長野県長野市にある松代城は、永禄3(1560)年頃に甲斐の武田信玄が北信濃支配と越後の上杉家に対する軍事拠点として山本勘助に命じて築いた海津城が始まりと云われている。翌4(1561)年に上杉謙信が川中島へ侵攻すると、当時城代であった春日虎綱(高坂弾正昌信)は信玄ら本隊の到着を待ち、甲越両軍が八幡原で激突した(第四次川中島合戦)。そして、天正9(1582)年に武田氏が滅亡した後は織田家の森長可《モリ・ナガヨシ》が、そして同年の信長横死の後は上杉景勝が配下の須田満親《スダ・ミツチカ》がそれぞれ城代となり、慶長3(1598)年に上杉家が會津に転封されると豊臣秀吉の直轄地となった(城代は田丸直昌)。そして慶長5(1600)年には森忠政が城主となるが関ヶ原の戦での功績により美作《ミマサカ》国の津山城に移封されると、慶長8(1602)年に徳川家康の六男・松平忠輝が城主となった。家康ら幕府から疎んじられていた忠輝が改易された後は、松平忠昌、酒井忠勝を経て、元和8(1622)年に上田城から眞田信之が10万石で入封し松代藩を藩立した。そして三代藩主の幸道の時代に松代城と改称し、以後約250年間、明治時代の廃藩置県まで眞田家の居城となった。
月別: 2016年3月
甲斐武田と越後上杉との間で北信濃の覇権を争った「川中島合戦」は、今から450年も前の天文22(1553)年から永禄7(1564)年に至る十数年、都合5回の永きに亘って行われたが、その中でも後世に広く伝えられ、講談や活劇の題材にもなっている合戦が永禄4(1561)年の第四次川中島合戦こと八幡原《ハチマンバラ》合戦である。甲越双方が決戦を回避した前合戦より3年の間に関東周辺の情勢も大きく変化した。小田原に本拠を置く北條氏康は関東制覇の手を緩めることなく推し進め、前関東管領の上杉憲政《ウエスギ・ノリマサ》と上野の長野業政《ナガノ・ナリマサ》、下野の佐竹義昭・義重、安房の里見義堯《サトミ・ヨシタカ》らは苦境に陥ち、越後の長尾景虎に助けを求める。彼らの要請に応じた景虎は関東へ侵攻するも、氏康は難攻不落の小田原城に籠城する。一方、同盟国北條氏の危機を知った武田信玄は景虎を牽制するために、北信濃の川中島に海津城を築城し信越国境に出陣して景虎の背後を脅かした。これが功を奏し、景虎は北條氏と決戦できぬまま、鎌倉の鶴岡八幡宮で関東管領職と山内上杉家を相続する儀式を執り行い、上杉憲政から偏諱を受けて上杉(藤原)政虎と改名、越後に帰国した。政虎は小田原北條氏を滅ぼし、関東管領上杉氏を再興するには、まず背後で蠢動《シュンドウ》する信玄を撃滅する必要があると考え、関東から帰国して僅か二ヶ月後には北信濃へ侵攻、海津城に睨みを効かせる妻女山《サイジョサン》に布陣した。
上田城は、天正11(1583)年に眞田昌幸によって上田盆地の千曲川近くにあった天然の要害「尼ヶ淵《アマガフチ》)」と河岸段丘を利用して築かれた平城である。北信濃の一国衆であった眞田の名を一躍全国レベルに知らしめた二度に渡る上田合戦の舞台でもある。天正10(1582)年4月に武田家が滅亡した後、眞田家は関東管領となった瀧川一益の麾下に入り、沼田城や岩櫃城が接収されていたが、同年6月の本䏻寺の変で一益が厩橋城《マヤバシジョウ》を退去すると、信濃国を巡って勃発した越後上杉、小田原北條、三河徳川らによる争奪戦(天正壬午の乱)の「どさくさ」を利用して築城した。しかしながら、眞田と徳川の間でくすぶりつづけていた沼田の譲渡問題が表面化すると、昌幸は「父祖伝来の土地であり徳川にとやかく言われる所存ではない」と頑として跳ねつけたことが遠因で上田合戦が始まる。第一次上田合戦時は次男・信繁を越後上杉家に人質として出すことで援軍を求めることができ、持っていた智謀と天然の要害を利用して、詰城である砥石城の嫡男・信幸を囮にし城下町でゲリラ戦を行って徳川軍を敗走させた。そして第二次上田合戦時は、関ヶ原戦の緒戦で秀忠ら徳川本軍をきりきり舞いにし、天下分け目の大一番に遅参させることに成功した。こういうことで徳川軍を二度も蹴散らした堅城であったため、昌幸らが九度山に配流された後は、「恨み辛みをこの上田城にぶつけて」 徹底的に破却されてしまった。そのため、現存している西櫓も関ヶ原の後の上田藩仙石氏によるもの。この堅城、現在は長野県上田市で上田城跡公園として市民に開放され、花見の季節には大賑わいをみせている。
