上田城は、天正11(1583)年に眞田昌幸によって上田盆地の千曲川近くにあった天然の要害「尼ヶ淵《アマガフチ》)」と河岸段丘を利用して築かれた平城である。北信濃の一国衆であった眞田の名を一躍全国レベルに知らしめた二度に渡る上田合戦の舞台でもある。天正10(1582)年4月に武田家が滅亡した後、眞田家は関東管領となった瀧川一益の麾下に入り、沼田城や岩櫃城が接収されていたが、同年6月の本䏻寺の変で一益が厩橋城《マヤバシジョウ》を退去すると、信濃国を巡って勃発した越後上杉、小田原北條、三河徳川らによる争奪戦(天正壬午の乱)の「どさくさ」を利用して築城した。しかしながら、眞田と徳川の間でくすぶりつづけていた沼田の譲渡問題が表面化すると、昌幸は「父祖伝来の土地であり徳川にとやかく言われる所存ではない」と頑として跳ねつけたことが遠因で上田合戦が始まる。第一次上田合戦時は次男・信繁を越後上杉家に人質として出すことで援軍を求めることができ、持っていた智謀と天然の要害を利用して、詰城である砥石城の嫡男・信幸を囮にし城下町でゲリラ戦を行って徳川軍を敗走させた。そして第二次上田合戦時は、関ヶ原戦の緒戦で秀忠ら徳川本軍をきりきり舞いにし、天下分け目の大一番に遅参させることに成功した。こういうことで徳川軍を二度も蹴散らした堅城であったため、昌幸らが九度山に配流された後は、「恨み辛みをこの上田城にぶつけて」 徹底的に破却されてしまった。そのため、現存している西櫓も関ヶ原の後の上田藩仙石氏によるもの。この堅城、現在は長野県上田市で上田城跡公園として市民に開放され、花見の季節には大賑わいをみせている。
こちらも一昨年は、平成26(2014)年の秋に攻めてきた城で、自身初めての上田にて、午前から午後にかけて砥石城址と眞田家の菩提寺の長谷寺と信綱寺を電動自転車で見て回り、午後は一度JR上田駅へ戻って、徒歩で上田城へ。陽が暮れない時間帯ギリギリで、こちらもなんとか見て回ることができた。その後、しな鉄で長野の宿泊先へ移動した時はさすがにクタクタで寝てしまい駅員さんに起こしてもらったっけ 。
こちらは上田城跡公園の案内図:
なお、インターネットには信州上田城絵図や仙石氏在城時代の上田城下町図といった高精細な古絵図が公開されていて、尼ヶ淵とか本丸土塁の隅欠《スミオトシ》附近を確認することができる。
「眞田幸村公騎馬像」が建っているJR上田駅お城口から、上田城の二の丸東虎口であった公園入口へ行くには、駅前通りのR141を北上し中央2丁目の交差点を左折して、突き当りまで西進する。その途中に大手門跡がある。ここは今でも、下の写真にあるように、枡形になっていた:
この通りから西進してちょっと南へ入ったところに長野県上田高校があり、そこの校門が上田藩主屋敷跡の表門(現存)だったとか。こちはら完全に見忘れてしまった 。
ほどなくして二の丸通りに到着する。写真左側には二の丸堀があり、その土橋に相当する二の丸橋が架かっている。
二の丸通りに面して立っている上田城址の碑:
二の丸橋。もちろん当時は土橋。昭和2(1927)年に、この橋の下にある空堀の部分に上田温泉電軌(後の上田交通)の線路を通したためコンクリート製で作り直された:
そして、これが二の丸の空堀:
二の丸東虎口の土塁の上に建っているのは平和の鐘。上田城の遺構ではないが、実物は延宝5(1677)年前後に建てられ、時を知らせる鐘として使われていた。鐘は昭和18(1943)年の大東亜戦争で供出されて、昭和47(1972)年に復元された。また、鐘の位置も二百数十年の間に幾度から変わっており、ココには建っていなかったらしい:
