく推し進め、前関東管領の上杉憲政(うえすぎ・のりまさ)と上野の長野業政(ながの・なりまさ)、下野の佐竹義昭・義重、安房の里見義堯(さとみ・よしたか)らは苦境に陥ち、越後の長尾景虎に助けを求める。彼らの要請に応じた景虎は関東へ侵攻するも、氏康は難攻不落の小田原城に籠城する。一方、同盟国北条氏の危機を知った武田信玄は景虎を牽制するために、北信濃の川中島に海津(かいづ)城を築城し信越国境に出陣して景虎の背後を脅かした。これが功を奏し、景虎は北条氏と決戦できぬまま、鎌倉の鶴岡八幡宮で関東管領職と山内上杉家を相続する儀式を執り行い、上杉憲政から偏諱を受けて上杉(藤原)政虎と改名、越後に帰国した。政虎は小田原北条氏を滅ぼし、関東管領上杉氏を再興するには、まず背後で蠢動(しゅんどう)する信玄を撃滅する必要があると考え、関東から帰国して僅か二ヶ月後には北信濃へ侵攻、海津城に睨みを効かせる妻女山(さいじょさん)に布陣した。

これも一昨年は2014年秋、長野県にある城攻めに合せて「川中島の戦い」ゆかりの地の幾つかを巡ってきた。午後は松代城(海津城跡)を攻めて帰京する予定だったので、朝一で八幡原史跡公園へ。宿泊先から長野駅前まで歩いて、駅前からアルピコ交通の松代線古戦場経由松代行きのバスに乗って20分ほど行ったところにある川中島古戦場という停留所で下車する。下車した目の前に八幡原史跡公園がある。

この公園の周囲には川中島の戦に関係のある史跡がいくつか残されていた:

八幡原史跡公園の周辺にはいろいろ見所があった

「川中島の戦い」ゆかりの地周遊マップの案内板

もちろん全て見て回りたかったのだけれど、今回は時間の都合で③この公園と④胴合橋、そして⑥典厩寺へ行ってきた。その後は④胴合橋のある附近から再びバスに乗って⑦松代城(海津城跡)攻めした。それでも山本勘助の墓所は巡りたかった〜、残念 :(

こちらが八幡原史跡公園の案内図。この公園には他に長野市立博物館や憩いの広場がたくさんあった:

八幡原史跡公園の他に博物館やリンゴの直売所などがあった

川中島古戦場

左下のエリアが第四次川中島の合戦で甲軍の本陣があった八幡原にあたる

八幡原史跡公園案内図

そして、ここ八幡原から海津城と上杉政虎、のちに法体に帰依して上杉謙信が本陣を置いた妻女山方面の眺め。合戦当日は早朝から霧が立ち込めて一寸先も見えなかったという:

写真の右側にある小さな山が妻女山、写真正面あたりが海津城方面

八幡原からみた妻女山方面

これが八幡原の戦いの布陣図。謙信が甲軍の啄木鳥戦法を看破して先制攻撃を仕掛けた緒戦時のもの:

啄木鳥戦法が見破られ、緒戦は甲軍と越軍が乱戦となった

「川中島大合戦」の説明板

永禄4(1561)年の8月14日に、上杉謙信は1万3千余の軍勢で越後の春日山城を出陣し北信濃に向けて南下する。途中、善光寺に予備軍を配置して、16日には雨宮の渡し[a]現在ここには、頼山陽によって川中島合戦を詠んだ「鞭聲粛々夜河を渡る・・・」の詩碑が建っているらしい。から千曲川を渡り、海津城の背後にある妻女山に本陣を置く。この時、上杉家臣らは退路及び補給路を絶たれるため味方に不利と諫言したが謙信は意に介さなかったという。既にこの時、謙信には信玄をおびき寄せる策があったとされる。

一方、謙信が北信濃に侵攻するの報を受けた信玄は、8月18日に同盟国の北条・今川両氏の援軍を加えた2万の軍勢で甲府の躑躅ヶ崎館を出陣、24日に川中島に着陣する。信玄は、雨宮の渡しを封鎖して越軍に揺さぶりをかけたが効果がなかったため、一旦全軍を海津城に収容させる。そして翌月9月9日の軍議にて、山本勘助と馬場信春から提案のあった、俗に云う「啄木鳥(きつつき)戦法」で越軍と決戦を行うことに決した:

甲軍は軍勢を本体(8千)と別働隊(1万2千)の二つに分け、本隊は八幡原へ移動、別働隊は夜陰に紛れて妻女山へ移動して夜明けと共に越軍を急襲する。越軍は勝っても負けても補給の観点から善光寺に向けて撤退してくるので、それを八幡原で待ち受ける本隊と別働隊とで挟撃して殲滅する。

 

八幡原史跡公園に入ると八幡社の参道がある:

鳥居をくぐった先に拝殿がある

「史跡・川中島古戦場 八幡社」

この鳥居の右側が甲軍の本陣が置かれていた所らしく、現在も土塁らしき跡が残っていた:

この低い土塁の跡は本陣を示す枡形陣形跡らしい

本陣の周りの土塁跡

この低い土塁の跡は本陣を示す枡形陣形跡らしい

本陣の周りの土塁跡

これは逆槐(さかさえんじゅ)と呼ばれ、ここに本陣を構えた際の土塁留めとして自生の槐(えんじゅ)の杭を、根を上にして打ち込んだものがいつのまにか芽を出し、その後約400年を経て巨木に成長した:

土塁留として逆さに打ち込んだ槐

逆槐(さかさえんじゅ)

鳥居を抜けて参道を進んだ奥にあるのが八幡社。この社には誉田別尊(ほんだわけのみこと)が祀られている:

信玄が命を免れたのは八幡社のご加護があったためだとか

八幡社

こちらの社には出雲大社の大國主命の第二子である建御名方命(たけみなかたのみこと)が祀られている:

他の諏訪大社同様に建御名方命が御祭神である

八幡社

信玄は9月9日夜半に作戦を開始し海津城から軍勢を出陣させた。ところが謙信は、海津城から盛んに炊事の煙が立ち昇るを見て甲軍の啄木鳥戦法を看破し、密かに全軍を妻女山から下山させていた。明けて9月10日早朝、千曲川と犀川(さいがわ)に挟まれたデルタ地帯の川中島は濃霧に包まれていた。霧が晴れると甲軍の物見が目の前にいる越軍を発見、信玄は謙信に出し抜かれたことに気づく。上杉軍は車懸りの陣で、信玄の本隊8千に先制攻撃を仕掛けてきた。信玄も鶴翼の陣で応じるも甲軍将兵は浮足立ち、たちまちに切り崩され、信玄の実弟で副将の武田典厩信繁、啄木鳥戦法を進言した山本勘助、そして諸角虎定、初鹿野忠次らが相次いで討ち死にした。

本隊が懸命に防戦する中、午前10時頃に妻女山に向かっていた別働隊1万2千が川中島へ戻ってきた。そして前後で挟撃されることになった越軍が一転して劣勢になったため、謙信は愛馬「放生月毛(ほうしょうつきげ)」に跨り、只一騎で愛刀「小豆兼光(あずきかねみつ)」[b]謙信愛玩の品として有名な一腰である竹俣兼光。揚北衆竹俣三河守慶綱が謙信に献上した備前長船兼光で、雷斬とも一両筒とも。前者は雷神を斬り裂いた伝承で、後者は甲軍の鉄砲名人を一凪すると大筒もろとも切り裂いたという伝承から。を振りかざして甲軍本陣に斬り込んだ。不意を突かれた信玄は持っていた軍配で謙信の太刀を受けたという。時に信玄は齢41歳、謙信32歳であった:

現在でも一騎討ちが史実である証拠は一切ない

謙信・信玄一騎打ち銅像

本陣で床几に座り、持っていた軍配で謙信の太刀を凌ぐも肩を負傷する

両雄の一騎討ち

愛馬・放生月毛に跨がり、名刀・小豆兼光を振り上げる謙信

両雄の一騎討ち

こちらは甲越両軍の旗指物(軍旗):

