後北条氏時代の小田原城の特徴は城をスッポリ囲む総延長9kmにも及ぶ総構である

15世紀末、伊勢新九郎(のちの北条早雲)が伊豆を平定し、駿府の今川氏親の協力を得て小田原城を奪取して居城とした後は、小田原北条氏五代によって、明応4(1495)年から天正18(1590)年の約100年にわたり、相模・武蔵・上総・下総・安房・常陸・上野・下野の関八州の他、伊豆・駿河に勢威を及ぼした。この時代の小田原城は現在の小田原高校近くにある丘陵上に本丸などいくつかの曲輪を配置したもので、八幡山古郭(はちまんやまこかく)と呼ばれている。そして上杉謙信や武田信玄といった名だたる戦上手が率いる軍勢をも寄せ付けることなく、難攻不落の城として、戦国時代最大と云われる規模に整備・拡張されていった。特に豊臣秀吉による小田原仕置の直前に完成した、小田原城とその城下を囲う周囲約9kmにも及ぶ総構(そうがまえ)という大規模な堀切(空堀)と土塁は、現在でも小峯御鐘ノ台大堀切や早川口遺構などで、その面影を偲ぶことができる。

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