これが二の丸跡。現在は駐車場や市立博物館などが建っていた:
そして、二の丸を抜けて大手門方面へ移動する。これは大手門の土橋から見た本丸堀。本丸周囲にある水堀は今尚、その深さが健在だった:
これが本丸の東虎口に建つ東虎口櫓門で、左から南櫓、櫓門、北櫓とつながっている:
ちなみに上田城は明治時代の廃藩置県で廃城となり、本丸に7棟あった櫓は西櫓を残して解体され民間へ払い下げられた。こちらの北櫓と南櫓は、なんと遊郭に払い下げられて、お座敷に利用されていたとか 。その後、昭和24(1949)年に上田市が買い戻して移築・復元され、さらに平成6(1994)年には櫓門も復元されて、やっとかっての姿に戻ったらしい。
東虎口櫓門の北櫓の石垣に積まれている真田石。直径3mの城内一の巨石で、上田市北にある太郎山の緑色凝灰岩を使用している。その昔に眞田信之(信幸)が松代城へ移封を命じられた際、父・昌幸の形見として持って行こうとしたが微動だにしなかったという伝説がある:
関ヶ原の戦後、上田城は完全に破却され、廃城同然で信之に引き渡された。信之は城の修復は行わず、三の丸(現在の上田高校)に屋敷を構え、そこで藩政にあたったが、元和8(1622)年に松代藩に移封を命じられ、眞田家の上田城在城は、わずか39年だった。そして上田城は、小諸城から入封した仙石久秀の嫡男・忠政によって復興・大改修が行われた。寛永3(1626)年に工事に着手するも、寛永5(1628)年には忠政が病死し、それからお家騒動などがあり、上田城の復興は未完に終わる。未完とはいえ、廃城同然の城をわずか二年足らずで、埋められていた堀を元通り掘り返し、本丸には7棟の隅櫓と土塀、東西の虎口に二棟の櫓門を建て、本丸や二の丸を整備した。その一部が、現在の上田城跡公園で見られる遺構(復元を含む)である。
仙石氏が三代84年間に渡って上田藩を治めたあとは、三河在住時代以来の徳川一族で、藤井松平氏とも呼ばれる松平忠周が入封した。そして明治維新に至るまで松平家七代160余年に渡って上田藩を治めた。現在の櫓の鬼瓦は、この藤井松平氏の五三桐だった:
このあと東虎口櫓門から本丸へ移動した。本丸は水堀と土塁で囲まれ、往時は4棟の隅櫓が建っていたとか:
こちらは本丸に建つ真田神社。主神は眞田父子で、江戸時代に民政に尽くした仙石氏と藤井松平氏の歴代藩主を祭神としている:
真田神社境内にある真田井戸。直径2m、深さは16.5mに達する。この城内唯一の大井戸には抜け穴があって、城北にある太郎山麓の砦や藩主居館にも通じていたとか:
この後、真田神社を抜けて、西櫓方面へ向かった。こちらは、西虎口の門跡。礎石の他に、石垣の上で門を支えるための梁を置いた跡が残っていた:
そして西虎口跡(写真の右側):
これは西虎口の西櫓附近からみた尼ヶ淵跡。かつては崖と川とで天然の要害を作り上げていた尼ヶ淵は、今は駐車場になっていた。ちなみに、写真右の高架は長野新幹線(当時):
尼ヶ淵跡から見上げた南櫓:
南櫓下の石垣は、上田城の南面を守る天然の要害の尼ヶ淵より切り立つ断崖に築かれているため、長雨により一部の中段石垣が崩落したので修復工事が施されている。中央部の崖面露出部分は、崖が張り出しており、石垣が無かった部分でもあることから、原型に基づいてモルタルで復元しているらしい:
尼ヶ淵跡からみた本丸石垣:
こちらは尼ヶ淵跡からみた西櫓(現存)と南櫓。上田城は河岸段丘の崖上に造られていたのがわかる:
現存する西櫓は尼ヶ淵の河岸段丘の上に築かれた本丸の隅櫓である:
この櫓の外壁は下見板張り、その上から軒の部分までを塗籠《ヌリゴメ》としている。これは漆喰が風雨に晒されて劣化するのを防ぐ目的があったとか。また、格子窓に突き上げ戸が付いた武者窓や、鉄砲や矢を放つための鉄砲狭間《テッポウザマ》や矢狭間《ヤザマ》といった小窓も設けられていた:
次は本丸土塁を見てみることにした。本丸堀は素掘りで、堀を造るために掘り上げた土を、その内側へ堤状に積み上げて土塁としていた:
慶長5(1600)年の第二次上田城合戦後に、徳川勢によって土塁を崩し堀も埋められて破却されたが、後に入封した仙石氏によって復興された。
これは本丸土塁の北東(丑寅)の方角に建っていた北東隅櫓跡:
眞田氏のあとに入封した仙石忠政による上田城の再築城は、寛永3〜5(1626〜1628)年にかけて行われ、基本的な縄張は眞田氏時代のものを継承しながら、各虎口には石垣を築き、本丸には七棟の二層隅櫓と二棟の櫓門が建てられた。本丸の北東部には二棟の隅櫓が建てられており、現在、この場所には隅櫓の芯柱《シンバシラ》の礎石がそれぞれ残っているが、いずれも明治時代の廃城以降に動かされてしまい、本来の位置とは少しズレがある。
本丸北側の土塁と本丸堀:
そして、こちらは本丸土塁の北西(戌亥)の方角に建っていた北西隅櫓跡。現在、地上に露出している礎石は、隅櫓の中央に建てられた芯柱を据えるためのもので、円形の柱座が彫られており、芯柱は直径約50cmの丸太材の柱であった:
ここの堀底から出土した大量の屋根瓦の中には、五七桐紋鬼瓦や菊花紋軒丸瓦など豊臣氏にゆかりの深い紋様をもった瓦が含まれており、豊臣秀吉に臣従していた眞田昌幸によって建てられた建物に使用されていた瓦であることが判明した。眞田時代の上田城の様子は古絵図などの史料が乏しく殆どわかっていないが、城内の各所から出土する眞田氏時代特有の瓦によって、瓦を葺《フ》いた建物が多数存在していたと思われる。中でも、この北西隅櫓跡の西側の堀底からは金箔の付着した鯱の破片が数点出土し、眞田氏の時代にはこの附近に金色に輝く鯱が載った櫓が存在していであろうと推測できる。
本丸西側の堀:
これが、先ほどの本丸土塁の北東隅にある隅欠《スミオトシ》。これは北東(丑寅)方向の鬼門除けとして眞田氏の頃から設けられたもので、丑寅方向の土塁の角を切り込み、櫓二棟をその両脇に配置していた:
ちなみに築城時も、城下の北東に海禅寺と八幡社を鬼門除けとして配置していた。
最後に城跡公園北側にある二の丸北虎口へ移動した:
この先には二の丸の百間堀があったが、現在は陸上競技場になっていた:
これは二の丸堀の水抜き用の石樋《イシドイ》。元禄15(1702)年に仙石氏が修復した際に、木の樋から石の樋に変わった:
ここで日が暮れそうになってきたので城攻めは終了。眞田氏の居城でありながら、その時代の遺構は殆ど残っていないのが残念だけれども、尼ヶ淵と河岸段丘を利用した天然の要衡で、徳川の大軍を二度も敗走させた難攻不落の城を見ることができてよかった。
上田城攻め (フォト集)
上田城(2) (訪問記)
上田城攻め(2) (フォト集)
徳川家康は根に持つタイプなんだろうな。豊臣家のシンボルでもあった大坂城も徹底的に破却しているし。これは、今川家に人質になって長い間、辛酸を嘗めていたからかな。まぁ信長も病的に根に持つタイプだったらしい (佐久間信盛の件とか) から、英傑と言われる人物像の必要条件か。