「疾きこと風の如く、徐かなること林の如し、侵すこと火の如く、動かざること山の如し」

甲軍の「風林火山」[c]別名は孫氏の旗で、もともと鮮麗な紺色の絹布に金泥で書いたもので、字句は兵法の聖典「孫氏」の一節で、武田氏の菩提寺恵林寺の禅僧・快川招喜の筆になるものである。

「毘」は毘沙門天、「龍」は不動明王を表し、二つで一つの仏教慣習を表す

越軍の毘(多聞天)と懸かり乱れ龍

そして劣勢となった越軍は全軍撤退を開始し、甲軍は午後4時頃に勝鬨をあげたと云う。この合戦で甲軍の死傷者は4600余人、越軍は3400余人を数えたが、侍大将格以上の戦死者は甲軍が圧倒的に多かった。

合戦後に海津城主の高坂弾正昌信は敵味方の別なく遺体を手厚く葬り塚を建てた。これはその一つで、首塚(屍塚)という:

この八幡原附近には沢山の塚があった

首塚跡

これを知った上杉謙信は大変感激し、後に塩不足に悩む武田に対し、「我、信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩であらず」と直ちに塩を送り、この恩に報いたと云う。これが「敵に塩を送る」という語源らしい。

これは「執念の石」と後世に名付けられた石。上杉謙信が単騎で甲軍本陣に切り込んだ際に、信玄の側近くにいた中間頭の原大隅が傍らにあった信玄の持ち槍「青貝の長柄」を取り、馬上の謙信めがけて一槍突き出したが、苛立った槍は謙信の肩の上に逸れ、残念なりと返す槍で謙信の鎧の肩を斜め右上から力いっぱい打ち下ろしたが、またも外れて馬の三頭をしたたかに打ったため、馬は驚き跳ね上がってその場を狂奔し去ってしまった。謙信を取り逃して、無念やるかたのない原大隅は、傍らにあったこの石を槍で突き通したと云う:

謙信を取り逃した無念から、石に槍を突き通したと云う

執念の石

無念やるかたなのない原大隅が槍を突き通してできた穴

執念の石

無念やるかたなのない原大隅が槍を突き通してできた穴

執念の石

ここが伝説の三太刀七太刀(みたち・ななたち)之跡。どうやら、ここが一騎討ちの場所らしい:

謙信が信玄に三太刀すると受けた軍配に刀跡が七つあったことから

三太刀七太刀之跡

謙信は馬上からの斬撃をもっぱらとしており、紺糸縅(こんいとおどし)の鎧に萌黄緞子(もえぎどんす)の胴肩衣(どうかたぎぬ)、金の星兜に立烏帽子白妙(たてえぼし・しろたえ)の練絹で行人包(ぎょうにんつつみ)、小豆兼光の太刀を抜き放ち、愛馬の放生月毛に跨り、甲軍本陣を強襲した。この時の信玄は諏訪法性(すわほっしょう)の兜、黒糸縅(くろいとおどし)の鎧の上に緋の法衣、軍配を右手に持ち、劣勢の諸隊を指揮していた。この信玄めがけて謙信は隼の如く駆け寄りざま、馬上より流星一閃、信玄は軍配で受けたが、続く二の太刀で腕を、さらに三の太刀で肩に傷を負った。のちにこの軍配を調べたところ、刀の跡が七ヶ所もあったと云われる。この備前長船兼光(竹俣兼光)は謙信愛玩の一腰で、非常に伝承の多い名刀である。

こちらは八幡原史跡公園に隣接する長野市立博物館と憩いの広場:

(こちらは八幡原の戦いとは関係なし)

史跡公園に隣接する博物館と憩いの広場

(こちらは八幡原の戦いとは関係なし)

史跡公園に隣接する水辺の広場

(こちらも八幡原の戦いとは関係なし)

史跡公園に隣接する憩いの広場

八幡原史跡公園を後にして、R35を千曲川に向かって南下すること10分ほどで「おぎのや 長野店」という道の駅っぽい施設があり、その駐車場を横切ったところに胴合橋(どあいばし)という石橋が残っている:

討死した山本勘助の首と胴とをわせた場所

胴合橋(山本勘助翁鎮魂碑)