長野県上田市にある砥石城[a]戸石城と書く他に、別名は伊勢山城とも。は、東太郎山の一支脈が神川《カンガワ》に沿って南方に突出している高い尾根の上に築かれ、本城を中心に北に枡形城、南に砥石城、西南に米山城《コメヤマジョウ》を配す堅固な連郭式山城で、「砥石城」はこれらの城の総称となっている。この城の築城時期や築城主は定かではないが、天文年間(1532〜1555年)には信州葛尾城を居城としていた村上氏の属城であったと云う。時の村上家当主・義清は甲斐の武田信虎と諏訪の諏訪頼重と共に、小県《チイサガタ》の海野平《ウンノタイラ》に侵攻し、海野棟綱ら滋野一族、そして眞田幸綱(幸隆)とその弟の矢沢頼綱らを上州へ追い出して、信州小県郡を支配下に置いた。その後、武田晴信が父・信虎を駿河に追放し、信州佐久郡へ侵攻して村上義清の属将が守る志賀城を陥落させると、村上義清との対立が鮮明となる。天文17(1548)年2月に武田軍と村上軍が上田原で激突し、勝敗は付かなかったものの、武田方は宿老の板垣信方と甘利虎泰が討死するという事実上の大敗を喫した。これにより、一時期は甲斐武田家の信濃経営に陰りが出たが、のちに信濃守護職の小笠原長時を破って挽回し、晴信は上田原の雪辱を果たそうと、村上義清の属城・砥石城攻略に着手した。
参照
↑a | 戸石城と書く他に、別名は伊勢山城とも。 |
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静岡県三島市にある山中城は、戦国時代末期の永禄年間(1560年代)に小田原に居城を置いた北條氏康が甲州武田氏の侵攻に備え、箱根の守りとして築城された山城である。それから時が経ち、天正17(1589)年に豊臣家と手切れになった北條氏政は、秀吉の小田原攻めに備えて急遽、堀の整備や岱先出丸《ダイサキ・デマル》などの増築工事を開始、翌18(1590)年2月の開戦間際まで工事が進められた。同年3月末には、秀吉本軍が沼津の三枚橋城[a]陸奥国の津軽為信《ツガル・タメノブ》は、この城で豊臣秀吉に謁見し所領を安堵された。に着陣、軍議の結果、箱根路の最前線にある、ここ山中城には羽柴秀次を総大将に、中村一氏、田中吉政、堀尾吉晴、山内一豊、一柳直末ら7万に及ぶ兵で攻撃することが決まり、3月29日未明には攻撃が始まった。工事が未完了のまま山中城に籠城する北條方は、小田原本城より援軍として派遣された間宮康俊を含む4千で奮戦したが、まずは岱先出丸が陥ち、本丸も程なく突き破られ、北の丸で最後の反撃をするも叶わず、城主・松田康長は討死、北條氏勝[b]黄八幡で勇名を馳せた北條綱成の孫にあたる。は玉縄城へ落ち延び、わずか半日で落城した。
天正17(1589)年に、北條方の上野沼田城将・猪股邦憲が眞田方の名胡桃城を奪取したことに端を発する太閤秀吉の小田原仕置は、その翌年の天正18(1890)年正月に三河の徳川家康が先鋒となって東海道を押し進み、それから間もなく加賀の前田利家、越後の上杉景勝ら北国口勢が上野へ侵攻することで始まった。秀吉は自ら3万2千の大軍を率いて、同年3月に京都を発って小田原へ向かった。これに対して小田原の北條方は総構を備えた小田原城に氏政・氏直父子の他、氏照、太田氏房、佐野氏忠、成田氏長、上田憲定、松田憲秀をはじめとする領国内の主だった者たちが籠城し、さらに領国内の要所にある支城には彼らの一族や重臣らが籠城し、豊臣軍の進撃に備えていた。秀吉が小田原に向った3月頃には北国口勢が上野の松井田城を攻撃し、その翌月の4月には眞田昌幸・信繁父子と佐竹義宣らの軍勢も合流した。そして松井田城主・大道寺政繁を降伏・開城させた後は、箕輪城・厩橋城・佐野城などの支城が次々と開城していった。同年6月には忍城攻めを仰せつかった石田治部・大谷刑部・長束大蔵らが、現在の「さきたま古墳公園」にある丸墓山古墳に本陣を構え、城を押し包むも攻めあぐね、ついには備中高松城攻めに倣って水攻めを決断した。
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