山本勘助が東福寺泥真木明神附近で討死した後、その家来が敵の手から首級を奪い取り、ここで胴と首とを合わせた場所だと云う。越軍が信玄がいる本陣目がけて突進するのを見た山本勘助は長嘆しながら「甲越合戦すること十五年。その間大小の合戦十余回あったが敵の作戦を見損じたことは一度も無かった。しかし今日は、川霧のために大軍が迫るのを察知できなかったのは、我が武運の尽きる時である。」と言って、越軍に突撃し、家臣もろとも首を落とされてしまったと云う:

山本勘助が戦死した後、その家来が敵の手から首を奪い取り胴と首とを合わせた場所

胴合橋(どあいばし)

この後は千曲川沿いの河川敷に上がって5分程行った所にある典厩(てんきゅう)寺へ向かった:

濃霧の中、妻女山から降りた越後軍が布陣したところ

千曲川の河川敷

写真右に千曲川がある

典厩寺へ向かう河川敷

河川敷の広さから想像するに往時はものすごい大河だったのだろう

一級河川の千曲川

千曲川があるのはまだこの先

千曲川の河川敷

ここから河川敷を下りて典厩寺へ向かう:

典厩寺は千曲川沿いの河川敷近くにある

「武田信繁公の墓・川中島記念館」の典厩寺の案内板

川中島記念館が併設されている典厩寺。この寺は創建(1500年頃)当時は鶴巣寺(かくそうじ)と称していた。永禄4(1561)年の川中島合戦の時に武田信玄の実弟、武田信繁公がこの寺を典厩本陣として出陣していたが、激戦の中で惜しくも37歳で討死したので、この寺に埋葬されて菩提を弔っている。その後、初代の松代藩主(海津城主)の真田信之がかって武田の臣であったところから、信繁公の菩提を弔うため、その名をとって「典厩寺」と改めて、真田家の武家寺として発展に寄与した:

左側の大きなお堂は閻魔大王が鎮座している閻魔堂

典厩寺

拝観料は大人200円(当時)

典厩寺の山門

山門をくぐって左側に社務所があり、そこで拝観料を支払うのだけれど、この時は住職が居なかったので、置いてあったお皿の上に拝観料を入れておいた。そして、社務所の隣にある一際大きなお堂が閻魔堂:

左の小さな建物が社務所

閻魔大王が鎮座している閻魔堂

こちらが閻魔堂に鎮座する閻魔大王像。これは日本一大きな閻魔大王で、松代藩八代藩主の真田幸貫(ゆきつら)により、川中島合戦の戦死者8千余名を供養したもの:

日本一大きな閻魔大王様

閻魔大王像

その閻魔大王様の背後には四天王(仏教における四人の守護神)が描かれていた。左から東方持国天、南方増長天、北方多聞天、西方広目天で、多聞天を独尊像(単体)で呼ぶ時は毘沙門天となる:

四天王のうち、右から二番目が多聞天こと毘沙門天

閻魔大王様と四天王(四人の武神)

そして閻魔大王の頭上には三十三観観音菩薩が描かれていた:

観音様は三十三身あったとされる

閻魔堂の天井に描かれた三十三観観音菩薩

さらに閻魔堂の壁には川中島大合戦図があった:

その下にあるのは「川中島合戦図屏風図」を使った双六の盤

川中島大合戦図

次に閻魔堂を出て境内の中央へ移動すると、武田典厩信繁公の墓所があった:

快川紹喜からは「惜しみても尚惜しむべし」と評された

武田典厩信繁公の墓

典厩信繁公は、甲軍の副将であり、兄・信玄の片腕として活躍し、稀に見る名将の一人であった。特に武田騎馬軍団の育成に力を注いだ。信繁公の書いた武田家訓九十九箇条(甲州法度之次第の原型)が現在も遺っており、江戸時代には武士の心得えとして広く読まれた書であったと云う。また文武両道で家臣の人望もすこぶる高かった。八幡原の戦後、兄の信玄は信繁公の遺体を抱いて号泣し、恵林寺の師僧・快川和尚からは「惜しみても尚惜しむべし」と評され、敵方の上杉謙信からもその死を惜しまれたほどの人物である。

また武藤喜兵衛(後の真田昌幸)は次男の源次郎に「信繁」と名づけたことは有名。そして典厩信繁公の墓の左には、なんと真田信繁(幸村)公の五輪供養塔があった:

父・昌幸は典厩信繁公の名を次男の源次郎に与えた

典厩信繁公の脇に建つ真田幸村公の五輪塔(左側)

こちらは典厩信繁公の首洗い井戸で、深さは4mもあるそうだ:

討死した典厩公の首を敵から奪い返して清めた井戸

典厩信繁公の首きよめ井戸

さらに奥へ進むと典厩寺の拝殿がある。ここには越軍と甲軍の旗指物が立てられていた:

甲越両軍の旗指物(軍旗)が立てられていた

典厩時の拝殿

その拝殿の屋根瓦には武田菱が:

狛犬の形も面白い

拝殿の屋根瓦には武田菱

境内の端にある大きな蔵が川中島合戦記念館になっていた。ここには寺宝60余点が展示されていた:

(何の記念なのかは最後まで不明だった)

川中島合戦記念館の石碑

まずは武田典厩信繁公の像:

武勇が目立つ甲州武田軍の中で、常に裏方にまわって兄を補佐した

武田典厩信繁公像

こちらは典厩信繁公が所有していた品々:

兄信玄の諏訪法性に良く似た兜

武田信繁公の兜

越軍の宇佐美駿河守定行の槍に突かれて討ち死にした時のもの

鎧の下の下着と刀

「典厩」とは左馬助の唐(中国)名

典厩信繁公像

奥にある杯は兄信玄と最後の杯だったとか

典厩使用の鉄扇や烏帽子など

武田の副大将として兄・信玄を支え続けた稀代の名将の槍

典厩公の槍の柄

兄・信玄を守るために敵中に突入し奮戦した時のもの

典厩公の槍

 

この川中島記念館には典厩信繁公所縁のもの以外にも、いろいろ貴重な寺宝が展示されていた:

信繁公の父で甲斐武田家18代当主

武田信虎像

我が子・信玄に駿河の今川家へ追放された

信虎が書いた「虎」

典厩信繁公の兄・信玄の像

武田信濃守大膳大夫晴信の像

典厩信繁公の兄・信玄の像

武田信玄の像

甲陽軍艦では信玄の伝説的な軍師として記録が残っている

山本勘助の像

信玄公が公陣中に崇拝していた

武田不動尊の像

 

さらに、上杉謙信公が使用していた鉄扇も展示されていた:

これも八幡原の戦いのものだろうか?

上杉謙信公使用の鉄扇

この後は典厩寺のご住職にいろいろお話を伺うことができた。ご住職も真田幸村ファンらしく、自分がこの年の夏に訪れた真田幸村と大坂の陣ゆかりの地の志紀長吉神社で購入した「勝守」をお見せしたら、ご存知なかったらしく、問い合わせしたいからとメモをとっていたっけ :)

最後に、千曲川河川敷から眺めた妻女山方面:

典厩寺は武田信繁公の陣跡だった

典厩時の前から眺めた妻女山

こちらはオマケ。この時期の長野は景色がすこぶる良かった:

2014年の10月の景色

戸隠山(蟻の塔渡り)方面の眺望

See Also川中島(八幡原)古戦場 (フォト集)

参照

参照
a 現在ここには、頼山陽によって川中島合戦を詠んだ「鞭聲粛々夜河を渡る・・・」の詩碑が建っているらしい。
b 謙信愛玩の品として有名な一腰である竹俣兼光。揚北衆竹俣三河守慶綱が謙信に献上した備前長船兼光で、雷斬とも一両筒とも。前者は雷神を斬り裂いた伝承で、後者は甲軍の鉄砲名人を一凪すると大筒もろとも切り裂いたという伝承から。
c 別名は孫氏の旗で、もともと鮮麗な紺色の絹布に金泥で書いたもので、字句は兵法の聖典「孫氏」の一節で、武田氏の菩提寺恵林寺の禅僧・快川招喜の筆になるものである。